第5話 クラスの地味女子、いつもの場所が空いていると少しだけ寂しくなります

 朝の教室は、まだ少しだけ眠そうな空気で満ちていた。


 廊下から差し込む光が、黒板の半分だけを白くしている。その前を、クラスメイトたちがわいわいと笑いながら通り過ぎていく。


 私は上履きの先で床をとん、と一度だけ軽く叩いてから、教室のドアを開けた。


「……」


 入った瞬間、視線は反射みたいに窓際の三列目へ向かう。


 ――いた。


 浅野くんは、いつもの席で、数学の問題集を開いていた。シャーペンをくるくる回しながら、眉を少しだけ寄せている。


 いつも通りの、いつもの朝。


 それだけのことなのに、胸の奥が、すっと楽になる。


(良かった……)


 別に、「休むかもしれない」なんて話を聞いていたわけじゃない。


 昨日だって、普通に「また明日」って言って別れた。


 それでも、“ちゃんといる”って確認できるだけで、世界の色が一段明るくなる気がした。


「おはようございます」


 席に向かう途中、そっと声をかける。


 浅野くんは、顔を上げて、いつもの調子で頷いた。


「ああ。おはよ」


 それだけの挨拶。


 昨日と同じ言葉で、昨日と同じ声なのに。


 私の中身だけが、少し違っている。


(……会えるって、やっぱり嬉しいな)


 放課後、空き教室で一緒に過ごす時間が、ここ数日すっかり“当たり前”になっている。


 たぶん、それはまだ、“友だちと過ごす放課後”って名前のついた時間だ。


 でも。


 私の中では、もう少しだけ特別なものになってしまっているのだと思う。


 机にカバンを置きながら、足首のテーピングをそっと確かめる。


 もう、ほとんど痛みはない。階段を下りるときに少しだけ気をつけるくらい。


 だけど、包帯の下に残っている“浅野くんに助けてもらった記憶”は、まだやわらかく残っていた。


     ◇


 午前中の授業は、いつも通りに過ぎていった。


 英語のリスニングでは眠気と戦い、世界史では黒板の地図の中で迷い、数学では「ここ試験に出るからな」という先生の言葉にクラス全体がざわついた。


 その全部に、「浅野くん」と「放課後」というラベルが薄く貼りついている。


(今日も、放課後……)


 四時間目のチャイムが鳴って、お昼休みになったとき。


「星宮さーん、一緒に食べよ」


 佐伯さんに呼ばれて、私はいつものメンバーの机のところに椅子をずるずる引っ張っていった。


 お弁当箱の蓋を開ける。今日は母が作ってくれた卵焼きと、ミートボールと、ブロッコリー。それから、隅っこに入ったミニトマト。


「星宮さん、今日も彩りきれい」


「ありがとう。お母さんの趣味です」


「いいなー。うち茶色い日と白い日しかない」


「それはそれで安定感ありますね」


 そんな他愛もない話をしながら、弁当をつつく。


 机の端っこに、時間割の紙と、今日やるべき宿題のメモが挟まっていた。


 五時間目は現代文、六時間目はホームルーム。


 ホームルームが終わったら――いつもの空き教室で、いつものように机を並べて、いつものように浅野くんとどうでもいい話をする。


 それが、今の私の一日の“完成形”だ。


「そういえばさ」


 唐揚げを箸で持ったまま、吉川さんが言った。


「さっき昇降口でさ、誰かが“星宮こころに似てる子見た”って話してたよ」


「えっ」


 危うくミートボールを落としそうになる。


「いやいや同姓同名じゃね? って笑ってたけど」


「そ、そうですよね」


「実物来たら騒ぎになってるしなぁ」


「……ですね」


 笑いながら相槌を打つ。


(“実物来たら”……今、来てますけどね)


