第8話 クラスの地味女子、ほっぺたつんつんされたら照れ死にそうです
朝のホームルームが始まる前の教室は、窓ガラスを叩く小さな音でいっぱいになっていた。
ぱらぱら、ぱちぱち、さらさら。
それは、チョークの粉の匂いと混ざって、少しだけ眠気を誘うリズムだった。
(……雨、か)
カーテンの隙間から外を覗くと、グラウンドの土がうっすらと黒く濡れているのが見えた。まだ土砂降りというほどではないけれど、傘がないと困りそうなくらいには、ちゃんと降っている。
「えー、今日雨なんだ。聞いてない」
後ろの方の席から、嘆きの声が上がる。
「昨日、晴れって言ってなかったっけ?」
「言ってた気がする」
誰かがスマホの天気予報アプリを見ながら、そう言っているのが聞こえた。
(天気予報、外れたんだ……)
私は、窓から視線を外して、自分のバッグの中をそっと探る。
教科書、ノート、筆箱、ハンカチ、財布、定期券。
——そして、傘はない。
朝、家を出るときには、まだ曇り空だった。雨の匂いも、それらしい気配もなくて、天気予報を見なおす余裕もないまま、いつも通り家を出てきてしまった。
(……やってしまいました)
心の中で小さく頭を抱える。
放課後までに止んでくれればいいけれど、この降り方だと、あまり期待はできない。
「星宮さん」
前の席の佐伯さんが、くるっと振り向いた。
「傘、持ってきた?」
「いえ……」
正直に答えると、彼女は「あー」と顔をしかめる。
「やっぱりか。私もなんだよねー」
「仲間ですね……」
「笑えない仲間だよ」
ほんの少し笑ってから、彼女は「まあ、止むと信じよう」と自分に言い聞かせるように言って、前を向いた。
黒板の前では、担任が出席簿をめくっている。
「ホームルーム始めるぞー。席つけ」
いつもの朝が、雨音を伴ってゆっくりと動き始めた。
◇
雨の日の授業は、いつもより少しだけ集中しやすい気がする。
窓の外の景色は、灰色と水滴で薄く覆われていて、視界の端に余計な色が入ってこない。代わりに、屋根や窓に当たる雨の音が一定のリズムで続いていて、頭の奥でメトロノームみたいに刻まれていた。
(昨日、あんなにぐっすり寝ちゃったから、今日は逆に頭がすっきりしてるな……)
世界史の先生の声を聞きながら、ノートに要点を抜き出していく。
昨日の放課後のことを思い出すだけで、少し頬が熱くなる気がするけれど、それを悟られないように、ペン先に意識を集中させた。
右隣の席からは、いつも通りのペンの音が聞こえる。
浅野くんの書く字は、やっぱり綺麗だ。
はっきりと整っているのに、どこか力が入りすぎていない、いい意味で“普通に読みやすい”字。
(ちゃんと、予習してきてるんだろうな……)
そんなことをぼんやり考えているうちに、午前の授業はあっという間に終わった。
◇
昼休みになっても、雨は止まなかった。
「弁当組、勝ち組〜」
「購買行くのめんどくさ……」
そんな声が飛び交う中、私はカバンからお弁当箱を取り出した。今日はたまたま、早起きできたので、簡単なお弁当を作ってきていた。
「お、今日はお弁当なんだ」
佐伯さんが、身を乗り出して覗いてくる。
「はい。昨日はパンだったので、今日はちゃんと作ろうかなと思って」
「えらい」
「そんなことないですよ」
そう言いつつも、自分で用意したお弁当のふたを開ける瞬間は、少しだけ嬉しい。
卵焼きと、ウインナーと、冷凍食品のからあげと、隙間に詰めたブロッコリー。
彩りはそれなりに綺麗に見える。
「星宮さんのお弁当、いつも詰め方きれい」
「ありがとうございます」
「性格出るよね〜」
「吉川さん、それは?」
「今日はお母さんの。冷凍多め」
そんな他愛もない会話をしながら、私はふと窓の外に目をやった。
雨粒が、さっきより少しだけ大きくなっている。
(……放課後までに止む、って感じではないですね)
お弁当箱の中の卵焼きをつつきながら、心の中で小さくため息をつく。
家までの距離は、それなりにある。走って帰るには遠すぎて、雨宿りしてやり過ごせるほど短くもない。
(どうしようかな……)
