第2話 クラスの地味女子、足首の痛みを隠すのが下手すぎて保健室行きです
翌朝の教室も、やっぱり同じ匂いがした。
チョークの粉とワックスと、どこか甘い柔軟剤の匂いが混ざった空気。昨日と同じ窓、同じ机、同じメンバー。日常ってやつは、そう簡単には形を変えない。
――一つだけ、変わったものがあるとしたら。
俺の中の「星宮こころ」の位置づけだった。
「おはよー、颯太」
いつものように山田が、半目のまま肩をどん、と叩いてきた。
「……おはよ。今日も死にかけてるな」
「昨日寝たの二時。人間って意外と――」
「昨日も聞いたセリフだな、それ」
「デジャブ?」
「学習能力の無さだよ」
適当にあしらいながら、視線は教室を一周する。
黒板前では例の騒がしい二人組が「先生絶対宿題忘れてるだろ」みたいな陰謀会議を開いていて、窓際の後ろではギャル二人組がスマホの画面を見ながら「このフィルター盛れすぎじゃない?」と騒いでいる。
その喧騒から少しだけ離れた窓際の席に、その子は座っていた。
――星宮こころ。
昨日までの俺にとっては「静かで丁寧な女子」でしかなかった存在。
でも今は、「国民的アイドルグループ《Hoshino*》のセンターで、“絶対的アイドル”と呼ばれてる人」になっている。
そうだと分かってから見ると、たしかに色々と納得できる。
姿勢の良さとか、仕草の整い方とか、声の響き方とか。
ただ――それでも、教室の空気は何も知らない顔をしていた。
「星宮さーん、プリント取ってくれない?」
「はい」
前の席の女子に呼ばれて、星宮はくるりと振り返る。
笑顔は、昨日と同じ。
クラスメイト用の、きれいで、当たり障りのない笑み。
でも、俺には分かる。
昨日、屋上で見せた“うまく笑えない顔”を知ってしまったから。
さっきから何度か、星宮と目が合いかけては、お互いに微妙に視線を逸らしている。変に意識すると逆に不自然だ。こういうとき、どう振る舞えば“普通”なのか、よく分からない。
とりあえず、俺は窓の外を眺めるふりをして、星宮が席から立つのを横目で見た。
そこで、ほんの少し違和感を覚える。
――歩幅が、昨日より狭い。
足を一歩ずつ出すたび、左の足首のあたりで、体重を乗せる時間がほんの少し遅れる。膝の曲がり方、重心の移動。そういう細かいものが、俺の目にはやたらよく映る。
昨日、体育でひねった足首。
保健室には行っていない。湿布も貼っていない。
そして今朝も、何事もなかったみたいな顔をして歩いている。
――いや、何事もなかった顔“をしている”。
そこに、無理の薄い膜がかかっているのが分かった。
「おーい、颯太」
「ん?」
「さっきからぼーっと窓の外見てるけど、何見てんの? 悟り?」
「悟りはそんな簡単に開けないよ」
「じゃあやっぱり星宮さん見てた?」
山田のニヤニヤした顔が、視界に横から割り込んでくる。
「人の歩幅見てる男子って怖くない? 通報されない?」
「趣味じゃない。ただの癖」
「“趣味じゃない”って先に言うやつだいたい趣味だよ」
「だったらお前のゲームも趣味じゃなくて生活習慣病だよ」
「なんだその言葉の暴力」
わいわいしている間に、チャイムが鳴った。
ホームルームが始まり、担任のいつものゆるい声が教室に広がる。俺の日常と、このクラスの「普通」は、ちゃんと継続している。
――ただ、一人だけ。足首を少し庇いながら、それでも「普通」であろうとしている子がいる、という違いを除いて。
◇
午前中の授業は、これといって事件もなく過ぎていった。
数学の板書を写し損ねた前の席の男子が「写真撮らせて」と言ったとき、星宮はノートを差し出して「どうぞ」と微笑んでいた。
その微笑みの前後で、目の奥の色はほとんど変わっていなかったから、多分これは素で言っているのだろう。
ただ、授業と授業の合間の移動時間。教室から廊下へ出るとき、階段を降りるとき、星宮は必ず左足首からじゃなく、右足から歩き出していた。
意識しているのか、無意識なのかは分からない。
でも、「痛いのを隠しながら普通でいようとしている」ことだけは、分かる。
こういうときに、どこまで踏み込んでいいのか、いつも悩む。
俺は観察するのは得意だけれど、口を出すのはそこまで得意じゃない。余計なことを言って相手を傷つけるくらいなら、黙って見ている方がいい、とも思ってしまう。
だからこそ――昨日の屋上で、「無理して笑う必要はない」と言ったのは、我ながら大きな一歩だった。
彼女が、あのとき「放課後だけ甘えてもいい?」と尋ねてくれたからだ。
その約束は、ちゃんと覚えている。
放課後。甘える時間。
じゃあ、それまでの間は?
