1-2

 次の日になっても、彼の死は未だニュースを席巻し続けていた。それどころか続々と新しい情報が流れてくることで、話題がどんどんと膨れ上がっていく。

『どんなに苦しんでいたとしても、自分で命を絶つという選択肢を選んじゃダメだと思うんです。せめて一度くらい周りの人にしていたら、何かは変わっていたんじゃないかな……』

 テレビでは女性タレントがどこかで聞いたようなことを感情的に語っている。彼女はきっと本気で「死にたい」と考えたことがないのだろう。薄っぺらな自分の過去と照らして自殺について語る彼女は妙に芝居染みて見える。

 そもそも死んだ彼を諭して何になるのか。結局彼女は自分語りをするための材料として彼を使っているのではないか。そんなことを考えて、あまりに歪んだ自分の思考が馬鹿らしくなった。

 インターネット上では、彼の死について次々と刺激的な情報が肉付けされていった。自殺方法は首吊り、数日前に意味深なコメントをSNSに残していた、実は楽曲制作が上手くいかずスランプに苦しんでいた、女性関係が派手で度々問題を起こしていた、など。そういう情報源もわからない話が浮かんでは消え、その度に哀れみの言葉や謂われない批判、無意味な噂話などが濁流のように流れていった。

『関係者から聞いたんだけど、精神病んで曲作れなかったらしい』『確かにここ最近同じような曲ばっかだったな』『昔めっちゃ好きだったのになー、残念だわ』『なんか女と揉めて病んだんでしょ?』『そういえばファン食ってるみたいな噂あったよね』『結局天才も女に負けるのかー』『遺産すごそう』『メジャー行ってから全部微妙』『所詮広告代理店のゴリ押しで売れただけ』『昔のCDめっちゃ高く転売されてる』『陰謀じゃね、陰謀。きっと誰かに殺されたんだよ』

 一方で、彼の存在は死を経て神格化されつつあった。様々な美談が死の真相と同様に拡散され、彼がいかに天才で素晴らしい人間であったかが熱っぽく語られる。どこへ行っても彼の曲が流れていて、さして彼を知らなかった人たちが彼の話題を口にする。批評家たちは日本の音楽シーンにおける大きな損失だと言い、音楽家たちはこれから何十年何百年と彼の音楽が残り続けるだろうと言った。

 僕はそんな世の中を遠巻きに眺めながら吐き気を堪えていた。すべてが偽物で、気持ち悪いものに感じられた。彼を肯定するのも、否定するのも、崇拝するのも、軽蔑するのも、あるいは無関心を装って言及しないことすら、何もかもが時流に染まった自意識の欠落した行為のように思えた。そして何よりもこうして世の中を批判する自分こそ、最も卑劣で醜悪で、他者を貶めることで自己を確立しようとする無価値な人間だった。

 気付けば手近にあった缶チューハイが何本も空になって転がっていて、視界がずいぶんぼやけていた。得体の知れない怒りが沸々と湧き上がり、新しい一本を飲み干して空き缶を握り潰す。

 スマートフォンが音を鳴らし、暗い部屋にぼうっと光が浮き上がった。音楽ライター仲間の西沢からの電話だった。

『おい。ニュース見ただろ?』

 僕は面倒に思いながらも、「見た」とだけ答える。

『まさか自殺だなんてな。正直驚いたし、仕事もてんやわんやよ』

「仕事が忙しいならいちいち連絡してこないでくれ」

 西沢はプライベートで仲がいいわけでもないのに、度々こうして意図のわからない連絡を寄越してくる。彼に取ってはこれが普通のコミュニケーションなのかもしれないが、こちらにしてみれば面倒でしかない。

『そうつれないこと言うなって。お前、確か左脳のファンだったよな? それでどう思ってるのか気になってさ』

「別に、ファンってほどじゃないよ。昔よくライブに行ってたってだけで」

『ふーん、そうかい。まあせっかくだし、なんか文章でも書いてみたらどうよ。適当な奴が適当なこと書くよりは、お前みたいな奴が書く方がいいだろ。上手くすりゃ名前が上がるかもしんねーぜ』

 彼はこういう男だった。常に名声や評判を気にして、金と権力を求めている。自分以外の人間を人と思わず、関係性や社会性でしか相手を判断しない。わかりやすくて嫌いではないが、人の死を目の前にしてもこんな風に言ってしまえるその精神性は流石に呆れるしかなかった。

