第7話 クラスの地味女子、安心しすぎて隣で寝てしまいました
朝の教室が、いつもより少しだけまぶしく見えた。
窓から差し込む光が、黒板の上で細く跳ねる。チョークの粉に反射した光が、ふわっと宙に浮かんでいるみたいだ。
(……ちょっと、眩しい)
心の中でだけそう呟いて、そっと瞬きを増やす。
昨日の夜は、家に帰ってからノートの見直しをして、そのあとテレビで流れていた音楽番組を少しだけ観て、もう一度歌詞を頭の中でなぞって——気がついたら、いつもより一時間くらい寝るのが遅くなっていた。
睡眠時間が極端に少ないわけじゃない。ちゃんと寝た。だけど「すっきりです」と胸を張れるほどでもない。
そんな微妙な朝。
「おはようございます」
教室のドアを開けて、いつものように小さく会釈をする。
中に入った瞬間、視線は自然に窓際の三列目へ向かっていた。
――いた。
浅野くんは、いつもの席で、英語のワークを開いていた。背筋はほどほどに伸びていて、シャーペンをくるくる回しながら、単語のところに小さな丸印をつけている。
その横顔が視界に入った瞬間、胸の奥のどこかが、ふっと緩む。
(よかった……)
昨日の帰り道、「また明日」といつも通りに別れた。
たったそれだけのことなのに、こうしてちゃんと“いつもの場所にいる”のを確認できると、世界が一段落ち着く気がする。
私は自分の席に向かいながら、すれ違いざまにそっと声をかけた。
「おはようございます」
すると、彼は顔を上げて、いつもの調子で短く答える。
「ああ。おはよ」
たったそれだけの会話。
でも、その二言だけで、さっきまでまとわりついていた眠気が少しだけ後ろに下がったように感じた。
◇
一時間目のチャイムが鳴り終わるころには、教室の空気もすっかり授業モードに切り替わっていた。
黒板に書かれる文字をノートに写しながら、私は目の奥がじんわりと重くなっていくのを感じていた。
(やっぱり、ちょっと眠いな……)
完全に落ちそうなほどではない。意識はちゃんと起きている。ただ、まぶたの裏側に、薄く霧みたいなものがかかっている気がする。
二時間目、三時間目と進んでいくうちに、その霧は少しずつ濃くなっていった。
「……」
ペン先が一瞬止まる。
それを自分で自覚した瞬間、慌てて手を動かして、空いてしまったノートの隙間を埋める。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、四時間目のチャイムが鳴った。
「はーい、じゃあ今日はここまでな。続きは次回」
先生の言葉とともに、教室全体がふっと緩む。
「星宮さん、今日なんか眠そうじゃない?」
教科書を閉じていたとき、前の席の佐伯さんが、くるっと振り向いてきた。
「え?」
「いつもより“ふわ〜っ”てしてる」
彼女は手をひらひらさせて、空気を撫でるようなジェスチャーをしてみせる。
「怒ってるとかじゃなくてね? 雰囲気が柔らかい、みたいな」
「柔らかい……」
どう返事をするべきか迷って、目を瞬かせる。
たしかに今日は、頭のキレはいつもより半歩遅い気がする。そういう意味で“ふわ〜っ”としているのかもしれない。
「ちょっと眠いだけだと思います」
結局、正直に答えた。
「昨日、少し寝るのが遅くなってしまって」
「夜更かし?」
「……ほどほどに、です」
「ほどほどってなんだろ」
佐伯さんは笑って、机の上に自分のお弁当箱を置いた。
「ま、たまにはそういう日もあるよね」
「ありますよね」
「午後の授業で落ちないようにだけ気をつけて」
「がんばります」
そんな会話をしているうちに、眠気がほんの少しだけ和らいだ気がした。
ふと横に視線を向けると、ちょうど浅野くんが英語のノートを閉じているところだった。
「星宮」
「はい?」
名前を呼ばれて顔を向けると、彼はじっとこちらを見た。
「さっきから、あくび我慢してるだろ」
「っ……」
思わず口元に手を当てる。
「バレてました?」
「バレる。目の端がちょっと赤いし」
