1-3

 昔から酒は弱い方ではなかった。どんなに飲んでも少し吐けばどうにかなってしまうから、記憶を飛ばしたりだとか、自制が効かなくて無茶苦茶なことをしでかすといったことも経験がない。

 そもそも酒が好きか嫌いかで言えば、別にさほど好きなわけでもない。十三歳の頃、父親に半ば無理矢理ビールを飲まされて以来、アルコールの苦味を美味いと思ったことはないし、酔ったときに感じる奇妙な浮遊感はいつも落ち着かない。

 それでも家の冷蔵庫には食材が入らないほどのチューハイが敷き詰められ、床には空き缶があちこちに転がっているのは、おそらく癖みたいなものだろう。人と話しているときに膝を揺すったり、苛立ったときに爪を噛んだりするのと同じように、僕は家にいると酒を飲んでしまう。別に酔いたいわけでも、現実を忘れたいわけでもなくて、他の人がジュースを飲む感覚で何となく酒を飲んでしまうのだった。

 だからアルコールというものへの耐性にはある程度の自信があった。それなのに、どうして昨晩はあんなことをしてしまったのだろうか。僕は暗い部屋でぼうっと光るパソコンの画面を見つめながら、半日前の自分のことを思い返してみる。もしかしたら、僕は誰よりもあのニュースをセンセーショナルに受け取り、感情を揺さぶられてしまっていたのかもしれない。

 僕が昨日アップした文章はどこからか拡散され、あっという間に数十万人の目に触れる形となった。数百人だったSNSのフォロワーはいつの間にか十倍以上に膨れ上がっている。

 さらには僕の文章が火種となって新たな議論を生み、あちこちで賛否を争うやりとりがなされていた。実際に僕の下にも様々な声が届き、アカウントは大量の通知でパンクしてほとんど機能停止状態になってしまっている。

 こんなことになっているとも気付かず十時間以上も熟睡していた僕は、しばらく状況を呑み込むことができなかった。スマートフォンにはありとあらゆる知り合いから連絡が来ていて、中には何故か連絡先を知るはずのない他人からも心配する言葉が寄せられているほどだった。

「失敗した……」

 頭の中を整理し、真っ先に口をついて出たのがそれだった。軽い気持ちで書いたものがこんなにも波紋を呼ぶなど考えもしなかった。そもそもどうしてこんなものを書いて、ましてや公開などしてしまったのだろう。落ち着いて読み返してみると、感情的な上に内容も文章も支離滅裂で、仮にも文筆家の書いたものとは思えない出来栄えだ。しかし、こうなってしまった以上は今更消すこともできない。

 酒の勢いと言ってしまえばそれまでだが、そうやって酒に溺れてしまったこと自体が自分の精神状態を表しているとも言えた。今もまだ頭痛と吐き気が残っていて、昨晩のことを詳細に思い出そうとすると何となく頭がぼんやりとする。こんな経験は初めてのことだった。

 一旦落ち着くために飲み物でも飲もうと、冷蔵庫を開ける。しかしこんなときに限って、中には水の一本も入っていなかった。この際水道水でもいいかと思ったが、酔い覚ましも兼ねて外に出ようと、近くの自動販売機まで飲み物を買いに行くことにする。

 寝ている間に少し汗をかいていたので、Tシャツだけ新しいものに着替える。ボサボサの髪の毛を手櫛で適当にならし、机の上に放置されていた小銭の束を雑にポケットの中に押し込んだ。

 玄関の扉を開けると、もうほとんど日が暮れかけているというのに、まるで柔らかい壁に顔が埋もれるような熱気が押し寄せてきた。すぐに家を出ようとしたことを後悔したが、引き返すのも癪なので、息苦しい暑さを掻き分けるようにしてアパートの廊下を進む。

