左脳
紙野 七
第一章 追悼
1-1
不揃いに音を立てる打鍵音に嫌気が差して、掌を思い切りキーボードに叩きつける。自分で書いて自分で消して、始めから終わりまですべて自己完結していることに、どうしてこんなにも苛立ちを覚えるのだろう。ディスプレイに映し出された意味のない文字列を眺めて無性に虚しくなる。
すっかり冷め切ったコーヒーを飲み干して、深い溜め息を吐いた。まだ締め切りまでは時間があるものの、他にもやらねばならない仕事が後ろに控えている。今日のうちに終わらせてしまいたかったが、これ以上頭を捻ってもなにも出てこなさそうだ。
時計を見ると明け方五時を過ぎていて、カーテンの隙間から見える外の景色が朝焼けに白んでいた。まだすぐには眠れそうにないので、溜まっていたメールを処理しながら今月中にやるべき仕事を改めて整理する。
今手掛けている和菓子の紹介記事と、先日やったインタビュー記事の書き起こし、「次に来るアーティスト」というテーマでコラムも一本書かなくてはいけないのだった。加えてネット記事用に時事ネタもいくつか。これだけやってももらえるのは雀の涙ほどの報酬なのだから、ライターなんていうのは金にならない仕事である。
春に出すはずだった書きかけの小説を久々に開いてみる。物語はちょうどこれから話が展開していくというところで途切れていて、ファイルの更新日時は数ヶ月前で止まっていた。内容をまるで覚えていなかったので最初から読み直してみるが、序盤ですでに物語が破綻しているような気がしてパソコンを閉じる。
数年前に新人賞を取って、編集者の甘言にほだされてそのまま作家になった。元々大学四年の秋になっても就職先が見つからず、半ば自棄になって書いた小説だったから、当時はちょうどいい仕事が見つかったくらいにしか思っていなかった。
しかし、人並み程度にしか本も読んでこなかった僕がそれだけで食っていけるほど、小説家という仕事は甘くなかった。
一冊目は新人賞という話題性もあり、そこそこ売れたらしい。賞金も合わせるとかなりまとまった金額が入ってきて、当時はずいぶん浮かれたものである。
それからは年に一冊程度のスローペースで本を出したが、どれも鳴かず飛ばずの結果だった。初版部数は徐々に減らされていき、あんなに新作をとせっついてきた編集者からはついに連絡が来なくなった。ゼロがたくさん並んでいた口座には、もはやATMでは引き出すことができないような金額しか入っていなかった。
いよいよ生活に困窮し始めて途方に暮れていたところに、知り合いから音楽ライターなような仕事を紹介してもらった。今はそれを中心に、フリーライターとして記事を書いたりして日銭を稼ぎながら、足りない分を日雇いのバイトで誤魔化している。一応小説家を名乗ってはいるものの、ここ二年ほどは小説と呼べるものをまともに書いた記憶がなかった。
何もやる気が起きず、音楽でも聴こうとスマートフォンを手に取る。ヘッドホンが見つからないので、そのまま本体のスピーカーから流すことにした。本当ならコンポでも置いて優雅に音楽を聴ける環境を作りたいものだが、壁の薄い安アパートではすぐさま隣人から苦情が入りそうなので手を出せずにいた。そもそも日銭を稼ぐので精一杯な僕にそんなものを買う余裕はない。
ちょうどお気に入りのアーティストの新曲が配信されていたので、それを聴きながら少し目を瞑る。
電子音を交えたおしゃれなポップスが小気味よく耳をくすぐった。最近流行りの打ち込み要素の強い音色で、トレンドライクな売れ線の曲だな、などと評論家めいたことを思う。
しかし、僕が好きだった初期の衝動的で荒削りな印象は跡形もなくなっていた。もはや国民的アーティストとなった彼はあの頃のように自由ではなく、様々なものに縛られてしまっているのだろうか。一瞬懐古主義に傾きそうな頭を振り払って、伸びやかなボーカルが映えるメロウなサビに没入するふりをする。
そのまま聞き慣れた彼の曲を流しながら、手慰みにSNSでニュースをチェックしていると、流れてきたとある記事に思わず目を疑った。
『【訃報】佐野左脳さんが死去』
あまりに唐突に飛び込んできたその文章を上手く呑み込むことができなかった。頭では何も理解できぬまま、反射的にリンクをクリックして記事の詳細に目を通す。
『シンガーソングライター・佐野左脳さん(27)が、八月二日、自宅にて死亡しているのが確認された。警視庁は発見現場などから、事件性はないと見て詳しく調べを進めているという』
たった数行しかない文章はあまりに淡々としていて現実味がなかった。スピーカーから変わらずに流れ続ける彼の歌声が、余計に僕の頭を混乱させる。
この記事が出たのは今日の夕方で、彼の名前で検索をかけると、すでに様々な人が追悼のコメントを出していた。有名ミュージシャンをはじめ、彼のファンを名乗る芸能人や、音楽記事を書いている同業者たちも漏れなく悲しみを口にしている。すでに世間の話題は佐野左脳一色になっていた。どうやら僕は仕事に集中していたせいで、ずいぶんと話題に乗り遅れてしまったようだ。
佐野左脳は元々インターネット上の動画サイトで人気を博し、その後はインディーシーンで活躍、界隈でカリスマ的人気を誇っていた。そこから数年前に突如メジャーデビューを果たすと、その人気は一気に日本中に広まり、有名音楽番組への出演やCMタイアップ、有名俳優への楽曲提供などで度々話題をさらい、人気はうなぎのぼりに上がっていった。つい先日はドラマの主題歌が社会現象となり、確か今秋にはアルバム発売と初のドームツアーが決まっていたはずだ。
今が全盛期とすら言える状況での死、それも自殺ではないかと見える報道されていることもあって、まさに社会全体が騒然としているようだった。悲しみや悔しさを言葉にする人たちもいれば、この機に乗じて何故か彼を批判するような文章も見受けられ、何だかやるせない気持ちになる。
端くれとは言え音楽ライターのような仕事をしているので、間違いなくこのニュースに言及するべきだった。僕はSNSに追悼の言葉を投稿しようとするが、それらしい文章を最後まで打ち終えたところでふと手が止まる。
僕にとって彼は単なる人気アーティスト以上の存在だった。最近はライブに足を運ぶことなどもめっきり無くなってしまっていたが、今でも活動の情報は常に追いかけていて、新曲が出れば必ずチェックしていた。
ところが、僕が今感じているのは、彼への愛から来る悲しみや苦しみ、あるいは喪失感のようなものではなくて、単純にセンセーショナルな事件が起こったことに対する驚きでしかなかった。
そんな僕が果たして彼を追悼する言葉を発する権利などあるのだろうか。
自分が打ち込んだ文章を改めて読み返してみる。定型文染みた内容のない文章で、感情を含まない空虚なものだった。こんなものを発信しようとしていたことに思わず身震いする。僕はそれをすべて消して、何も書き込むことなくスマートフォンを閉じた。
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