「そんなところまで見てたんですか?」
「視界に入る」
あまりにもあっさり言うので、逆に何も言い返せなくなる。
「大丈夫か?」
「だいじょうぶ、です」
そこだけは、いつもよりしっかりした声になった。
「ちょっと眠いだけで、倒れそうとかではないので」
「“倒れそう”の基準がよく分からないんだよな、お前」
「普通の基準です」
「ほんとかよ」
彼は少しだけため息をついた。
「まあ、午後もあるし。限界超えそうなら言えよ」
「言います」
そう言いつつ、本当に言えるかどうかは分からなかった。
でも、“そういう場所がある”と言ってもらえるだけで、少し気が楽になる。
◇
お昼休みになって、チャイムが鳴ると同時に、教室の中が一気に賑やかになった。
私は購買で買ってきたパンの袋を開けながら、自分の席に戻る。
「今日パン?」
「はい。朝、お弁当を作る時間がちょっとなくて」
「そっか。お疲れ」
佐伯さんが、自分のお弁当箱のふたを開けながら言った。
「甘い系?」
「はい。クリームパンです」
「眠い日に甘いパンって、なんか分かる」
「分かりますか?」
「分かるよ。糖分でなんとかしようとするやつ」
他愛もない会話が、少しずつ頭のぼんやりしたところをほぐしていく。
「星宮さんってさ」
ふと、吉川さんが箸を止めて言った。
「眠いときでも、あんまり不機嫌にならないよね」
「え?」
「眠いときって、私めっちゃ顔に出るからさ。“話しかけないで”オーラ出しちゃうんだけど」
「分かる」
佐伯さんもすぐに乗る。
「朝眠すぎると、まず人と目合わせたくない」
「お二人とも共感しすぎです」
「で、星宮さんは?」
「私は……」
少し考えてから答える。
「眠いときに不機嫌になってしまうと、そのあと後悔するので」
「後悔?」
「“あのときあんな態度取らなきゃよかったな”って思うのが、たぶん一番疲れる気がして」
「おー……」
佐伯さんが、ちょっと感心したように目を見開いた。
「なんか、真面目だなあ」
「そうですか?」
「真面目だよ。いい意味でね?」
「ありがとうございます」
そうやって笑ってくれる人がいるから、私は教室でも“普通でいよう”と思えるのだろう。
パンをひと口かじると、甘さが口の中に広がる。
(……午後、乗り切れるかな)
ぼんやりそんなことを思いながら、昼休みは過ぎていった。
◇
五時間目の世界史は、いつも以上に“真剣勝負”だった。
先生の声が、教室の後ろから前へと波のように行ったり来たりする。それを聞きながら、ノートに要点だけを抜き出していく。
でも、ときどき。
「……」
意識が、すっと細くなる瞬間がある。
黒板の文字が、急に遠くなって、輪郭だけ残して色が消えてしまうような感覚。
(やば……)
私は、ノートの端に小さく丸を描きながら、自分の意識の襟首を掴んで引き戻す。
ペンを動かしているうちは、まだ大丈夫。
文字を書いている間は、ちゃんとここにいる。
そう言い聞かせながら、なんとか五時間目を乗り切った。
六時間目のホームルームが終わり、担任の「忘れ物すんなよー」という声とともに、教室が一気に解放される。
椅子を引く音、カバンのジッパーの音、部活の準備をする声。
「ふぅ……」
小さく息を吐いて、私は筆箱をカバンにしまった。
「星宮」
名前を呼ばれて顔を上げると、浅野くんがカバンを肩にかけた状態で立っていた。
「今日、どうする?」
「どう、とは……」
「空き教室」
その言葉に、胸の奥の重さが少し軽くなる。
今日一日、「眠い」とか「眠そう」とか言われ続けてきたけれど。
放課後の選択肢が“帰るだけ”じゃなくて、“あの場所に行く”もある、というだけで、全然気持ちが違う。
「行きたいです」
自分でも驚くくらい迷いなく口に出ていた。
「でも、その……浅野くんが嫌じゃなければ」
「嫌だったことあったか?」
「ないです」
「じゃあ、いつも通りだろ」
あっさりした答えに、少し笑ってしまう。
「眠いのは?」
「眠いです」
「即答だな」
「でも、浅野くんの隣でなら、たぶん大丈夫です」
