夜へ行く僕、朝へ行く君
いすず さら
夜の人、朝の人
雨上がりの夜、路地裏にひっそりと佇むバーのドアが軋む音を立てて開いた。
誰もいないはずの店内に、風のように静かに一人の女性が入ってくる。
そのとき、志水遥はグラスを拭いていた手を止め、わずかに視線を上げた。
「こんばんは。……やってます?」
声は少し掠れていたが、意志の強さが滲んでいた。
見れば、傘を持っていない。髪先にまだ水滴が残っていて、コートの袖が濡れている。
「ええ。いらっしゃいませ」
遥は軽く会釈し、奥のカウンター席へと視線を促した。
彼女は頷いてそのままカウンターの端に腰を下ろした。
「何かおすすめ、あります?」
「……雨に打たれてきた人には、ちょっと甘めのラムトニックを」
「それ、ください」
そう言ってから、彼女はようやく微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこかぎこちない。
遥は手際よくシェイカーを振りながら、彼女の横顔を盗み見る。
目元に薄く疲れが滲み、口紅の色も少しだけ剥げていた。
「仕事の帰りですか?」
「ええ。ちょっと子どもに泣かれて……帰れなくなって」
「教師さん?」
「よく当てましたね」
「その疲れ方、夜の客とは違うんです」
彼女はふっと笑った。
笑いながら、グラスの縁に指を添えて言った。
「あなたは……何年、夜にいますか?」
「七年くらい」
「じゃあ、朝の世界にいたのは?」
「……二十五年くらい」
「ふうん」
彼女はそれ以上は聞かなかった。
名乗り合わず、連絡先も交換せず。その夜は、それだけだった。
彼女はラムトニックを一杯だけ飲んで、静かに席を立った。
ただ、帰り際にこう言った。
「また来てもいいですか? 朝までには帰りますから」
遥は笑って頷いた。
けれどその言葉が、これから何度も、彼の胸に突き刺さるとは、このときまだ知らなかった。
彼女が初めてこの店を訪れたのは、雨の夜だった。
濡れた髪、濡れたままの袖口。あの夜の記憶だけが、遥の中に鮮明に残っていた。
「ラムトニック、一杯だけ。朝までには帰りますから」
そう言って、名前も名乗らずに去った女。
その時点で、何かがもう始まっていたのかもしれない。
翌週、同じ曜日、同じ時間。彼女はまたやってきた。
今度は傘を差していたが、やはりコートの裾が濡れている。
「また来ちゃいました」
「いらっしゃいませ。ラムトニックですか?」
「今日は、ちょっと疲れたので……もう少し強いものをください」
遥はうなずき、ショートカクテルを手早く作った。
淡いブルーの液体がグラスの中で波打つ。
「ブルームーン。……気持ちが曇ってる夜に、少しだけ晴れるかもしれない」
彼女は笑って受け取った。
「名前、聞いてもいいですか?」
彼女は少しだけ間を置いて答えた。
「加瀬紗月。……教師です」
「志水遥。バーテンダーです」
「知ってます」
「……なんで」
「ここのお酒、美味しいって評判で。あと、“話を聞いてくれるバーテンダーがいる”って」
遥は思わず吹き出した。
「僕はただの聞き役ですよ」
「それがいいんです。朝の世界は、誰かが話したがってばかりで、誰も聞いてくれないから」
その言葉に、遥は少しだけ胸を突かれた。
“朝の世界”。そこにいたはずなのに、いまの彼には遠すぎる言葉。
加瀬紗月がそのバーに通い始めて、一か月が過ぎた。
彼女は1杯か2杯だけ飲んで、必ず「朝までには帰りますから」と言って笑った。
話題はいつも、生徒のこと、職場の同僚のこと、あるいは教育への理想について。
熱がこもりすぎるときは、カウンターに置いたグラスの氷を転がしながら、声を落とす。
「子どもが何かを諦める瞬間って、ほんとに悲しいんです。たとえば“自分には無理”って言うとき」
遥は黙ってうなずいた。
「だから、できるだけ“あなたはまだ何者でもない”って、言い続けたい。でも、それが一番苦しい」
「教師って、大変ですね」
「バーテンダーも、大変でしょう?」
「いや、子どもと関わるよりはずっと楽です。相手が自分の意思で店に来るんですから」
その言葉に、紗月はふっと微笑んだ。
笑ってはいたけれど、その目の奥に、どこか沈んだ色があった。
