第3話 クラスの地味女子、気づいたら浅野くんの隣が一番落ち着く場所になっていました
朝の光は、昨日と同じ窓から差し込んでいた。
カーテンの隙間から伸びる細い光の筋が、床のタイルの模様の上に斜めにかかっている。それを見ながら、私は自分の足首に巻かれたテーピングをそっとなぞった。
――昨日のことを、思い出す。
『保健室、寄ってこうぜ』
『“少しだけ”を放っておいて、『普通』を壊したくなくない?』
あのときの浅野くんの声は、怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。ただ、まっすぐで、優しかった。
足首は、だいぶ楽になっている。
歩けるし、階段もゆっくりなら問題ない。テーピングの圧迫感が、逆に安心をくれるくらいだ。
でも、こうしてテーピングを見るたびに、私の胸の奥は、ほんの少しだけじんわりと熱くなる。
――ちゃんと、見てくれる人がいる。
そう思うだけで、“普通”の朝が、少しだけ違って見えた。
◇
「おはようございます」
靴箱で上履きに履き替えて、廊下を歩く。
窓から差し込む朝の光。教室から聞こえてくる笑い声。先生の「席つけー」という声。
どれもいつも通りの景色なのに、教室のドアが近づくにつれて、心臓の鼓動が少しだけ早くなっていくのを感じた。
ドアの前で、一度だけ深呼吸する。
ガラッと、音を立てないようにドアを開ける。
視線が、一斉にこちらを見る――ことはなくて、みんなそれぞれの会話に夢中だった。
よかった。
いつも通りの朝だ。
でも、私の目は、最初から一人に向いていた。
窓際、三列目。
浅野颯太くん。
机にカバンを置いて、山田くんと何かを話している。髪はいつも通りちょっとだけ寝癖が残っていて、制服のネクタイはきちんと結んでいる。
目が合った。
その瞬間、胸の中の何かが「カチッ」と音を立てて、変なふうに落ち着いた。
(あ、いた)
無意識に、そんな言葉が浮かんでくる。
(よかった。ちゃんと、いつもの場所にいる)
……なんだろう。
別に、今日彼が欠席するって聞いていたわけじゃない。
それでも、「ちゃんといる」ことを確認してほっとするこの感じは、昨日まではなかった気がする。
浅野くんは、私と目が合うと、ほんの少しだけ目尻を下げて、小さく頷いた。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけのやりとり。
でも、その二言で、胸の奥のざわざわが少しだけ溶けた。
「お」
すぐ近くから、山田くんの声が聞こえてくる。
「お前ら、自然に挨拶するようになったな」
「普通のことだろ」
「“普通”連呼するやつ、大抵普通じゃない説あるよな」
「お前の説は信用ならない」
「ひど」
山田くんと浅野くんの、いつものゆるい掛け合い。クラスのざわめき。窓から差し込む光。
全部“いつも通り”のはずなのに。
なぜか私は、ひとつひとつの音を、前よりも鮮明に感じていた。
(……浅野くん、ちゃんといる)
それを確認できただけで、今日一日のスタートラインが少し高くなった気がした。
◇
四時間目が終わって、昼休みになった。
「星宮さーん、一緒に食べよ」
同じ班の女子が、いつものように声をかけてくれる。
「うん。行こっか」
私はお弁当箱を持って、彼女たちの机の方に椅子をずるずると引きずっていった。
卵焼きとウインナーと、ブロッコリー。母が作ってくれたいつものお弁当。
私は母に、「学校のこと」はあまり細かく話していない。
友だちができたこと。「普通に楽しいよ」と言える程度にはなったこと。
それくらいしか。
昨日のことも、まだ言っていない。
「ねえねえ、星宮さんさ」
前に座った女子が、フォークをくるくる回しながら言う。
「最近、浅野くんと仲良くない?」
「え」
フォークが、危うくお弁当箱から滑り落ちそうになった。
「だってさー、放課後よく一緒にいるじゃん。廊下歩いてるの見たし」
