一章
事件から五年が経っていた。
灰色の壁に囲まれた刑務所の朝は、季節を問わず同じ匂いがする。
消毒液と鉄と、長く閉じ込められた空気の混ざった匂いだ。
瀬鳥羽夏は、職員用の通路を歩きながら、手元の書類に視線を落とした。
薄いファイルの表紙に印字された名前が目に入る。
──長谷輝。
年齢、二十六歳。
服役年数、五年。
素行評価は「概ね良好」。
ただし備考欄には、
〈警察・職員に対し、皮肉的な発言が多い〉
と、書かれていた。
「……空き、か」
羽夏は小さく呟いた。
彼女の担当していた受刑者が、先週、別の施設へ移送された。
その穴を埋めるため、新たに割り当てられた名前が、この男だった。
問題行動はない。
暴力も規律違反もない。
だが、態度が悪い。
それだけで、刑務官たちからの評価は決まってしまう。
「やめといた方がいいよ、その人」
休憩室で、先輩刑務官が言っていたのを思い出す。
「別に何するわけじゃないけどさ。いちいち噛みついてくんだよ。どうも警察嫌いみたいで。真面目に相手するだけ疲れる」
羽夏は、そのとき曖昧に頷いただけだった。
──面会室の前で、羽夏は一度、呼吸を整えた。
ガラス越しの部屋。
机と椅子が一つずつ。
決まった距離、決まった視線。
扉が開き、受刑者が入ってくる。
痩せていた。
背は高いが、肩は少し落ちている。
短く切られた黒髪の下に見える鋭い目が、一瞬だけこちらを捉えて、すぐに逸らされた。
長谷輝。
彼は椅子に腰を下ろすと、腕を組んだまま、何も言わなかった。
表情は無関心を装っているが、目だけが警戒している。
羽夏は席に着き、形式通りに名乗る。
「瀬鳥羽夏です。今日から、あなたの担当になります」
数秒の沈黙。
「……へぇ」
輝は、鼻で笑った。
「また新人か。どうせまた──」
羽夏は眉一つ動かさず、言葉を遮る。
「新人ではありません。二年目です」
「誤差だろ」
淡々とした口調。
怒鳴るでもなく、威圧するでもない。ただ、突き放すような言葉。
羽夏は書類を確認するふりをして、続けた。
「何か、生活面で困っていることはありますか」
「別に」
即答だった。
「要望や申請は」
「ねぇよ」
会話を終わらせるための返事。
羽夏は視線を上げ、ガラス越しに、輝の顔を見る。
──五年前にテレビで見た、あの映像が脳裏をかすめる。
俯いた横顔。
犯行を認めた、大学生。
「……」
一瞬、輝の視線がこちらを捉えた。
「何だよ」
低い声。
「警察の顔で俺を見るな。反吐が出る」
羽夏は、少しだけ息を止めた。
「……すみません」
そう答えると、輝は片眉を上げた。
椅子にもたれ、視線を逸らす。
「言っとくけど、俺みたいなのに期待すんなよ」
その言葉は、突き放すというより、先回りした拒絶だった。
羽夏は、ペンを置いた。
「期待はしていません」
輝が、わずかにこちらを見る。
「ただ、あなたの担当として必要なことをします。それだけです」
沈黙。
数秒後、輝は小さく笑った。
「……正義の味方さんは偉いですねぇ」
それきり、彼は何も言わなかった。
面会が終わり、羽夏は廊下を歩きながら、胸の奥に残る違和感を噛みしめていた。
反抗的。
皮肉屋。
警察嫌い。
確かにその通りだ。
それでも。
彼の言葉の端々には、怒りではない──
他の何かが混じっているような気がした。
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