第6話 クラスの地味女子、寄り道しただけなのに心臓が少し忙しいです

 五時間目の授業が終わって、教室の空気が一気にゆるむ。


 教科書を閉じる音と、椅子を引く音と、「次、何だっけ?」という声があちこちで重なっている。窓の外には薄い雲が出ていて、日差しは少し柔らかくなっていた。


「じゃあホームルームやるぞー。席つけー」


 担任の声に、ざわつきが少しだけ収まる。


 私は、配られたプリントを手元に引き寄せながら、その上のタイトルを見た。


『文化祭クラス企画について』


(あ、今日これだった……)


 文化祭。


 前の学校にも、文化祭らしきものはあったけれど、その頃の私はすでに今の事務所に所属していて、仕事と重なってほとんど参加できなかった。


 だから、「クラスで何かを準備する」という経験は、ほとんど初めてに近い。


「えーと。まず、模造紙と装飾用の紙とか、最低限必要なものを買ってこないといけないんだが」


 担任がプリントを片手に、黒板の前をうろうろする。


「学校から出せる予算は、ここな。領収書ちゃんと取っとけよ」


「マジかー。買い出しー」


「誰行くん?」


 教室の後ろの方から、男子の小さな悲鳴みたいな声が上がる。


 担任は、クラス全体をざっと見回した。


「近くの文房具屋と百均で足りると思うんだが……。そうだな。係の中で、時間あるやつ」


「先生、今日部活あるんで無理っす」


「俺もバイト……」


 あちこちから控えめな“逃げ”の声が上がる。


 その中で、担任の視線が、すっとある方向に止まった。


「浅野と――」


 嫌な予感がして、私は背筋を伸ばす。


「星宮。お前ら、今日このあと予定どうだ?」


「え」


 思わず変な声が出た。


 浅野くんが、隣の列からこちらをちらりと見る。私も、つられて視線を合わせてしまう。


「浅野、実行委員だし、大まかなイメージ持ってるだろ。買い出し頼めるか?」


「あ、はい。大丈夫です」


 浅野くんは、特に嫌そうな顔もせずに頷いた。


「星宮は?」


「えっと……」


 今日の夜は、台本チェックだけ。レッスンや収録はない。


 家でやる勉強はあるけれど、それは少し時間をずらせばなんとかなる。


「大丈夫です。行けます」


「よし。じゃあこのリスト渡すから、放課後、二人で行ってきてくれ」


 担任は、プリントの隅っこに書かれた「必要物品一覧」のところを指でとんと叩いた。


「他に手伝えるやつは、後日に回す。今日はとりあえず最低限だけでいい」


「はーい」


 クラスのあちこちから、気の抜けた返事が返る。


 私の胸の中には、「買い出し」という二文字と一緒に、別の感情がふわっと膨らんでいた。


(浅野くんと、二人で……)


 放課後、一緒に外に出る。


 校舎の中じゃなくて、外の道を、並んで歩く。


 それは、たぶん――かなり特別なことだ。


 旅行みたいに大きくはないけれど、教室の外に出るだけで、世界の空気は少し変わる。


 私はプリントのリストを見つめながら、心臓の鼓動がひとつぶんだけ強くなるのを感じた。


     ◇


「模造紙が二枚でしょ、画用紙のセットが三つ、飾り用の折り紙が……何個だこれ」


「“お任せで適度に”って書いてありますね」


「先生、雑すぎない?」


 放課後、昇降口の前で、二人でプリントを覗き込む。


 昇降口の外には、部活に向かう生徒たちと、家に帰る生徒たちが混ざっている。制服の群れが流れていく中、まるでそこだけ時間が少し遅くなっているみたいだった。


「とりあえず、近くの文房具屋行ってから百均かな」


「はい。あ、予算って……」


「これくらい。足りると思うけど」


 浅野くんが、プリントの端に書かれた金額を指さす。


 小さく折り畳まれた封筒には、学校から預かったお金が入っている。それをなくしたりしたら大変なことになるので、一瞬だけ緊張した。


(しっかりしないと……)


