第9話 クラスの地味女子、これが“恋”なんだと気づいてしまいました

 朝の鏡の前で、私は自分の右のほっぺたをじっと見つめていた。


「……」


 別に、何か跡が残っているわけじゃない。


 赤くもないし、腫れているわけでもない。触ってみても、いつもの自分の肌の感触が返ってくるだけだ。


 それでも——指先でそっとつつくと、胸の奥がふわっと熱くなる。


(“星宮だからな”、って)


 昨日、雨の中。小さな折りたたみ傘の下。


 傘の外で降る雨の音と、肩がぶつかりそうな距離と、そして——


 浅野くんの、人差し指。


 右のほっぺたを、ほんの少しだけ、つん、と押された感覚。


 痛くなんてなかった。ただ、驚くほど軽くて、でも、ちゃんとそこに“誰かの気配”があった。


 鏡の中の私は、いつも通りの、地味で、どこにでもいそうな女の子の顔をしている。


 素顔。薄いメイク。目も鼻も口も、“普通”。


 ——なのに。


 その顔に「つん」って触れてきた人がいて。


 その人は、「星宮だからな」って、当たり前みたいな声で言った。


「……ずるいなあ」


 誰に向かっているわけでもなく、小さくそう呟く。


 制服に袖を通して、いつものように家を出た。


 玄関を出てすぐの空は、薄い灰色だった。昨日のざあざあ降りとは違って、雲は高くて、雨の気配はもうほとんどない。


 空気も、少しひんやりしていて気持ちいい。


 でも、胸のあたりだけは、昨日からずっとあたたかいままだった。


     ◇


 教室のドアを開けると、いつもの朝のざわざわが迎えてくれた。


 笑い声、椅子の音、プリントを配る先生の気配。


 その中に、もう一つ、私にとって“いつものもの”がある。


(……いた)


 窓際の三列目。


 浅野くんは、いつも通りの席に座って、英語のワークを開いていた。シャーペンをくるくる回して、単語に小さな印をつけている。


 昨日と同じ姿勢。昨日と同じ机。昨日と同じ横顔。


 なのに、胸の奥で何かがひとつ跳ねた。


「おはようございます」


 自分でも、いつもより少しだけ声が軽くなっているのが分かる。


 でも、それを隠すために声を抑える、なんて器用なことはできなくて、私はいつも通りのトーンで挨拶をした。


 浅野くんは、顔を上げて、いつもの調子で頷いた。


「ああ。おはよ」


 たったそれだけ。


 でも、その二文字と三文字が、ちゃんと私に向けられていることが、やけに嬉しかった。


 席に着こうとしていたとき、前の席の佐伯さんが振り向いてきた。


「星宮さん、なんか今日ご機嫌じゃない?」


「えっ」


 思わず変な声が出る。


「ご機嫌、というほどでは……」


「いや、いつもより“ふわ〜”ってしてる」


 彼女は、手をひらひらさせて、空気を撫でる仕草をしてみせた。


「昨日は“眠そうなふわ〜”だったけど、今日は“機嫌いいふわ〜”って感じ」


「違いがあるんですか、それ……」


「あるよ。眠いときの星宮さんの“ふわ〜”は、目がとろんってしてるけど」


「……」


 昨日の自分の顔が、勝手に頭の中で再生されてしまって、思わず視線をそらす。


「今日のは、目がきらっとしてる」


「きらっ……」


「いや、ほんのちょっとだけね?」


 佐伯さんは、お弁当箱を机に置きながら、ニヤニヤ笑う。


「いいことあった?」


「べ、別に、特には……」


 “特にはないです”と言いかけて、喉の奥で言葉が引っかかった。


 特別なことなんて、本当にあったのだろうか。


 雨の日に折りたたみ傘を貸してもらって、一緒に帰って。


 少し滑りそうになったときに支えてくれて。ほっぺたをつんってされて、“星宮だからな”って言われただけで。


 ——それは、特別と言っても、いいのだろうか。


(私にとっては、十分すぎるくらい特別だけど)


