第4話 クラスの地味女子のこと、少し気にしすぎている気がします

 教室のドアを開けた瞬間、俺はまず窓際の三列目を見た。


 それは、意識してやっていることじゃなかった。視線が勝手にそっちに向かった、という感じだった。


 ――いて。


 星宮こころは、いつもの席で、いつものように教科書サイズの本を開いていた。ページをめくる指の動きが静かで、前髪の影が、表情の半分を隠している。


 目が合う。


 彼女は、ほんの少しだけ目尻を下げて、ぺこりと頭を下げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよ」


 それだけの、いつも通りの挨拶。


 でも、胸のどこかが、ふっと軽くなった。


(……なんだ、これ)


 教室の真ん中あたりまで歩いて行きながら、自分で自分にツッコミを入れる。


 別に、「欠席するかも」なんて話を聞いていたわけじゃない。昨日もちゃんと元気そうだったし、足首の様子だって、テーピングのおかげでそこまでひどくなさそうだった。


 それなのに、「ちゃんといる」ことを確認できて安心しているのは、どう考えてもおかしい。


「おはよー、悟り顔」


 いきなり肩をどんっと叩かれて、体が少し浮いた。


「……お前、いい加減その挨拶やめろ」


「だってお前、朝から“この世の真理”みたいな顔して窓際見てんじゃん。怖いわ」


 半目の山田が、ニヤニヤしながら俺の前の席に滑り込む。


「何を悟ったの? 恋?」


「違う。そもそも悟ってない」


「じゃあ何?」


「……人の在席確認」


「地味すぎんだろ悟りの内容」


 ため息をついて、自分の席にカバンを下ろす。


 黒板には、担任の板書の残骸と、「提出物締切・金曜」という赤文字の注意書きが残っていた。教室の奥では、男子グループが昨日のテレビ番組の話で盛り上がっている。


 普通の朝だ。


 普通の朝なんだけど――


(星宮がいつも通りいる、っていうのが、もう“普通”の条件になってるんだよな)


 そんなことに気づいてしまって、少しだけむず痒くなった。


     ◇


 一時間目の現代文は、眠気との戦いだった。


 教科書に赤線を引きながら、先生の話を聞いているふりをして、つい視線が横に流れる。


 窓際の三列目。


 星宮は、真面目にノートを取っていた。髪を耳にかけて、目を細めながら黒板を見ている。


 机の横、床に置かれた足。


 左足首には、昨日と同じ白いテーピングが見えた。体育のときにひねった足首。保健室で巻いてもらったやつだ。


 足先の向き。膝の角度。体重の乗せ方。


 そういうものが、やっぱりとても気になる。


(昨日よりは、楽そうだな)


 椅子の上で体重を移動させるときの呼吸のリズムは、昨日より安定していた。机の縁を掴む指にも、変な力は入っていない。


 よかった。


 そう思った瞬間に、また胸のどこかが軽くなる。


(……いや、だからさ)


 また自分にツッコミを入れる。


 ここまで逐一チェックして安心するの、普通か?


 うちのクラスで足首ひねってるやつ、他にもいるかもしれないのに。そこまで気にしたことはない。


(星宮が、放っといたら“無理する側”だって分かっちゃったから、余計なんだろうな)


 そういうことにしておく。


 先生が、「じゃあここ、浅野、読んでみろ」と言ったので、現実に引き戻された。


     ◇


 午前中の授業を終えて、昼休みになった。


「はー、腹減った」


 山田が、わざとらしく大きなあくびをしながら言う。


「お前、毎時間言ってるよなそれ」


「育ち盛りだから」


「増えてるの体脂肪だけじゃない?」


「言い方ァ!」


 そんなやりとりをしながら、カバンから弁当箱を取り出す。


 今日は久しぶりに、購買じゃなくて母さん弁当の日だ。卵焼きとウインナーと、冷凍の唐揚げ。安定の茶色と黄色。


 ふと横を見ると、星宮は席を少し動かして、前の女子二人と机をくっつけていた。お弁当箱の蓋を開けながら、「それ美味しそう」「お母さんが作ってくれて」とか、そんな会話をしている。