ある日、紗月が少し早い時間に現れた。
まだ店が開いて間もない午後9時半。彼女はいつになく疲れた様子で、カウンターに深く腰を下ろした。
「今日はちょっと……現実逃避したくて」
「逃げてきた?」
「……そうです。子どもに、“先生、大人ってずるい”って言われちゃって」
「その子、正直だな」
「ね。正直すぎて、何も言い返せなかった」
遥は黙ってジントニックを作った。
グラスを差し出すと、紗月はそれを手に取り、じっと見つめた。
「志水さんって、どうして夜にいるんですか?」
「……その話、聞きたいですか?」
「聞きたいけど、聞かない方がいい気もする。でも、たぶん今なら受け止められる」
遥は少しの沈黙のあと、口を開いた。
「大学のとき、事故で弟を亡くしました。……僕が運転してて」
紗月の手が止まった。
「警察にも責任はないって言われたし、事故自体も不可抗力だった。でも、僕はハンドルを握ってた」
「それで……?」
「朝が嫌いになった。……朝に、弟が死んだから」
それ以上、言葉はなかった。
紗月はグラスを握ったまま、何も言わなかった。
ただ、彼女の沈黙は、逃げではなかった。
その場に留まるための、選択だった。
遥は思った。
この人は、何も言わずにそばにいてくれる。朝の人間なのに、夜の痛みを否定しないでくれる。
だからこそ――これは始まってはいけないのだと、直感した。
夜が更けて、店が閉まるころ。
紗月は席を立ち、ドアの前でふと振り返った。
「志水さん。……私、あなたのこと、ちゃんと知りたいです」
「どうして」
「夜を歩く人のこと、朝に伝えられる気がするから」
そう言って、彼女は帰っていった。
細い背中が、ゆっくりとビルの影に消えていく。
遥はそれを見送るだけだった。
何も言えなかった。言えば、始まってしまう気がした。
この関係には、始まりも、終わりも、名前もない。
けれど確かに――心のどこかが、すでに踏み込んでいた。
彼女が初めて“朝までいた”のは、11月の寒い夜だった。
「終電、逃しちゃった。……泊めてくれますか?」
店のカウンターに座ったまま、そう紗月は言った。
少しだけ笑っていたが、その目はどこか冗談ではないように見えた。
遥は返事をしないまま、グラスを拭く手を止めた。
「誰かに怒られたりしない?」
「怒る人、いないです。家族も、恋人も、そういう人……もういないので」
その一言に、遥は黙ってうなずいた。
やがて店が閉まり、ふたりは歩いて数分の遥のアパートに向かった。
部屋は、静かだった。
テレビもラジオもない。古いレコードプレーヤーが部屋の隅に置かれていたが、埃をかぶっている。
「なんか……想像より質素」
「夜の人間は、朝に備えた生活しないから」
「でもきれい。ちゃんと整えてる」
遥は小さく笑った。
それは、弟の癖だった。布団をたたむ。洗い物はすぐ済ます。リモコンは決まった場所に戻す。
遥は今も、それを引き継いでいる。
シャワーを借りた紗月は、遥のワイシャツを着て出てきた。
ボタンを首元まできちんと留めて、裸足のまま、畳の上に座る。
「……こうしてると、学生時代に戻ったみたい。眠れない夜って、あったなあ」
「今でも、眠れない?」
「ありますよ。眠れなくて起き上がったら、子どもの作文読んで泣いてることもある」
「……まじめなんですね」
「志水さんは?」
「僕は、眠るために酒を飲む。起きるためにコーヒーを飲む。それだけ」
そう言うと、紗月はふっと笑った。
「志水さんって、すごくまっすぐなのに、どこか壊れてる。……私、それ、たぶん嫌いじゃない」
その夜、何もなかった。
同じ布団で眠ることもなかった。紗月はソファで毛布に包まり、静かに眠った。
遥はその隣で、レコードプレーヤーの針をそっと落とした。
ジャズの柔らかな旋律が、眠りかけた紗月の耳を、優しく撫でた。
それが、ふたりの距離が変わった瞬間だった。
もう、ただの「客」と「店員」ではいられなかった。
それから、数週間。
紗月はときどき泊まるようになった。
どちらかが眠るころ、もう一方は起きている。
ふたりの時間は、交わってはすぐに別れた。
それが、夜と朝の“かたち”だった。
ある木曜、紗月は来なかった。
電話も、連絡先も交換していない。
