第8話 クラスの地味女子、ほっぺたつんつんされたら照れ死にそうです

 朝のホームルームが始まる前の教室は、窓ガラスを叩く小さな音でいっぱいになっていた。


 ぱらぱら、ぱちぱち、さらさら。


 それは、チョークの粉の匂いと混ざって、少しだけ眠気を誘うリズムだった。


(……雨、か)


 カーテンの隙間から外を覗くと、グラウンドの土がうっすらと黒く濡れているのが見えた。まだ土砂降りというほどではないけれど、傘がないと困りそうなくらいには、ちゃんと降っている。


「えー、今日雨なんだ。聞いてない」


 後ろの方の席から、嘆きの声が上がる。


「昨日、晴れって言ってなかったっけ?」


「言ってた気がする」


 誰かがスマホの天気予報アプリを見ながら、そう言っているのが聞こえた。


(天気予報、外れたんだ……)


 私は、窓から視線を外して、自分のバッグの中をそっと探る。


 教科書、ノート、筆箱、ハンカチ、財布、定期券。


 ——そして、傘はない。


 朝、家を出るときには、まだ曇り空だった。雨の匂いも、それらしい気配もなくて、天気予報を見なおす余裕もないまま、いつも通り家を出てきてしまった。


(……やってしまいました)


 心の中で小さく頭を抱える。


 放課後までに止んでくれればいいけれど、この降り方だと、あまり期待はできない。


「星宮さん」


 前の席の佐伯さんが、くるっと振り向いた。


「傘、持ってきた?」


「いえ……」


 正直に答えると、彼女は「あー」と顔をしかめる。


「やっぱりか。私もなんだよねー」


「仲間ですね……」


「笑えない仲間だよ」


 ほんの少し笑ってから、彼女は「まあ、止むと信じよう」と自分に言い聞かせるように言って、前を向いた。


 黒板の前では、担任が出席簿をめくっている。


「ホームルーム始めるぞー。席つけ」


 いつもの朝が、雨音を伴ってゆっくりと動き始めた。


     ◇


 雨の日の授業は、いつもより少しだけ集中しやすい気がする。


 窓の外の景色は、灰色と水滴で薄く覆われていて、視界の端に余計な色が入ってこない。代わりに、屋根や窓に当たる雨の音が一定のリズムで続いていて、頭の奥でメトロノームみたいに刻まれていた。


(昨日、あんなにぐっすり寝ちゃったから、今日は逆に頭がすっきりしてるな……)


 世界史の先生の声を聞きながら、ノートに要点を抜き出していく。


 昨日の放課後のことを思い出すだけで、少し頬が熱くなる気がするけれど、それを悟られないように、ペン先に意識を集中させた。


 右隣の席からは、いつも通りのペンの音が聞こえる。


 浅野くんの書く字は、やっぱり綺麗だ。


 はっきりと整っているのに、どこか力が入りすぎていない、いい意味で“普通に読みやすい”字。


(ちゃんと、予習してきてるんだろうな……)


 そんなことをぼんやり考えているうちに、午前の授業はあっという間に終わった。


     ◇


 昼休みになっても、雨は止まなかった。


「弁当組、勝ち組〜」


「購買行くのめんどくさ……」


 そんな声が飛び交う中、私はカバンからお弁当箱を取り出した。今日はたまたま、早起きできたので、簡単なお弁当を作ってきていた。


「お、今日はお弁当なんだ」


 佐伯さんが、身を乗り出して覗いてくる。


「はい。昨日はパンだったので、今日はちゃんと作ろうかなと思って」


「えらい」


「そんなことないですよ」


 そう言いつつも、自分で用意したお弁当のふたを開ける瞬間は、少しだけ嬉しい。


 卵焼きと、ウインナーと、冷凍食品のからあげと、隙間に詰めたブロッコリー。


 彩りはそれなりに綺麗に見える。


「星宮さんのお弁当、いつも詰め方きれい」


「ありがとうございます」


「性格出るよね〜」


「吉川さん、それは?」


「今日はお母さんの。冷凍多め」


 そんな他愛もない会話をしながら、私はふと窓の外に目をやった。


 雨粒が、さっきより少しだけ大きくなっている。


(……放課後までに止む、って感じではないですね)


 お弁当箱の中の卵焼きをつつきながら、心の中で小さくため息をつく。


 家までの距離は、それなりにある。走って帰るには遠すぎて、雨宿りしてやり過ごせるほど短くもない。


(どうしようかな……)