 胸の奥でだけ、そっとそう答えておく。


「まあ、いいことあったならいいことだ」


 佐伯さんは、それ以上深くは聞いてこなかった。


 ホームルームが始まって、出席を取る先生の声と、今日の連絡が淡々と流れていく。


 窓の外の雲は、少しずつ薄くなって、ところどころに青空が見え始めていた。


     ◇


 一時間目、二時間目と過ぎていく間も、私は何度か、右隣の席を横目で見てしまっていた。


 浅野くんは、授業中はいつも通りだった。


 黒板を見て、ノートに書いて、先生の話を聞いて。


 たまに、分からないところがあると、眉をほんの少し寄せて、すぐにまた手を動かし始める。


(真面目だな……)


 そんなことを考える自分に、「人のこと言えないでしょ」と心の中で突っ込んでみる。


 でも、やっぱり。


 いつもより、少しだけ。


 視線が、そちらに引っ張られていた。


「星宮」


 三時間目の途中、ノートに式を書いていたとき、突然名前を呼ばれて、私はペンを止めた。


「はい」


 思わず反射的に返事をしてしまってから、呼んだのが先生じゃなくて隣の席の人だったことに気づく。


「……」


 前の方では先生が別の生徒を指名していて、こちらには気づいていない。


「どうしましたか」


 小声でそう言うと、浅野くんは、ノートの端を指でとんとん叩いた。


「さっきから、ちょっとニヤニヤしてるぞ」


「に、ニヤニヤ……!?」


 頬が一気に熱くなる。


「ニヤニヤ、してましたか、私」


「してた」


「いつからですか」


「知らん。気づいたら」


 世界史のときか、数学のときか、それとも授業が始まる前からか。


 自分ではまったく自覚がなかった。


「内容分かってるか?」


「分かってます!」


 そこは、はっきりと言えた。


「ノートも、ちゃんと取ってます」


「ならいいけど」


 浅野くんは、それ以上何も言わずに、また前を向いた。


(……危ない)


 自分の頬がどれくらい緩んでいたのかは分からないけれど。


 こんなふうに言われるくらいには、表情に出てしまっていたらしい。


(ちゃんとしなきゃ)


 そう思って、私は意識を黒板に戻した。


 でも、ペン先がノートの上を走るたびに、頭のどこかが“つん”の感触を思い出してしまう。


(……ちゃんとできてる、はず)


 ノートの文字だけは、いつも通り整っていた。


     ◇


 昼休み。


 お弁当のふたを開けながら、私はそっと窓の外を眺めた。


 雲はすっかり薄くなって、青い空が広がっている。昨日の雨が嘘みたいな、からっとした晴れ。


「今日は気持ちいいね〜」


 佐伯さんが、伸びをしながら言った。


「体育の人らは喜んでるだろうな。昨日の雨、えぐかったもんね」


「そうですね」


 箸で卵焼きをつつきながら、私は小さく頷いた。


「昨日、帰り大丈夫だった?」


 ふいに聞かれて、箸の動きが止まりそうになる。


「えっと……」


「傘持ってきてなかったって言ってたじゃん」


「あ……」


 そうだった。


「途中まで、友達に少しだけ貸してもらって。そのあと、走りました」


 ほとんど嘘ではない。途中までは“友達”の傘の下にいたし、そのあとは、少しだけ早歩きした。


 ただ、“誰が”という情報を、そっと胸の奥にしまっただけだ。


「いいなあ。私は完全にびしょ濡れだったよ」


「風邪、ひかなかったですか?」


「ぎりぎりセーフ」


 そう言って、佐伯さんは自分の喉元を押さえる。


「星宮さん、全然平気そうだよね。やっぱり体強い?」


「普通だと思います」


「なんか、ちゃんと自己管理してそう」


「してる……つもり、です」


 それは、日常の一部みたいなものだ。


 けれど、昨日。“誰かの”気遣いで守られた部分も、たしかにある。


(浅野くん、ちゃんと自分の分も濡れずに帰れたかな)