「約束」なんてものはなかったのに、それでも遥は時計を何度も見ていた。
午前二時を回ったころ、諦めて店を閉めようとしたときだった。
扉が開いた。
濡れた髪、乱れた息。紗月だった。
「……ごめんなさい。間に合わないかと思った」
遥は言葉を飲み込んだ。
代わりに、温かいホットバタードラムを差し出す。
「何かあった?」
「職場で、ちょっと……。親御さんと揉めて」
彼女の声は、消え入りそうだった。
それ以上を話さないまま、グラスの湯気を見つめていた。
沈黙が続いた。
やがて紗月がぽつりと呟いた。
「なんかもう、全部投げ出したくなるとき、ありません?」
遥は答えなかった。
その沈黙が、まるで肯定のようだった。
「夜に来るたびに、少しずつ自分が壊れてる気がする。でも……ここにいると、許されてる気もする」
「……それは、危ないですね」
「うん。自分でもわかってる」
彼女は笑っていた。けれどその笑顔は、どこか痛々しかった。
数日後、紗月が珍しく昼に連絡を寄越した。
――手紙だった。封筒に、丁寧な文字でこう綴られていた。
志水さんへ
あの夜、私が泣きそうになったのは、仕事のせいじゃないんです。
あなたのことを、好きになりそうで怖かったからです。
朝に生きて、子どもたちを見て、まっすぐでいたいのに。
あなたといると、まっすぐではいられなくなる気がして。
でも――だからこそ、惹かれてしまうのかもしれません。
また木曜に、そちらに行きます。
加瀬 紗月
遥は手紙を何度も読み返した。
それでも返事は出さなかった。返せる何かを、持っていなかった。
木曜の夜、紗月は来た。
そして、何も言わず、彼の部屋に泊まった。
その夜、ふたりはようやく、互いの距離を超えた。
長い沈黙と、短い吐息だけが重なった。
それは、確かにひとつの“始まり”だった――でも同時に、終わりの予感でもあった。
翌朝、彼女は布団の中でこう言った。
「いつか、朝にあなたがいなくなるのが怖いです」
遥は答えなかった。
ただ、彼女の髪を撫でた。
その朝の光は、やけに優しくて、どこか残酷だった。
志水遥には、朝があった。
大学生のころまでは、他の誰と変わらない生活を送っていた。
朝に起きて、講義を受け、夜には誰かと笑いながらごはんを食べる。
明日が今日の延長にあることを、当然のように信じていた。
それが、崩れたのはある春の朝だった。
「事故だったんだって……志水が、運転してたって……」
病院の廊下で聞こえたその言葉は、耳ではなく、心を裂いた。
弟の遥人は、後部座席にいた。
そのとき、車を運転していたのは遥だった。
後方から車が突っ込んできた。過失はなかった。だが、事実だけが残った。
遥人は、即死だった。
遺体はほとんど傷ひとつなかったのに、瞳だけが虚ろだった。
「なぜ、俺が生きてて、あいつが死んだんだ」
何度も呟いた。叫んだ。祈った。
けれど答えは返ってこなかった。
葬儀のあと、父は口を利かなくなり、母は部屋にこもるようになった。
家の中は静かすぎた。テレビの音も、誰かの足音もない。
そして遥は――部屋に朝日が差し込むのが、怖くなった。
「光」が、許されないものに見えた。
まるでそれが、罪を照らすように。
彼は大学を休学し、夜に生きる道を選んだ。
バーテンダーという職を選んだのは、静かに人と関われるからだった。
夜の店には、話したくない人が多かった。
孤独を抱えたまま、ただ一杯の酒を求めて来る人々。
その姿に、自分を重ねることができた。
「夜は、黙っていても受け入れてくれる」
それが、遥が夜を選んだ理由だった。
それから七年。
弟の誕生日も、命日も、もう数えるのをやめた。
両親とも、いまは別々の場所で暮らしている。連絡はない。
“家族”というものが、自分の人生から消えてから、だいぶ時間が経った。
そんな遥の世界に、加瀬紗月が入ってきた。
朝に生きて、光を信じて、それでも夜の痛みを拒まない彼女。
その存在は、眩しすぎて、近づくたびに怖くなる。
ある夜、紗月が言った。
「志水さんは、どうして自分を許さないんですか?」
遥は答えられなかった。
許すという言葉は、彼の辞書にはなかった。
自分を罰するようにして夜を生きてきたのだ。
「……ごめん。こんな話、聞いても意味ないよね」