 特にそれ以上返すことが思い浮かばなかったので、適当に会話を打ち切ってスマートフォンを閉じた。付けっぱなしになっていたテレビの中では、相変わらず何の関係もない人間が好き勝手なことを言い合っている。

 彼らはどうして自分に関係のない人間のことをさも知っているかのように語れるのだろう。僕は自分の親兄弟や友人のことだって何も知らないし、当然語る資格などない。人と人は理解などし合えるはずもないし、だからこそ寄り添って生きていかなくてはならない。佐野左脳が歌っていたのもそういうことだったはずなのに、歌詞の一部を都合よく切り取られ、全く別の感動話がでっち上げられていた。


  ごめんね、僕は先に行くよ。

  きっと後から君が来たら、この手紙に気付いて。


『この歌詞は昨年末にリリースされた『ボトルシップ』の一節です。まさに歌詞にある通り、この曲こそが彼の遺した手紙であり、そのメッセージを僕たちは受け取らなくてはいけない』

 やたら名前をよく見かける音楽評論家が熱っぽく左脳の楽曲について語っていた。周囲のパネラーたちも納得するように頷きながら話を聞いている。

 しかし、その曲は既存の枠組みに囚われる音楽業界やその他のカルチャーを揶揄した曲で、おそらく彼の死とは何ら関係がない。ボトルシップのようにちまちまと枠の中に嵌め込もうとするのはやめて、みんなで大きな船を作って航海に出よう、というようなことを言っていたはずだ。

 この「手紙」というのは、ボトルの中に船を作るのはやめて代わりに手紙(=この『ボトルシップ』という曲)を入れておいたと解釈するのが自然だろう。確かに別れを題材にしたラブソングのような言葉選びで書かれているが、それもポップソングに対する皮肉としての表現である。そもそも彼はラブソングを歌わないことで有名だった。そんなことも知らないであろう評論家に苛立ちが増す。

 そうやって頭の中で批評に対する逆批評めいたことを考えているうちに、段々とテレビに映る評論家の髭を蓄えたしたり顔に腹が立ってきた。評論家の男は自分を表現するための手段として、佐野左脳というアーティスト、そして彼の音楽、ひいては彼の死までも使い潰そうとしている。本質的には彼の音楽も、言葉も、人間性も、それどころか生死にも興味がなく、彼の死というコンテンツをいかにして扱うか、扱うことができるか、ということにしか焦点が当たっていない。

 考えれば考えるほど怒りが満ち満ちてきた。手元にあったリモコンを画面に投げつけるけれど、液晶が少し揺れるだけで評論家の男は傲慢な語りを止めない。

適当なことを語って自己満足に浸る評論家も、何も考えず真剣な顔だけ作ってやり過ごしている他の奴らも、全員が彼の死を汚す蛆のように思えてならなかった。

 ――適当な奴が適当なこと書くよりは、お前みたいな奴が書く方がいいだろ。

 西沢の言った一言が不意に頭に思い浮かぶ。彼の言葉にほだされるのは少し不快だったが、試しに何か文章を書いてもいいと思った。

 誰かに読んで欲しいわけではない。この怒りを鎮めるため、そして自分の中での彼への供養として、この沸々と湧き上がる感情を言葉にしようと思ったのだ。

 自己満足でしかないことはわかっていた。その意味ではあの音楽評論家と何ら変わりはない。それでも書こうとパソコンを開いたのは、おそらく酒がずいぶん回って酔っぱらっていたからだ。


 これから書くことは僕の中にある佐野左脳という幻想の話であり、彼の存在や楽曲とは何ら関係のないことである。そこに何の意味があるのかと問われれば意味などないし、ある人にとっては不快に感じる部分もあるかもしれない。それでも僕がこれを書くのは、自分が彼の死を悼んでいると認識するために線香をあげるようなものだと考えてくれればいい。その陰気な香りに嫌気が差したら、すぐに窓を閉めてその場を立ち去ってくれればと思う。


 長い言い訳のような前置きを挟み、僕は彼の死について考えたことを書き連ねていった。思えばこうして自分のために文章を書くのは、初めて小説を書いたとき以来だったと気付いた。