 少しだけ、そんなことを考えてしまう。


「ねえ、それでさ」


 佐伯さんが、弁当箱のふたを机の端に寄せながら、急に目を細めた。


「さっき、授業中にちょっと笑ってたでしょ?」


「笑ってましたか?」


「笑ってた。世界史の途中」


 そういえば、ノートを書きながら、知らないうちに口元が緩んでいた気がする。


「楽しくない授業中に、思い出し笑いできるのすごいよ」


「世界史、楽しいですよ?」


「うっ、真面目な返し……」


 佐伯さんは、おどけたように胸を押さえた。


「でもなんか、いいことあったんだろうなーって顔してたからさ」


「……」


 “いいこと”、か。


 たとえば。


 雨の日に、一緒に傘に入ってくれる人がいて。


 滑りそうになったときに、さりげなく支えてくれて。


 寝てたときの顔を覚えていて、「同じ顔してる」って笑ってくれて。


 ほっぺたをつんってされて、「星宮だからな」って言ってくれる人がいるとして。


 それが、いいことじゃないと言える人は、たぶんあまりいない。


「……まあ、そうですね」


 私は、卵焼きを口に運びながら、少しだけ正直に答えた。


「ちょっと、いいこと……ありました」


「おー」


 佐伯さんは、両手で「パチパチ」と叩くふりをする。


「詳しくは聞かないでおく」


「聞かないんですか?」


「聞いたら、星宮さんが“えっと、その……”って慌てる未来が見える」


「そんなこと、ないかもしれません」


「じゃあ聞こうか?」


「やめてください」


「ほら」


 あっさり見抜かれてしまった。


 でも、それでもいい。


 全部を誰かに話せなくても。


 私の中で、“いいこと”としてちゃんと覚えておきたい。


     ◇


 午後の授業は、いつもより少しだけ早く終わったように感じた。


 内容に集中していなかったわけじゃない。


 黒板の文字もノートに写したし、先生の話もちゃんと聞いていた。


 それでも——


(放課後、どうなるんだろう)


 そのことが、頭のどこかでずっとちらちらしていた。


 昨日みたいに、また空き教室に行くのだろうか。


 行ったとして、今日は何を話すんだろう。


 宿題の話とか、文化祭の準備のこととか、どうでもいいことで笑って。


 それから——


 私は、そこで思考を止めた。


(これ以上勝手に期待するのは、ちょっと図々しいかも)


 昨日と同じことが起こる保証なんて、どこにもない。


 傘も、雨も、ほっぺたも、“星宮だからな”も。


 全部、昨日“たまたま重なった奇跡”だったのかもしれない。


(それでも)


 そこまで考えて、胸の奥がきゅっとなった。


 放課後のチャイムが鳴る。


 教室の空気が、ふっと緩む。


 椅子を引く音、カバンのジッパーの音、おしゃべりの声。


「星宮」


 名前を呼ばれて顔を上げると、浅野くんが、いつものようにカバンを肩にかけて立っていた。


「今日、どうする?」


「どう、とは……」


「空き教室」


 それだけ。


 余計な説明も、特別な言い方もなく。


 昨日までと同じ言葉が、当たり前のように口から出てきた。


「行きたい、です」


 私は、思ったより早くそう答えていた。


「でも、その……浅野くんは?」


「俺も行くつもりだったけど」


 浅野くんは、あくまで自然な口調で続ける。


「ここじゃ集中できないし」


「……そうですね」


 周りでは、すでに何人かが部活の話を始めている。誰かが席の後ろでじゃれあって、椅子ががたんと鳴った。


 その中で、“勉強に集中する”には、たしかに少し騒がしすぎる。


「じゃ、いつも通りな」


「はい」


 胸の奥で何かがふわっと広がっていくのを感じながら、私は立ち上がった。


     ◇


 三階の端の空き教室は、今日もやっぱり静かだった。


 ドアを開けると、ひんやりとした空気が頬に触れる。窓からは、夕方には少し早い柔らかい光が差し込んでいて、机の上に四角い明るさを落としている。


「今日は、こっち側でいいか」


 浅野くんが、窓に近い列の机を二つ移動させる。


 私は、反対側から椅子を引いて、彼の隣に座った。


 机の上に、ノートと筆箱を並べる。


「今日は寝ないんだろ?」


「寝ません!」


 即答だった。


「昨日、たくさん寝たので」


「たくさんってほどでもなかったけどな」


「でも、すごくぐっすり眠れたので」


 机に頬をくっつけて、オレンジ色の光を感じて——


 そのときの安心感が蘇ってきて、思わず頬が緩んだ。


「ほら、またニヤニヤしてる」


「っ……!」


 慌てて両手で口元を押さえる。


「してません」


「してる。目がちょっと細くなってる」


「そんなに見ないでください……」


「視界に入るんだよ」


 シャーペンをくるくる回しながら、浅野くんは少し笑った。


「まあ、機嫌悪いよりはいいだろ」


「機嫌は、悪くなったことないはずなんですけど」


「たしかに」


 その“たしかに”が、なぜか嬉しかった。


 私はノートを開いて、今日の数学の復習を始めた。


 ペンを動かしながら、窓の外にちらりと視線を送る。


 空は、さっきより少しだけ色を変え始めていた。青の中に、ほんの少しだけ橙が混ざり始めている。


(この景色、昨日と同じだ……)