 心の中でだけ、そっとツッコミを入れた。


 それを口に出してしまったら、全部ひっくり返ってしまうから。


 教室の中で「普通でいる」って、そういうことだ。


「星宮さんってさ」


 ふと、佐伯さんが言った。


「“普通の話”するの、前より上手くなったよね」


「え?」


「最初の頃、なんかちょっと距離ある感じだったじゃん。悪い意味じゃなくて」


「あー、分かる。“いい子”って感じ?」


「そうそう。“ちゃんとしてる”っていうか」


 うまく言葉にできない、でもなんとなく分かる表現。


 私自身も、そうだったと思う。


 何か話すときに、つい“正しい答え”を選んでしまう癖がある。仕事の現場では、それが間違いではないのだけれど。


「あのときは、その……」


 どう言えばいいんだろう。


 言葉を探している間に、箸の先がミニトマトをつつく。


「環境に慣れるのに、いっぱいいっぱいだったのかも」


 結局、そんな答えになった。


「でも最近、“そうだよね〜”みたいな話し方増えた気がする」


「普通の愚痴とかも言ってくれるし」


「愚痴……」


 少しだけ、胸がチクリとした。


 愚痴を言うのは、悪いことだと思っていた。


 でも、ここではそれを「普通」と言ってくれる。


「“普通の話”してくれるの、なんか嬉しいよ」


 佐伯さんが、柔らかく笑う。


「星宮さん、真面目すぎて、最初ちょっと緊張したもん」


「ごめんね?」


「謝らなくていい!」


「でも、今の方が、私は好きかな」


 今の方が――。


 その言葉に、胸の中の何かがふわっと広がった。


(今の方が、か)


 “今の私”には、放課後がある。


 浅野くんがいて、甘えさせてもらえる場所がある。


 その影響が、きっと少しずつ、私の“教室の顔”にも滲んでいるのだろう。


(……そう思うと、やっぱり嬉しいな)


 ミートボールを一つ、口に運ぶ。


 甘い味が、いつもより少しだけ優しく感じた。


     ◇


 午後の授業は、いつもより少しだけそわそわしながら受けてしまった。


 五時間目の現代文では、先生が「この作品のテーマは何だと思う?」と質問した。


 本来なら、作品の構造とか作者の意図とか考えるべきなのに。


(“放課後が楽しみになる”って、テーマになりませんかね……)


 そんなことを考えてしまって、慌てて首を振った。


 六時間目のホームルームでは、文化祭のクラス企画の話がまた少し進んだ。


「じゃあ、この係は――」


 先生の指示で、係分担の表が黒板に貼られる。


 私はとりあえず、装飾と当日スタッフのどちらかに名前を書いた。うっかり“目立つ係”に入ってしまったら大変なことになるから、慎重に選ぶ。


「浅野ー」


 先生の声が教室に響いた。


「お前、実行委員の話、もう返事した?」


「あ、はい。やるって言いました」


「じゃあ放課後、職員室来てくれ。打ち合わせあるから」


「分かりました」


 ちょっとだけ驚いた。


(浅野くん、実行委員やるんだ……)


 そういえば、少し前に「やってみろ」って押しつけられていたような気がする。


 黒板の端にも、小さく「文化祭実行委員:浅野」と書かれていた。


 ホームルームが終わって、ざわざわと人が動き始める。


 椅子の音と、カバンのジッパーの音と、次の予定を確認する声。


 その中で、浅野くんがこっちに歩いてきた。


「星宮」


「はい?」


「今日なんだけどさ」


 彼は、少しだけ困ったような顔をしていた。


「このあと、実行委員の打ち合わせ入った」


「あ、さっきの?」


「ああ。文化祭の全体のやつ、今日一回目で。多分、そこそこ時間かかる」


「そっか……」


 胸の奥が、少しだけきゅっとした。


 でも、その感覚を、すぐに息と一緒に飲み込む。


 彼が悪いわけじゃないし、文化祭の実行委員なんて、ちゃんとした大事な役目だ。


「ごめんな。放課後、空き教室行けないかもしれない」


「ううん。全然、大丈夫です」


 笑って言う。


 本当に、嘘ではない。


 彼がやるべきことをやるのは、当たり前だ。


「むしろ、その……」


 少しだけ迷ってから、付け加える。


「頑張ってください。文化祭、楽しみですし」


「まあ、できる範囲で」


 彼は照れくさそうに頭を掻いた。


「星宮は? 今日はこのあと、仕事とかあるのか?」


「今日は、レッスンはないです。でも、明日の台本覚えないと怒られるので」


「台本?」


「番組のコメントとか、歌番組の進行とか、色々です」


「大変だな」


「大変、ですけど……」


 少しだけ考えてから、笑う。


「“普通の家で、普通に台本覚えてる”時間って、けっこう好きなんです」


「普通、って、そういう感じなんだな」


「はい。机に座って、“ここ間違えちゃダメだな”って線を引いたり、何回も声に出したりして」


「それ、普通っていうより努力じゃないか?」


「努力です。努力が“普通”になってるのかもしれません」


 そう言ってから、「あ」と小さく声が出そうになった。


(今の、“仕事モードの話”しすぎたかも)