「駅前の通り、あんまり行かない?」


「お仕事のときは車で送ってもらうので、駅前は通ってるだけ、って感じかもです」


「じゃあ、今日はちゃんと“歩く”か」


 “歩く”。


 それだけの言葉が、妙に胸に残る。


「行こ」


「……はい」


 並んで昇降口を出る。


 校門を出て、駅の方に続く道を歩く。


 制服のブレザーの袖が、ほんの少しだけ揺れるたびに、横を歩く浅野くんの存在を強く意識してしまう。


 いつもの放課後は、校舎の中の廊下を数十メートルくらい一緒に歩くだけだった。


 今日は、外の道を、何百メートルも、もしかしたら一キロくらい、一緒に歩くのかもしれない。


(それって、かなりすごいことなんじゃ……)


 足首は、もうすっかり痛くない。


 テーピングは念のためにまだしているけれど、歩き方も自然だ。


 でも、胸の中の落ち着かなさだけは、どうにもならない。


「足、もう大丈夫そうだな」


「はい。ありがとうございます。浅野くんのおかげで」


「俺は保健室連れてっただけだろ」


「それが大事なんです」


 彼は、少しだけ照れくさそうに視線を前に戻した。


 歩幅は、私に合わせてくれているのか、いつもより気持ちゆっくりな気がした。


(……そういうのに、いちいち気づいちゃうのも、きっと“好き”だからなんだろうな)


 心の中だけでそっと呟く。


 口に出してしまったら、きっと全部壊れてしまうから。


     ◇


 駅前の通りは、思ったよりにぎやかだった。


 夕方の買い物時間だからか、スーパーの袋を下げた人たちや、学生服のグループや、小さな子どもを連れた親子が行き交っている。


「あ、あそこじゃないですか?」


 私が指さした先には、小さな文房具屋の看板があった。


 色あせたペンの絵と、「○○文具店」という文字。


「そうそう。ここの模造紙、安いんだよな」


「来たことあるんですか?」


「小学校のとき、自由研究のポスター作るのに親父と来た」


「自由研究……」


 そういえば、そういうものもあった気がする。


 私はその頃、すでにレッスンとオーディションで、夏休みの半分くらいをスタジオと練習室で過ごしていた。


 自由研究のポスターを作る代わりに、ダンスの振り付けを繰り返し練習していた。


「自由研究、何作ったんですか?」


「んー……なんだっけ。雲の種類とかだった気がする」


「可愛いですね」


「可愛いか?」


「可愛いです」


 そんな会話をしながら、文房具屋の中へ入る。


 店内は、外から見るより少し広くて、棚にはノートやペンやファイルがぎっしり並んでいた。紙の匂いと、インクの匂いが混ざった落ち着く空気。


「模造紙、あっちだな」


 浅野くんが、慣れた様子で奥の棚を指さす。


 私はその後ろをついていきながら、ふと、何でもないものが目に入った。


「……」


 机に貼る用の小さなシール。星やハートや、動物の形をした可愛らしいもの。


「それ、好きなの?」


 隣から声がして、少しびくっとする。


「えっ、あ、いえ、その……」


 慌てて手を引っ込める。


「かわいいなーって思っただけで」


「へえ」


 彼は、棚のシールをちらりと見て、「星宮だけに星のシールか」とぼそっと言った。


「つけませんよ」


「ノートの端っことかに貼れば、勉強するたびにテンション上がるんじゃないか?」


「それもそうですね……」


 そう言われると、悪くない気がしてしまう。


(買おうかな……でも、そういうの買ってるところ見られるの、ちょっと恥ずかしいな……)