「意味、あります。私、教師だから。きっと子どもにも、こういう痛みを抱えてる子がいる。……そう思うと、聞かずにいられない」
「そういうとこ、偽善だって言われない?」
「言われますよ。でも、信じてたいんです。“まっすぐじゃない人”が、まっすぐになれるって」
その言葉に、遥は何も言えなかった。
ただ、彼女の手をそっと取った。
それだけで、涙が出そうになった。
ある日、紗月が店に来なかった。
一週間、音沙汰もなく、姿も見せない。
遥は不安になった。けれど電話もメールもできなかった。
連絡手段を知らないのではなく、彼女がそれを望まなかったからだ。
「距離があるから、保てる関係もある」
初めて泊まった朝、紗月はそう言っていた。
二週間後の木曜、ようやく彼女は戻ってきた。
けれど、どこか様子が違った。
髪が少し乱れていて、目の下にはうっすらと隈があった。
「職場で、保護者と揉めて。校長に呼ばれて、なんか……疲れちゃって」
その言葉を聞いた瞬間、遥は思った。
今、この人に自分のすべてを話すべきかどうか。
過去を。罪を。もう一つの“真実”を。
遥は深く息を吐いた。
「……事故のとき、弟と喧嘩してた」
「喧嘩?」
「ちょっとしたことだった。進学のことで。あいつは、音大に行きたいって言ってたのに、俺が止めた。現実を見ろって。……結果的に、あのとき口論したまま、車に乗ったんだ」
紗月は静かにグラスを見つめていた。
「だから、事故そのものには過失はなかったとしても――俺のせいだったんだ。……心のどこかで、あいつの夢を、俺が潰したって、今でも思ってる」
沈黙が流れた。
外は雨が降っていた。ぽつ、ぽつ、とガラスを叩く音が、やけに大きく響く。
やがて、紗月がそっと言った。
「……志水さんは、自分を罰し続けてるんですね」
遥はうなずいた。
「だから、朝が怖い。光があると、全部見えてしまう。自分の罪も、臆病さも……逃げてきたことも」
紗月は席を立ち、遥の手にそっと自分の指を絡めた。
「でも、私は光の中であなたを見ていたい」
「……怖い、紗月。僕が君をまた傷つけるかもしれない。過去みたいに、何かを壊すかもしれない」
「それでも、見たいと思うの。夜しか知らないあなたが、朝を歩くところを」
遥は、言葉を失った。
それは――救いの言葉だった。
それ以上に、罪を照らす光だった。
その夜、ふたりは何も語らず、ただそばにいた。
けれど遥の中では、何かが静かに変わり始めていた。
夜に沈んだ心が、わずかに、朝を想いはじめていた。
けれど同時に、それが“終わりの始まり”になることを、どこかで遥は知っていた。
彼女は、夜に憧れていたわけじゃない。
けれど、朝の光に居場所を見失っていた。
加瀬紗月は、小学校の教師になったのが23歳のときだった。
誰よりも純粋に、子どもたちの未来に希望を抱いていた。
“教える”のではなく、“寄り添う”存在でいたいと本気で思っていた。
――でも、それだけでは守れないものがある。
5年目の春、ある生徒を喪った。
名前は、沢井颯。11歳の男の子。
繊細で、感受性が強くて、音楽が大好きだった。
けれど、家庭には問題があった。
紗月は何度も校内で彼に声をかけた。
「無理しなくていいのよ。あなたのままで、大丈夫」
彼は、はにかんだ顔で頷いていた。
けれどある日、突然学校に来なくなった。
そして、一週間後、彼は自宅のベランダから転落して亡くなった。
事故か、自死か――判断はつかなかった。
けれど紗月は、自分を責めた。
「もっと、できたことがあったはずだ」
それから、彼女は朝が少しずつ、怖くなっていった。
光の中で見失った命。
笑顔の裏にあった、沈黙と苦しみ。
“教師”という立場にしがみつくほど、紗月は自分の無力さに引き裂かれていった。
そしてある夜、職場の帰り道、ふと入った店があった。
看板も目立たず、通りから少し外れた、静かなバー。
そこにいたのが、志水遥だった。
初めてグラスを差し出されたとき、不思議だった。
彼は、何も聞いてこなかった。ただ、飲み物を差し出し、黙って隣に立っていた。
“ああ、この人も、何かを失くした人なんだ”
それが、紗月の最初の印象だった。
だから、彼女は惹かれた。