 そういうときは、いつもどきどきする。


 自分の“普通”は、他の人にとっては“普通じゃない”のかもしれないから。


 でも、浅野くんは特に顔色を変えなかった。


「じゃあ今日は、お互い別々に頑張る日か」


「そう、ですね」


 “別々に”。


 その言葉が、小さく胸に刺さる。


「明日は?」


「明日は、多分、打ち合わせないと思う」


「じゃあ、明日、また甘えの練習させてください」


「予約早いな」


「人気コースなので」


「そんなに人気あったか?」


「少なくとも、私の中ではダントツです」


 そう言うと、彼は少しだけ笑った。


「じゃあ、明日」


「はい。また明日」


 そうして別れた。


 昇降口まで一緒に行くこともなく、その日は、それぞれの方向に歩いていく。


 いつもなら、一緒に歩いて行って、途中で「ここまでで」と区切って別れていた。


 今日は、その一つ前の段階で、終わり。


 それだけの違いなのに――胸の中に、小さな穴が空いたみたいな感覚が残った。


     ◇


 家に帰る電車の中は、いつもより少し静かに感じた。


 イヤホンを耳に差し込んで、プレイリストから適当に曲を流す。


 自分のユニットの曲もあれば、他のアイドルグループの曲もある。歌番組で共演したアーティストさんの曲も混ざっている。


 どの曲も、ちゃんと好きだし、ちゃんと大事な仕事だ。


 でも、今日みたいな日は、どれを聴いても、なぜか半歩くらい心が前に出ない。


(なんか……)


 窓の外を流れる景色を見ながら、思う。


(世界の“鮮やかさ”が、ちょっとだけ薄い気がする)


 別に、つらいことがあったわけじゃない。


 誰かに傷つけられたわけでもない。


 ただ、いつもあるはずの“放課後の時間”が、今日はなかっただけ。


 それだけのはずなのに、帰り道の長さがいつもよりしっかり感じられた。


 電車を降りて、家までの道を歩く。


 コンビニの看板。角を曲がった先の公園。いつもの信号。


 全部、変わらずそこにある。


(きっと――)


 心の中で、そっと言葉を探す。


(私はもう、あの時間に、ずいぶん甘えてたんだろうな)


 浅野くんの隣に座って、「疲れました」とか「今日こんなことがあって」とか、どうでもいいことをこぼす。


 それを聞いて、「そうなんだ」とか「それは大変だな」とか、特別じゃない言葉で返してくれる。


 そのやりとりが、“私の普通”になっていた。


 その“普通”が一日ぶん消えただけで、世界の彩度が少しだけ下がる。


 それは、わがままなんだろうか。


 それとも――


(……そういうの、恋っていうんだろうな)


 もう、とっくに気づいている。


 浅野くんのことが好きだ、って。


 でも、その“好き”を彼に押し付けたくない。


 だから、今日みたいに会えない日があっても、「会えなくて寂しかった」なんて簡単には言わない。


 言わないけれど。


(明日、会えたらいいな)