 迷いながら、とりあえず模造紙のコーナーへ向かった。


 模造紙は、白い大きな紙が重ねて置いてあった。


「二枚で足りるかな」


「足りなかったら、また来ればいいですし」


「そうだな」


 彼が模造紙を二枚抜き取る。その瞬間、紙がふわっと広がって、私の方に少し倒れかかった。


「わ、わっ」


「悪い」


 とっさに手を伸ばして紙を支える。


 薄い紙越しに、彼の手の動きが伝わってくる。


「……俺が持つよ」


「え?」


「落としたら面倒だし。でかいしな」


「いや、結構でかいし――」


「浅野くん、実行委員なんですから、買い出しの“顔”が持たないと」


「どういう理屈だよ」


 そんなことを言いながらも、彼は模造紙を半分に折って、自分の腕で抱え込んだ。


「折り目ついちゃいますけど、大丈夫ですか?」


「どうせポスターになるし、真ん中に文字書けば目立たない」


「なるほど」


 軽く折られた模造紙は、それでも彼の腕から少しはみ出していた。


 それを見て、思わず笑ってしまう。


「何」


「なんか、“文化祭の準備してる高校生”って感じがします」


「あー……まあ、実際そうなんだけど」


「私、こういうの、ちょっと憧れてたので」


「買い出し?」


「はい。クラスの誰かと一緒に、文房具屋さん行って、“これで足りますかね”って心配しながら紙選ぶの」


 口に出してみると、本当にささやかなことだと分かる。


 でも、そのささやかなことを、ずっとどこかで夢見ていたんだと思った。


「変ですよね」


「別に」


 彼は、模造紙を持ちながら首を振る。


「そういう“普通のイベント”に憧れるのは、変じゃないだろ」


「……ありがとうございます」


「ていうか、星宮の今までの生活聞いてたら、そういうのほとんどなさそうだしな」


「そうですね。放課後はだいたいスタジオか、レッスン室か、撮影現場でした」


「それはそれですごいけどな」


 彼は、少しだけ苦笑した。


「じゃあ、これは星宮にとって“初・普通の買い出し”か」


「はい。初・普通です」


「重いタイトルつけるな」


 そんな会話を交わしながら、画用紙や折り紙もかごに入れていく。


 レジで合計金額を聞いて、お預かりした封筒の中からお金を出す。おつりとレシートを受け取る。


 一つ一つの動作が、なんとなく新鮮だった。


(あ、シール……)


 店を出る直前に、さっきのシールのことを思い出した。


 振り返るタイミングを逃してしまって、そのまま自動ドアが開いてしまう。


 外の空気は、少しひんやりしていた。


     ◇


「折り紙と画用紙は俺が持つよ。模造紙は俺が持ってるから」


「じゃあ、私はレシート係します」


「係作らなくていい」


 紙袋を持った浅野くんと、レシートを持った私。


 駅前の通りを、来たときとは逆方向に歩き始める。


 その途中で、ふと、ある看板が目に入った。


「あ」


 足が一瞬止まりそうになる。


「どうした?」


「あそこ、カフェなんですね」


 通りの角に、小さなカフェの看板が出ていた。


 木の板に「COFFEE & SWEETS」と書かれた、こぢんまりとしたお店。


 ガラス越しに、中のテーブルと椅子が少し見える。


 カップを持った人の手。笑っている横顔。


 そんな光景をちらりと見てしまって、胸の奥がきゅっとなる。


(“こういうところに友だちと寄る”のも、憧れてたな……)


 そう思った瞬間。


「喉、乾いたな」


 隣から、浅野くんの声がした。


「ちょっと寄ってく?」


「え」


 思わず、変な声が出る。


「あ、その……」


 慌てて言葉を探している間に、彼はごく普通のトーンで続けた。


「模造紙、今持って帰ると、途中で雨とか降ったら面倒だし。今日晴れてるけど」


「フラグ立てないでください」


「冗談だよ。単純に、飲み物でも飲んで休憩してから帰った方が楽かなって思って」


 それは、理屈としてはとても正しい。


 買い出しの途中で休憩を挟むことは、何もおかしくない。


 でも。


(それって、ほとんど……)


 デート、じゃないですか。


 心の中でだけ、その単語がぽん、と浮かんで弾けた。


 口には出せない。


 出した瞬間に、何かが変わってしまいそうで怖い。


「……少しだけなら」


 だから、私は、できるだけ自然な声で言った。


「寄ってみたいです、その、お店」


「じゃあ、行くか」


 彼は、特に何も気にしていない様子で頷き、入口の方へ歩き出す。


 私はその後ろで、心臓がちょっとだけ忙しくなるのを感じていた。


     ◇


 カフェの中は、想像していたよりも落ち着いていた。


 木のテーブルに、暗い色の椅子。壁には、風景写真や小さな絵が飾られている。


 BGMは、歌のないピアノ曲。


 制服姿の高校生は、あまり多くない。私たち以外には、一組くらいしかいないみたいだった。


「いらっしゃいませー」


 店員さんがメニューを持ってきてくれる。


 テーブル席に座ると、急に現実感が増した。


(浅野くんと、向かい合って座ってる……)