 声のトーンは、教室用の“普通の星宮こころ”のそれだ。昨日みたいに、胸の奥を晒すみたいなトーンじゃない。


 それでも、昨日よりは少しだけ柔らかい笑顔だと思った。


「浅野は一緒に食べないの?」


 突然、向かいから女子の声がして、顔を上げる。


 前の席の女子――佐伯が、箸を持ったままこちらを見ていた。


「え?」


「星宮さんと」


 隣の女子――吉川が、ニヤニヤしながら付け足す。


「ほら、いつも放課後一緒にいるじゃん? お昼もかと思って」


「いや……」


 言葉に詰まる。


「別に、昼は……普通に、ここで」


「真面目か」


 山田が笑う。


「“放課後だけ一緒にいるクラスメイト”って何その期間限定イベント」


「お前、そういう言い方やめろ」


「でもさー」


 佐伯が、星宮の方をちらりと見ながら、言う。


「星宮さん、浅野と話してるとき、ちょっと楽しそうだよね」


「え」


 思わず、箸を止めてしまった。


「ほら、なんかさ。“ちゃんと聞いてもらえてるときの顔”っていうか」


「分かる。授業中に先生と話してるときとも違うし、女子と喋ってるときとも違う」


「観察しすぎじゃない?」


 山田が苦笑する。


「お前らの方が観察魔法使いなんじゃね?」


「観察魔法使いって何」


「知らんけど浅野っぽい」


「勝手に称号つけるな」


 くだらない会話をしながらも、さっきの佐伯の一言が妙に胸に残っていた。


(星宮、楽しそう……なのか)


 自分ではそこまで意識していなかった。


 俺はただ、星宮の表情が少しでも楽になればいいな、とは思っていた。


 でも、他人から見てもそう見えているなら――


 それはそれで、悪くない。


 そんなことを考えていたときだった。


「浅野ー」


 別の方向から、声が飛んできた。


 顔を向けると、クラスの男子――長谷川が、プリントの束を持ちながら立っていた。


「この前の数学の小テストのさ、ここ、解き方教えてくれね?」


「今?」


「今」


 長谷川は、半ば強引に俺の机の横にプリントを広げる。


「ほら、二次関数のとこ。ここの頂点求めるやつ」


「あー……」


 配られたプリントの、赤鉛筆で丸く囲まれた間違いの部分を見て、頭の中で公式を探す。


 問題自体は難しくないけど、字だけで説明するのは面倒なタイプだ。


「……星宮のノート借りた方が早くないか?」


 思わず、そう口にしていた。


「え?」


 長谷川が瞬きをする。


「星宮、板書きれいだし。ここ、まとめてたの見た」


「ああー、そういえば」


 長谷川が、星宮の席の方を見る。


「星宮さーん」


「え?」


 星宮が、弁当箱からミニトマトをつまもうとしている手を止めた。


「この前の二次関数さー、ノート見せてくんね?」


「あ、はい。大丈夫です」


 彼女は、少し驚いたような顔をしつつも、ノートを取り出して立ち上がった。


 トマトの赤と同じくらい、頬がうっすら色づいているように見える。


 星宮がこちらに歩いてくる。


 一歩、また一歩。


 足首のテーピングのせいか、歩幅はまだ少しだけ狭い。それでも、昨日よりずっと自然な歩き方だ。


「これです」


 俺の机の横で、星宮がノートを開く。


 余白の少ない、きっちりとした字。グラフの線も、定規を使ったみたいにまっすぐだ。


「分かりやす……」


 長谷川が感心している。


「ありがとうございます」


「いえ。分かりにくいところあったら言ってください」


 星宮は、少しだけ笑って言った。


 その表情は、仕事用でも、完全なクラス用でもない。どこか中間地点のような、控えめだけど柔らかい笑顔だ。


 長谷川がその笑顔に救われたみたいに、「マジ助かる」と頭を下げる。


 会話自体は、本当にそれだけだった。


 別に、特別な言葉が飛び交ったわけでもない。距離が急に縮まったわけでもない。


 それなのに。


(……なんか)