傘の貸し借りをお願いできるような、家が同じ方向の友達もいない。
こればかりは、どうしようもない。
(最悪、少し濡れて帰るしか……)
そう覚悟を決めかけたとき、右隣から小さな視線を感じた。
「星宮」
「はい?」
卵焼きを口に運んだタイミングで、名前を呼ばれて少しむせそうになる。
なんとか飲みこんでから、顔を向けた。
「傘、持ってきた?」
「……持ってきてないです」
少し間を置いて、正直に答える。
「やっぱりか」
「“やっぱり”って、どういう意味ですか?」
「朝から空見て、“まあ大丈夫か”って顔してたから」
そこまで見られていたことに、少し驚いた。
「浅野くんは?」
「俺は折りたたみ」
カバンの横のポケットを軽く叩いてみせる。
「今日、部活のやつから“昼から雨っぽいぞ”ってメッセージ来てさ。念のため入れといた」
「部活の情報網、すごいですね……」
「雨でグラウンド使えないかどうかが死活問題だからな」
たしかに、そういうものかもしれない。
「家、反対方向だっけ?」
「少しだけ」
詳しい場所は言っていないけれど、方向だけは何となく話したことがある。
大きな通りまでは同じで、そこから先が別々になる、そんなイメージだ。
「昇降口までは傘なくて大丈夫だろうけど」
「まあ、屋根ありますし」
「帰り、どうするんだ?」
「……」
どうする、と聞かれて、私は言葉に詰まった。
どうするか、まだ決めていなかったからだ。
「少し雨宿りして、弱くなるのを待つか、諦めて走るか、かな……と」
「風邪ひくぞ」
「気合で」
「気合でどうにかなることと、ならないことがあるだろ」
浅野くんは、少しだけ眉を寄せて言った。
「まあ、放課後までに止むかもしれないけどな」
「そうですね」
そう言いつつも、二人とも、あまり期待していないのが分かっていた。
◇
午後の授業は、雨音が少し強くなったぶん、逆に集中しやすかった。
窓の外を見ても、白い筋が斜めに走っているだけで、景色の情報はほとんど得られない。
五時間目の数学の板書を写しながら、私はさっきの会話を何度も思い出していた。
(浅野くんの折りたたみ傘、ひとり用ですよね……)
当たり前のことだけれど、そこがいちばんの問題だ。
同じ方向に帰るわけでもない。
仮に「一緒に帰ろう」と言ってもらったとして、途中まで相合い傘で、そのあとどこかで別れるだけだ。
(……それでも、嬉しいんだろうな)
家まで濡れずに帰れるから、という実利的な理由だけじゃなくて。
雨の中の、狭い傘の下。
そこに二人で入る、ということ自体が、きっと。
胸の奥が、少しだけくすぐったくなったところで、チャイムが鳴った。
「今日のホームルームは連絡だけだ。手短にな」
担任の言葉とともに、六時間目があっさりと終わっていく。
「じゃあ解散。気をつけて帰れよー」
その「気をつけて」の一言が、今日はいつもより重く感じられた。
◇
「どうだろ」
教室の窓から外を見ていた誰かの声が聞こえる。
「さっきより、強くなってない?」
「いや、これ走ったら終わるやつだろ……」
「あー、無理無理。髪終わる」
そんな声を聞きながら、私はカバンの肩ひもを持つ手に少しだけ力を入れた。
「星宮」
「はい」
名前を呼ばれて振り向く。
浅野くんは、もうカバンを肩にかけていて、いつでも教室を出られる状態だった。
「行くか」
「……はい」
特に何も説明されていないのに、「空き教室に行く」という意味だとすぐに分かる。
私も立ち上がって、カバンを持つ。
後ろから、「雨宿りしていってから帰ろーぜ」という声が聞こえるのを背中で聞きながら、私たちは教室を出た。
◇
三階の端の空き教室にたどり着く頃には、雨音はさらに存在感を増していた。
ドアを開けた瞬間、遠くから聞こえていたざあざあという音が一段大きくなって、窓ガラス全体を揺らしている。
「結構降ってるな」
「そうですね……」
窓に近づいて外を覗くと、グラウンドの白線がほとんど見えなくなっていた。校門のあたりも、薄いもやの向こうにぼんやりと黒い線が見える程度だ。