 その願いは、胸の奥で静かに形を保っていた。


     ◇


 家に着くと、リビングから夕飯の匂いが漂ってきた。


「ただいま」


「おかえり。今日もお疲れさま」


 母の声は、いつも通り温かい。


 私は制服を脱いで部屋着に着替え、机の上に台本を広げた。


 明日の収録で読むコメント。番組の流れ。立ち位置の指示。


 蛍光ペンで印をつけて、何度か声に出して読む。


「本番は、ここまではっきり読まなくていいよ」とディレクターさんに笑われたこともある。


 でも、私にとっては、こうやって“何回も口に出すこと”が、安心に繋がる。


 台本の文字を追いながら、ふと、別の文字が頭の中に浮かんだ。


『甘える練習』


 浅野くんが、そんなふうに言ってくれた。


 甘えることを、“逃げ”とか“依存”じゃなくて、“練習”って言葉でくるんでくれた。


 あの言葉に、どれだけ救われたか分からない。


「……よし」


 台本を閉じて、ベッドの上に転がる。


 天井の白い模様を見ながら、スマホを手に取った。


 連絡先の一覧を開く。


 マネージャーさん。メンバー。家族。


 そこには、浅野くんの名前はない。


 当たり前だ。


 教室のクラスメイトで、放課後に一緒にいるだけの関係。


 その線を、誰よりも私が気にしている。


(もし、ここに名前があったら)


 もし、「今日ごめんね」とか「明日会えたらいいね」とか、気軽に送れる関係だったら。


 私たちの距離は、もっと違う形になっていたのかもしれない。


 でも、今はまだ、それを望むには早すぎる気がした。


 今のこの、名前のついていない距離感が、私は好きだ。


 好きで――ちょっとだけ、怖い。


「……明日」


 小さく呟く。


「明日、会えるといいな」


 それだけ願って、目を閉じた。


     ◇


 一方そのころ。


 浅野くんは、自分の部屋の机に座っていた。


 数学の問題集と、文化祭の実行委員用の資料と、揉みしだかれたプリントの山。


 やるべきことは、目の前にいくらでも積まれている。


「うーん……」


 シャーペンをくるくる回しながら、彼は今日の放課後を思い出していた。


(実行委員、思った以上にめんどいな)


 先生たちから説明された内容は、大枠では理解できる。


 でも、細かいスケジュール調整とか、予算案とか、クラスへの伝え方とか、考えないといけないことは山ほどあった。


 職員室での打ち合わせが終わったときには、空き教室に行く時間はもう残っていなかった。


(星宮、今ごろ家で台本とか覚えてるのかな)


 彼は、そんなことをふと思った。


 星宮の「普通」は、台本と歌とレッスンでできている。


 それがどれだけ大変なのか、自分には完全には分からない。


 でも、少なくとも、放課後の空き教室で見せる“脱力した顔”から、想像することはできる。


 机の上に突っ伏して、「疲れました」と言う顔。


 袖をつまんで、「隣にいると安心します」と小さく言う声。


 ――今日は、それがなかった。


 それに気づいたのは、夕飯を食べたあと、宿題を始めようとしたときだった。


(……あ)


 机に手を伸ばした瞬間、ぽっかり空いた時間の存在を認識する。


(今日、“甘えの練習”なかったな)


 別に、それが“義務”だったわけじゃない。


 毎日やらなきゃいけない、って決めたものでもない。


 なのに、その時間がないことが、妙に気になる。


 シャーペンをカチカチとノックしながら、窓の外を見る。


 街灯の光が遠くで瞬いていた。


(まあ、文化祭の用事があったし。星宮も台本あるって言ってたし)


 頭の中で、自分に言い聞かせるように理由を並べる。


 正しい理由だ。


 納得できる理由だ。


 でも――


(……ちょっとだけ、寂しいな)


 そんな言葉が、ふと胸の中に浮かんだ。


 書きかけの数学の問題を見つめながら、彼は自分で自分に驚いた。


(寂しい、って。何だそれ)


 星宮が家で頑張っているなら、それでいいはずなのに。


 足首だって、もうだいぶ良くなっている。


 会えなかった一日があったからといって、明日からの何かが大きく変わるわけでもない。


 それでも、今日の放課後の空き教室が“空っぽ”だったことを思うと、少しだけ胸がひやっとする。


(あの時間――)


 彼は、ペン先をノートの上で止めた。


(あの“どうでもいい話して、隣に座ってるだけの時間”、俺にも必要だったんだな)


 星宮のため、だけじゃなくて。


 自分のためにも、あの時間はあった。


 そう気づいてしまう。


「……分からん」


 ぼそっと呟いて、彼は数学の問題に視線を戻した。


 自分の気持ちに、まだ名前をつける勇気はない。


 ただ一つ、明日のことを考える。


(明日は、ちゃんと行けるといいな)