 空き教室の窓から見える、放課後の空。


 机の木目。隣の席。ペンの音。


 昨日と同じものが、今日もちゃんとここにある。


 その事実が、胸の奥をじんわりと満たしていった。


     ◇


「ここ、分かる?」


 問題を解いていたとき、ふと浅野くんがノートをこちらに向けてきた。


 数学の問題。二次関数。グラフと、面積。


「えっと……」


 私は、自分のノートと彼のノートを交互に見ながら、頭の中で式を並べ替える。


「この部分、こうじゃなくて……」


 シャーペンを持っていない方の指で、ノートの端をとんとんと叩いた。


「こっちから先に求めてみたらどうですか?」


「……あー」


 浅野くんが、小さく声を漏らした。


「なるほどな」


 彼は、自分のシャーペンで式を書き換えていく。


 その横顔を見ていたら、ふいに胸の奥がくすぐったくなった。


 昨日は「寝てもいいよ」と言ってくれた隣で。


 今日は「ここ分かんねえ」とノートを見せてくる隣で。


 私は、同じようにノートを開いて、同じようにペンを動かしている。


(こんなふうに、“一緒に勉強する”って、初めてかもしれないな)


 もちろん、小さい頃から、誰かと勉強する場面がまったくなかったわけじゃない。


 塾で隣の子と問題を見せ合ったり、グループワークで話したり。


 でも、“放課後の空き教室で、二人きりで”という状況は、なかなかない。


「助かった」


 問題を解き終わった浅野くんが、素直に言った。


「ありがとうございます」


「いえ……」


「星宮、教えるのうまいな」


「そう、ですか?」


「頭の中で整理してから話してる感じがする」


 そんなふうに言われたのは初めてで、少し照れてしまった。


「分かりづらかったら、すみません」


「いや、むしろ逆」


 彼は、ノートを閉じながら続ける。


「こういうの、誰かに聞いて“ああそうか”ってなるの、普通に助かる」


「それなら……よかったです」


 私の小さな知識が、誰かの役に立てること。


 それも、こんなふうに言葉にしてもらえること。


 それが嬉しくて、また頬が緩みそうになる。


「だからニヤニヤすんなって」


「……」


 どうやら、隠すのは諦めた方がよさそうだ。


     ◇


 しばらく勉強していると、教室の中の光が少しずつ色を変えていった。


 窓から差し込む光は、白から薄いオレンジへ。


 机の影も、ほんの少しだけ長くなる。


「そろそろ、帰りますか」


 ノートを閉じながらそう言うと、浅野くんも時計を見て頷いた。


「そうだな。あんまり遅くなると危ないし」


「昨日みたいに雨じゃないのは、ありがたいですけど」


「今日は傘いらなくてよかったな」


「はい」


 傘がいらないのは、たしかに楽だ。


 でも——


(ちょっとだけ、残念だなって思っちゃうのは、わがままですよね)