足首のことを何も言わずに、見ているだけでいいのか?
そんなことをぼんやり考えていたら、あっという間に四時間目が終わった。
「おなかすいたー」
山田が机に突っ伏す。
「お前、毎時間おなかすいたって言ってないか」
「育ち盛り。心が」
「胃じゃなくて?」
「そこは“夢”とか言ってほしかった」
昼休みのチャイムと同時に、教室の空気がざわっと緩む。
昼食は、購買でパンを買う派と、弁当派と、コンビニ組とに分かれる。俺は弁当派だ。母さん製の、だいたい卵焼きが入っている安心ラインナップ。
でも今日は、たまたま財布がカバンの外ポケットに入っているのを思い出して、購買に行ってみることにした。
「珍しいな、お前購買行くの」
「たまには違うパン食べたくなるだろ」
「浮気性」
「食べ物に浮気性とか言うな」
そう言いながら廊下に出る。
購買の前には、既に列ができていた。人気のメロンパンやカレーパンで争奪戦が起こるのは、この学校の昼の風物詩みたいなものだ。
列の最後尾に並ぼうとして、俺は一瞬だけ足を止めた。
列の途中。少し前の方に、見覚えのある後ろ姿があった。
肩までの髪。少し猫背気味の立ち姿。手に小さな財布を持ち、前に並んでいる人との距離をきちんと保っている。
星宮こころだった。
……購買、来るんだ。
俺の中の「地味でおとなしい子」のイメージよりも、ほんの少しだけ生活感というか、普通の高校生っぽさが出てきて、なんだか妙に安心する。
それを眺めていたら、星宮がちらりと振り向いた。
目が合う。
昨日の屋上を思い出して、お互いに一瞬だけ固まる。
「……あ」
先に口を開いたのは、星宮の方だった。
「浅野くんも、購買?」
「まあ、たまには。弁当だけだと飽きるし」
「そうですよね。分かります。メロンパンって、たまに無性に食べたくなりません?」
「分かる。メロンパンの香りで数学の授業乗り切ったことある」
「それはちょっと分からないです」
こくこくとうなずきながら、星宮が小さく笑う。
昨日より、少しだけ笑顔の力が抜けている気がした。
「……おい」
背後から、ささやき声が飛んでくる。
山田だ。目だけをぎらりと光らせている。
「お前、自然に地味女子と会話してんじゃん。モテ期?」
「やめろ、そのワードだけでフラグ折れるから」
「いやでもさ、“たまには違うパン食べたい”って、そういう――」
「違う。パンの話を恋愛のメタファーにしないでくれ」
「君たち、購買前で何の会話してるの?」
星宮が首をかしげる。
「なんでもない」
俺は苦笑して首を振った。
前の列が進み、俺たちもじわじわとレジに近づいていく。その間に、星宮は小さな声で言った。
「……昨日の、屋上のこと」
「ん?」
「ありがとう、って言おうと思って」
声量が、微妙に“クラス全体に届きそうなレベル”だったので、慌てて手で制した。
「いや、そのボリュームで感謝されると、俺の心臓が持たないから」
「あ、ご、ごめんなさい……!」
「謝るほどでもないけど。あれは、その……俺が勝手に言っただけだし」
「でも、嬉しかったです。『普通でいていい』って言われたの」
星宮は、レジの方を見たまま、ぽつりと言った。
「ステージの上の私も、テレビの中の私も、ちゃんと私なんですけど。たまに、どれが本当の自分か分からなくなって……。だから、『普通でいい』って言われたのが、なんか、すごく安心したというか」
そのとき、彼女の指先が、財布の端をきゅっと掴んだ。
緊張しているときの、癖だ。
でも声は、昨日ほど揺れてはいない。足首の痛みは別として、精神的には昨日より落ち着いているように見えた。