 胸の奥が、少しだけざわっとした。


 ノートに視線を落としながら、自分でもよく分からない違和感を持て余す。


(別に、誰と喋ろうがいいだろ)


 星宮はクラスメイトだ。


 誰と会話してもいい。


 そう、頭では分かっている。


(なのに、なんで――)


 さっきまで特に何も感じなかった世界が、少しだけ違って見える。


 星宮が、長谷川と話しているその“間”に、自分がいないこと。


 それが、変に気になる。


「……ん?」


 隣から、視線を感じた。


 山田が、口を半開きにして俺を見ていた。


「何」


「いや……なんでも」


「気持ち悪いな、はっきり言えよ」


「いや、いい。俺は何も見てない」


「余計怪しいわ」


「何も見てないし、何も気づいてない。なーんにも」


 山田はそう言って、わざとらしく弁当箱に視線を落とした。


 その態度が、逆に妙な棘を残した。


     ◇


 午後の授業は、いつもより少し長く感じた。


 教科書を開いて板書を写しながら、時々窓の外を見たり、前の人の背中で視界を遮られたりする。


 星宮は、特に変わった様子もなく授業を受けていた。


 先生に当てられると、淡々と答える。


 ノートはきれいだし、態度も真面目だし、誰かに悪く言われるようなところはほとんどない。


 それを見ながら、色々と考えてしまう。


(この子の“普通”って、どこなんだろうな)


 ステージの上の星宮こころと、クラスでの星宮こころ。


 その差がどれくらいあるのか、俺には想像がつかない。


 ただ一つ言えるのは、放課後の空き教室での星宮は、そのどっちとも違う、ということだ。


 机に突っ伏して、「疲れました」と言ってくる星宮。


 スカートの裾から覗くテーピングを見せながら、「保健室連れてきてくれてありがとうございました」と笑う星宮。


 袖をつまんで、「隣にいると安心します」と小さな声で言う星宮。


 そういう姿が、頭の中にやたら鮮明に残っている。


(……気にしすぎだろ、どう考えても)


