第9話 クラスの地味女子、これが“恋”なんだと気づいてしまいました
朝の鏡の前で、私は自分の右のほっぺたをじっと見つめていた。
「……」
別に、何か跡が残っているわけじゃない。
赤くもないし、腫れているわけでもない。触ってみても、いつもの自分の肌の感触が返ってくるだけだ。
それでも——指先でそっとつつくと、胸の奥がふわっと熱くなる。
(“星宮だからな”、って)
昨日、雨の中。小さな折りたたみ傘の下。
傘の外で降る雨の音と、肩がぶつかりそうな距離と、そして——
浅野くんの、人差し指。
右のほっぺたを、ほんの少しだけ、つん、と押された感覚。
痛くなんてなかった。ただ、驚くほど軽くて、でも、ちゃんとそこに“誰かの気配”があった。
鏡の中の私は、いつも通りの、地味で、どこにでもいそうな女の子の顔をしている。
素顔。薄いメイク。目も鼻も口も、“普通”。
——なのに。
その顔に「つん」って触れてきた人がいて。
その人は、「星宮だからな」って、当たり前みたいな声で言った。
「……ずるいなあ」
誰に向かっているわけでもなく、小さくそう呟く。
制服に袖を通して、いつものように家を出た。
玄関を出てすぐの空は、薄い灰色だった。昨日のざあざあ降りとは違って、雲は高くて、雨の気配はもうほとんどない。
空気も、少しひんやりしていて気持ちいい。
でも、胸のあたりだけは、昨日からずっとあたたかいままだった。
◇
教室のドアを開けると、いつもの朝のざわざわが迎えてくれた。
笑い声、椅子の音、プリントを配る先生の気配。
その中に、もう一つ、私にとって“いつものもの”がある。
(……いた)
窓際の三列目。
浅野くんは、いつも通りの席に座って、英語のワークを開いていた。シャーペンをくるくる回して、単語に小さな印をつけている。
昨日と同じ姿勢。昨日と同じ机。昨日と同じ横顔。
なのに、胸の奥で何かがひとつ跳ねた。
「おはようございます」
自分でも、いつもより少しだけ声が軽くなっているのが分かる。
でも、それを隠すために声を抑える、なんて器用なことはできなくて、私はいつも通りのトーンで挨拶をした。
浅野くんは、顔を上げて、いつもの調子で頷いた。
「ああ。おはよ」
たったそれだけ。
でも、その二文字と三文字が、ちゃんと私に向けられていることが、やけに嬉しかった。
席に着こうとしていたとき、前の席の佐伯さんが振り向いてきた。
「星宮さん、なんか今日ご機嫌じゃない?」
「えっ」
思わず変な声が出る。
「ご機嫌、というほどでは……」
「いや、いつもより“ふわ〜”ってしてる」
彼女は、手をひらひらさせて、空気を撫でる仕草をしてみせた。
「昨日は“眠そうなふわ〜”だったけど、今日は“機嫌いいふわ〜”って感じ」
「違いがあるんですか、それ……」
「あるよ。眠いときの星宮さんの“ふわ〜”は、目がとろんってしてるけど」
「……」
昨日の自分の顔が、勝手に頭の中で再生されてしまって、思わず視線をそらす。
「今日のは、目がきらっとしてる」
「きらっ……」
「いや、ほんのちょっとだけね?」
佐伯さんは、お弁当箱を机に置きながら、ニヤニヤ笑う。
「いいことあった?」
「べ、別に、特には……」
“特にはないです”と言いかけて、喉の奥で言葉が引っかかった。
特別なことなんて、本当にあったのだろうか。
雨の日に折りたたみ傘を貸してもらって、一緒に帰って。
少し滑りそうになったときに支えてくれて。ほっぺたをつんってされて、“星宮だからな”って言われただけで。
——それは、特別と言っても、いいのだろうか。
(私にとっては、十分すぎるくらい特別だけど)
胸の奥でだけ、そっとそう答えておく。
「まあ、いいことあったならいいことだ」
佐伯さんは、それ以上深くは聞いてこなかった。
ホームルームが始まって、出席を取る先生の声と、今日の連絡が淡々と流れていく。
窓の外の雲は、少しずつ薄くなって、ところどころに青空が見え始めていた。
◇
一時間目、二時間目と過ぎていく間も、私は何度か、右隣の席を横目で見てしまっていた。