「……じゃあ、今日も、放課後」
星宮は、少しだけ俺を見上げた。
「少しだけ、一緒にいてもいい?」
その言い方が、妙に慎重で、妙に子犬っぽくて、妙に反則だった。
ずるいな、と思う。
「放課後だけ」は、彼女にとって、ちゃんと特別な時間になっているのだろう。
「まあ、いいけど」
俺はなるべく普通の顔で答える。
「どうせ家帰っても、特に予定ないし」
「予定ないの前提なんですね」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「木陰みたいな人」
「昨日から比喩が一生木陰なんだよ」
「あ、パン、メロンパン残ってますよ」
「話題の切り替え早っ」
そんなやりとりをしながら、俺たちはそれぞれのパンを買った。
メロンパンの袋を持つ星宮の手は、少しだけうきうきして見えた。
足首を庇いながら歩いていること以外は。
◇
放課後。
チャイムが鳴って、帰りのホームルームが終わると、クラスの半分以上は部活に向かっていった。残りは帰宅部か、寄り道組か、今日の宿題を聞き忘れたことに気づいて絶望している人たちだ。
俺はカバンを机の横に引っ掛けたまま、教室の隅でスマホをいじるふりをして時間を潰していた。
「浅野くーん」
少し控えめな声が、机の列の向こうから聞こえた。
顔を上げると、星宮が教科書をまとめた手で胸の前を抱えるようにしながら、こちらをのぞき込んでいた。
「さっきの、その……」
「うん」
「放課後の、約束の件なんですけど」
「件って言うとすごく大きな話みたいだな」
「今日って、その……どこ行きます?」
「どこ、って」
屋上は、昨日使った。毎回屋上だと、さすがに誰かに見つかる可能性が高い。風も強いし、足首にも良くなさそうだ。
「図書室とか?」
「図書室で甘えるのは、さすがに迷惑では……?」
「図書室の種類によるな」
「どんな図書室ですかそれ」
「甘やかし図書室」
「やさしそう」
星宮がくすっと笑う。
その笑顔は、もうだいぶ“普通の星宮こころ”寄りになってきている気がした。
「じゃあ、空き教室とかどう?」
「空き教室……」
「三階の、使ってない選択科目の教室。今は誰も使ってないし」
俺がそう言うと、星宮はこくりとうなずいた。
「分かりました。浅野くんの“おすすめ甘えスポット”に従います」
「そんなジャンルのスポットじゃないけど」
「今日からそうです」
「勝手に定義を変えるな」
そんな会話をしつつ、俺たちは教室を出た。
廊下は、部活に向かう生徒でまだ少しざわついている。制服の袖が擦れる音、運動部の掛け声、吹奏楽部の遠いチューニングの音。そういったものをくぐり抜けながら、階段を上る。
その途中で、俺はまた気づいた。
――やっぱり、左足首を庇っている。
階段を上がるとき、星宮は必ず右足から段差に乗っていた。左足を引っ張り上げるとき、ほんの少しだけ呼吸が浅くなる。
「星宮」
「はい?」
「痛いなら言えよ」
「え」
星宮が、きょとんとした顔をした。
「足首。まだ痛いんだろ」
「な、なんで……」
「痛いとき、指先ぎゅってなってるから」
さっきから、教科書を抱えている手の指が、紙に食い込むみたいに力んでいるのを、俺は見ていた。
それに、階段を上るときの呼吸の浅さ。汗のかき方。足音のリズム。
そういう全部が、「大丈夫」と言っている顔と噛み合っていなかった。
「昨日の体育のときもそうだったろ。笑って誤魔化してたけど、多分結構痛かった」
「…………」
星宮は、数段上の階段に立ち止まって、こちらを見下ろした。
その目は、驚きと、少しの諦めと、少しの感心で揺れていた。