その景色を見ただけで、靴下までぐっしょりになる未来が容易に想像できた。
「走って帰る、はやめた方がよさそうですね」
「だな」
浅野くんは、窓から視線を外して、机を二つ軽く引いた。
「とりあえず、いつも通り座るか」
「はい」
私も椅子を引いて、隣に座る。
雨の日の教室は、空気が少しひんやりしている。
でも、この空き教室の空気は、それでも落ち着いていて、呼吸がしやすかった。
「今日は寝ないのか?」
彼がノートを取り出しながら、軽く聞いてくる。
「寝ません!」
即答だった。
「今日は頭すっきりしてるので」
「昨日、よく寝てたもんな」
少し笑う声が、雨音の合間に混ざる。
「昨日は、その……本当に、ありがとうございました」
「また礼?」
「言いたくなってしまうので」
「じゃあ今日は、“起きてるコース”か」
「起きてるコースって何ですか」
「昨日のが“寝るコース”だったから」
「コース名つけないでください」
そう言いつつ、口元が自然と笑ってしまうのを自覚する。
いつもの机と椅子、いつもの隣の人。
そこに雨音が加わっただけで、少しだけ特別な空間に感じられた。
「でも、帰りどうしますか?」
少し真面目な声に戻して、私は聞いた。
「雨宿りしても、止む感じじゃなさそうですよね」
「そうだな……」
浅野くんは、窓の外をちらりと見てから、自分のカバンに手を伸ばした。
「とりあえず、これはある」
カバンの横のポケットから、細長い布ケースを取り出す。
中身は、折りたたみ傘だ。
「ひとつきり、ですよね」
「そりゃな」
「家の方向、少し違うのに……」
「同じ方向まで一緒に行けるところまで行けばいいだろ」
あまりにも当たり前みたいに言われて、言葉に詰まる。
「……いいんですか?」
「雨の中、星宮一人で帰らせたら、後味悪いし」
その理由が、あまりにも浅野くんらしくて、少し笑ってしまいそうになった。
「それに」
彼は、傘のケースを指先でくるりとまわしながら続ける。
「折りたたみ、意外と二人でもなんとかなるし」
「なんとか……」
「肩ぐらいは濡れるかもしれないけどな」
「浅野くんの方が背が高いので、絶対そっちの肩の濡れ方の方が……」
「なに、損得勘定してんだよ」
「つい……」
「いいよ。俺の肩は広いから」
そういうことを軽く言えるのが、ずるい。
胸の奥で、さっきよりしっかりと温かいものが広がっていく。
「……ありがとうございます」
「だから礼はいい」
「言いたくなっちゃうんです」
「だったら“ありがとうございます”の回数分、ちゃんと宿題しろよ」
「真面目な条件がつきましたね」
「普通だろ」
その“普通”が、ちゃんと優しさでできていることを知っているから、私の頬はさらに熱くなった。
◇
少しだけノートを開いて、今日の授業の復習をした。
でも、正直なところ、頭の片隅には、教科書の内容よりも、「雨」と「傘」と「帰り道」のことでいっぱいだった。
(本当に、二人で入るんだ……)
折りたたみ傘は、たぶんそんなに大きくない。教科書にしたら、一冊分の幅もないくらいだろう。
そこに二人で入る。
肩と肩が、きっと少しだけ触れる。
(心臓、うるさくならないといいけど……)
そんなことを考えているうちに、空の色がゆっくりと変わっていった。
窓の外の白い筋は、少しだけ薄くなってきている。
消えるほどではないけれど、さっきよりは幾分か弱くなった気がした。
「そろそろ行くか」
時計を見て、浅野くんが言った。
「これ以上遅くなると、暗くなって危ないしな」
「……そうですね」
カバンにノートをしまって、立ち上がる。
机を元の位置に戻し、椅子もきちんとしまう。
教室のドアを閉めたとき、雨音がまた少しだけ大きく聞こえた。
◇
昇降口に向かう階段を降りる間、二人ともあまり多くは話さなかった。
話をしていないのに、気まずさはない。
ただ、雨の音が、二人の足音と一緒に、同じリズムで流れていくだけだった。
「結構、普通に降ってますね」
「だな」
昇降口の前まで来て、ガラス越しに外を覗く。
校舎と校門をつなぐ道には、細かい水たまりが点々とできていて、その表面に絶えず波紋が広がっていた。