光に背を向けているのに、優しさを捨てていない人。
自分を罰しながらも、誰かに手を差し伸べている人。
そんな遥に触れていると、自分の“教師としての顔”ではなく、ただの「紗月」としていられる気がした。
そして、そう思えば思うほど、怖くなった。
――自分まで夜に引き込まれていくのではないか、と。
「志水さん。私……夜に来る理由、ずっと隠してました」
閉店後のカウンターで、紗月は小さな声でそう言った。
「ある生徒を、救えなかったんです。5年生の男の子。……親からも社会からも、見捨てられてた。
それに気づいてたのに、私はただ、“先生”としてしか接してあげられなかった」
遥は黙ってグラスを置いた。
「その子が亡くなってから、私は“朝”の顔を信じられなくなった。
光の中で、きれいごとばかり言って、何もできなかった自分が、耐えられなくなった」
遥は何も言わず、彼女の言葉のすべてを受け止めていた。
それが、彼の優しさだった。彼女が夜に通い続けた理由でもあった。
「志水さんが夜にいる理由、わかる気がしたんです。……私も逃げてたんです」
「それでも、教師を続けてるんですね」
「ええ。“逃げながら続けてる”って感じ。でも最近、少し揺れてきました。
このままじゃ、きっと……どこかで自分を見失う気がして」
その晩、紗月は泊まらなかった。
「今日は……帰ります。ちゃんと、朝を迎えなきゃいけない気がする」
遥はうなずいた。
別れ際、彼女がふと言った。
「ねえ。もし、私が夜の人間になったら……志水さん、どうします?」
遥は迷った末に、こう答えた。
「君には、夜は似合わないよ」
それを聞いて、紗月は小さく笑った。
その笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
その夜、遥は眠れなかった。
布団の中で考えていた。
自分は、紗月の“逃げ場所”になっていた。
けれど――もし彼女が“ここ”に来なくなったら、自分は何になるのだろう。
「夜へ行く僕」は、
「朝へ行く君」に何を残せる?
それはまだ答えの出ない問いだった。
けれど確実に、ふたりの間に変化が訪れていた。
それは終わりではなく、終わりの“予感”。
静かで、でも確かな、距離の兆しだった。
冬が深まるにつれて、ふたりの時間は減っていった。
寒さのせいではなかった。
忙しさのせいでもない。
それは、互いの“生きる時間”が、少しずつずれていったからだった。
「志水さん、最近……店のこと、前より丁寧になった気がする」
ある木曜、いつものように店に来た紗月が、ふとそう言った。
「そうかもね。スタッフの子が辞めて、一人で回すことが増えたから」
「疲れてないですか?」
「疲れてるよ。でも、それが“生きてる”ってことだから」
遥のその答えに、紗月は微笑んだが、少しだけ寂しそうだった。
それからまもなく、紗月の職場で異動の打診があった。
「来年度から中学校に行かないかって。今の小学校より生徒数も多くて、忙しくなると思う」
「受けるの?」
「迷ってます。でも……逃げ続けるのも、もう限界かもしれない」
その言葉に、遥は何も言えなかった。
彼は、ずっと“逃げる”ことを選び続けていた。
夜に居場所を作り、朝を閉ざして生きてきた。
そんな自分に、「がんばって」とも、「やめて」とも言えなかった。
年が明けて、紗月の店への来店は、月に一度ほどに減った。
最後に彼女が来た夜は、雪が舞っていた。
「今日、泊まっていいですか?」
その言葉に、遥はうなずいた。
いつものように静かに時間が過ぎ、何も語らずに身体を重ねた。
けれど、翌朝――
「志水さん、私……今度は、本当に朝に行きますね」
布団の中、紗月はそう言った。
「夜に居続けたら、自分が壊れてしまう気がする。私は……やっぱり、“朝の人間”でいたいんです」
遥は黙っていた。
抱きしめた手を、そっと離した。
それは、否定ではなかった。
けれど、同意でもなかった。
静かな、別れの合図。
ふたりの距離が開いていくのを、どちらも止められなかった。
三月の終わり、紗月から封筒が届いた。
手紙には、春らしい花のシールが貼られていた。
淡いピンクの便箋に、丁寧な文字でこう綴られていた。
志水さんへ