「浅野くんって、本当に……観察魔法使いさんみたいですね」
「その称号いる?」
「かっこいいですよ?」
「そうか? なんかストーカーっぽくない?」
「そんなことないです」
星宮は、ふるふると首を振った。
「ちゃんと、“心配して見てくれてる目”だから」
そう言って、少しだけ視線をそらす。
「……少し、だけ痛いです。歩けないほどじゃないから、大丈夫かなって思って」
「“少しだけ”を放っておいて、『普通』を壊したくなくない?」
「う」
図星を刺されたみたいに、星宮の肩が小さく跳ねた。
俺は溜め息をついて、階段の途中で方向転換する。
「保健室、寄ってこうぜ」
「でも、もう放課後だし……」
「まだ先生いるって。鍵も空いてるだろ」
「それに、私、浅野くんといたくて――」
小さな声で、星宮が続けた。
「せっかく、放課後一緒にいられるのに、保健室行ったら時間減っちゃうじゃないですか……」
その言い方が、いやに素直で、いやに甘くて、いやに心に刺さる。
ずるいな、やっぱり。
「……甘えるのと、怪我を放置するのは別問題だろ」
俺は、なるべく真面目な顔で言った。
「甘えるのは逃げじゃないって昨日言ったけどさ。怪我を放置するのは、ちょっと違う気がする」
「違う、ですかね……?」
「うん。普通でいたいって言ってたんだからさ。足首をちゃんと手当てするのも、“普通に生きる”ってやつの一部だろ」
「……」
「放課後の甘え時間は、保健室行ったあとでもできる」
星宮は、階段の途中でしばらく黙っていた。
夕方の光が、窓から差し込んで、その横顔を照らす。
やがて、彼女は小さくうなずいた。
「……分かりました。行きます。保健室」
「よし」
「その代わり」
「うん?」
「一緒に来てくださいね」
少しだけ、上目遣いで。
「一人で行くのは、ちょっと心細いので」
そんなことを言われて、断れるわけがない。
「分かったよ」
俺は苦笑して返事をした。
「観察魔法使いさん、保健室同行します」
「へへ……頼もしいです」
◇
保健室は、校舎の一階の端っこにある。
窓の外にはグラウンドが見えていて、今もサッカー部の掛け声が遠くから聞こえてきていた。
「失礼しまーす」
ドアをノックして入ると、白衣の養護教諭――児玉先生が、書類をまとめていた。落ち着いた雰囲気の女性で、保健室の空気がこの人のせいでやたら落ち着いている気がする。
「あら、浅野くんに……星宮さん? どうしたの?」
児玉先生は、ほんの少し目を丸くした。
星宮は、教室とはまた違う“おとなしいモード”の笑顔を作って頭を下げる。
「あの、ちょっと昨日、体育で足首をひねっちゃって……」
「まあ、それは早く言いなさいよ。座って、見せて」
促されるまま、星宮はベッドの縁に腰掛ける。靴と靴下を脱ぐと、左足首のあたりが、うっすらと赤くなっていた。
「歩けないほどじゃないんですけど……」
「歩けるから大丈夫、とは限らないのよ」
児玉先生は、プロっぽい手つきで足首を触る。
星宮が、少しだけ眉をひそめる。
「痛い?」
「ちょっとだけ」
「こっちは?」
「そこは……大丈夫です」
「こっち」
「そこは……けっこう痛いです」
「ふふ。正直でよろしい」
先生は笑いながら、棚から湿布と伸縮性のテーピングテープを取り出した。
「浅野くん、そこに座ってていいわよ。付き添い?」
「まあ、そんな感じです」
「いいわねえ、ちゃんと友だち連れて保健室来られるの」
先生はにこにこと言いながら、器用にテープを巻いていく。
「星宮さん、しばらくは全力疾走禁止ね」