 放課後の空き教室に行って、「今日も甘えの練習するか」と言える自分でいたい。


 それを願うのは、きっとそんなにわがままじゃない。


 そう思いながら、彼はゆっくりとシャーペンを動かし始めた。


     ◇


 翌朝。


 教室のドアを開けた瞬間、また私は窓際の三列目を見た。


 ――いた。


 浅野くんが、椅子に座ったままあくびをしていた。目の下にうっすらクマが見える。たぶん、昨日の実行委員の資料と宿題で大変だったのだろう。


「おはようございます」


 近づいて声をかける。


 彼はちょっとだけ驚いたような顔をしてから、いつものように笑った。


「ああ。おはよ」


 その瞬間。


 胸の中で、何かがふわっと広がった。


(……会えた)


 ただそれだけのことなのに、昨日の“空っぽ”な時間の分だけ、嬉しさが増えている気がした。


 午前中の授業が終わり、お昼休みが終わり、五時間目、六時間目が過ぎていく。


 ホームルームの最後に、先生が「実行委員はこのあと職員室な」と言ったとき、浅野くんは「今日はいいです」と答えた。


「昨日、大体決まったので。あとは各クラスで共有しておきます」


「おー、優秀だな」


 先生の言葉に、クラスの何人かが拍手する。


 ホームルームが終わって、帰りの支度をする声があちこちで聞こえ始めたころ。


「星宮」


 浅野くんが、私の机のそばに来た。


「今日は、大丈夫」


「実行委員は?」


「後回しでいいやつだけ。だから……」


 少しだけ息を吸ってから、彼は言った。


「今日、行くか。空き教室」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の寂しさの欠片が、やわらかく溶けた。


「はい。……行きたいです」


 笑って答える。


 それだけで、昨日の“会えない日”も、ちゃんと意味のある一日だったような気がした。


     ◇


 空き教室で、机を並べて座る。


 窓の外には、いつもの夕方の光。


「昨日さ」


 浅野くんが、シャーペンを回しながら言った。


「ちょっとだけ、変な感じだった」


「変な感じ?」


「うん。“甘えの練習”なかったから」


「……」


 心臓が、ひゅっと高く跳ねた。


「なんか、時間空いてるのに、“いつものこと”がない、みたいな」


 彼は、少し言葉を探すように視線を宙に泳がせる。


「別に、毎日絶対やらなきゃいけないって決めてたわけじゃないけどさ」


「はい」


「なくなったらなくなったで、“あれ、何か足りないな”って思った」


 ――それは、きっと。


 彼なりの、「寂しい」という感情なのだと思う。


「……私もです」


 私は、机の上で指を合わせながら言った。


「昨日、ちょっとだけ、寂しかったです」


 浅野くんが、こちらを見る。


 驚いたような、でも少しだけホッとしたような顔だった。


「そうか」


「はい。“放課後の普通”が一個抜けてるみたいで」


「俺らの普通、そんなところに入ってるのか」


「入ってます。浅野くんのせいで」


「人のせいにするな」


 そんなやりとりをしていると、また自然に笑いがこぼれた。


 昨日の“会えない日”があったからこそ、今日のこの時間が、少しだけ濃く感じられる。


 それが、たぶん――恋の一歩なのだと思う。


 でも今はまだ、その一歩に名前をつけなくていい。


 ただ、隣に座っているこの時間を、大切にしていけたらそれでいい。


(私は、浅野くんが好きだ)


 心の中で、改めてそう呟く。


(でも、焦らなくていい。浅野くんの速度で、ゆっくりでいい)


 甘えの練習と、甘えられる練習と。


 それから、恋を認める練習と。


 全部まとめて、“放課後の普通”にしていけたらいい。


 窓から差し込む光の中で、私はそっと机に頬を乗せた。


「今日は、“昨日の分も甘えるコース”でお願いします」


「コース名が増えていくのやめろ」


「明日は“ちょっとだけわがまま言ってもいいですかコース”かもしれません」


「上級者向けじゃないか、それ」


「甘えられる練習ですよ」


「ハードモードすぎるだろ……」


 文句を言いながらも、彼はちゃんと隣にいてくれる。


 その事実だけで、昨日までの寂しさは、すっかりどこかに消えていた。

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