浅野くんは、授業中はいつも通りだった。
黒板を見て、ノートに書いて、先生の話を聞いて。
たまに、分からないところがあると、眉をほんの少し寄せて、すぐにまた手を動かし始める。
(真面目だな……)
そんなことを考える自分に、「人のこと言えないでしょ」と心の中で突っ込んでみる。
でも、やっぱり。
いつもより、少しだけ。
視線が、そちらに引っ張られていた。
「星宮」
三時間目の途中、ノートに式を書いていたとき、突然名前を呼ばれて、私はペンを止めた。
「はい」
思わず反射的に返事をしてしまってから、呼んだのが先生じゃなくて隣の席の人だったことに気づく。
「……」
前の方では先生が別の生徒を指名していて、こちらには気づいていない。
「どうしましたか」
小声でそう言うと、浅野くんは、ノートの端を指でとんとん叩いた。
「さっきから、ちょっとニヤニヤしてるぞ」
「に、ニヤニヤ……!?」
頬が一気に熱くなる。
「ニヤニヤ、してましたか、私」
「してた」
「いつからですか」
「知らん。気づいたら」
世界史のときか、数学のときか、それとも授業が始まる前からか。
自分ではまったく自覚がなかった。
「内容分かってるか?」
「分かってます!」
そこは、はっきりと言えた。
「ノートも、ちゃんと取ってます」
「ならいいけど」
浅野くんは、それ以上何も言わずに、また前を向いた。
(……危ない)
自分の頬がどれくらい緩んでいたのかは分からないけれど。
こんなふうに言われるくらいには、表情に出てしまっていたらしい。
(ちゃんとしなきゃ)
そう思って、私は意識を黒板に戻した。
でも、ペン先がノートの上を走るたびに、頭のどこかが“つん”の感触を思い出してしまう。
(……ちゃんとできてる、はず)
ノートの文字だけは、いつも通り整っていた。
◇
昼休み。
お弁当のふたを開けながら、私はそっと窓の外を眺めた。
雲はすっかり薄くなって、青い空が広がっている。昨日の雨が嘘みたいな、からっとした晴れ。
「今日は気持ちいいね〜」
佐伯さんが、伸びをしながら言った。
「体育の人らは喜んでるだろうな。昨日の雨、えぐかったもんね」
「そうですね」
箸で卵焼きをつつきながら、私は小さく頷いた。
「昨日、帰り大丈夫だった?」
ふいに聞かれて、箸の動きが止まりそうになる。
「えっと……」
「傘持ってきてなかったって言ってたじゃん」
「あ……」
そうだった。
「途中まで、友達に少しだけ貸してもらって。そのあと、走りました」
ほとんど嘘ではない。途中までは“友達”の傘の下にいたし、そのあとは、少しだけ早歩きした。
ただ、“誰が”という情報を、そっと胸の奥にしまっただけだ。
「いいなあ。私は完全にびしょ濡れだったよ」
「風邪、ひかなかったですか?」
「ぎりぎりセーフ」
そう言って、佐伯さんは自分の喉元を押さえる。
「星宮さん、全然平気そうだよね。やっぱり体強い?」
「普通だと思います」
「なんか、ちゃんと自己管理してそう」
「してる……つもり、です」
それは、日常の一部みたいなものだ。
けれど、昨日。“誰かの”気遣いで守られた部分も、たしかにある。
(浅野くん、ちゃんと自分の分も濡れずに帰れたかな)
少しだけ、そんなことを考えてしまう。
「ねえ、それでさ」
佐伯さんが、弁当箱のふたを机の端に寄せながら、急に目を細めた。
「さっき、授業中にちょっと笑ってたでしょ?」
「笑ってましたか?」
「笑ってた。世界史の途中」
そういえば、ノートを書きながら、知らないうちに口元が緩んでいた気がする。
「楽しくない授業中に、思い出し笑いできるのすごいよ」
「世界史、楽しいですよ?」
「うっ、真面目な返し……」
佐伯さんは、おどけたように胸を押さえた。
「でもなんか、いいことあったんだろうなーって顔してたからさ」
「……」
“いいこと”、か。
たとえば。
雨の日に、一緒に傘に入ってくれる人がいて。
滑りそうになったときに、さりげなく支えてくれて。