「あ、あれは、その……」
「友だち?」
隣の女子が、ニヤニヤしながら覗き込んでくる。
「と、ともだち……かな」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
“友だち”。
その言葉は、多分間違ってはいない。
昨日、保健室に一緒に行ってくれたのも、空き教室で一緒に過ごしてくれたのも、「友だちだから」と言ってしまえば、それで済むような行動だ。
でも――
(……友だち、か)
胸の奥が、きゅっと小さく引きつった。
なんだろう、この感じ。
誰かと「友だちだよね」と言い合うのは、嬉しいはずなのに。
「いやー、でもさぁ」
前の席の女子が続ける。
「浅野ってさ、あんまり女子と喋らないっていうか、山田とばっかくっついてるイメージだったからさ」
「分かる。男子の中でも“空気読んで静かにしてる側”って感じ」
「なのに星宮さんとは話すんだって、ちょっとびっくりした」
「び、びっくり……」
「ほら、“地味女子と地味男子の静かな世界”みたいな?」
「それどういう世界?」
私が困っていると、別の女子が笑いながらフォローしてくれる。
「でもなんか、落ち着いてて良くない? あの二人」
「分かる〜。見てて癒し」
「癒し……」
そんなふうに言われると、なんだかむず痒い。
「浅野くん、優しいよね」
ぽつりと、私は口にしていた。
「あの……ちゃんと、見てくれるっていうか」
「見てくれる?」
「怪我してるのとか、無理してるのとか。気づいて、何も言わないんじゃなくて、『大丈夫?』って聞いてくれる人、っていうか」
言いながら、自分で自分の言葉に驚いた。
そんなふうに思っていたんだ。私。
「おお〜」
女子たちがにやにやした顔でこちらを見てくる。
「なにその具体的エピソード」
「それもう、彼氏の良さ語るテンションじゃない?」
「か、かれ……っ」
フォークが、本格的に危ないところまでいった。
「ち、違っ……!」
「冗談冗談。星宮さん真面目だからすぐ真に受ける〜」
「でもさ、“見てくれる人”っていいよね」
隣の子が、少しだけ真面目な声で言う。
「うちの妹とかさ、“学校で誰にも気づかれないのしんどい”とか言っててさ」
「それはしんどいな」
「だから、“ちゃんと見てくれる”って言える子がいるの、普通に羨ましいわ」
“羨ましい”。
その言葉が胸に刺さって、ちょっとだけ嬉しかった。
自分の話をしているのに、「いいね」って言ってもらえるのは、変な感覚だ。
「……うん」
私は小さくうなずいた。
「見てくれるの、嬉しい」
その瞬間。
さっきまで「友だち」と口にしたときの、胸の痛みの理由が、うっすらと輪郭を持った気がした。
(私、こんなふうに誰かのこと話したの、初めてかもしれない)
ステージのこととか、仕事のことなら、いくらでも話せる。
でも、「一人の男の子」のことを、感情を乗せて話すのは――
やっぱり、どこか違う。
◇
放課後。
今日はレッスンがあったので、私は一度学校から事務所に向かった。
事務所のダンススタジオは、白い鏡張りの壁と、木の床と、天井のライトで、いつものように少しだけ緊張感がある。
「じゃあ、今日も最初から通してみようか」
ダンスの先生がそう言って、音源の再生ボタンを押す。
《Hoshino*》の新曲が、スピーカーから流れ出す。
イントロで位置につき、サビでセンターに出る。
身体は、曲に合わせて自然に動く。何度も何度も練習した振り付けだから、脚も腕も勝手に動いてくれる。
でも。
(……あ、ちょっと)
サビ前のターンで、ほんの一瞬だけ、足首のあたりに違和感が走った。
痛いほどではない。
でも、身体がそれを覚えている。
昨日、ひねった感覚も、その後に浅野くんに「保健室行こう」と言われたことも、まとめて全部。
足首への意識が、ほんの少しだけ集中する。