 肩がぶつかりそうな距離。傘の内側だけが、二人の世界になる感じ。


 それを、もう一度、とは言えない。


 言わなくていい。言っちゃいけない。


 そう思いながら、私は机と椅子を元の位置に戻した。


 教室のドアを閉める。


 廊下には、まだいくつかの教室の灯りが残っている。


 部活の掛け声や、ボールの音が遠くから聞こえる。


 私たちは並んで階段を降りていく。


「昨日さ」


 途中で、ふいに浅野くんが口を開いた。


「ちゃんと濡れずに帰れたのか?」


「昨日ですか?」


「傘、途中で渡しただろ」


「はい」


 校門までの道。傘を渡してくれたあと。


 私はそのまままっすぐ歩いて、浅野くんは少し走って帰った。


「濡れました? 浅野くん」


「ちょっとだけな。肩が」


 彼は、自分の左肩あたりを軽く叩いてみせる。


「でも、まあ許容範囲」


「風邪、ひきませんでした?」


「ひいてたら、今日休んでる」


「それはそうですね」


 たしかに、そうだ。


「星宮は?」


「私は……」


 昨日のことを思い出す。


 校門までの短い道。背中に届いた「なら、よかった」の声。家に着いて鏡の前で、同じ場所をつついていた自分。


「全然、元気です」


「ならよかった」


 それが、ただの確認の言葉だと分かっていても。


 昨日と同じフレーズが、今日もまた、胸の奥に柔らかく落ちてきた。


     ◇


 昇降口に着くと、夕方の光がガラスの向こうから差し込んでいた。


 今日は、靴箱の前にも、人はほとんどいなかった。


 みんなもう帰ったか、部活に行っているか、そのどちらかだろう。


 上履きをしまって、ローファーに履き替える。


「じゃあ」


 いつものように、浅野くんが言う。


「また明日な」


 ただ、それだけ。


 特別なことは何も言っていない。


 でも——


 “また明日”。


 何のためらいもなく、その言葉をくれることが、どうしようもなく嬉しかった。


「……はい」


 少しだけ力が抜けた声で答えてしまう。


「また明日」


 昇降口のドアを開けると、風が頬に触れた。


 昨日の雨の匂いはもう残っていなくて、代わりに少しだけ、夏の匂いが混じり始めている気がした。


 校門までの道を歩きながら、私はさっきの「また明日」を何度も頭の中で繰り返した。


(“また明日”って、すごい言葉だな……)


 明日も、自分がここにいて。


 明日も、浅野くんがここにいて。


 明日も、窓際の三列目に座っていて。


 明日も、空き教室に一緒に行けるかもしれなくて。


 その全部を、当たり前みたいな顔でくれる言葉。


 私は、それがたまらなく嬉しいのだと、ようやく自覚した。


     ◇


「ただいま」


「おかえりー」


 玄関で靴を脱いでいると、キッチンの方から母の声がした。


「今日、早めね」


「そうですか?」


「昨日より全然早いわよ」


「昨日は雨でしたから」


「風邪ひいてない?」


「ひいてないです」


「よかった」


 短い会話を交わして、自分の部屋に入る。


 制服を脱いで、ハンガーにかける。


 机の前に座って、ノートと筆箱を出した。


 今日の授業の復習をしながらも、頭のどこかは別のことを考えていた。


(“こころは、恋なんてしません”って、昔は思ってたのに)


 恋なんて、している余裕はない。


 やるべきことはいっぱいあって、時間は限られていて。


 目の前のステージや、レッスンや、テストや、宿題。


 全部ちゃんとこなさなきゃいけなくて。


 そう思っていたから。


(恋なんてしたら、きっと、どこかでバランスが崩れるって)


 誰かを思って胸が苦しくなったり、悲しくなったり、嫉妬したり。


 そういう感情が、今の自分の生活には邪魔になるんじゃないかと思っていた。


 ——はずなのに。


 今、胸の奥にあるこの温度は、苦しくもないし、邪魔にもなっていない。


 むしろ逆だ。


(なんで、こんなに心強いんだろう)


 浅野くんのことを思い出す。


 窓際の席。


 空き教室。


 三十分寝てもいいコース。


 ほっぺたつん。


 “星宮だからな”。


 雨の中の相合い傘。“また明日”。


 一つ一つの出来事が、全部、胸の奥をそっと支えてくれている。


 ノートを閉じて、私はベッドの上にごろりと横になった。


 天井の白い模様をぼんやり眺めながら、右のほっぺたに指先を当ててみる。


「……」


 つん、と。


 自分で自分の頬をつつく。


 そこには、“昨日の感触の記憶”しかないはずなのに。


 指先が、少しだけ熱い。


(なんで、こんなに)


 胸の奥から、言葉がふわふわと浮かび上がってくる。


『嬉しい』


 昨日、傘の中で。


 腕を支えられたとき。


『安心する』


 空き教室の机に頬を乗せて、眠りかけていたとき。


『もっと一緒にいたい』


 「また明日な」と言われたとき。


 その全部が、ひとつにまとまりかけている気がする。


(なんで、こんなに)


 たとえば。


 もし、他の誰かに同じことをされたとしたら。


 別のクラスメイトに、ほっぺたをつんってされたら。


 別の誰かに、「また明日な」って笑われたとしたら。


 同じように胸があたたかくなるだろうか。


(……ならないな)


 あまり時間をかけずに、そう答えが出た。


 同じように心臓がうるさくなるわけじゃない。


 同じように、夜になってから何度も思い出したりしない。


 同じように、“明日も隣にいたい”なんて思わない。


(どうして、浅野くんだと、こうなるんだろう)


