第4話 命の価値

​ テティアは震える腕で赤子を抱きしめ、夫の頑なな心を解きほぐすように、解き放っていた威圧をそっと緩めた。そして、祈るような眼差しで彼に語りかけた。


​「あなた、どうか考え直してくださいませ。この子は、ただ生まれてきただけなのです。この子には何の責任もありません。たったそれだけの理由で、あなたは、この小さな命を捨てられるのですか?」


​「この公爵家に『忌み子』など必要ない! 何故それが分からぬのだ! この赤子さえいなければ、万事元通りになる。お前さえいれば、また新たに子を設けることだってできるではないか!」


​「落ち着いてください。我が子を差別や偏見で切り捨てるということが、何を意味するのかお分かりなのですか? 髪や瞳の色だけで人の価値が決まるなど、歪んでいるのは世界の方です。この子の個性は、人としての尊厳を何ら損なうものではありません。無垢な赤子から生きる権利を奪おうとするのは、もはや人の道に外れた所業ですわ」


​「黙れ! 公爵家の将来に禍根を残す種など、生かしておくわけにはいかん! 現実を見ろ、テティア!」


​「現実に目を背けているのはあなたの方ですわ。人を道具……いえ、それ以下の存在としか見なさず、命の重さを何だと思っているのですか? この子は私を選び、生を切望し、家族を求めて生まれてきたのです。共に生きる夢を見て、ここにいるのです」


​「何を言ってるのか理解できん!そんなものは、俺からすれば些細なことだ。公爵たる俺の意思は絶対であり、赤子の生殺与奪は俺の手中にある!」


​「そう、ですか……あなたとは、もう理解し合うことはないのですね。私がお腹を痛め、心血を注いで産んだ子です。あなたが認めないというのなら、私が、この子の母として生かせてみせます!」


​「もういい! 聖教会に狙われようとも、公爵家はお前を助けぬぞ。それでも良いのだな!」


​「ええ、構いませんわ。私が命に代えて守り抜いてみせます」


​「ふん、どうせすぐに泣きついてくる。どうしても育てたいというのなら、今すぐこの屋敷から出て行ってもらう。それでもいいなら好きにするがいい!」


​「承知いたしました。あなたとこの先の人生を歩むことは二度とないと、ここに誓いますわ。……これでお別れですわ、ベスタ様」


──売り言葉に、買い言葉


​ 公爵は、信じられないという表情で言葉を失った。


 赤子一人の命を「なかったこと」にすればすべて済む話


 ――歪んだ正義に囚われた男は、苦渋を滲ませながら立ち尽くすしかなかった。


​~~~~~~


​ これ以上の対話は無意味だと判断したテティアは、メアリーに命じて車椅子を準備させた。


 愛おしい我が子を腕に抱き、慣れ親しんだはずの長い廊下を進む。


 自室へと向かうその道筋は、もはや彼女にとって公爵夫人のものではなく、一人の逃亡者、あるいは守護者のものへと変わっていた。


​ 自室に着くと、テティアは赤子と共にベッドに横たわった。柔らかな額に静かな口づけを落とし、飽きることなくその寝顔を見つめる。


​ 傍らで控えていたメアリーは、先刻までの自分の言動を激しく悔いていた。聖教会の教えに毒され、忌み子に対して抱いた嫌悪。


 主人の言葉を聞くうちに、自分がいかに残酷な差別を無意識に刷り込まれていたかを思い知り、懺悔の念で消えてしまいたい衝動に駆られていた。


​「メアリー……。こんなことになってしまって、ごめんなさいね」


​「いいえ、奥様。……先に、謝らせてください。奥様のお言葉を聞いて、私、自分自身の愚かさが許せなくなりました」


​ メアリーは涙を零し、深く頭を下げた。


 自分を許せない彼女の心には、いっそ死んで詫びようという極端な思考すらよぎっていた。


​「メアリー。……あなた、死んで償おうなんて考えていないわよね?」


​ テティアは、ふと自分の中に流れ込んできた他者の思念を捉え、問いかけた。


​「……っ! なぜ、それを……」


​「これだけ長く一緒にいるのよ? あなたが五歳で私が八歳の頃からの仲だもの。手に取るように分かるわ」


​ テティアはクスクスと力なく笑い、ベッドから身を起こしてメアリーの顔を覗き込んだ。


​「私の発言は、決して許されるものではありませんでした。奥様と、そしてこの尊い命を侮辱したのですから」


​「許すわ。あなたは死をもって償おうとした。それほどまでに深く悔いてくれたのでしょう? 私にはあなたが必要なの。私とこの子を、二人きりにしないで」


​ その慈悲深い言葉に、メアリーはついに堪えきれず、その場に泣き崩れた。


 テティアは彼女を包み込むように抱きしめ、かつて女神が自分にしてくれたように、その背を優しく摩り続けた。


​ しばらくして、メアリーは涙を拭い、毅然とした面持ちで顔を上げた。


​「……誓います。何があろうと奥様を裏切りません。この命、一生をかけて奥様と姫君に捧げます」


​「ありがとう、メアリー。頼りにしているわ」


​ 真実の忠誠が、絶望の淵で結ばれた。


 テティアの柔らかい微笑みを受け、メアリーは心に決めた。この母子を守るためなら、世界を敵に回しても構わない。


 その瞳には、以前にも増して強い覚悟の光が宿っていた。



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