そのせいで、顔の表情が一瞬だけ固くなったのを、自分でも分かった。
「ストップ」
曲が途中で止まる。
「こころ、今、どこか気になった?」
ダンスの先生が、鏡越しに私を見る。
「え、と……」
私は息を整えながら、正直に答えた。
「足首、昨日ちょっとひねっちゃってて。テーピングはしてあるんですけど……」
「ああ、それでか」
先生は、ふむ、と頷いた。
「動きはそこまで悪くなかったけど、表情に少しだけ“余裕なさ”が出てた。センターの顔って、細かいからね」
「すみません……」
「謝ることじゃないよ。怪我してるのに黙ってる方が怖いし」
先生は、ふっと笑った。
「ちゃんと保健室行った?」
「はい。友だちが、連れて行ってくれて」
「いい友だちね。そういう子がいるうちは、大丈夫だよ」
“いい友だち”。
またその言葉が出てきて、胸がざわついた。
でも、先生はそれ以上突っ込んでこなくて、すぐに話題を切り替えた。
「じゃあ、足首かばいながらできる動きに少し変えようか。本番までに間に合えばいいから」
「……はい」
レッスンは、その後も続いた。
汗をかいて、息を切らして、曲が終わるたびに水を飲む。
鏡に映る自分は、いつもの“絶対的アイドル”用の顔をしていた。
ステージの上の星宮こころ。センターとして、ファンの前に立つための顔。
でも、曲が終わって音が止まった瞬間、鏡の中の自分の表情が、ふっと緩むのが分かる。
その顔は、多分、浅野くんの前でしか見せていない顔に近かった。
◇
レッスンが終わって、マネージャーさんに挨拶をしてから、私は学校に戻った。
といっても、もう授業は終わっているから、校舎はところどころ暗くなっている。部活の掛け声と、吹奏楽部の音が、少しだけ響いているくらいだ。
三階に上がると、例の空き教室のドアが、ほんの少しだけ開いていた。
中から、紙がめくれる音と、誰かの小さなため息が聞こえる。
ノックをしてから、そっとドアを開ける。
「お疲れ」
いつものように、浅野くんがそこにいた。
窓際の机に、教科書とノートを広げて、ペンを持っている。窓の外からの光が、彼の横顔を照らしていた。
「お疲れさまです」
思わず、仕事モードの挨拶が出てきてしまう。
「どうだった? レッスン」
「普通に、疲れました」
「それはそうだろうな」
浅野くんは、ペンをくるくる回した。
「足首は?」
「だいぶ楽です。先生にも、ちょっと振り付け変えてもらって」
「そっか。よかった」
その一言に、胸の奥が少し熱くなる。
“よかった”って言われるの、好きだなあ、とふと思ってしまった。
「今日も甘え時間、いけそう?」
「もちろんです」
私は、彼の向かいの席に腰掛けた。
「むしろ、それを楽しみに頑張ってきました」
「それはそれでどうなんだ」
「いいじゃないですか。モチベーション大事です」
机に教科書を置いて、腕を組んでそこに頬を乗せる。
空き教室の中は、昨日と同じように少しひんやりしていて、窓からの光が床に細長い四角を描いていた。
「今日は、“ちょっと疲れた星宮こころ”で行こうと思います」
「役柄を宣言するな」
「浅野くんは、“ちょっと甘えられ慣れてきた浅野颯太”でお願いします」
「勝手に成長させるな」
そんなやりとりをしていると、自然と笑いがこぼれた。
この空気が、好きだ。
何もしなくても怒られなくて、無理に面白い話をしなくてもよくて、ただ隣にいてくれる人がいる空気。
「浅野くんってさ」
ふと、私は口を開いた。
「どうして、そんなに優しいんですか?」
「急だな」
「急ですか?」
「急だよ。数学のテストの次の問題くらい急」
「例えが分かりそうで分からないです」
浅野くんは、ペンを机に置いて、少しだけ考えるように視線を上に向けた。
「優しくしてるつもりは、そこまでないけどな」
「え、そうなんですか」
「うん。困ってる人がいたら助けたいって、割と普通じゃない?」
「普通……」