寝てたときの顔を覚えていて、「同じ顔してる」って笑ってくれて。
ほっぺたをつんってされて、「星宮だからな」って言ってくれる人がいるとして。
それが、いいことじゃないと言える人は、たぶんあまりいない。
「……まあ、そうですね」
私は、卵焼きを口に運びながら、少しだけ正直に答えた。
「ちょっと、いいこと……ありました」
「おー」
佐伯さんは、両手で「パチパチ」と叩くふりをする。
「詳しくは聞かないでおく」
「聞かないんですか?」
「聞いたら、星宮さんが“えっと、その……”って慌てる未来が見える」
「そんなこと、ないかもしれません」
「じゃあ聞こうか?」
「やめてください」
「ほら」
あっさり見抜かれてしまった。
でも、それでもいい。
全部を誰かに話せなくても。
私の中で、“いいこと”としてちゃんと覚えておきたい。
◇
午後の授業は、いつもより少しだけ早く終わったように感じた。
内容に集中していなかったわけじゃない。
黒板の文字もノートに写したし、先生の話もちゃんと聞いていた。
それでも——
(放課後、どうなるんだろう)
そのことが、頭のどこかでずっとちらちらしていた。
昨日みたいに、また空き教室に行くのだろうか。
行ったとして、今日は何を話すんだろう。
宿題の話とか、文化祭の準備のこととか、どうでもいいことで笑って。
それから——
私は、そこで思考を止めた。
(これ以上勝手に期待するのは、ちょっと図々しいかも)
昨日と同じことが起こる保証なんて、どこにもない。
傘も、雨も、ほっぺたも、“星宮だからな”も。
全部、昨日“たまたま重なった奇跡”だったのかもしれない。
(それでも)
そこまで考えて、胸の奥がきゅっとなった。
放課後のチャイムが鳴る。
教室の空気が、ふっと緩む。
椅子を引く音、カバンのジッパーの音、おしゃべりの声。
「星宮」
名前を呼ばれて顔を上げると、浅野くんが、いつものようにカバンを肩にかけて立っていた。
「今日、どうする?」
「どう、とは……」
「空き教室」
それだけ。
余計な説明も、特別な言い方もなく。
昨日までと同じ言葉が、当たり前のように口から出てきた。
「行きたい、です」
私は、思ったより早くそう答えていた。
「でも、その……浅野くんは?」
「俺も行くつもりだったけど」
浅野くんは、あくまで自然な口調で続ける。
「ここじゃ集中できないし」
「……そうですね」
周りでは、すでに何人かが部活の話を始めている。誰かが席の後ろでじゃれあって、椅子ががたんと鳴った。
その中で、“勉強に集中する”には、たしかに少し騒がしすぎる。
「じゃ、いつも通りな」
「はい」
胸の奥で何かがふわっと広がっていくのを感じながら、私は立ち上がった。
◇
三階の端の空き教室は、今日もやっぱり静かだった。
ドアを開けると、ひんやりとした空気が頬に触れる。窓からは、夕方には少し早い柔らかい光が差し込んでいて、机の上に四角い明るさを落としている。
「今日は、こっち側でいいか」
浅野くんが、窓に近い列の机を二つ移動させる。
私は、反対側から椅子を引いて、彼の隣に座った。
机の上に、ノートと筆箱を並べる。
「今日は寝ないんだろ?」
「寝ません!」
即答だった。
「昨日、たくさん寝たので」
「たくさんってほどでもなかったけどな」
「でも、すごくぐっすり眠れたので」
机に頬をくっつけて、オレンジ色の光を感じて——
そのときの安心感が蘇ってきて、思わず頬が緩んだ。
「ほら、またニヤニヤしてる」
「っ……!」
慌てて両手で口元を押さえる。
「してません」
「してる。目がちょっと細くなってる」
「そんなに見ないでください……」
「視界に入るんだよ」
シャーペンをくるくる回しながら、浅野くんは少し笑った。
「まあ、機嫌悪いよりはいいだろ」
「機嫌は、悪くなったことないはずなんですけど」
「たしかに」
その“たしかに”が、なぜか嬉しかった。
私はノートを開いて、今日の数学の復習を始めた。
ペンを動かしながら、窓の外にちらりと視線を送る。