 傘の貸し借りをお願いできるような、家が同じ方向の友達もいない。


 こればかりは、どうしようもない。


(最悪、少し濡れて帰るしか……)


 そう覚悟を決めかけたとき、右隣から小さな視線を感じた。


「星宮」


「はい?」


 卵焼きを口に運んだタイミングで、名前を呼ばれて少しむせそうになる。


 なんとか飲みこんでから、顔を向けた。


「傘、持ってきた?」


「……持ってきてないです」


 少し間を置いて、正直に答える。


「やっぱりか」


「“やっぱり”って、どういう意味ですか?」


「朝から空見て、“まあ大丈夫か”って顔してたから」


 そこまで見られていたことに、少し驚いた。


「浅野くんは?」


「俺は折りたたみ」


 カバンの横のポケットを軽く叩いてみせる。


「今日、部活のやつから“昼から雨っぽいぞ”ってメッセージ来てさ。念のため入れといた」


「部活の情報網、すごいですね……」


「雨でグラウンド使えないかどうかが死活問題だからな」


 たしかに、そういうものかもしれない。


「家、反対方向だっけ?」


「少しだけ」


 詳しい場所は言っていないけれど、方向だけは何となく話したことがある。


 大きな通りまでは同じで、そこから先が別々になる、そんなイメージだ。


「昇降口までは傘なくて大丈夫だろうけど」


「まあ、屋根ありますし」


「帰り、どうするんだ?」


「……」


 どうする、と聞かれて、私は言葉に詰まった。


 どうするか、まだ決めていなかったからだ。


「少し雨宿りして、弱くなるのを待つか、諦めて走るか、かな……と」


「風邪ひくぞ」


「気合で」


「気合でどうにかなることと、ならないことがあるだろ」


 浅野くんは、少しだけ眉を寄せて言った。


「まあ、放課後までに止むかもしれないけどな」


「そうですね」


 そう言いつつも、二人とも、あまり期待していないのが分かっていた。


     ◇


 午後の授業は、雨音が少し強くなったぶん、逆に集中しやすかった。


 窓の外を見ても、白い筋が斜めに走っているだけで、景色の情報はほとんど得られない。


 五時間目の数学の板書を写しながら、私はさっきの会話を何度も思い出していた。


(浅野くんの折りたたみ傘、ひとり用ですよね……)


 当たり前のことだけれど、そこがいちばんの問題だ。


 同じ方向に帰るわけでもない。


 仮に「一緒に帰ろう」と言ってもらったとして、途中まで相合い傘で、そのあとどこかで別れるだけだ。


(……それでも、嬉しいんだろうな)