 チャイムが鳴って、終礼が始まった。


 担任の「連絡事項はないぞー」という声が、妙に遠く聞こえた。


     ◇


 放課後。


 教室は、部活に向かう生徒たちの声で一瞬にぎやかになり、それから少しずつ静かになっていく。


「じゃ、今日ゲームやろーぜ」


「いや、今日は用事ある」


「なに、愛の用事?」


「ちげーよ」


 山田の意味深な言葉をなんとか蹴散らして、俺はカバンを持って教室を出た。


 三階の端の空き教室。


 ドアの前で一度立ち止まって、軽くノックをする。


「……どうぞ」


 中から、小さな声がした。


 ドアを開けると、窓際に二つ並んだ机と、その一つに座る星宮がいた。


 いつものように、頬杖をついて窓の外を見ていた彼女は、俺の顔を見ると、ふっと笑う。


「お疲れさまです」


「お疲れ。さっきも会ったけどな」


「放課後用の“お疲れさま”です」


「そんなカテゴリあるのか」


「あります」


 彼女はそう言って、机の上に開いていた参考書をぱたんと閉じた。


「今日も、少しだけ……いいですか?」


「もちろん」


 俺は彼女の隣の席を引いて、腰を下ろす。


 窓からは、夕方の光が斜めに差し込んでいた。教室の中は、昼間より少し暗くて、でも嫌な暗さではない。


「足首は?」


「だいぶ楽です。レッスン中にちょっとだけ“イテッ”ってなりましたけど」


「それは楽って言わないのでは」


「でも、昨日よりマシですから」


 星宮は、スカートの裾をちょっとだけつまんで、テーピングのところを指先で軽く触れた。


「浅野くんが連れて行ってくれなかったら、多分今頃もっと腫れてます」


「それは困るな」


「困りますよ。次の収録、走る振りもあるんですから」


「走る振りって何だよ」


「走るフリ。走りポーズで止まるやつです」


「もっと分からん」


 そんなくだらない会話をしていると、星宮の表情から少しずつ“仕事の疲れ”みたいな影が取れていく。


 その変化を見るのが、最近の俺の密かな楽しみだった。


「浅野くんは?」


「俺?」


「今日は、どうでした?」


「どうって?」


「お仕事とか、授業とか、山田くんとか」


「なんで最後だけ具体的なんだよ」


 思わず笑ってしまう。


「授業はまあ、普通。山田はいつも通りうるさい」


「安心のうるささですね」


「そうだな」


 机にひじをついて、窓の外の空を眺める。


 夕焼けにはまだ早い時間で、空は淡い水色と白のグラデーションだった。校庭では、サッカー部が声を張り上げている。


「……浅野くん」


「ん?」


「今日、ちょっとだけ、見てました」


「何を」


「浅野くんのこと」


 俺の心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。


「お昼のときとか」


「ああ……」


 長谷川にノートの話をしたときのことだろうか。


 まさか、あのときの俺の心のざわつきまでバレているとは思いたくない。


「さっき、佐伯さんとか吉川さんと楽しそうに喋ってましたよね」


「普通に雑談してただけだろ。テストだるいとか」


「そういうの、いいなあって思って」


 星宮は、頬杖をついたまま、机の上で指先をくるくると回した。


「私、女子同士でそういう“どうでもいい話”するの、最近やっと慣れてきたので」


「最近?」


「はい。前の学校では、あんまり……。仕事のこととか、レッスンのこととかで、途中から話についていけなくなって」


 そこまで言って、彼女はふっと笑った。


「でも、このクラスは“普通の話”してくれるので、楽しいです」


「それは、よかったな」


「はい。……浅野くんも、“普通の話”してくれますし」


「俺は、特にすごい話持ってないからな」


「それが、いいんです」


 星宮は、机に頬を寄せて、真横からこちらを見た。


「浅野くんって、優しいですよね」


「またそれか」


「だって、優しいですもん」


「自覚ないんだけどな」


「自覚ないのが一番タチ悪いって言われません?」


「それもよく分からん」


 星宮がくすっと笑う。


「誰にでも、ちゃんと“見てくれる”って感じがします」


「誰にでも、ってわけでもないけど」


「え?」


 口をついて出た言葉に、自分で少し驚いた。


 星宮が、目をぱちぱちさせてこちらを見ている。


 ここで黙るのも変な空気になるので、続けた。


「困ってる人がいたら、助けたいって思うのは、まあ普通だろ」


「普通……なんですかね?」


「分からんけど。少なくとも俺はそう思う」


「……うん」


「でも、星宮はさ」


 言いながら、机の下で組み替えられた足先を見る。テーピングされた足首は、さっきから真っ直ぐ前を向いていた。


「放っといたら、我慢しそうだから」


「……」