「それ、俺のハードル上がってないか?」
「上げてます」
「自覚してるのやめろ」
そんなやりとりをしながら、私たちは一緒に教室を出た。
◇
三階の端の空き教室は、今日もやっぱり静かだった。
ドアを開けると、冷たい空気が少しだけ顔に触れる。誰も使っていない教室の匂い——黒板消しと、床のワックスと、古い木の机の匂いが混ざったような、落ち着く匂い。
「今日は、こっち側でいいか」
浅野くんが、窓に近い列の机を二つ軽く引き、横並びになるように並べる。私はその反対側から椅子を持ってきて、彼の隣に座った。
窓の外には、薄く雲のかかった空が広がっている。光はさっきより少し柔らかくなっていて、机の上に落ちる明るさもほんの少しだけ優しい。
「眠い?」
「……正直に言ってもいいですか?」
「正直に言えっていつも言ってるだろ」
「すごく眠いです」
机の上に腕を乗せて、頬を預けるみたいにして言った。
言葉にした瞬間、肩から力が抜ける。
「でも、寝るためにここに来たわけじゃないです。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「“浅野くんに会いたい”と“眠い”が半分ずつです」
「半分も眠いのか」
「好きな割合から話すのやめてもらえます?」
「お前が言ったんだろ」
軽いツッコミの応酬が、眠気をほんの少し和らげてくれる。
でも、和らいだところに、別の甘いものがすっと入り込んでくる感じがして、ますます目を閉じたくなった。
「浅野くんは、何かやるんですか?」
「ちょっと数学の予習」
彼は、カバンから教科書とノートを取り出して、机の上に広げた。
「星宮は?」
「……」
答えない代わりに、私は腕の位置を少し変えた。片方の頬を完全に机にくっつけて、視界の端に彼のノートが入るようにする。
「何その体勢」
「観賞モードです」
「観賞するな」
「字が綺麗なので」
「そうか?」
「そうです」
本当は、字そのものだけじゃなくて、その字を書いている横顔を見ていたい、なんてことは言えなかった。
そういうことを言ってしまうと、一気に距離が変わってしまいそうで、怖い。
「……浅野くん」
まぶたが半分くらい下がったところで、私は小さな声で呼んだ。
「ん?」
「もし、少し寝ちゃったら、怒りますか?」
「なんで怒るんだよ」
「真面目な人って、“ここ勉強する時間でしょ”って怒るイメージあるので」
「誰のイメージだ、それ」
「私の中の、架空の真面目な人です」
「じゃあ俺は違うな」
彼は、ノートに小さく数式を書きながら続けた。
「ここで寝る分には、別に怒らないよ」
「本当ですか?」
「授業中に寝て、“ノート見せてー”って言われたらちょっとは文句言うけど」
「それはそうですね」
「ここは授業じゃないし」
あくまで、放課後の空き教室。
チャイムも鳴らないし、先生も来ない。
「倒れそうなのに変に我慢されるより、寝てくれた方が、俺は楽だし」
「楽……」
「“星宮、大丈夫か?”ってずっと見張ってる方がしんどい」
それが本音っぽくて、思わず肩の力が抜けた。
「じゃあ……」
机に頬を乗せたまま、私はそっと言葉を続ける。
「寝ても、いいですか?」
「寝たかったら寝れば?」
あまりにも普通の口調だった。
「ここ、ベッドじゃないですけど」
「知ってる」
「枕もないですけど」
「それも知ってる」
「私の寝顔、変かもしれませんけど」
「それは知らん」
そこだけちょっと不安になる答えだった。
「もし、すごく変だったら、忘れてください」
「忘れろって言われて忘れられるもんでもないけどな……」
彼は一度だけため息をついてから、言った。
「じゃあ、三十分だけな」
「三十分……」
「それ以上寝たら、さすがに起こす」
「起こしてくれるんですね」
「起こさないと、星宮の親御さんに怒られそうだし」
「たしかに……」
そこまで具体的に想像してくれていることが、なんだかおかしくて、心が少し温かくなった。
「じゃあ、“三十分だけ寝てもいいコース”で」