「星宮に限らずさ。他の誰でも、見てて“きつそうだな”って思ったら、多分声かけると思う」
「他の誰でも……」
胸が、きゅっとした。
そうだ。
浅野くんは、ちゃんと“いい人”だ。
私だけじゃなくて、きっと他の人にも、同じように優しいのかもしれない。
それは、とても当たり前のことなのに――
「でも」
浅野くんは、続けた。
「星宮は、特に放っておいたら我慢しそうだから」
「……え」
「足首のときもそうだけどさ。痛くても、『歩けるから大丈夫』って言いそうだったろ」
「……言いましたね」
「だから、星宮に関してはちょっとだけ、“優しさ多め”になってるかもしれない」
さらっと、そんなことを言う。
それを聞いて、胸の真ん中にぽん、と何かが落ちた気がした。
(私だから、なんだ)
さっき「他の誰でも」と言ったのに、そのすぐ後で「星宮は特に」と言ってくれた。
その“特に”という言葉が、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
「……ズルいです」
「え、何が」
「そういう言い方、ズルいです」
思わず、頬を膨らませる。
「“星宮だから”って言われたら、期待しちゃうじゃないですか」
「何を?」
「いろいろ」
「雑にくくったな」
でも、本当にそうなのだ。
“私だから”って言ってもらうの、こんなにも心がふわっとするんだ。
ステージの上で、「こころちゃーん!」と名前を呼ばれるのとは、全然違う感覚。
何万人の中の「星宮こころ」じゃなくて。
教室の一人の、「星宮こころ」だから。
その違いが、胸の中で静かに膨らんでいく。
「浅野くんは?」
私は、聞いてみた。
「私のこと、どう見てるんですか?」
「どう、って?」
「クラスメイト? 友だち? “放課後に甘えてくる人”?」
「最後の肩書きひどくない?」
「でも事実ですよね」
「まあ、否定はしない」
浅野くんは、少しだけ笑った。
「クラスメイトで、友だちで――」
そこで、一瞬言葉を切る。
「放課後、一緒にいて落ち着く人、かな」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「……落ち着く人?」
「うん。星宮といると、変に気を使わなくていいし。無言の時間があっても気まずくないし」
「それは、浅野くんが喋らないだけでは?」
「それはそう」
「認めちゃった」
「でも、喋らなくてもいい人って、そんなに多くないだろ」
浅野くんは、窓の外をちらりと見る。
「俺さ、誰かとずっと一緒にいるの、ちょっと苦手なんだよな。話題探さなきゃって思って疲れちゃうタイプで」
「分かる気がします」
「でも、星宮とは割と平気。何もしなくても、その……木陰にいる感じ」
「また木陰……」
「前も言ったか」
「言いました。“木陰みたいな人”って褒めたの、私です」
「そうだった」
そんなふうに話しながら、私は内心で、そっとその言葉を何度も繰り返した。
(“一緒にいて落ち着く人”)
私にとっての浅野くんが、「落ち着く場所」になっているのと同じように。
浅野くんにとっても、私は“落ち着く存在”になっている。
その事実が、身体の芯までじんわりと広がっていく。
――そんなときだった。
廊下の方から、ガタンッ、と大きな音がした。
「わっ!」
誰かがロッカーか何かにぶつかったような音。続いて「いててて……!」という男子の声。
音に反応して、私は反射的に身体を固くした。
肩にぎゅっと力が入り、指先が机の端を掴む。
その瞬間。
隣に座っていた浅野くんの袖を、私は無意識に掴んでいた。
制服の生地が、指の中でくしゅっとなる。
「大丈夫?」
浅野くんが、小さな声で尋ねる。
「だ、だいじょ……」
とっさにいつもの言葉が出かけて、喉の奥で止まった。
“だいじょうぶ”。
本当に、そう?
さっきまでの胸のざわざわも、外からの物音も、全部ひっくるめて、本当に「大丈夫」って言える?