空は、さっきより少しだけ色を変え始めていた。青の中に、ほんの少しだけ橙が混ざり始めている。
(この景色、昨日と同じだ……)
空き教室の窓から見える、放課後の空。
机の木目。隣の席。ペンの音。
昨日と同じものが、今日もちゃんとここにある。
その事実が、胸の奥をじんわりと満たしていった。
◇
「ここ、分かる?」
問題を解いていたとき、ふと浅野くんがノートをこちらに向けてきた。
数学の問題。二次関数。グラフと、面積。
「えっと……」
私は、自分のノートと彼のノートを交互に見ながら、頭の中で式を並べ替える。
「この部分、こうじゃなくて……」
シャーペンを持っていない方の指で、ノートの端をとんとんと叩いた。
「こっちから先に求めてみたらどうですか?」
「……あー」
浅野くんが、小さく声を漏らした。
「なるほどな」
彼は、自分のシャーペンで式を書き換えていく。
その横顔を見ていたら、ふいに胸の奥がくすぐったくなった。
昨日は「寝てもいいよ」と言ってくれた隣で。
今日は「ここ分かんねえ」とノートを見せてくる隣で。
私は、同じようにノートを開いて、同じようにペンを動かしている。
(こんなふうに、“一緒に勉強する”って、初めてかもしれないな)
もちろん、小さい頃から、誰かと勉強する場面がまったくなかったわけじゃない。
塾で隣の子と問題を見せ合ったり、グループワークで話したり。
でも、“放課後の空き教室で、二人きりで”という状況は、なかなかない。
「助かった」
問題を解き終わった浅野くんが、素直に言った。
「ありがとうございます」
「いえ……」
「星宮、教えるのうまいな」
「そう、ですか?」
「頭の中で整理してから話してる感じがする」
そんなふうに言われたのは初めてで、少し照れてしまった。
「分かりづらかったら、すみません」
「いや、むしろ逆」
彼は、ノートを閉じながら続ける。
「こういうの、誰かに聞いて“ああそうか”ってなるの、普通に助かる」
「それなら……よかったです」
私の小さな知識が、誰かの役に立てること。
それも、こんなふうに言葉にしてもらえること。
それが嬉しくて、また頬が緩みそうになる。
「だからニヤニヤすんなって」
「……」
どうやら、隠すのは諦めた方がよさそうだ。
◇
しばらく勉強していると、教室の中の光が少しずつ色を変えていった。
窓から差し込む光は、白から薄いオレンジへ。
机の影も、ほんの少しだけ長くなる。
「そろそろ、帰りますか」
ノートを閉じながらそう言うと、浅野くんも時計を見て頷いた。
「そうだな。あんまり遅くなると危ないし」
「昨日みたいに雨じゃないのは、ありがたいですけど」
「今日は傘いらなくてよかったな」
「はい」
傘がいらないのは、たしかに楽だ。
でも——
(ちょっとだけ、残念だなって思っちゃうのは、わがままですよね)
肩がぶつかりそうな距離。傘の内側だけが、二人の世界になる感じ。
それを、もう一度、とは言えない。
言わなくていい。言っちゃいけない。
そう思いながら、私は机と椅子を元の位置に戻した。
教室のドアを閉める。
廊下には、まだいくつかの教室の灯りが残っている。
部活の掛け声や、ボールの音が遠くから聞こえる。
私たちは並んで階段を降りていく。
「昨日さ」
途中で、ふいに浅野くんが口を開いた。
「ちゃんと濡れずに帰れたのか?」
「昨日ですか?」
「傘、途中で渡しただろ」
「はい」
校門までの道。傘を渡してくれたあと。
私はそのまままっすぐ歩いて、浅野くんは少し走って帰った。
「濡れました? 浅野くん」
「ちょっとだけな。肩が」
彼は、自分の左肩あたりを軽く叩いてみせる。
「でも、まあ許容範囲」
「風邪、ひきませんでした?」
「ひいてたら、今日休んでる」
「それはそうですね」
たしかに、そうだ。
「星宮は?」
「私は……」
昨日のことを思い出す。
校門までの短い道。背中に届いた「なら、よかった」の声。家に着いて鏡の前で、同じ場所をつついていた自分。
「全然、元気です」
「ならよかった」
それが、ただの確認の言葉だと分かっていても。