 自殺が悪だと言う人たちに対して、僕は返す言葉を持たない。何があっても生きるべきだと言われてしまえば、どんなに言葉を尽くしてもそれを覆すことができないからだ。だからそういう人たちはすぐにこの文章を閉じて、僕たちのことなど忘れ、その幸せな人生を謳歌して欲しい。

 僕は彼の死をどうしたって否定する気にはなれない。彼が自ら死を選んだのなら、それが最善の選択だったのではないかとすら思えるし、そうした選択をできる彼を羨ましく思ってしまう。

 ただ、彼の死を美化することに対しては些かの疑問がある。彼が死んだこと、彼が死を選んだことは、アーティスト・佐野左脳とは全く関係のないところにある。あまりにも唐突なその死によって何かを表現したかったとは思えない。もしも彼が死によって作品を完成させようとしたなら、もっとスマートなやり方を選んだはずだ。それだけ彼は作品に対するこだわりを待っていたし、真摯に向き合い続けていた。だから今回のことは、あくまで彼のプライベートな問題であって、アーティスト・佐野左脳とは切り離して考えるべきだろう。

 そこかしこで彼の曲を流し、彼の美談を語り、あるいは根も葉もない悪評を流布することで、彼の死というものに何らかの意味を持たせようとする社会に違和感を覚えざるを得ない。ゴッホは死後評価されたが、それは死によって評価されたのではない。太宰は小説を書くのに嫌気が差して死んだというのに、彼の作品をその死と結びつけて語ることに何の意味があると言うのか。カートは今のカルト染みた語られ方を知ったら憤慨するに違いない。

 彼らはイエスのような宗教者ではない。彼らは彼ら自身のために死を選んだのだ。僕たちとはまるで関係のないところで。

 他人なんていうのは、いつも知らないところで知らない日常を送っている。そんな当たり前のことをどうして僕たちは忘れてしまうのか。作品が彼らの全てではないし、彼らの全てが作品ではない。作品と死をまとめて語ってしまうのは、あまりにも高慢で無頓着ではないだろうか。

 僕たちは彼にとって自分の音楽を聴いている他人でしかない。だから彼の死を語ることは愚か、悲しむことだって不自然なことだろう。あなたは彼の死を悲しむほどに彼のことを知っていたのか?

 だからあなたが悲しむべきは、彼の作品が今後発表されないというその一点のみで、彼自身に悲しみを向けることは倒錯でしかない。きっと彼もそんなことは望んでいないように思う。

 佐野左脳を死と結び付けてセンセーショナルに語ることは、もはや侮辱行為にすら感じられる。

 皆まるで彼の作品が今ようやく完成した、つまりはこれまでは未完成であったように語る。しかし、先ほども述べたように、彼の作品は死と無関係で、作品はずっと完成したものだったし、彼の死というピースが嵌るべきところはどこにもない。

 あるいは、この事件によって世界が彼を発見したように歓喜する。それは単にあなたたちが見ようとしていなかっただけで、それを今更になって都合よく話題にして持ち上げることは、彼を自分が生きるための踏み台に使っているに過ぎない。

 だから僕は佐野左脳という人間の死に対して、ただの一言も語る言葉を持たない。きっとどんなに言葉を尽くそうとも、いや、尽くせば尽くすほどに、それらすべてが偽りのものにしかならないからだ。

 それでもこんな文章を書き連ねてしまったのは、僕自身の自己満足と戒めのためだ。僕以外の誰にとっても意味のないものであり、誰に向けたものでもない。酒に溺れた人間の戯言と一蹴していただけるとありがたい。


 僕は勢いに任せて書き殴ったその文章をろくに推敲もせずそのまま投稿した。どうせ自分のフォロワーなど知れた数で、ほとんど身内みたいなものである。誰にも読まれず埋もれるのがオチなのだから、こんなものに時間と労力をかけるのはあまりに甲斐がない。

 書いているうちにさらに酒も回っていたようで、重力に負けたようにベッドに倒れ込む。ひどく頭が痛い。冷房が効き切らずわずかに蒸し暑い部屋に寝苦しさを覚えながら、ほとんど気絶するみたいに眠りについた。

 起きた時にはその日見た夢を覚えてはいなかったが、不思議と愉快な感覚が残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る