傘なしで走ったら、数十秒で制服の色が変わりそうだ。
「行くか」
「はい……」
覚悟を決めて頷くと、浅野くんは折りたたみ傘のケースから、黒い布の束を取り出した。
カチ、と骨組みを伸ばして、ぱん、とコンパクトな丸い屋根が広がる。
「星宮、こっち」
そう言って、傘を持った腕を少しこちらに寄せてくれる。
私は、彼の左側に立って、そっと半歩分近づいた。
傘の中は、思ったより狭かった。
浅野くんの肩と、私の肩。
あと少し歩幅を間違えたら、ぶつかってしまいそうな距離。
(ち、近い……)
顔が自分で分かるくらい熱くなっていくのを感じながら、私は視線を前に固定した。
「行くぞ」
「……はい」
小さく返事をして、二人で外へ出る。
雨粒が傘の上に当たって、小さな音を立てた。
さっきまで、ただの背景だった雨音が、今はすぐ頭の上で鳴っている。
世界の音が、少しだけ遠くなる。
雨に遮られた傘の内側は、二人だけの空間みたいだった。
◇
歩き始めてすぐに、私は自分の歩幅が、いつもより少しだけ小さいことに気づいた。
理由は簡単だ。
肩がぶつかるのが怖くて、自然と足が慎重になっているのだ。
(こんなに慎重に歩くの、運動会の二人三脚以来かもしれない……)
そんなことを考えていると、すぐ隣から声がした。
「星宮」
「はい?」
「もうちょい寄っていいぞ」
「えっ」
「半分以上、俺の肩出てるから」
言われてみて、自分の位置を確認してみる。
たしかに、私の方はかなり傘の中心寄りにいるのに対して、浅野くんの右肩は、ほとんど傘の外に出かけていた。
「す、すみません」
「謝るなって」
「でも……」
「濡れる方が嫌だろ」
「浅野くんの肩が、ですか?」
「星宮のだよ」
即答だった。
その一言で、さらに頬の熱が増す。
「じゃあ……少しだけ」
私は恐る恐る、半歩分だけ彼の方へ近づいた。
傘の布の端が、さっきより少しだけ私の頬の近くになった。
肩と肩の間の距離が、紙一枚分くらいに縮まる。
これ以上近づくと、本当にぶつかってしまいそうで、それ以上は動けなかった。
「これなら、ちょうど半分くらいだな」
浅野くんが、何でもないことのように言う。
「はい……」
うまく返事ができなくて、声が少し震える。
(落ち着いて、落ち着いて……)
心の中で自分に言い聞かせる。
落ち着かなきゃいけないのに、心臓はどんどんうるさくなっていく。
雨の音がなかったら、きっと隣の人に聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに。
◇
しばらく、二人とも黙って歩いた。
傘の外側には、途切れなく雨が降り続いている。
水の匂いと、アスファルトの匂いと、遠くで誰かが走る足音。
傘の内側には、二人の息と、かすかな衣擦れの音だけ。
その沈黙が苦しいわけではなかった。
ただ、少しだけくすぐったい。
「星宮」
ふいに、名前を呼ばれた。
「はい?」
顔を向けると、思ったより近くに浅野くんの横顔があって、慌てて視線を少し下にずらす。
それでも、彼がこちらを見ているのは分かった。
「……寝そうな顔してる」
「寝てません!」
条件反射で反論する。
「本当に?」
「本当です。今日は寝ません」
「昨日もそう言ってた気がするけど」
「昨日は……その、例外です」
机に頬をくっつけた感触と、目を覚ましたときのオレンジ色の光が頭をよぎって、また顔が熱くなる。
「じゃあ、今日は例外じゃないってことで」
「今日はちゃんと起きてますから」
「そうか」
彼は、少しだけ目線を下げた。
「でもな」
「……?」
「“寝そうな顔”っていうかさ」
傘の持ち手を持ち直しながら、言葉を探すみたいな間があって——
「昨日、寝てたときと同じ顔してた」
さらりと、そう言った。
「っ……」
胸の奥で何かが弾けた音がした気がした。
「お、同じ……?」
「ああ」
彼は、特に照れた様子もなく続ける。
「力抜けてて、“今ちょっと安心してます”って顔」
「そ、そんな顔してましたか、私……」
「してた」