「コース名つけるな」
「メニュー表作りますね」
「作るな」
そんな会話を最後に、私はそっと目を閉じた。
◇
机にくっつけた頬が、ひんやりとして気持ちいい。
窓の外から差し込む光が、まぶたの裏を薄く照らす。光の強さが、少しずつ変わっているのが分かるくらいには、意識はまだ残っていた。
(浅野くん、横にいる……)
隣から、シャーペンの芯が紙を走る音がする。
ときどき、ページをめくる乾いた音。
その全部が、子守歌みたいに心地良かった。
(ここ、落ち着くな……)
授業中の教室とは違う、ちょっとだけ緩んだ空気。誰もいない静かな放課後。窓の外から聞こえる部活の掛け声とボールの音。
その全部を、浅野くんが隣にいる状態で感じられるのが、たぶん一番の安心材料だった。
(あ……眠……)
思考の最後の文字が途切れる感覚。
そのまま、私はすとん、と意識を手放した。
◇
次に世界がはっきりしたときには、光の色が変わっていた。
頬に触れる机の感触が、さっきより少しだけ温かい。まぶたの裏に透けて見える色も、昼の白さより少しだけオレンジがかっている。
(……あれ)
ゆっくりと目を開ける。
窓の外には、傾き始めた太陽。校庭の端っこに伸びた影。空は、まだ夕焼けになりきる前の、柔らかい薄橙色。
「……」
自分がどれくらい寝ていたのか分からなくて、私は反射的に顔を上げた。
「……寝てました?」
声が少し掠れている。
隣を見ると、浅野くんがノートを閉じるところだった。
「起きたか」
「起きました」
「寝てたな」
「どれくらいですか?」
「三十分ちょい」
「わっ」
慌てて上体を起こしたせいで、首の後ろがぴきっとなった。
「いっ……」
「だから変な体勢で寝るなって言ったのに」
「ちゃんと聞いておくべきでした……」
首を押さえながらうめくと、彼は少しだけ苦笑した。
「寝付き良すぎだろ、お前」
「そう、ですか?」
「机に頬つけて、“寝てもいいですか?”って言ってから、たぶん五分も経ってなかったぞ」
「恥ずかしい情報をありがとうございます」
「事実だからな」
恥ずかしいけれど、ちょっとだけ嬉しい。
それだけ安心して眠れていた、ということだから。
「起こしてくれてありがとうございます」
「起こしてないぞ」
「え?」
「三十分くらい経ったなーって時計見たときには、そろそろ起こすかって思ったけど」
「思ったけど?」
「めちゃくちゃ幸せそうな顔して寝てたから」
「っ……」
言葉の続きが、喉の奥で詰まった。
「幸せそうって……」
「眉間にしわも寄ってなかったし。呼吸も落ち着いてたし」
「普段、そんなに眉間にしわ寄ってますか?」
「たまに」
「たまに、ですか……」
たぶん、何かを真剣に考えているときなのだろう。家でも、そういう顔をしていると言われたことがある。
「さっきは、そうじゃなかったから」
彼は窓の外に一瞬だけ視線を向けてから、またこちらを見る。
「起こすの、ちょっと悪いかなって」
「悪い、ですか?」
「うん」
あまりにも自然に言うので、余計に胸が熱くなる。
「寝言とか、言ってませんでした?」
「それは言ってなかった」
「よかった……」
「でも、一回だけ、なんか“んー……”って言ってた」
「それは……セーフですか?」
「ギリセーフじゃないか?」
「判断がシビアですね」
そうやって会話を続けていると、さっきまでのぼんやりした頭がはっきりしてくるのが分かった。
「……すみません。机、よだれとか付いてませんか?」
「確認しろって?」
「“寝顔見られたかどうか”より、そっちの方がだいぶ恥ずかしいので」
「大丈夫だよ。ちゃんときれいに寝てた」
「きれいに寝るって何ですか?」
「分かんないけど、少なくとも机は無事」
「よかった……」
心の底から、その一言に安堵した。
◇
「そんなに安心して寝れた?」
少し間を置いて、彼がぽつりと聞いた。
「……はい」
答えはすぐに出てきた。
「すごく、安心しました」
「そうか」
「浅野くんの隣、落ち着くので」