あなたと出会って、私は少しだけ自分を取り戻せました。
夜に逃げたくなるたびに、あなたの店が“居場所”になっていたこと、今でも感謝しています。
でも、私は朝に帰ります。
光の中で、もう一度子どもたちと向き合いたい。自分が信じてきたものに、嘘をつきたくない。
志水さんが、夜にいてくれてよかった。
でも、私は“朝へ行く人間”でいたいです。
もし、いつかあなたが朝に来ることがあったら――
そのとき、笑って会えたら嬉しいです。
加瀬 紗月
手紙を読み終えた遥は、長い時間、何もせずに座っていた。
店内には誰もいなかった。
照明の落ちたバーに、カウンター越しの鏡だけが、彼の姿を映していた。
「……君は、まっすぐだな」
そう呟いて、手紙を畳み、胸ポケットにしまった。
それから遥は、少しずつ夜の店を手放しはじめた。
常連客に別れを告げ、新しいスタッフを雇い、週に数日は昼の仕事を手伝うようになった。
けれどそれは、朝を生きるという意味ではなかった。
ただ、“君がいた夜”に区切りをつけたかったのだ。
紗月には、もう会わなかった。
何度か駅のホームや雑踏で似た後ろ姿を見かけた気がしたが、追いかけなかった。
彼女が笑っているなら、それでよかった。
四月。春の終わり。
遥は、久しぶりに朝のカフェに入った。
小さな子どもを連れた母親、登校途中の学生、出勤前のビジネスマン。
そこには、自分が長いあいだ背を向けていた「生活」が流れていた。
コーヒーを一口飲み、ふと思った。
――もし、あの日、弟を止めなければ。
――もし、紗月に何も背負わせなければ。
過去に囚われたままでは、前に進めない。
でも過去を消すこともできない。
だから遥は、その日、夜の店の看板を降ろした。
せめて、“夜のまま”にはとどまらないように。
彼は、少しだけ光の差す方へ歩き出した。
それが、ふたりの物語の静かな終わりだった。
遥は、もうバーのカウンターには立っていなかった。
店は別の若いバーテンダーに引き継がれ、彼は昼間の仕事を手伝いながら、静かに暮らしていた。
それでも完全に“朝の人間”になったわけではなかった。
起床は昼過ぎ。夜は本を読むか、街を歩く。
それでも、かつてのように夜だけに縛られることはなくなった。
春が過ぎ、夏の終わりが近づいたころ、遥はひとりで図書館の近くの公園を歩いていた。
ふと、ブランコに腰かける小学生たちの声が聞こえる。
笑い声。誰かの呼ぶ声。陽射しの中で跳ねる影。
そこに、見覚えのある横顔があった。
紗月だった。
白いシャツに、ベージュのロングスカート。
長い髪を一つに結び、サンダルの足元に柔らかい日差しを受けていた。
子どもたちに囲まれながら、変わらない笑顔で話していた。
彼女は、やはり“朝の人間”だった。
その姿は、何よりもはっきりとそれを示していた。
遥は声をかけなかった。
ただ、少し離れたベンチに腰を下ろして、しばらくその光景を眺めていた。
不意に紗月が視線を上げた。
遠くのベンチに座る遥の存在に気づいたのかどうか、それは分からなかった。
けれど彼女は、ふと、優しく微笑んだ。
遥はそっと帽子のつばを下げ、小さく頭を下げた。
まるで、さよならの代わりのように。
再び彼女が子どもたちの輪に戻るのを見届けてから、遥はベンチを立った。
足取りは軽くもなく、重くもなかった。
過去はきっと、消えない。
けれど、それを“抱えたまま”でも、歩いていける。
彼は今でも、夜のことを嫌いではない。
だが、それだけを生きる理由も、もうなかった。
“朝へ行く君”を見送った夜は、確かに痛みを残した。
けれど、その痛みがあったからこそ、今の僕はここにいる。
遥は空を見上げた。
やわらかな夕暮れが、街を包んでいた。
夜が始まるその直前――ほんのひとときの、名前のない時間。
そこに立っていられるだけで、充分だと思えた。
夜へ行く僕。
朝へ行く君。
たとえ同じ時間にいられなくても、
心のどこかで、あの日の光と影は、きっと重なっている。
それが、ふたりの物語の、最後の答えだった。
夜へ行く僕、朝へ行く君 いすず さら @aeonx
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