 これだから夏は嫌いだ。額に滲んだ汗で前髪が張り付くのを拭いながら、そんなことを思う。

 思い返してみれば、幼い頃から夏が嫌いだった。うだる暑さ、息苦しい湿気、肌に刺さる日差し、そして耳鳴りのように響くセミの鳴き声。友人たちがそんなことを気にもかけずに、汗を滲ませながら駆け回るのを眺めていると、自分は世界から疎外された気分になった。周囲のすべてが蜃気楼のように曖昧に溶けていく。孤独であることよりも、孤独を許さないこの夏という世界が恐ろしかった。

 そんな遠い記憶を掘り起こしてノスタルジーに浸ってしまうなんて、自分らしくない。色んなことを諦めて、すっかり大人になったつもりだったが、まだこんなにも弱い自分が残っていたことが少し意外だった。本当はまだ何も諦められてはいなかったのかもしれない。だからこそ、あんな自己満足で意味のない、自慰行為にも似た文章を書き殴ってしまった。

 しかし、それこそ今となっては諦めるしかないことだった。どうせあれも世間に消費され、すぐに忘れ去られるはずだ。彼の死とともに。少しの間だけ騒がしいのを我慢していれば、そのうち元の生活に戻るだろう。

 暑さにぼやけた頭で思考を巡らせていると、段々とすべてがどうでもよくなってきた。そうやってちょうど気持ちも落ち着いてきたところで、家からほど近い公園にある自動販売機まで辿り着く。

 小銭を入れ、光るボタンを見つめながら何を買うか考える。普段なら緑茶を買うところだが、この暑さならスポーツドリンクの方がいいかもしれない。

 ――ガタン。

 すると、ボタンを押すよりも先に缶が下に落ちる音がする。顔の横から知らない手が伸びて、コーラのボタンが押されていた。

「いや、ちょうど喉乾いてたんだよねー。さんきゅ」

 その手は取り出し口の方に下ろされ、落ちてきたコーラを持ち上げる。僕は突然のことに面食らいながら後ろを振り返ると、そこには下品な笑みを浮かべる西沢の姿があった。

「百六十円」

「え、奢ってくれんじゃないの?」

「そんなわけないだろ」

 西沢は何故か納得いかないといった顔で、渋々財布から小銭を僕に渡す。わざわざ十円玉を六枚かき集めて渡してきたことに少し腹が立ったが、これ以上何か言っても埒が明かないので、そのまま自動販売機に入れてスポーツドリンクを買った。

「何の用だ」

「まあ用ってほどの話でもないんだけどな」

 彼の家は確かもっと都心の方だったはずだから、偶然近くを通りかかったというわけでもないだろう。少し前に、同業者での飲み会の後、二次会という体で数人に押し掛けられたことがあった。その時は西沢もいたはずなので、僕の家がこの辺りにあることは知っている。しかもこういうタイミングであれば、明らかに彼は僕を訪ねてきたと見て間違いない。

「そんなに怖い顔するなって。別に取って食おうってわけじゃねえよ。むしろ、お前さんにとっちゃいい話のはずだぜ?」

「いい話?」

 およそ信用ならない言葉に呆れながら、しかし話を聞かなければ帰りそうになかったので、一旦すぐ横のベンチに腰掛ける。

 飲み物が口に入れたそばから汗になって蒸発していくように感じる。本当ならすぐにでもエアコンの効いた自宅に帰りたいところだが、西沢を家に招くのは気が進まないので、このままここで話を聞くことにした。

「いやさ、ずいぶんすごいことになってるじゃないの」

 彼はにやにやと嫌らしい表情で、僕の顔を覗き込む。

「確かに何か書いてみればとは言ったけど、まさかあんなにバズっちまうとはね。一躍有名人で、正直驚いたよ。俺としても鼻が高いね」

「別にあんたに言われたからってわけじゃない。酔った勢いで書いただけだよ」

「なるほどね。俺も酔っ払っただけで有名になりたいもんだ」

 どうして彼はこんなにも一言一言が人を苛立たせるのだろう。ただこれ以上何かを言い返したとて無駄だというのはわかっていたので、とりあえずは彼の好きに言わせてやることにした。