 いつもの放課後の空き教室では、彼とは隣に座っている。


 今は、小さな四角いテーブルを挟んで、真正面にいる。


 そのだけの違いが、妙に距離を意識させた。


「飲み物どうする?」


「えっと……」


 メニューを覗き込む。


 コーヒー、紅茶、ラテ、ジュース、季節限定のふわふわしたクリームが乗ったドリンク。


(こういうとき、“落ち着いて見えるやつ”頼むべきか、“飲みたいもの”を優先するべきか……)


 心の中で、一瞬会議が開かれる。


「星宮、甘いの好きそうだよな」


「えっ」


「前に、昼休みに飲んでたやつ、結構甘いやつじゃなかった?」


「あ、あれは、その……」


 制服のポケットに入れていたコンビニのカフェオレのことだろうか。


「甘いの、好きです」


 ごまかしても無駄な気がして、正直に言った。


「じゃあこの季節のやつとかどうだ? いちごのラテ」


「かわいいですね……」


 メニューの写真には、ピンク色のドリンクに生クリームが乗っていて、その上に小さな果肉が散らしてあった。


 見ているだけで、ちょっと幸せな気持ちになれる。


「浅野くんは?」


「俺は普通でいいや。アイスコーヒー」


「普通って言い方」


「実際普通だろ」


 店員さんを呼んで、注文をする。


 いちごラテと、アイスコーヒー。


 それだけのやりとりなのに、胸の中が少しだけふわふわしている。


 店員さんが去って、テーブルの上に二つの水のグラスだけが残る。


「こうして座ってるの、なんか変な感じだな」


 浅野くんが、ぽつりと言った。


「変、ですか?」


「いや、悪い意味じゃなくて。普段、隣だろ」


「あ、そうですね」


 放課後の空き教室では、隣同士で机を並べて座っていた。


 今は、テーブルを挟んで向かい合っている。


 同じ「一緒にいる」でも、全然違う。


「ちょっと緊張しますね」


「するのか?」


「します」


 即答になってしまった。


「浅野くんは、しないんですか?」


「俺は、まあ……」


 彼は少し考えてから、肩をすくめる。


「星宮といるのは、もう慣れた」


「な、慣れ……」


 その言葉に、胸の中の何かがくすぐったくなる。


「放課後、ずっと一緒にいるし。今さら緊張してもな」


「……そうですね」


 “慣れた”。


 その言葉が、嫌じゃない。


 むしろ、ちょっと嬉しい。


 でも、「慣れた」ということは、それだけ私が浅野くんの日常の一部になれている、ということなのかもしれない。


(それって、すごく幸せなことだな)