自分でも、驚くくらい素直に言葉が出てくる。
「教室で寝ちゃうのって、普通はよくないことなんですけど」
「まあ、授業中はな」
「ここは、平気かなって思って」
放課後の空き教室は、授業の延長線上にあるようでいて、どこか違う場所だ。
チャイムも鳴らない、先生も入ってこない、黒板に文字も増えない。
その空間で、“寝てもいいよ”と言ってくれる人が隣にいる。
「浅野くんが、“寝てもいい”って言ってくれたから、多分余計に……」
眠気を引き寄せるみたいに、安心が増した。
「ここなら、“ちゃんとしてなきゃ”って思わなくていい気がします」
「ちゃんとしてるけどな、星宮」
彼は、ノートを指先で軽く叩きながら言った。
「授業中はちゃんと起きてるし。ノートもちゃんと取ってるし」
「今日はところどころ危なかったですけど」
「それでも寝なかっただろ」
それは、たしかにそうだった。
「じゃあ、ここくらい崩れてもいいんじゃないか」
「崩れる……」
「教室では頑張ってて、ここでは少し力抜いてて」
彼の言葉は、どこまでも当たり前みたいに聞こえる。
「そのくらいのバランスでいいと思うけどな」
その“当たり前”が、私にとっては、とても特別だった。
「……ずるいですね」
「またそれか」
「そういうこと言うの、ずるいです」
私は、頬に残っている熱を誤魔化すように、机の端を指でなぞった。
「ますます、ここから離れたくなくなります」
「離れなくていいだろ」
「え?」
「別に、ここに座ってて困るやついないし」
彼は、軽い口調のまま続ける。
「俺も、星宮と一緒にいるの、嫌じゃないし」
「……」
胸の奥で、何かがぽん、と弾けた気がした。
それが何なのか分からないふりをして、私は小さく笑って見せる。
「ありがとうございます」
「だから礼はいらないって」
「言いたくなっちゃうので」
だって、“一緒にいるのが嫌じゃない”と言ってもらえることは、私にとって十分すぎるくらい特別なのだから。
「じゃあ、また眠い日に、“三十分だけ寝てもいいコース”お願いしてもいいですか?」
「条件付きでな」
「条件?」
「ちゃんと授業受けて、宿題もやって、それでも眠かったら」
「真面目ですか?」
「普通だろ」
その“普通”が、ちゃんと優しさでできているのが分かる。
「分かりました。ちゃんと条件満たしてから眠ります」
「頼む」
そうやって笑い合っていると、さっきまでまとわりついていた重さが、ほとんどどこかに行ってしまっていた。
(……やっぱり好きだな)
心の中でだけ、そっとその言葉を浮かべる。
声に出した途端、この空気が変わってしまいそうで、怖い。
だから今は、胸の中にだけ置いておく。
(この人の隣で、“弱いまま”でもいられるの、きっとすごく贅沢なんだろうな)
その贅沢を、私は静かに噛みしめた。
◇
「そろそろ帰るか」
教室の時計の短い針と長い針が、ちょうどきれいな角度になったころ。
浅野くんが、教科書とノートをカバンにしまいながら言った。
「寝起きでふらふらしてると、階段でこけるぞ」
「こけません」
「さっき首痛めてただろ」
「それは……気のせいです」
「気のせいじゃなかったぞ」
そんなやりとりをしながら、机と椅子を元の位置に戻す。
教室のドアを閉めて、廊下に出ると、窓の外の空はオレンジ色が少し濃くなっていた。
「昇降口まで行く?」
「はい」
階段を下りながら、廊下を歩きながら、私たちはいつもより少しだけゆっくり話した。
今日の授業の話とか、文化祭の準備のこととか、どうでもいいことで笑い合う。
でも、そのどれもが、さっきまでの“寝ていた時間”の延長みたいに、柔らかかった。
「星宮」
「はい?」
階段の途中で、ふいに呼ばれる。
「今日のやつさ」
「今日の、やつ?」
「“寝てもいいコース”」
「ああ……」
思い出した瞬間、頬が少し熱くなる。
「成功だったのか?」
「大成功でした」
それは迷う必要のない答えだった。
「すごく、安心して眠れました」
「なら、よかった」
「おかげで、今はすっきりしてます」