「やっぱり俺たち三流ライターは、影響力のあるアーティストに担いでもらうのが一番だね。必死になって掘り出した新人のことを書いたところで、誰が見てくれるんだって話。そりゃやりがいだとか、業界の未来のためだとか、そういう綺麗事も大事だけどさ、仕事でやってるからには金にならなきゃ困るわけだしな」

 右手でお金の形を作りながら、黄ばんだ歯を見せて笑う。

「最近は雑誌も減って、レビューなんて個人レベルで発信できる時代になったから、どんどん俺たちの仕事が奪われてく。必死になって書いた記事が数百人にしか見られずに、人気の若者がちょっと動画やらで語れば何万人が見るわけで、自分の仕事の意義なんて考えるのも馬鹿らしくなるよ」

 放っておくといつまでもこんなことをしゃべり続けそうだったので、痺れを切らして彼の話を遮る。

「それで話ってのは?」

「ああ、そうだった。例の佐野左脳の話で、俺のところに連絡かあったんだよ。お前さんのことを紹介してほしいって」

「紹介? 誰に?」

「それが俺も驚いたんだけど、あの左脳の事務所『斜陽社』からの直々のお呼び出しなんだと。知り合い伝手に頼まれてな。でもお前ときたら連絡しても全然出ねえじゃないの。んで、わざわざ家まで来てみたら、ちょうど入り口から出てくるのを見かけたからここまでついてきたってわけ」

 さりげなくストーキング行為を白状してきたが、もはや怒る気力もなかった。

 それよりも、左脳の事務所が直々に呼び出しをかけてきていることの方が問題だ。あまりに信じられず、一瞬だけ西沢の虚言を疑ったが、冷静に考えればそんな嘘をつく理由もない。どうやらあの記事は僕が思っているより何倍も大事になっているらしい。

「どういう用件かまでは聞いてないけど、まあ間違いなく例の文章のことだろうよ。『バズる』ってのはまさにこういう状況のことを言うんだな。おめでとさん」

「いや、冗談じゃない。最悪だよ。まさかそんなところまで届くなんて……。あんなもん書くんじゃなかった」

 元はと言えばこの男が変な連絡を寄越してきたのが発端だ。酔っていたとは言え、何もなければあんなことをするはずがない。そう考えると、人を小馬鹿にしたようなにやけ顔に腹が立ってきた。

「案外怒ってないと思うけどな。素晴らしい文章を書いてくれてありがとう、なんて感謝されるかも」

 しかし彼は悪びれる様子もなく、茶化すように適当なことを言う。

「この仕事も終わりだ。あんな大物に目をつけられたら、これから先やっていけるはずがない」

 何とか細々繋いでいた食い扶持がなくなるのはあまりに痛い。そろそろこんなしょうもない生活を辞めて、定職に就く努力をするべきということか。僕みたいな人間がまともな職に就ける気がしないが、そういったことを考える機会としてはちょうどいいかもしれない。

「まあとりあえず明日の十七時に下北沢の駅前集合で。俺まで怒られるのは勘弁だから、遅れないでくれよ」

 西沢は飲み干したコーラの空き缶をゴミ箱に投げ入れると、急に興味を失ったように僕に背を向けて歩き出した。まるで言うべきことは言い尽くしたというような素振りで、手をぐねぐねと雑に振りながら僕から遠ざかっていく。

 疲れが一気に押し寄せてくる感覚に襲われ、何も考える気になれなかった。結露でびしょ濡れになったペットボトルに口をつけたが、妙に酸っぱい口当たりが気持ち悪い。ジリジリと薄く響く夏の音に目眩を覚えながら、僕はぼんやりとした頭のまま自宅へ戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

左脳 紙野 七 @exoticpenguin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画