「他のやつより、ちょっと多めに気になる、ってだけだと思う」


 それが、自分なりの正直な答えだった。


 誰か一人だけを特別扱いしていると言われると、なんだか気恥ずかしい。だから、こういう形にして、少しぼかす。


 星宮はしばらく黙っていた。


 窓の外から、サッカー部の「ナイス!」という声が聞こえる。


「……ズルいですね」


「は?」


「今の言い方、ズルいです」


 彼女は、頬をぷくっと膨らませた。


「“誰にでも優しい”って言われると、“私だけじゃないんだ”ってちょっとさみしくなるんですけど」


「そんなこと言ったか?」


「言ってました。“困ってる人がいたら、誰でも助けたいって思う”って」


「ああ、それはまあ、そうだな」


「でも、その後で“星宮は我慢しそうだから”って、特別扱いもちゃんと残すの、ズルいです」


「論理としては合ってるだろ」


「合ってます。合ってるから、余計ズルいです」


 星宮は、机の上で指先をきゅっと握った。


「……ありがとうございます」


「何が」


「気にしてくれて」


 彼女は、視線を机の上に落としたまま、小さな声で続けた。


「私、気づいてほしくないことと、気づいてほしいことが、ごちゃごちゃになることが多くて」


「うん」


「足首の怪我とか、“大丈夫です”って言っちゃうんですけど、本当はちょっとだけ“助けて”って言いたくて」


 指先が、机の木目をなぞる。


「でも、勝手に“言っちゃダメ”って決めてて。迷惑かなって」


「迷惑じゃないだろ」


「今は、そう思えるようになりました」


 星宮は、顔を上げて、まっすぐこちらを見た。


「浅野くんが、“甘えるの練習”って言ってくれたから」


「言ったっけ、そんなこと」


「言ってました。“甘える練習”って」


「そうか」


 なんとなく、そんなことを言った気もする。


「だから、これからも、ちょっとだけ甘えます」


「ちょっとだけか」


「ちょっとずつ、増やしていくかもしれません」


「増えるのか」


「増えます」


 宣言するように言ってから、星宮はふっと笑った。


「浅野くんも、練習してくださいね」


「何の」


「“甘えられる練習”」


「甘えられる練習?」


「はい。私が甘えるので、受け止めてもらう練習です」


「それ、俺側のハードル高くないか」


「高いです。でも頑張ってください」


「自分で高くしておいて……」


 ぶつぶつ言いながらも、変に悪い気はしなかった。


 甘えられる練習、という言い方が、新鮮だったからかもしれない。


(俺は、星宮にとって何なんだろうな)


 クラスメイト。


 放課後一緒にいる友だち。


 木陰みたいな人。


 観察魔法使い。


 どれも正解のようでいて、どれも少しだけしっくりこない。


 そんなことを考えているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。


     ◇


「そろそろ、帰りますか」


 窓の外の空が、オレンジと紺色の境目みたいな色になったころ、星宮がそう言った。


「レッスンとかないのか?」


「今日はもうないです。明日は朝からなので、早く寝ないと怒られます」


「誰に」


「マネージャーさんに」


 立ち上がるとき、彼女は一瞬だけ机に手をついた。足首をかばう癖は、まだ完全には抜けていない。


「階段、大丈夫か?」


「大丈夫です。ゆっくり降ります」


「まあ、念のため一緒に行く」


「それは、甘えます」


 教室を出て、廊下を歩く。窓の外には、部活帰りの生徒たちの姿がちらちら見えた。


 一階まで降りて、昇降口のところで、彼女は一度立ち止まった。


「じゃあ、ここまでで」


「送らなくていいのか?」


「さすがに、最寄り駅まで一緒だと、誰かに見られたとき危ないので」


「ああ、そっか」


 俺は、そこでやっと、「彼女はアイドル」という現実を思い出す。


 校門を出て一緒に歩いているところを誰かに撮られて、「熱愛か」なんて騒がれたら、それこそ大変だ。


 そんなの、嫌だ。


「また、明日」


 星宮は、上履きからローファーに履き替えながら、そう言った。


「明日も、放課後……」


「うん。予定、特にないし」


「予定ないの、安定してますね」


「うるさい」


 彼女は、笑いながら小さく頭を下げた。


「じゃあ、また明日。“放課後の甘え練習”、お願いします」


「了解」


 手を振って、星宮は外に出ていく。


 ドアが閉まる音が、妙に大きく響いた。


     ◇


 星宮がいなくなった昇降口は、さっきより少しだけ広く感じた。


 俺は靴箱から自分のスニーカーを出して履き替え、肩にカバンをかける。


 ガラス越しに外を見ると、星宮の後ろ姿が、校門の方へと小さくなっていくのが見えた。


(……よく考えたら)