袖を掴んでいる自分の手に気づいて、顔がかあっと熱くなる。
「あの、その……びっくりして、つい」
「いいよ。掴んでて」
「え」
「びっくりしたときに、どこか掴みたくなるのは普通だろ」
浅野くんは、静かに言った。
「俺の袖でよければ、いつでもどうぞ」
「そんな“袖提供サービス”みたいに言わないでください」
「オプション料金なし」
「オプションって何ですか」
こんな会話をしているのに、私は袖から指を離せなかった。
外の音は収まって、廊下の声もまた普通の音量に戻っている。
それでも、心臓の鼓動だけは早いままだった。
「……浅野くん」
「ん?」
「浅野くんが隣にいると、大丈夫って思えるんです」
言葉にしてから、しまった、と思った。
でももう、口から出てしまったものは戻せない。
浅野くんは、少しだけ目を瞬いた。
「それは、いいことなのか?」
「分かりません」
「分からないのか」
「でも、さっきみたいに音がしてびっくりしたときとか、仕事でうまくいかなかったときとか」
私は、自分の指先を見つめる。
「浅野くんの顔思い出すと、ちょっとだけ平気になります」
「……それは完全に、責任重大だな」
「責任重大、ですか?」
「俺が変なこと言ったら、“平気じゃない方”に持っていかれるわけだし」
「たしかに」
「じゃあなるべく、変なこと言わないようにしないとな」
浅野くんは、ほんの少し困ったように笑った。
それを見て――
(ああ)
やっと、分かった。
胸の中のモヤモヤの正体。
昼休みに「友だち」と答えたときに感じた痛みも。
先生に「いい友だちね」と言われたときの、ざわざわも。
さっき「浅野くんは?」と聞いたときの、自分の期待も。
全部、同じ場所に繋がっている。
(私、多分)
(浅野くんのこと、好きなんだ)
自分で自分の心に向かってそう言った瞬間、身体の力がふっと抜けた。
立ちくらみみたいな“ふわっ”じゃなくて。
ずっと抱えていた荷物を、やっと床に降ろせたみたいな、“すとん”とした感覚。
切なくて苦しい、というよりも。
ああ、そうだよね、って。
やっと答え合わせができたみたいな、静かな納得。
「……どうした?」
浅野くんが、不思議そうに首をかしげる。
「なんか今、“悟りを開いた人”みたいな顔してたけど」
「悟りじゃないです」
「じゃあ何」
「ひみつです」
「ひみつかよ」
私は、袖を掴んでいた指を、そっと離した。
代わりに、机の上に自分の手を置く。
手のひらの温度が、少しだけ高い。
「浅野くん」
「ん」
「これからも、放課後……一緒にいてくれますか?」
できるだけ普通の声で、普通の顔で、普通の言葉として聞く。
でも、その中に込めた意味は、さっきまでとは全然違うものになっていた。
“甘える場所”でいてほしい、だけじゃない。
“好きな人の隣”でいてほしい、という願いを、一緒に乗せる。
「もちろん」
浅野くんは、何でもないことのように言った。
「俺、そんな忙しくないし」
「それ前も言ってましたよね」
「事実だからな」
「じゃあ、これからもよろしくお願いします。“放課後甘え習慣”」
「名前ダサくない?」
「いいじゃないですか。健康的で」
私は笑った。
浅野くんも、少しだけ笑った。
笑いながら、心の中でそっと言葉を足す。
(“放課後甘え習慣”じゃなくて)
(“放課後好きな人の隣習慣”、なんだけどな)
まだ口には出さない。
名前はなくていい。
でも、この気持ちには、もうちゃんと名前がついている。
恋。
子どもの頃に歌ったラブソングの歌詞や、ドラマの台詞の中にしかなかった言葉が、今は自分の中の、はっきりした感情として存在している。
それが、不思議で、嬉しくて、ちょっとだけ怖い。
「浅野くん」
「まだ何かあるの?」
「いっぱいありますけど、今日はこのくらいにしておきます」
「日替わり甘えメニューかよ」
「はい。“本日の甘えメニュー・その一、隣にいるだけで安心コース”でした」
「名前つけるなって」
「明日は、“愚痴聞いてくださいコース”かもしれません」
「予約制?」
「はい。浅野くん、すぐ埋まりそうなので」
「嬉しいような、そうでもないような」
そんな他愛のない会話をしながら、私たちはただそこにいた。
窓の外では、夕方の光が少しずつオレンジ色を増している。
空き教室の中、机と椅子と教科書と、テーピングされた足首と。
そして、隣に座る一人の男の子。
浅野くんの隣は、やっぱり一番落ち着く場所だった。
これから、この放課後を、何度重ねるんだろう。
レッスンがつらい日も。
仕事でうまくいかなかった日も。
嬉しいことがあった日も。
そのたびに、ここに戻ってきて、「普通の星宮こころ」に戻る。
そして私は、そのたびに少しずつ、“浅野くんが好きな星宮こころ”になっていくのだと思う。
――それは、けっこう悪くない未来だな、と。
窓の外の空を見ながら、私は静かに思った。
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