即答だった。
「寝そうな顔っていうのは、そういう感じ」
「……」
恥ずかしさと、嬉しさと、何か分からない感情がぜんぶ混ざって、うまく言葉が出てこなかった。
“安心してる顔”。
そんなふうに、自分の表情を誰かに言われたのは初めてだ。
(昨日の寝顔、覚えてくれてたんだ……)
そう思った瞬間、足元が一瞬ふわっと浮いた気がして、危うくバランスを崩しそうになる。
「わっ」
足元の小さな水たまりを避けようとして、思ったより滑りやすかったようだ。
ほんの少し身体が傾いた、その瞬間。
「おっと」
浅野くんの左腕が、そっと私の肘あたりを支えた。
強く引き寄せるわけではない。
でも、倒れないように必要な力だけを、自然に添えてくれる。
その距離感が、逆に心臓に悪かった。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です……!」
声が裏返りそうになるのを必死で抑えながら答える。
「すみません。水たまり、見てなくて」
「前、ちゃんと見ろよ」
「見てたつもりだったんですけど……」
「それなら、たぶん見てないな」
彼は、腕をそっと離しながら、小さく息を吐いた。
「だから言っただろ。“寝そうな顔”して歩くなって」
「……寝てません」
「意識はな」
「それ以外に何があるんですか」
「顔だよ、顔」
彼の視線が、そっとこちらの顔のあたりをなぞるように動いた気がした。
「今も、ちょっとぼーっとしてる」
「ぼーっと……」
そう言われると、意識してしまって、余計に表情が固くなる。
「ちゃんとしてます」
「ほら」
立ち止まった瞬間だった。
浅野くんの右手の人差し指が、ふっと近づいてきて。
私の右のほっぺたを、軽く——
「……っ!?」
つん、とつついた。
一瞬、時間が止まったような気がした。
頬に、ほんの小さな圧が加わる。
痛いわけではなく、驚くほど軽い。
でも、その一点から、心臓まで一気に熱が広がっていくのが分かる。
「な、なにして……」
声にならない声が喉の奥で溶けていく。
浅野くんは、特に慌てた様子もなく、指をそっと引っ込めた。
「起きてるか確認した」
「ほっぺたをですか!?」
「一番分かりやすいだろ」
「分かりやすさの問題じゃないです……!」
涙目になりそうなほど顔が熱くなる。
頬を両手で覆いたい衝動を必死で抑えながら、私は彼を見上げた。
「そういうの、普通しませんよ……」
「しないか?」
「しません……!」
「でも、星宮だからな」
その何気ない一言に、呼吸が一瞬止まりそうになる。
「……っ」
「嫌だったか?」
少しだけ真面目な声。
雨音が、急に遠くなる。
私は、ぎゅっと自分の指先に力を込めながら、頭の中で言葉を並べた。
嫌、ではない。
むしろ、逆だ。
嬉しい、のだと思う。
でも、それをそのまま言ってしまったら、何かが変わってしまいそうで怖い。
「びっくりは……しました」
正直な部分だけを拾って、言葉にする。
「でも、その……嫌、ではなかったです」
「そうか」
浅野くんの肩の力が、少し抜けた気がした。
「なら、よかった」
「ほっぺたは、あんまりつんつんしないでください」
「“あんまり”なんだな」
「……ゼロとは言ってないです」
自分で言ってから、自爆したことに気づいた。
「今のは聞かなかったことにしてください」
「難しいな、それは」
「聞き流す力を鍛えてください」
「じゃあ星宮は、寝そうな顔するのやめろ」
「がんばります」
そんなふうに言い合っているうちに、さっきまでの恥ずかしさが、少しだけ笑いに変わっていく。
頬に残る感覚は、まだ完全には消えないけれど。
(“星宮だからな”、って……)
その一言が、雨音よりも大きく、胸の奥で響き続けていた。
◇
大きな通りまでの道のりは、いつもより短く感じた。
雨のせいで景色がぼやけているのもあるし、さっきの“つんつん事件”のインパクトが強すぎて、途中の風景があまり頭に残らなかったせいもある。
気がつけば、家の方向が分かれる交差点にたどり着いていた。
「ここまでか」
「そうですね……」