「本当に?」
「本当です。……ほら」
そう言って、わざと少しだけ軽い足取りで階段を降りてみせる。
自分でも、さっきまでと違うのが分かる。
「寝る前より、目が開いてます」
「たしかに」
彼は、少しだけ目を細めて言った。
「じゃあ、今日はやっぱり、寝て正解だったな」
「はい。寝てよかったです」
それを、隣にいる人に認めてもらえるのが、何より嬉しかった。
◇
昇降口に着くと、外はすっかり夕方の匂いになっていた。
靴箱から上履きをしまって、ローファーに履き替える。ドアの向こうには、薄く暮れ始めた空と、校庭の端が見えた。
「じゃあ、ここまでで」
「はい」
いつもの別れ際の言葉が、自然と口から出る。
でも、今日はその前に、どうしても一つだけ言っておきたいことがあった。
「浅野くん」
「ん?」
彼がローファーのかかとをトントンとしながら、こちらを見る。
「今日、寝かせてくれて、ありがとうございました」
「だから礼いらないって」
「でも、言わせてください」
私は、ローファーのつま先を床に軽く押しつけながら続ける。
「“寝てもいいよ”って言ってくれる場所があるの、すごく、心強いです」
「大げさじゃないか?」
「大げさかもしれません。でも、私にとっては、本当にそうなんです」
そうやって言葉にしてみると、自分でも改めて気づく。
(“頑張る場所”と、“頑張らなくていい場所”)
その両方を持てていることが、どれだけ救いになっているのか。
「また、眠い日に……お願いしてもいいですか?」
「条件守るならな」
「宿題して、授業受けて、それでも眠かったら、ですね」
「そうそう」
彼は少しだけ笑って言った。
「まあ、眠くなくても来ればいいけど」
「……はい」
その一言が、今日いちばん嬉しかった。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
昇降口のドアを開けると、夕方の空気がふわっと頬に触れた。昼間より少し冷たい風が、制服の袖を揺らす。
校門までの道を歩きながら、私はさっきまでの空き教室を思い出していた。
机の冷たさと、まぶたの裏のオレンジ色と、隣から聞こえていたシャーペンの音。
(……幸せだったな)
ただ寝ていただけなのに、そんな言葉がすっと浮かぶ。
好きな人の隣で、安心して眠れて。
起きたときに、「寝てていいよ」と言ってもらえる。
それって、きっととても贅沢なことなんだと思う。
◇
「ただいま」
「おかえりー。今日は顔色いいね」
玄関から入ると、キッチンの方から母の声がした。
「そうですか?」
「そうよ。昨日より目がぱっちりしてる」
「そう、かもしれません」
靴を脱いで、自分の部屋に入る。
制服を脱いで、いつもの部屋着に着替え、机の前に座る。
ノートと筆箱を取り出して、今日の授業で取りきれなかったところを補うように、ページを開いた。
ペンを持った瞬間、ふっとさっきの空き教室の光景が頭に浮かぶ。
机に頬を乗せて、安心して目を閉じたこと。
起きたときに隣にいた人の、少し呆れたような、でも優しい声。
(“頑張る場所”と、“頑張らなくていい場所”)
学校の教室は、頑張る場所。
家の机も、頑張る場所。
ステージの上や、画面の向こうに映る世界も、全部そう。
でも、放課後の空き教室と、その窓際の席だけは、ちょっとだけ違う。
そこは、“頑張らなくていい場所”であり、“弱い自分でもいい場所”であり——
(浅野くんの隣、か)
小さく息を吐いて、ペンをノートに走らせる。
今日の世界史の板書の抜けていたところを埋めながら、私は心の中でそっと呟いた。
(明日も、ちゃんとここまで辿り着けますように)
窓際の三列目の席と、空き教室と、夕方のオレンジ色の光。
その全部を、明日もちゃんと見られますように。
そんなささやかな願いを胸に、私はノートのマス目を一つずつ丁寧に埋めていった。
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