 昇降口から教室に戻ってもいいのに、俺はそのまま外に出ずに立ち止まっている。


 理由は、特にない。


 ただ、なんとなく、星宮の背中が見えなくなるまで見送っていたかった。


 それだけだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 それから、ようやく正門とは逆側の通用口から外に出た。


 西の空は、もうかなり赤かった。


 部活の掛け声と、遠くの車のエンジン音と、風の音。


 家までの道を歩きながら、さっきの会話をなんとなく反芻する。


『浅野くんって、優しいですよね』


『星宮は、放っといたら我慢しそうだから』


『気にしてくれて、ありがとうございます』


 自分の言葉と、星宮の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


(……気にしすぎなんだろうな)


 心のどこかで、そういう結論が出た。


 クラスメイトを気にするのは、別におかしいことじゃない。


 足を怪我している友だちを案じるのも、普通だ。


(でも、ここまで気になるのは、普通か?)


 朝、教室に入ったときに星宮の席を真っ先に見ていたこと。


 他の男子と喋っている姿を見て、胸の奥がざわっとしたこと。


 放課後、一緒にいる時間が当たり前になりつつあること。


 そのどれもが、少しずつ、「普通」の枠からはみ出し始めている気がする。


「……分からん」


 思わず、声に出していた。


 自分の気持ちを、上手く言葉にできない。


 ただ一つ、はっきりしていることがあるとしたら。


(星宮が元気そうに笑ってると、俺も安心する)


 それだけだ。


 逆に言えば、星宮が辛そうな顔をしていると、妙にそわそわする。


 さっきみたいに、「甘える練習」とか言いながら笑ってくれると、なぜか、自分が認められたみたいな気持ちになる。


 それは――何なんだろう。


 友だちだから?


 クラスメイトだから?


 「放課後に甘えに来る人」だから?


(……まあ、どれでもいいか)


 答えが出る気がしなくて、そうやって思考を打ち切る。


 考えたところで、星宮の足首が治るわけでも、仕事の忙しさが減るわけでもない。


 俺にできることは、多分、そんなに多くない。


 それでも。


(明日も、ちゃんと隣に座れたらいいな)


 ふと、そんなことを思った。


 星宮が、机に頬を乗せて、どうでもいい話で笑ってくれるのを、また見たい。


 「甘えの練習」とか言いながら、袖をつまんでくるのを、また感じたい。


 その願望には、もう「友だちだから」とか「クラスメイトだから」とか、そういう説明はあまりくっついていなかった。


 ただ、「そうしたいからそうしたい」というだけの、シンプルな感情だった。


 家の近くまで来たころには、空はすっかり暗くなっていた。


 街灯の下で、自分の影を一度踏んでから、玄関のドアを開ける。


「ただいま」


「あら、おかえり。今日は早いわね」


 母さんの声が聞こえる。


「うん。今日は部活の奴らに捕まらなかっただけ」


「何それ」


 リビングから漂ってくる夕飯の匂いが、現実に引き戻してくれる。


 靴を脱ぎながら、さっきまで頭の中をぐるぐる回っていた色々な思考が、少しずつ後ろに引っ込んでいくのを感じた。


(まあ、いいや)


 明日になれば、また教室があって、授業があって、昼休みがあって、放課後がある。


 窓際の三列目に、星宮こころがいて。


 放課後の空き教室で、「甘える練習」が続く。


 それだけ分かっていれば、とりあえず、今は十分だ。


 そう思いながら、俺はいつものようにリビングに向かった。

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