第5話 決意

​ メアリーを下がらせた後、テティアは独り、静寂の中で思考の海に沈んでいた。


​(……ベスタとの出会いを思い出す。学生時代、魔法学という共通の情熱を通じて惹かれ合ったあの日々。学園でも有名な恋愛結婚だったわ。互いを高め合い、慈しみ合う。あの頃の私たちは、確かに幸福だったはずなのに)


​ 心から愛し、信頼していた夫。しかし、彼はテティア本人と、彼女が命を懸けて産んだ我が子を、教義と家格という天秤にかけて切り捨てた。


 その冷酷な事実だけが、今の二人の間に横たわっている。


​ 思考がループし、視界が涙で滲む。「ごめんなさい……ごめんなさい……」と、不甲斐ない自分と、祝福されずに産まれた我が子へ向けて、テティアは謝罪を繰り返した。


 軋む心が悲鳴を上げ、焦燥感に身を焼き尽くされそうになったその時――。


 手の甲の紋章が、彼女の心に寄り添うように淡く発光した。


​ その光に触れた瞬間、テティアの心を支配していた未練が、霧が晴れるように消えていった。


 公爵家という権威主義の檻。意に沿わぬ者を容易に排斥する冷酷なシステム。そこから、彼女の魂は完全に隔絶し、離脱した。


 不思議と心は軽くなり、ただ「この子を守り抜く」という純粋な決意だけが彼女を支える。


 それは女神の加護による権能の力が、彼女の精神を保護した、今のテティアには、その冷徹なまでの冷静さが必要だった。


​~~~~~~


​ 闇の女神の転生体は、腕の中で大人しく揺られていた。


 テティアの嘆き、メアリーの覚悟、そして夫との訣別。すべてを赤子の体で聞き届けた彼女は、疲れて眠りに落ちた母の横顔を、慈しみを込めて見つめた。


​(おやすみなさい母上。朝まで、ゆっくり休んでね)


​ 赤子の体での魔力行使に限界は無いことは分かった。しかし、普段使いしていた神力行使だけがのこの身体では難しいことも分かった。


 だが、試行錯誤の末、彼女はテティアの加護の力をバイパスとして利用し、精密な術式を編み上げた。


 自分自身への生命維持と保護。部屋全体を覆う不可視の守護。そして、母の荒んだ精神を癒すための回復術式。


 全気力を使い果たした小さな女神は、母の温もりを感じながら、自身も深い眠りへと落ちていった。


​~~~~~~


【サイド:???】


​ いつから存在し、なぜここにいるのか。


 誰かを守るために存在した記憶はある…。


 自分は何者で、生きる目的はどこにあるのか思い出せない。


 答えを返す者のいない虚無の世界。


 どこまでも続く純白の景色の中、その存在はただ揺蕩たゆたっていた。


 だが、その停滞にさざ波が立つ。


 一筋の「気配」が世界を塗り替え、死んでいた景色に色彩が蘇った。


​ 自分に「彩り」を与えた、この気配の正体を知りたい。本能で察した。


 虚ろな存在は、最果ての先を目指し、初めてその一歩を踏み出した。


​~~~~~~


​ 翌朝、テティアが目覚めると、隣で赤子が自分の指を吸いながらスヤスヤと眠っていた。


 本来なら夜泣きや授乳で何度も起こされるはずだと乳母に聞かされていたが、一度も目覚めることなく朝を迎えたことに驚く。


「誰かがお世話をしてくれたのかしら……」


 不安を抱きながら、有りもしないことを考える。


 屋敷の誰かが密かに助けてくれたのかもしれない。その可能性に微かな希望を抱いたが、朝一番に訪れたメアリーの報告がそれを否定した。


​「いいえ、奥様。昨夜から今朝まで、どなたもこの部屋へは近づいておりませんわ」


「……そう。それなら、この子がよほど親孝行なのね…。」


 テティアは慌てておむつを替え、授乳の準備をしながら苦笑した。


 甲斐甲斐しく働く彼女の様子を見て、メアリーもようやく肩の力を抜いた。


​「奥様、不躾ながら……姫君のお名前はいかがなさいますか?」


「ええ、もう決めてあるわ」


 テティアは、朝陽を浴びて輝く我が子を見つめ、にっこりと微笑んだ。


​「名前は、エリスディーテ。エリスと呼ぶわ」


​ それは、夢で出会った世界の創造主、アフロディーテの名の一部を授かったもの。


 既存の神典にはないその名に、メアリーは不思議そうな顔をしたが、テティアの慈愛に満ちた横顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。


​「エリスディーテ……。素敵な響きですわ、奥様」


 新たな名を得た赤子、エリス。


 絶望の夜を超え、彼女たちの新しい時間が、いま静かに動き出そうとしていた。



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