 家まで濡れずに帰れるから、という実利的な理由だけじゃなくて。


 雨の中の、狭い傘の下。


 そこに二人で入る、ということ自体が、きっと。


 胸の奥が、少しだけくすぐったくなったところで、チャイムが鳴った。


「今日のホームルームは連絡だけだ。手短にな」


 担任の言葉とともに、六時間目があっさりと終わっていく。


「じゃあ解散。気をつけて帰れよー」


 その「気をつけて」の一言が、今日はいつもより重く感じられた。


     ◇


「どうだろ」


 教室の窓から外を見ていた誰かの声が聞こえる。


「さっきより、強くなってない?」


「いや、これ走ったら終わるやつだろ……」


「あー、無理無理。髪終わる」


 そんな声を聞きながら、私はカバンの肩ひもを持つ手に少しだけ力を入れた。


「星宮」


「はい」


 名前を呼ばれて振り向く。


 浅野くんは、もうカバンを肩にかけていて、いつでも教室を出られる状態だった。


「行くか」


「……はい」


 特に何も説明されていないのに、「空き教室に行く」という意味だとすぐに分かる。


 私も立ち上がって、カバンを持つ。


 後ろから、「雨宿りしていってから帰ろーぜ」という声が聞こえるのを背中で聞きながら、私たちは教室を出た。


     ◇


 三階の端の空き教室にたどり着く頃には、雨音はさらに存在感を増していた。


 ドアを開けた瞬間、遠くから聞こえていたざあざあという音が一段大きくなって、窓ガラス全体を揺らしている。


「結構降ってるな」


「そうですね……」


 窓に近づいて外を覗くと、グラウンドの白線がほとんど見えなくなっていた。校門のあたりも、薄いもやの向こうにぼんやりと黒い線が見える程度だ。


 その景色を見ただけで、靴下までぐっしょりになる未来が容易に想像できた。


「走って帰る、はやめた方がよさそうですね」


「だな」


 浅野くんは、窓から視線を外して、机を二つ軽く引いた。


「とりあえず、いつも通り座るか」


「はい」


 私も椅子を引いて、隣に座る。


 雨の日の教室は、空気が少しひんやりしている。


 でも、この空き教室の空気は、それでも落ち着いていて、呼吸がしやすかった。


「今日は寝ないのか?」


 彼がノートを取り出しながら、軽く聞いてくる。


「寝ません!」


 即答だった。


「今日は頭すっきりしてるので」


「昨日、よく寝てたもんな」


 少し笑う声が、雨音の合間に混ざる。


「昨日は、その……本当に、ありがとうございました」


「また礼?」


「言いたくなってしまうので」


「じゃあ今日は、“起きてるコース”か」


「起きてるコースって何ですか」


「昨日のが“寝るコース”だったから」


「コース名つけないでください」


 そう言いつつ、口元が自然と笑ってしまうのを自覚する。


 いつもの机と椅子、いつもの隣の人。


 そこに雨音が加わっただけで、少しだけ特別な空間に感じられた。


「でも、帰りどうしますか?」


 少し真面目な声に戻して、私は聞いた。


「雨宿りしても、止む感じじゃなさそうですよね」


「そうだな……」


 浅野くんは、窓の外をちらりと見てから、自分のカバンに手を伸ばした。


「とりあえず、これはある」


 カバンの横のポケットから、細長い布ケースを取り出す。


 中身は、折りたたみ傘だ。


「ひとつきり、ですよね」


「そりゃな」


「家の方向、少し違うのに……」


「同じ方向まで一緒に行けるところまで行けばいいだろ」


 あまりにも当たり前みたいに言われて、言葉に詰まる。


「……いいんですか?」


「雨の中、星宮一人で帰らせたら、後味悪いし」


 その理由が、あまりにも浅野くんらしくて、少し笑ってしまいそうになった。


「それに」


 彼は、傘のケースを指先でくるりとまわしながら続ける。


「折りたたみ、意外と二人でもなんとかなるし」


「なんとか……」


「肩ぐらいは濡れるかもしれないけどな」


「浅野くんの方が背が高いので、絶対そっちの肩の濡れ方の方が……」


「なに、損得勘定してんだよ」


「つい……」


「いいよ。俺の肩は広いから」


 そういうことを軽く言えるのが、ずるい。


 胸の奥で、さっきよりしっかりと温かいものが広がっていく。


「……ありがとうございます」


「だから礼はいい」


「言いたくなっちゃうんです」


「だったら“ありがとうございます”の回数分、ちゃんと宿題しろよ」


「真面目な条件がつきましたね」


「普通だろ」


 その“普通”が、ちゃんと優しさでできていることを知っているから、私の頬はさらに熱くなった。


     ◇


 少しだけノートを開いて、今日の授業の復習をした。


 でも、正直なところ、頭の片隅には、教科書の内容よりも、「雨」と「傘」と「帰り道」のことでいっぱいだった。


(本当に、二人で入るんだ……)


 折りたたみ傘は、たぶんそんなに大きくない。教科書にしたら、一冊分の幅もないくらいだろう。


 そこに二人で入る。


 肩と肩が、きっと少しだけ触れる。


(心臓、うるさくならないといいけど……)