「全力疾走する予定は、そもそもそんなにないんですけど……」
「体育も、無理しないように先生に伝えておいてあげるわ」
「ありがとうございます」
星宮は、心底ほっとしたようにお礼を言った。
そのときの顔は、“仕事用”の笑顔とは少し違っていた。もっと素の、頼れる大人に安心したときの顔。
俺は、その横顔を見ながら、なんとなく安心する。
俺一人だけじゃなくて、こういう大人がちゃんと彼女の周りにいるのなら。
「――あら」
ふと、児玉先生が小さく声を漏らした。
「星宮さん、その、テレビで見る子に似てるって言われない?」
……来た。
俺の背筋が、びくっとした。
星宮は、一瞬だけ固まる。
そして、わりと完璧なタイミングで笑顔を作った。
「よく、言われます。でも、似てるだけですよ」
「そうなの? この前、うちの娘が見てたアイドルの番組に出てた子に、雰囲気似てたから」
「光栄です」
声のトーン。目の動き。指先の力。
――今日いちばんの「仕事顔」だ。
でも、その後ろで、教科書を抱えていない方の手が、ほんの少しだけ俺の方を探るみたいに動いた。
だから、俺は笑って出しゃばることにした。
「星宮、そういうの、前にも言われてなかったっけ。“似てるだけです”って何回か練習してるって言ってたじゃん」
「え」
「ほら、コンビニで店員さんにも言われてさ」
「あ、ああ、はい……」
星宮は、俺の意図に気づいたのか、ぎこちなく相づちを打つ。
「なんか、『うちの娘がファンで~』って言われて、『似てるだけです』ってずっと言ってたって」
「そうそう。たまたま髪型似てただけなんですけどね」
「そうなの。最近の子はみんな可愛いからねえ」
児玉先生は、特に深く追求することなく笑った。
ふう、と星宮の肩が、少しだけ落ちる。
テーピングが終わり、先生が最後に軽く足首を撫でて、「これで少しは楽になるはずよ」と言った。
「ありがとうございます」
「帰り道、転ばないようにね」
「気をつけます」
靴下と靴を履き直す星宮の手は、さっきよりずっと落ち着いていた。
「浅野くんも、ちゃんと送ってあげなさいよ」
「了解です」
保健室を出るとき、星宮が小さく手を振って「失礼しました」と頭を下げる。その背中を見送りながら、児玉先生は「いい子たちね」とつぶやいていた。
◇
保健室を出て、廊下を歩く。
少しだけひんやりした空気が、テーピングの白さに似合っていた。
「ねえ、浅野くん」
星宮がぽつりと言う。
「うん」
「さっき、先生に『似てる』って言われたとき、助け舟出してくれましたよね」
「まあ、ちょっとだけ」
「ちょっとどころじゃなかったですよ。あそこから“似てるだけです”一本で押し通すの、けっこうメンタルいるんですから」
「プロの苦労だな」
「プロとか言わないでください。恥ずかしい」
星宮は、耳のあたりまで少し赤くして、前髪をいじった。
「でも、その……ありがとうございました」
「いいよ。あそこで本当のこと言う方がめんどくさいでしょ」
「そうですね。ニュースになったら大変です」
「『地方の高校の保健室に、国民的アイドルがしれっといます』みたいな?」
「それはそれで面白いですけど、絶対荒れますね」
ふたりで笑う。
テーピングのおかげで、星宮の足取りはさっきより少しだけ安定していた。それでも、重心の乗せ方にはまだ慎重さが残っている。それはそれでいい。無理に元の歩き方に戻そうとするより、こうやって「気をつける」ことの方が多分大事だ。
「で」
廊下の角を曲がって、三階に上がる階段に差し掛かったところで、星宮が立ち止まった。
「約束の件なんですけど」
「約束?」