 そう思っていると、ちょうどタイミング良く、注文した飲み物が運ばれてきた。


「いちごラテと、アイスコーヒーです」


「ありがとうございます」


 目の前に置かれたピンク色のドリンクは、メニューの写真よりも可愛く見えた。


「本当にいちごですね……」


「本物だろ、さすがに」


「偽物のいちごってあるんですか?」


「どうだろうな。味だけとか香りだけとか?」


「それはそれで困りますね」


 ストローを差して、一口飲んでみる。


 冷たくて甘くて、いちごの酸味がほんの少しだけ後味に残る。


「……おいしいです」


「よかったな」


「浅野くんも、一口飲んでみます?」


「いや、いい」


「遠慮しなくていいですよ」


「遠慮っていうか、それ飲んだら俺の口からいちごの匂いしない?」


「かわいいじゃないですか」


「かわいさ求めてない」


 そんなことを言いながらも、彼は少しだけグラスを傾けてアイスコーヒーを飲んだ。


 氷が、からんと音を立てる。


 こうして、普通にカフェで飲み物を飲んでいるだけで、「高校生やってるなあ」としみじみ思ってしまう。


「こういうお店、来たことありますか?」


「あるにはあるけど、そんなに頻繁じゃないな。友達ととか、受験のときに勉強しに来たとか」


「ここで勉強するんですか?」


「家だと集中できないとき、たまに」


「かっこいいですね」


「いや、普通だろ」


 普通。


 その言葉が、今日だけで何回頭の中を通り過ぎただろう。


「私は……」


 少しだけ悩んでから、言葉を選ぶ。


「こういうところに、仕事以外で来るの、初めてです」


「仕事では来るのか?」


「ロケとかで。カフェでインタビュー受けたりとか、撮影したりとか」


「ああ、そういうのか」


「でも、そのときは“ちゃんとアイドルしてる星宮こころ”なので」


 制服でもないし、クラスメイトと一緒でもない。


「今みたいに、学校帰りに寄り道して、“いちごおいしいですね”って言ってるのとは、全然違って」


 そう言うと、彼は少しだけ目を細めた。


「今の星宮は、普通だな」


「普通……ですか?」


「ああ。いちご甘いって言ってる高校生」


 まっすぐで、曇りのない言い方だった。


 それだけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「じゃあ、今の自分、ちょっと気に入ってもいいですか?」


「いいんじゃないか」


「浅野くんも、今の私、ちょっと気に入ってくれてます?」


「……」


 少しだけ意地悪をして、そう聞いてみる。


 自分でも、こんなふうに聞けるようになったことに驚いた。


「それ、答えないといけないやつ?」


「はい」


「強制かよ」


 文句を言いながらも、彼は少しだけ考えてから、短く答えた。


「まあ――嫌いじゃない」


 嫌いじゃない。


 その言葉の、本当の意味は分からない。


 でも、“嫌いではない”という事実が、今はただ、嬉しかった。


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどのことじゃない」


「私にとっては、大事なことなので」


 いちごラテのストローをくるくる回しながら、私は小さく笑った。


     ◇


 カフェを出る頃には、空の色が少し変わっていた。


 日差しは弱くなり、街灯がぽつぽつと灯り始めている。


「模造紙、湿ってない?」


「大丈夫そうだ」


 浅野くんが、腕に抱えたままの模造紙を軽く持ち上げて確認する。


「さっきのカフェ、どうだった?」


「すごく楽しかったです」


 即答になった。


「いちごが甘くて、浅野くんが普通で」


「普通って何だよ」


「褒めてます」


「そうかよ」


 駅前の通りを、来たときとは少し違う気持ちで歩く。


 横に並んで歩いているだけなのに、胸の中が少し忙しい。


 でも、その忙しさは、不安とか怖さとは無縁のものだった。


(ああ、これをきっと、みんな“寄り道”って呼ぶんだろうな)