 そんなことを考えているうちに、空の色がゆっくりと変わっていった。


 窓の外の白い筋は、少しだけ薄くなってきている。


 消えるほどではないけれど、さっきよりは幾分か弱くなった気がした。


「そろそろ行くか」


 時計を見て、浅野くんが言った。


「これ以上遅くなると、暗くなって危ないしな」


「……そうですね」


 カバンにノートをしまって、立ち上がる。


 机を元の位置に戻し、椅子もきちんとしまう。


 教室のドアを閉めたとき、雨音がまた少しだけ大きく聞こえた。


     ◇


 昇降口に向かう階段を降りる間、二人ともあまり多くは話さなかった。


 話をしていないのに、気まずさはない。


 ただ、雨の音が、二人の足音と一緒に、同じリズムで流れていくだけだった。


「結構、普通に降ってますね」


「だな」


 昇降口の前まで来て、ガラス越しに外を覗く。


 校舎と校門をつなぐ道には、細かい水たまりが点々とできていて、その表面に絶えず波紋が広がっていた。


 傘なしで走ったら、数十秒で制服の色が変わりそうだ。


「行くか」


「はい……」


 覚悟を決めて頷くと、浅野くんは折りたたみ傘のケースから、黒い布の束を取り出した。


 カチ、と骨組みを伸ばして、ぱん、とコンパクトな丸い屋根が広がる。


「星宮、こっち」


 そう言って、傘を持った腕を少しこちらに寄せてくれる。


 私は、彼の左側に立って、そっと半歩分近づいた。


 傘の中は、思ったより狭かった。


 浅野くんの肩と、私の肩。


 あと少し歩幅を間違えたら、ぶつかってしまいそうな距離。


(ち、近い……)


 顔が自分で分かるくらい熱くなっていくのを感じながら、私は視線を前に固定した。


「行くぞ」


「……はい」


 小さく返事をして、二人で外へ出る。


 雨粒が傘の上に当たって、小さな音を立てた。


 さっきまで、ただの背景だった雨音が、今はすぐ頭の上で鳴っている。


 世界の音が、少しだけ遠くなる。


 雨に遮られた傘の内側は、二人だけの空間みたいだった。


     ◇


 歩き始めてすぐに、私は自分の歩幅が、いつもより少しだけ小さいことに気づいた。


 理由は簡単だ。


 肩がぶつかるのが怖くて、自然と足が慎重になっているのだ。


(こんなに慎重に歩くの、運動会の二人三脚以来かもしれない……)


 そんなことを考えていると、すぐ隣から声がした。


「星宮」


「はい?」


「もうちょい寄っていいぞ」


「えっ」


「半分以上、俺の肩出てるから」


 言われてみて、自分の位置を確認してみる。


 たしかに、私の方はかなり傘の中心寄りにいるのに対して、浅野くんの右肩は、ほとんど傘の外に出かけていた。


「す、すみません」


「謝るなって」


「でも……」


「濡れる方が嫌だろ」


「浅野くんの肩が、ですか?」


「星宮のだよ」


 即答だった。


 その一言で、さらに頬の熱が増す。


「じゃあ……少しだけ」


 私は恐る恐る、半歩分だけ彼の方へ近づいた。


 傘の布の端が、さっきより少しだけ私の頬の近くになった。


 肩と肩の間の距離が、紙一枚分くらいに縮まる。


 これ以上近づくと、本当にぶつかってしまいそうで、それ以上は動けなかった。


「これなら、ちょうど半分くらいだな」


 浅野くんが、何でもないことのように言う。


「はい……」


 うまく返事ができなくて、声が少し震える。


(落ち着いて、落ち着いて……)


 心の中で自分に言い聞かせる。


 落ち着かなきゃいけないのに、心臓はどんどんうるさくなっていく。


 雨の音がなかったら、きっと隣の人に聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに。


     ◇


 しばらく、二人とも黙って歩いた。


 傘の外側には、途切れなく雨が降り続いている。


 水の匂いと、アスファルトの匂いと、遠くで誰かが走る足音。


 傘の内側には、二人の息と、かすかな衣擦れの音だけ。


 その沈黙が苦しいわけではなかった。


 ただ、少しだけくすぐったい。


「星宮」


 ふいに、名前を呼ばれた。


「はい?」


 顔を向けると、思ったより近くに浅野くんの横顔があって、慌てて視線を少し下にずらす。


 それでも、彼がこちらを見ているのは分かった。


「……寝そうな顔してる」


「寝てません!」


 条件反射で反論する。


「本当に?」


「本当です。今日は寝ません」


「昨日もそう言ってた気がするけど」


「昨日は……その、例外です」


 机に頬をくっつけた感触と、目を覚ましたときのオレンジ色の光が頭をよぎって、また顔が熱くなる。


「じゃあ、今日は例外じゃないってことで」


「今日はちゃんと起きてますから」


「そうか」


 彼は、少しだけ目線を下げた。


「でもな」


「……?」


「“寝そうな顔”っていうかさ」


 傘の持ち手を持ち直しながら、言葉を探すみたいな間があって——


「昨日、寝てたときと同じ顔してた」


 さらりと、そう言った。


「っ……」


 胸の奥で何かが弾けた音がした気がした。


「お、同じ……?」


「ああ」


 彼は、特に照れた様子もなく続ける。


「力抜けてて、“今ちょっと安心してます”って顔」


「そ、そんな顔してましたか、私……」


「してた」


 即答だった。


「寝そうな顔っていうのは、そういう感じ」


「……」


 恥ずかしさと、嬉しさと、何か分からない感情がぜんぶ混ざって、うまく言葉が出てこなかった。


 “安心してる顔”。


 そんなふうに、自分の表情を誰かに言われたのは初めてだ。


(昨日の寝顔、覚えてくれてたんだ……)