「放課後の、甘え時間」
さっきまで少し真面目だった顔が、一気に“甘えモード”に切り替わる。
「保健室行ったから、時間、減っちゃいましたよね」
「まあ、少しだけな」
「なら、その……」
星宮は、教科書を抱えていた腕をちょっと下ろして、俺の制服の袖を小さくつまんだ。
「残りの時間、ちゃんと甘えさせてください」
袖を引っ張る力は弱いのに、言葉の威力がやたら強い。
「保健室まで連れてきてくれたの、すごく嬉しかったので。……甘える権利、ちゃんと使いたいなって」
「権利制なんだ、それ」
「はい。しょうがないです。私、甘えるの下手なので」
「今のセリフのどこに“下手”要素があったんだろう」
口ではそう言いつつも、俺の足は自然と三階の方に向かっていた。
空き教室は、三階の端っこにある。選択授業で使っていた家庭科室の隣の、今は誰も使っていない元視聴覚室だ。
鍵は――
「あ、開いてる」
「開いてるんですか?」
「誰かが締め忘れたんだろ、多分」
「それって、ちょっと罪悪感ありますね」
「大丈夫。何か言われたら『甘えるために使ってました』って正直に言えば――」
「絶対言っちゃダメなやつですよねそれ」
「だよな」
半分冗談、半分本気でそんなことを言いながら、俺たちは教室に入った。
中は薄暗くて、少しひんやりしていた。窓を少しだけ開けると、外の光が床に伸びる。
「ここ、落ち着きますね……」
星宮は、窓際の机にそっと触れてから、椅子を引いて腰を下ろした。
「じゃあ」
彼女は、教科書を机の上に置いて、両腕を組んでそこに顔を乗せる。
「今日は、“机に突っ伏しても怒られない星宮こころ”で、行きたいと思います」
「新シリーズ始まったな」
「“普通の高校生ごっこ”です」
顔だけこちらに向けて、甘えた笑みを浮かべる。
「浅野くんは、隣に座っててください」
「座るだけ?」
「座るだけでいいです。座るだけで、ちょっと安心するので」
「木陰扱いな」
「はい、うちの専属木陰さん」
「だんだん肩書きがひどくなってないか」
ぶつぶつ言いながらも、俺は星宮の隣の椅子に座った。
彼女は、本当にただ机に突っ伏して、視線だけこちらに向けたり、窓の外を見たりしている。スマホをいじるわけでも、宿題を始めるわけでもない。
何もしない時間。
でも、不思議と嫌な沈黙じゃない。
「……浅野くん」
「ん」
「こういうの、いいですね」
「こういうのって?」
「何もしないで、誰かといる時間」
星宮は、机に頬を乗せたまま、目だけこちらを向いた。
「ステージにいるときって、ずっと何かしてなきゃいけなくて。笑ってないといけないし、ちゃんと歌ってないといけないし、ちゃんと踊ってないといけないし」
「まあ、仕事だもんな」
「でも、今は、何もしなくても怒られないし、褒められる必要もないし。……普通でいられる」
その言葉に、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
昨日、自分で言ったことが、ちゃんと彼女の中で息をしている。
「甘えたいから甘えるんじゃなくて、“普通でいる練習”な気がしてきました」
「練習?」
「はい。普通の高校生も、ちゃんとできるように」
星宮は、照れくさそうに笑った。
その笑顔は、昨日よりさらに自然だった。
「じゃあ、俺はその練習台ってことか」
「はい。記念すべき一号さんです」
そう言って、星宮は机の下で足を組み替えた。
その瞬間。
ほんの少しだけ、眉が寄った。
「……星宮」
「はい?」
「痛いなら、足、伸ばしていいからな」
「え」
「まだ痛いんだろ、足首」