 寄り道。


 本来の目的地にまっすぐ向かうのではなく、途中で少し道を外れて、どこかに立ち寄ること。


 今日の私たちは、文化祭の買い出しというまっすぐな用事の途中で、カフェに寄った。


 その寄り道のおかげで、新しい景色が見えた気がする。


「星宮」


 ふいに、名前を呼ばれた。


「はい?」


「さっきさ」


 彼は、歩きながら前を見たまま言った。


「“こういうの憧れてた”って言ってたろ」


「あ、はい。文化祭の買い出しとか、放課後の寄り道とか」


「今日の買い出し、まあ面倒ではあったけど」


「正直」


「でも、星宮とだったから、そんなに嫌じゃなかった」


「……」


 それは、つまり。


 私と一緒だったから、“楽しかった”ということなのだと思う。


 彼があえてその言葉を選ばなかった理由を考えながら、胸の中の何かがぽんっと弾けた。


「私もです」


 だから、きちんと返した。


「浅野くんとだったから、すごく楽しかったです」


 まっすぐな言葉で。


「一緒に文房具屋さん行って、模造紙持ってくれて、カフェでいちご飲んで」


「俺、いちご飲んでないけど」


「私が飲めました」


 そんなくだらない訂正も、いちいち楽しい。


「また、こういうの、できたらいいなって思いました」


「また文化祭の買い出し?」


「文化祭じゃなくても、“普通の放課後の寄り道”とか」


 少しだけ勇気を出して、言葉を続ける。


「もちろん、浅野くんの予定優先で」


「わざわざ前置きするな」


「大事なんです。浅野くんの普通も、ちゃんと大事にしたいので」


 私が“普通に憧れている”のと同じくらい。


 浅野くんの“普通の生活”を壊したくない。


 それは、私の中で揺るぎない願いだった。


「……そんなに気を使わなくてもいいと思うけどな」


 彼は、頭をかきながら言う。


「星宮が一緒だと、俺の“普通”も、ちょっと面白くなるし」


「面白く、ですか?」


「普段、一人で文房具屋行くよりはな」


「それはそうですね」


「だからまあ、俺の予定が空いてて、星宮が“行きたい”って思ったときでいいよ」


 それは、まるで。


 「また一緒に出かけよう」と言ってくれているような言葉だった。


「……はい」


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 言葉にすると、きっと止まらなくなってしまうから。


 私はただ、静かに笑って頷いた。


     ◇


 学校に戻ると、廊下にはまだ部活に向かう生徒たちの声が残っていた。


 担任に買い出しの報告をして、レシートとおつりを渡す。


「お、ちゃんと予算内だな。助かったぞ」


「いえ」


「ありがとな。浅野も星宮も」


 先生の言葉に軽く会釈をして、教室を出る。


 いつもの空き教室の前を通り過ぎながら、少しだけ立ち止まった。


「今日は――」


 私が言いかけると、彼は時計を見た。


「時間的に、長くは無理だな。ちょっとだけ寄るか?」


「少しだけ、座りたいです」


「じゃあ、五分だけ」


「五分って言いながら十分くらいいません?」


「そうなるかもな」


 そんなことを言いながら、私たちは空き教室のドアを開けた。


 窓から差し込む光は、さっきより少しオレンジ色が強くなっている。


 机を二つ並べて、椅子に座る。


 模造紙と紙袋は、机の端にそっと置いた。


「あー……落ち着く」


 思わず、素の声が出る。


「さっきのカフェもオシャレでしたけど、ここはここで安心しますね」


「椅子固いけどな」


「それも含めて、いつもの教室です」


 机に頬を乗せながら、私は窓の外を眺めた。


 夕焼けに染まりかけた校庭と、部活の掛け声。


 全部、今日だけのものじゃない。


 明日も、明後日も、きっと似たような光景が続いていく。


 その中で、私たちは少しずつ、“普通”を重ねていくのだと思った。


「浅野くん」


「ん?」


「今日のこと、私……」


 胸の中で言葉をくるくる転がす。


 デート、という言葉は、まだ早い気がした。


 でも――


「すごく、楽しかったです」


 それは、間違いのない本心だった。


「私、多分、今日みたいな日のことを、“幸せな放課後”って呼ぶんだと思います」


「大げさじゃないか?」


「大げさかもしれません。でも、私の中では、ちゃんと大事な一日です」


 彼は、少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと笑った。


「そう言ってもらえるなら、買い出しも悪くなかったな」


「また、行けたらいいですね」


「また必要なもの増えたらな」


「そのときは、“普通の寄り道コース”でお願いします」


「コース名つけるの好きだな」


「はい。浅野くんと一緒の時間に、ちゃんと名前をつけておきたいので」


「……」


 彼は一瞬だけ黙ってから、ぽつりと言った。


「じゃあ、今日のは“いちごラテとアイスコーヒーの日”だな」


「いい名前ですね」


 本当に、そう思った。


 いちごの甘さと、アイスコーヒーの苦さ。


 その両方が混ざったみたいな、今日の放課後。


 その記憶を、私はきっと、ずっと大事にするのだと思う。


     ◇


 家に帰って、制服を脱いで、いつものパーカーに着替える。


 机の上には、明日の台本と、学校のノートと、今日レシートを挟んで持って帰ってきたプリントが置いてあった。


 文房具屋さんのレシートを見て、今日の出来事を思い出す。


 模造紙、画用紙、折り紙。


 それから、いちごラテと、アイスコーヒー。


(また、こういう日があったらいいな)


 台本を開きながら、そっと思う。


 甘えの練習と、寄り道の練習と、人を好きになる練習と。


 その全部を、少しずつ、ゆっくりと続けていけたらいい。


「――頑張ろ」


 小さく呟いて、私はペンを握った。


 明日もきっと、窓際の三列目に、浅野くんがいて。


 放課後には、少しだけ特別な“普通の時間”が待っている。


 そのことを思うだけで、胸の中に、甘いいちごの味がふわっと広がる気がした。

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