 そう思った瞬間、足元が一瞬ふわっと浮いた気がして、危うくバランスを崩しそうになる。


「わっ」


 足元の小さな水たまりを避けようとして、思ったより滑りやすかったようだ。


 ほんの少し身体が傾いた、その瞬間。


「おっと」


 浅野くんの左腕が、そっと私の肘あたりを支えた。


 強く引き寄せるわけではない。


 でも、倒れないように必要な力だけを、自然に添えてくれる。


 その距離感が、逆に心臓に悪かった。


「大丈夫か」


「だ、大丈夫です……!」


 声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら答える。


「すみません。水たまり、見てなくて」


「前、ちゃんと見ろよ」


「見てたつもりだったんですけど……」


「それなら、たぶん見てないな」


 彼は、腕をそっと離しながら、小さく息を吐いた。


「だから言っただろ。“寝そうな顔”して歩くなって」


「……寝てません」


「意識はな」


「それ以外に何があるんですか」


「顔だよ、顔」


 彼の視線が、そっとこちらの顔のあたりをなぞるように動いた気がした。


「今も、ちょっとぼーっとしてる」


「ぼーっと……」


 そう言われると、意識してしまって、余計に表情が固くなる。


「ちゃんとしてます」


「ほら」


 立ち止まった瞬間だった。


 浅野くんの右手の人差し指が、ふっと近づいてきて。


 私の右のほっぺたを、軽く——


「……っ!?」


 つん、とつついた。


 一瞬、時間が止まったような気がした。


 頬に、ほんの小さな圧が加わる。


 痛いわけではなく、驚くほど軽い。


 でも、その一点から、心臓まで一気に熱が広がっていくのが分かる。


「な、なにして……」


 声にならない声が喉の奥で溶けていく。


 浅野くんは、特に慌てた様子もなく、指をそっと引っ込めた。


「起きてるか確認した」


「ほっぺたをですか!?」


「一番分かりやすいだろ」


「分かりやすさの問題じゃないです……!」


 涙目になりそうなほど顔が熱くなる。


 頬を両手で覆いたい衝動を必死で抑えながら、私は彼を見上げた。


「そういうの、普通しませんよ……」


「しないか?」


「しません……!」


「でも、星宮だからな」


 その何気ない一言に、呼吸が一瞬止まりそうになる。


「……っ」


「嫌だったか?」


 少しだけ真面目な声。


 雨音が、急に遠くなる。


 私は、ぎゅっと自分の指先に力を込めながら、頭の中で言葉を並べた。


 嫌、ではない。


 むしろ、逆だ。


 嬉しい、のだと思う。


 でも、それをそのまま言ってしまったら、何かが変わってしまいそうで怖い。


「びっくりは……しました」


 正直な部分だけを拾って、言葉にする。


「でも、その……嫌、ではなかったです」


「そうか」


 浅野くんの肩の力が、少し抜けた気がした。


「なら、よかった」


「ほっぺたは、あんまりつんつんしないでください」


「“あんまり”なんだな」


「……ゼロとは言ってないです」


 自分で言ってから、自爆したことに気づいた。


「今のは聞かなかったことにしてください」


「難しいな、それは」


「聞き流す力を鍛えてください」


「じゃあ星宮は、寝そうな顔するのやめろ」


「がんばります」


 そんなふうに言い合っているうちに、さっきまでの恥ずかしさが、少しだけ笑いに変わっていく。


 頬に残る感覚は、まだ完全には消えないけれど。


(“星宮だからな”、って……)