星宮は、机に顔を乗せたまま、目だけを大きく見開いた。
「なんで分かるんですか……?」
「さっき階段上るときもそうだったし、今も、足組み替えた瞬間に呼吸が浅くなってた」
「呼吸まで見てるんですか……?」
「あと、机の端っこ握る指の力」
実際、彼女の右手は、机の端を小さくぎゅっと掴んでいる。
「痛いとき、いつもそうなってるよ」
「…………」
星宮は、机に顔を埋めた。
「やっぱり観察魔法使いさんだ……」
「だからその称号やめろって」
「でも、ちょっと、安心しました」
「安心?」
「誰も気づかないふりをしてくれるのも、優しいと思うんですけど」
星宮は、机の陰から、少しだけ目だけを出した。
「気づいて、ちゃんと『痛いでしょ』って言ってくれるの、好きです」
その言い方があまりにもまっすぐで、心臓に悪い。
「……なら、ちゃんと足伸ばして」
「はい」
星宮は、おとなしく両足を前に伸ばした。机の脚にぶつからないように、少し斜めにして。テーピングされた足首が、制服のスカートの裾から覗く。
「あ。ちょっとひんやりして気持ちいい……」
「保健室、偉大だな」
「浅野くんも偉大です」
「なんで」
「保健室に連れてきてくれたの、浅野くんですから」
星宮は、机の上で頬杖をつきながら、にっこり笑った。
「甘えるのって、“頼る”ってことなんですね」
「まあ、そんな感じだろ」
「足首痛いって言えなかったの、自分で何とかしなきゃって思ってたからで」
「うん」
「でも、『言っていいよ』って言われたら、言っていいんだって分かりました」
星宮は、少しだけ視線を落とした。
「甘えるの、練習中です」
そう言って、机の上で、そっと自分の指先を握る。
痛みを我慢するためじゃなくて、何かを確かめるように。
その手の横に、俺はそっと自分の手を置いた。
触れない距離で、でも、すぐ隣に。
「じゃあ、俺も練習する」
「浅野くんも?」
「うん。誰かに頼られるときに、ちゃんと受け止める練習」
自分で口にしてから、少し照れくさくなる。
「観察するだけじゃなくてさ。ちゃんと『保健室行こう』って言えたの、多分、昨日星宮に『甘えてもいい?』って言われたおかげだし」
「……私のおかげですか?」
「うん。多分」
「じゃあ、えへへ……ちょっと誇っていいですか?」
「いいよ」
「やった。甘え上手への第一歩ですね」
「そんな称号いる?」
「いります。私、“甘え下手”卒業したいので」
星宮は、机に頬を乗せて、ふわっと笑った。
テーピングされた足首。伸ばされた足。机の上に並んだ教科書。窓から差し込む光。
全部が、「普通」の風景の中にある。
それでも、その中で彼女がこうして甘えてくれていることが、俺にとってはちょっと特別だった。
しばらくのあいだ、俺たちは本当に何もしなかった。
星宮は時々、今日あった小さな出来事を話してくれた。
数学の先生の板書がちょっと芸術的だったこととか、購買のメロンパンが思ったよりふかふかだったこととか。
俺も、山田のしょうもない寝不足自慢の話とか、隣のクラスのやたら声の大きい男子の話とかをした。
他愛もない会話。
たぶん、本当に普通の高校生なら、誰もが一度はするような話。
それを、星宮は一つ一つ、かみしめるように聞いて、時々笑って、時々「いいですね、それ」と楽しそうに言った。
「ねえ、浅野くん」
「ん」
「こういうの、もっと、続けていいですか」
「こういうの?」
「放課後に、ちょっとだけ甘える時間」
星宮は、窓の外を見ながら言った。
「毎日は難しいかもしれないですけど。レッスンとか収録とかない日には、ちょっとだけ」