昨日と同じフレーズが、今日もまた、胸の奥に柔らかく落ちてきた。
◇
昇降口に着くと、夕方の光がガラスの向こうから差し込んでいた。
今日は、靴箱の前にも、人はほとんどいなかった。
みんなもう帰ったか、部活に行っているか、そのどちらかだろう。
上履きをしまって、ローファーに履き替える。
「じゃあ」
いつものように、浅野くんが言う。
「また明日な」
ただ、それだけ。
特別なことは何も言っていない。
でも——
“また明日”。
何のためらいもなく、その言葉をくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……はい」
少しだけ力が抜けた声で答えてしまう。
「また明日」
昇降口のドアを開けると、風が頬に触れた。
昨日の雨の匂いはもう残っていなくて、代わりに少しだけ、夏の匂いが混じり始めている気がした。
校門までの道を歩きながら、私はさっきの「また明日」を何度も頭の中で繰り返した。
(“また明日”って、すごい言葉だな……)
明日も、自分がここにいて。
明日も、浅野くんがここにいて。
明日も、窓際の三列目に座っていて。
明日も、空き教室に一緒に行けるかもしれなくて。
その全部を、当たり前みたいな顔でくれる言葉。
私は、それがたまらなく嬉しいのだと、ようやく自覚した。
◇
「ただいま」
「おかえりー」
玄関で靴を脱いでいると、キッチンの方から母の声がした。
「今日、早めね」
「そうですか?」
「昨日より全然早いわよ」
「昨日は雨でしたから」
「風邪ひいてない?」
「ひいてないです」
「よかった」
短い会話を交わして、自分の部屋に入る。
制服を脱いで、ハンガーにかける。
机の前に座って、ノートと筆箱を出した。
今日の授業の復習をしながらも、頭のどこかは別のことを考えていた。
(“こころは、恋なんてしません”って、昔は思ってたのに)
恋なんて、している余裕はない。
やるべきことはいっぱいあって、時間は限られていて。
目の前のステージや、レッスンや、テストや、宿題。
全部ちゃんとこなさなきゃいけなくて。
そう思っていたから。
(恋なんてしたら、きっと、どこかでバランスが崩れるって)
誰かを思って胸が苦しくなったり、悲しくなったり、嫉妬したり。
そういう感情が、今の自分の生活には邪魔になるんじゃないかと思っていた。
——はずなのに。
今、胸の奥にあるこの温度は、苦しくもないし、邪魔にもなっていない。
むしろ逆だ。
(なんで、こんなに心強いんだろう)
浅野くんのことを思い出す。
窓際の席。
空き教室。
三十分寝てもいいコース。
ほっぺたつん。
“星宮だからな”。
雨の中の相合い傘。“また明日”。
一つ一つの出来事が、全部、胸の奥をそっと支えてくれている。
ノートを閉じて、私はベッドの上にごろりと横になった。
天井の白い模様をぼんやり眺めながら、右のほっぺたに指先を当ててみる。
「……」
つん、と。
自分で自分の頬をつつく。
そこには、“昨日の感触の記憶”しかないはずなのに。
指先が、少しだけ熱い。
(なんで、こんなに)
胸の奥から、言葉がふわふわと浮かび上がってくる。
『嬉しい』
昨日、傘の中で。
腕を支えられたとき。
『安心する』
空き教室の机に頬を乗せて、眠りかけていたとき。
『もっと一緒にいたい』
「また明日な」と言われたとき。
その全部が、ひとつにまとまりかけている気がする。
(なんで、こんなに)
たとえば。
もし、他の誰かに同じことをされたとしたら。
別のクラスメイトに、ほっぺたをつんってされたら。
別の誰かに、「また明日な」って笑われたとしたら。
同じように胸があたたかくなるだろうか。
(……ならないな)
あまり時間をかけずに、そう答えが出た。
同じように心臓がうるさくなるわけじゃない。
同じように、夜になってから何度も思い出したりしない。
同じように、“明日も隣にいたい”なんて思わない。
(どうして、浅野くんだと、こうなるんだろう)