 その一言が、雨音よりも大きく、胸の奥で響き続けていた。


     ◇


 大きな通りまでの道のりは、いつもより短く感じた。


 雨のせいで景色がぼやけているのもあるし、さっきの“つんつん事件”のインパクトが強すぎて、途中の風景があまり頭に残らなかったせいもある。


 気がつけば、家の方向が分かれる交差点にたどり着いていた。


「ここまでか」


「そうですね……」


 名残惜しいような、ほっとしたような、不思議な気持ちで、私は足を止めた。


 傘の下では、まだ二人分の息が混ざっている。


「ここから先、大丈夫か?」


「大丈夫……だと思います」


 道の両側には、ところどころにコンビニやドラッグストアがある。この雨なら、そのどこかで少し雨宿りしながら帰ることもできる。


 走る必要はない。


 さっきより、心も落ち着いている。


「じゃあ」


 浅野くんは、傘をほんの少し私の方に傾けた。


「校門までは、先行っていいよ」


「え?」


「ここで傘渡すと、俺がびしょ濡れになるだろ」


「それは……そうですけど」


「星宮が校門の屋根の下まで行ったら、ここから走る」


「走るんですか?」


「少しな」


 それを想像して、少しだけ笑ってしまった。


「じゃあ、急いで行きます」


「転ぶなよ」


「転びません」


「さっき危なかったからな」


「さっきは……油断してただけです」


 頬がまた熱くなりそうになったのを誤魔化すように、私は一歩前に出た。


 傘の柄を受け取る。


 持ち手に、浅野くんの手の温もりが少し残っている気がした。


「星宮」


「はい」


「ほっぺた、さっきよりちゃんと起きてる顔になってる」


「顔に“睡眠度”みたいなのあるんですか……?」


「なんとなく分かる」


 その言葉に、少しだけ笑ってしまう。


「じゃあ、このまま起きて帰ります」


「頼む」


 傘を軽く持ち直して、私は一歩踏み出した。


 傘の外側で、雨粒がぱちぱちと音を立てる。


 校門までは、ほんの数十メートル。


 走らなくても、すぐだ。


 でも。


 数歩進んだところで、どうしても振り返らずにはいられなかった。


「あの……!」


 雨の音に負けないように、少し大きめの声で呼びかける。


「さっきの、ほっぺた……」


「ん?」


 浅野くんが、少しだけ首をかしげる。


「その……」


 言葉を探して、胸の奥をひと呼吸分だけ深くする。


「嫌じゃなかったです」


 それだけ言って、私は前を向いた。


 背中に、少しだけ静かな間が落ちる。


 雨音が、ふいに遠く感じられた。


「……そうか」


 すぐ後ろから、短い返事が聞こえた。


「なら、よかった」


 それだけの会話。


 でも、その一往復だけで、胸の奥に広がる温度は、雨なんかで冷めそうになかった。


     ◇


 家に着いたころには、制服の裾の方が少しだけ湿っていた。


「ただいま」


「おかえりー。あら、そんなに濡れてないね」


「途中から傘、使えましたから」


「よかったわね。お風呂、先に入る?」


「あとで入ります」


 母との短い会話を済ませて、自分の部屋に入る。


 カバンを机の横に置いて、制服を脱いでハンガーにかける。


 洗面台の鏡の前に立って、自分の顔を見た。


「……」


 右のほっぺたに、何か残っているわけではない。


 赤くもないし、跡がついているわけでもない。


 でも、さっきの“つん”の感触だけは、しっかり残っていた。


 鏡の中の自分を見つめながら、人差し指でそっと頬をつついてみる。


「ぷに……」


 思ったより柔らかくて、少しだけ笑ってしまった。


「……柔らかいって、言わなくていいのに」


 小さな声でそう呟いて、鏡の向こうの自分と目が合う。


 そこには、“普通の高校生”の顔が映っていた。


 大きくも小さくもない目。普通の鼻。普通の口。


 どこにでもいるような、地味めな女の子。


 ——なのに。


(“星宮だからな”、って)


 その普通の顔を、特別扱いしてくれる人がいる。


 寝ている顔も、ぼーっとしている顔も、“起きてるか確認”って言いながらつついたほっぺたも。


 その全部を、受け止めてくれる人が、隣にいる。


「……ずるいなあ」


 鏡に向かって、そっと笑う。


 頬に指を当てたまま、私は心の中で小さく呟いた。


(明日も、ちゃんと隣に座れますように)


 窓際の三列目。


 その場所が、これからも“少しだけ特別な普通”であり続けますように。


 そんな願いを、ほっぺたの“つん”の感触と一緒に、胸の奥にしまい込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る