名残惜しいような、ほっとしたような、不思議な気持ちで、私は足を止めた。
傘の下では、まだ二人分の息が混ざっている。
「ここから先、大丈夫か?」
「大丈夫……だと思います」
道の両側には、ところどころにコンビニやドラッグストアがある。この雨なら、そのどこかで少し雨宿りしながら帰ることもできる。
走る必要はない。
さっきより、心も落ち着いている。
「じゃあ」
浅野くんは、傘をほんの少し私の方に傾けた。
「校門までは、先行っていいよ」
「え?」
「ここで傘渡すと、俺がびしょ濡れになるだろ」
「それは……そうですけど」
「星宮が校門の屋根の下まで行ったら、ここから走る」
「走るんですか?」
「少しな」
それを想像して、少しだけ笑ってしまった。
「じゃあ、急いで行きます」
「転ぶなよ」
「転びません」
「さっき危なかったからな」
「さっきは……油断してただけです」
頬がまた熱くなりそうになったのを誤魔化すように、私は一歩前に出た。
傘の柄を受け取る。
持ち手に、浅野くんの手の温もりが少し残っている気がした。
「星宮」
「はい」
「ほっぺた、さっきよりちゃんと起きてる顔になってる」
「顔に“睡眠度”みたいなのあるんですか……?」
「なんとなく分かる」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。
「じゃあ、このまま起きて帰ります」
「頼む」
傘を軽く持ち直して、私は一歩踏み出した。
傘の外側で、雨粒がぱちぱちと音を立てる。
校門までは、ほんの数十メートル。
走らなくても、すぐだ。
でも。
数歩進んだところで、どうしても振り返らずにはいられなかった。
「あの……!」
雨の音に負けないように、少し大きめの声で呼びかける。
「さっきの、ほっぺた……」
「ん?」
浅野くんが、少しだけ首をかしげる。
「その……」
言葉を探して、胸の奥をひと呼吸分だけ深くする。
「嫌じゃなかったです」
それだけ言って、私は前を向いた。
背中に、少しだけ静かな間が落ちる。
雨音が、ふいに遠く感じられた。
「……そうか」
すぐ後ろから、短い返事が聞こえた。
「なら、よかった」
それだけの会話。
でも、その一往復だけで、胸の奥に広がる温度は、雨なんかで冷めそうになかった。
◇
家に着いたころには、制服の裾の方が少しだけ湿っていた。
「ただいま」
「おかえりー。あら、そんなに濡れてないね」
「途中から傘、使えましたから」
「よかったわね。お風呂、先に入る?」
「あとで入ります」
母との短い会話を済ませて、自分の部屋に入る。
カバンを机の横に置いて、制服を脱いでハンガーにかける。
洗面台の鏡の前に立って、自分の顔を見た。
「……」
右のほっぺたに、何か残っているわけではない。
赤くもないし、跡がついているわけでもない。
でも、さっきの“つん”の感触だけは、しっかり残っていた。
鏡の中の自分を見つめながら、人差し指でそっと頬をつついてみる。
「ぷに……」
思ったより柔らかくて、少しだけ笑ってしまった。
「……柔らかいって、言わなくていいのに」
小さな声でそう呟いて、鏡の向こうの自分と目が合う。
そこには、“普通の高校生”の顔が映っていた。
大きくも小さくもない目。普通の鼻。普通の口。
どこにでもいるような、地味めな女の子。
——なのに。
(“星宮だからな”、って)
その普通の顔を、特別扱いしてくれる人がいる。
寝ている顔も、ぼーっとしている顔も、“起きてるか確認”って言いながらつついたほっぺたも。
その全部を、受け止めてくれる人が、隣にいる。
「……ずるいなあ」
鏡に向かって、そっと笑う。
頬に指を当てたまま、私は心の中で小さく呟いた。
(明日も、ちゃんと隣に座れますように)
窓際の三列目。
その場所が、これからも“少しだけ特別な普通”であり続けますように。
そんな願いを、ほっぺたの“つん”の感触と一緒に、胸の奥にしまい込んだ。
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