 静かな疑問が、胸の内側でくるくると回る。


 真面目に授業を受けて。


 ノートを綺麗に書いて。


 私のことを“星宮”って呼んで。


 ときどき、少しだけ心配してくれて。


 ときどき、めちゃくちゃ軽口を叩いて。


 寝てもいいよって言ってくれて。


 ほっぺたをつついて、「嫌だったか?」って聞いてくれて。


 どれかひとつだけだったら、こんなふうにはならなかったのかもしれない。


 でも、それが全部重なってしまったから。


 私は、今、こんなふうに、誰もいない部屋で、天井を見つめながら、自分のほっぺたをつんつんしている。


「……」


(これって、なんなんだろう)


 “安心”。


 “尊い”。


 “楽しい”。


 “嬉しい”。


 どの言葉も、少しずつ違っていて、でも全部近くにある。


 その真ん中にある言葉を、私は今まで見ないふりをしてきたのかもしれない。


 ずっと、忙しいふりをして。


 ずっと、気づかないふりをして。


(でも、もう)


 ここまで来てしまったら、さすがに気づかないふりはできなかった。


 雨の日の傘。空き教室の机。三列目の窓際。ほっぺたの感触。


 その全部を胸に抱えたまま、私は、静かに目を閉じる。


(——ああ)


 言葉が、胸の奥に、やっとおちてきた。


(たぶん、きっと。これは)


 声には出さない。


 でも、心の中でだけは、はっきりと口にする。


(“恋”なんだ)


 浅野颯太のことが、私は——好きなんだ。


 そう認めた瞬間。


 息が苦しくなるかと思ったけれど、不思議とそんなことはなかった。


 胸の奥にあるのは、痛みじゃなくて、あたたかさだった。


(恋って、苦しいものだと思ってたのに)


 誰かを好きになると、その人のことで頭がいっぱいになって。


 うまくいかなかったら、涙が出そうになって。


 そういうイメージだった。


 でも、今、私が感じているのは、そういうものとは少し違う。


 もちろん、怖さがまったくないわけじゃない。


 この先、何がどうなるかなんて、まだ何も分からない。


 浅野くんが、どう思っているのかも分からない。


 それでも——


(この気持ちを持っている自分が、今、少し、嬉しい)


 それだけは、確かだった。


     ◇


 ベッドから起き上がって、私は机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。


 誰にも見せていない、勉強用でも仕事用でもない、ただのメモ帳。


 一番後ろのページを開いて、ペンを走らせる。


『今日も、隣にいてくれてありがとう』


 それだけ書いて、ペンを止めた。


 日付も、名前も、何も書かない。


 書かなくても、誰についての言葉なのかは、自分がいちばん分かっているから。


 ページを閉じて、メモ帳を引き出しの奥に戻す。


 カーテン越しに、夜の空が少しだけ見えた。


 遠くで車の音がして、家のどこかで電気の消える音がして。


 私は、ベッドの端に腰掛けながら、胸のあたりをそっと押さえた。


(明日も、ちゃんと“普通の顔”で隣に座ろう)


 誰かに「好きなんです」と言うつもりは、まだない。


 “恋をしました”なんて、大きな声で言うつもりもない。


 でも——


(胸の中では、ちゃんと“好き”って呼んでるから)


 浅野くんのことを思うたびに、心臓が少しだけ忙しくなる。


 それを、「困ったな」って笑える自分でいたい。


 この気持ちを、誰かに見せる必要はない。


 でも、自分でちゃんと見つめることだけは、やめたくない。


「……おやすみなさい」


 誰に向けたわけでもない挨拶を、小さな声で呟いて、私は部屋の灯りを消した。


 暗くなった天井の向こうに、窓際の三列目と、空き教室の机と、黒い折りたたみ傘が、静かに浮かび上がる。


 その全部を胸に抱いて、私は目を閉じた。


 明日も、また“普通の朝”が来て。


 明日も、また“いつもの席”に座って。


 明日も、また“浅野くんの隣”にいることができますように。


 そんなささやかな祈りを、そっと胸の奥にしまい込んで——


 私は、少しだけ甘い気持ちのまま、眠りに落ちていった。

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絶対的アイドルは、放課後だけ甘えたい 桃神かぐら @Kaguramomokami

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