そこで、くるりと俺の方を見る。
「浅野くんが嫌じゃなければ、ですけど」
「嫌な理由、どこにあるんだよ」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ、続けよう。甘え時間」
「やった」
星宮は、小さくガッツポーズをした。足首はちゃんと伸ばしたまま。
「じゃあ今日から、“放課後甘え習慣”始まりました、ですね」
「なんか健康番組みたいなタイトルだな」
「甘えは心の健康ですから」
「それっぽいこと言うな」
そんなふうに笑い合っていると、廊下の方から人の気配がした。
「やべ」
「え、誰か来ます?」
「たぶん山田」
「なんで分かるんですか」
「足音がだらしない」
「観察魔法使いさん、本当に何でも見てますね……」
ドアの前を、スニーカーがずるずると通り過ぎていく音がした。
星宮は机の上でぐっと身を縮める。
「ば、ばれたらどうしましょう」
「別に、クラスメイトと空き教室でだべってるだけだろ。健全では?」
「“健全”って言葉で隠しきれないドキドキがあるんですけど……」
「それは星宮の心の問題だな」
「ひどい」
でも、ここが「ただの空き教室」である限り、俺たちの関係は、クラスメイトの延長線上のままだ。
それでいい。
そのうえで、俺たちだけが共有している秘密が一つある。
彼女が絶対的アイドルで、足首の怪我を隠すのが下手で、甘えるのが少しずつ上手くなってきている、ということ。
「浅野くん」
「ん」
「さっき先生に、『友だち連れてきてえらいわね』って言われましたよね」
「ああ」
「浅野くんは、“友だち”でいてくれますか? 私の」
その問いかけは、妙に慎重で、妙に重みがあった。
「アイドルとしてでも、ファンとしてでもなくて。クラスメイトとしてでもなくて。ちゃんと、『普通の星宮こころの友だち』として」
俺は少しだけ考えてから、答える。
「友だち以上は、ダメ?」
星宮の目が、一瞬だけきょとんとした。
「……い、以上?」
「いや、その。今のところは“友だち”でいいけど。いつか、“友だち以上”って呼び方が似合う関係になっても、いいんじゃないかなって」
自分で言って、自分で顔が熱くなるのが分かる。
星宮は、しばらく口をぱくぱくさせていた。
「……それは、その。甘え上手になってから考えます」
「ハードル高くない?」
「高いです。でも、浅野くんがちゃんと“見てくれる人”だから、頑張ろうかなって」
彼女は、少しだけ照れたように笑った。
「だから、とりあえず今は、“放課後に甘えてもいい友だち”で」
「分かった」
俺はうなずく。
「じゃあ俺も、“放課後に甘えられてもちゃんと受け止める練習中の友だち”ってことで」
「長いですね、その肩書き」
「お前が先に“観察魔法使いさん”とかつけるからだろ」
「あれは気に入ってるので、これからも使います」
「やめろって」
でも、心のどこかでは。
その称号を、少しだけ誇らしく思っている自分がいた。
――誰も気づかない揺れに気づいて、必要なときにはちゃんと「保健室行こう」と言える人。
そんなふうに、彼女の目に映っているのだとしたら。
その役割は、思っていたよりずっと、悪くない。
窓の外の空は、昨日より少しだけ明るい色をしていた。
きっとこれから、何度も放課後を重ねていく。
甘える練習と、受け止める練習と。
普通でいる練習を、一緒に。
――こうして、「放課後の甘え時間」は、静かに、でも確かに、俺たちの習慣になっていった。
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