静かな疑問が、胸の内側でくるくると回る。
真面目に授業を受けて。
ノートを綺麗に書いて。
私のことを“星宮”って呼んで。
ときどき、少しだけ心配してくれて。
ときどき、めちゃくちゃ軽口を叩いて。
寝てもいいよって言ってくれて。
ほっぺたをつついて、「嫌だったか?」って聞いてくれて。
どれかひとつだけだったら、こんなふうにはならなかったのかもしれない。
でも、それが全部重なってしまったから。
私は、今、こんなふうに、誰もいない部屋で、天井を見つめながら、自分のほっぺたをつんつんしている。
「……」
(これって、なんなんだろう)
“安心”。
“尊い”。
“楽しい”。
“嬉しい”。
どの言葉も、少しずつ違っていて、でも全部近くにある。
その真ん中にある言葉を、私は今まで見ないふりをしてきたのかもしれない。
ずっと、忙しいふりをして。
ずっと、気づかないふりをして。
(でも、もう)
ここまで来てしまったら、さすがに気づかないふりはできなかった。
雨の日の傘。空き教室の机。三列目の窓際。ほっぺたの感触。
その全部を胸に抱えたまま、私は、静かに目を閉じる。
(——ああ)
言葉が、胸の奥に、やっとおちてきた。
(たぶん、きっと。これは)
声には出さない。
でも、心の中でだけは、はっきりと口にする。
(“恋”なんだ)
浅野颯太のことが、私は——好きなんだ。
そう認めた瞬間。
息が苦しくなるかと思ったけれど、不思議とそんなことはなかった。
胸の奥にあるのは、痛みじゃなくて、あたたかさだった。
(恋って、苦しいものだと思ってたのに)
誰かを好きになると、その人のことで頭がいっぱいになって。
うまくいかなかったら、涙が出そうになって。
そういうイメージだった。
でも、今、私が感じているのは、そういうものとは少し違う。
もちろん、怖さがまったくないわけじゃない。
この先、何がどうなるかなんて、まだ何も分からない。
浅野くんが、どう思っているのかも分からない。
それでも——
(この気持ちを持っている自分が、今、少し、嬉しい)
それだけは、確かだった。
◇
ベッドから起き上がって、私は机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。
誰にも見せていない、勉強用でも仕事用でもない、ただのメモ帳。
一番後ろのページを開いて、ペンを走らせる。
『今日も、隣にいてくれてありがとう』
それだけ書いて、ペンを止めた。
日付も、名前も、何も書かない。
書かなくても、誰についての言葉なのかは、自分がいちばん分かっているから。
ページを閉じて、メモ帳を引き出しの奥に戻す。
カーテン越しに、夜の空が少しだけ見えた。
遠くで車の音がして、家のどこかで電気の消える音がして。
私は、ベッドの端に腰掛けながら、胸のあたりをそっと押さえた。
(明日も、ちゃんと“普通の顔”で隣に座ろう)
誰かに「好きなんです」と言うつもりは、まだない。
“恋をしました”なんて、大きな声で言うつもりもない。
でも——
(胸の中では、ちゃんと“好き”って呼んでるから)
浅野くんのことを思うたびに、心臓が少しだけ忙しくなる。
それを、「困ったな」って笑える自分でいたい。
この気持ちを、誰かに見せる必要はない。
でも、自分でちゃんと見つめることだけは、やめたくない。
「……おやすみなさい」
誰に向けたわけでもない挨拶を、小さな声で呟いて、私は部屋の灯りを消した。
暗くなった天井の向こうに、窓際の三列目と、空き教室の机と、黒い折りたたみ傘が、静かに浮かび上がる。
その全部を胸に抱いて、私は目を閉じた。
明日も、また“普通の朝”が来て。
明日も、また“いつもの席”に座って。
明日も、また“浅野くんの隣”にいることができますように。
そんなささやかな祈りを、そっと胸の奥にしまい込んで——
私は、少しだけ甘い気持ちのまま、眠りに落ちていった。
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