絶対的アイドルは、放課後だけ甘えたい
桃神かぐら
第1話 クラスの地味女子、嘘が下手すぎて国民的アイドルなのがバレそうです
四月の朝の教室は、だいたいいつも同じ匂いがする。
黒板消しのチョークの粉と、ワックスの残り香と、まだ使い慣れていない一年生の新しい制服の布の匂いが、廊下からふわっと流れ込んでくる。
俺――浅野颯太は、その匂いを吸い込みながら、自分の席にカバンを置いた。
窓際の三列目。前には、やたら寝癖のひどい男子。後ろには、朝からテンション高めの女子二人組。たぶん、このクラスの“普通”ど真ん中あたりに俺はいる。
出席番号も真ん中。成績も真ん中。運動できなくもないけど、特別できるわけでもない。
――普通。平凡。モブ。
そんな言葉でまとめられても文句は言えない人生だ。
「おはよー、颯太」
横から軽く肩を叩かれて振り向くと、同じく“普通寄り”の友人・山田があくびを噛み殺していた。
「……おはよ。今日も眠そうだな」
「昨日ゲームしてたら三時になっててさ。人間って意外と起きてられるんだなって」
「それ、テスト前に気づいてればよかったな」
「名言っぽく言わないでくれない?」
くだらない会話をしながら、なんとなく教室を眺める。
黒板前では、うるさい二人組男子が今日のネタを相談中。窓際の一番後ろでは、ギャルっぽい女子がスマホでSNSをチェックしている。その隣では、真面目そうなメガネ男子が朝読書。班ごとに空気がぜんぜん違うのが、眺めていてちょっと面白い。
……で、視線は自然と、ある一角に止まる。
窓際の、いちばん前から二番目の席。
そこに座っているのが、星宮こころだ。
肩にかかるくらいの茶色がかった髪。やわらかそうな前髪を、時々指でそっと直す癖。授業が始まる前からノートを開いていて、シャーペンはきちんと並び、消しゴムの角はまだそんなに潰れていない。
地味、と言えば地味なのかもしれない。
派手なアクセサリーもしていないし、話しかけられてもしょっちゅう笑顔――というわけでもない。どちらかと言えば、控えめで静かな“いい子”。
男子の間でも、女子の間でも、話題にのぼることはそんなにない。
ただ、俺の目から見ると、少しだけ気になるところがあった。
――仕草が、いちいち綺麗だ。
プリントを取るときの指の動き。教科書を開くときの手首の角度。椅子から立ち上がるとき、机に手をつく位置。
無駄がない。妙に洗練されている。
普通の高校生って、もっと雑だ。プリントはばさっと取るし、教科書は乱暴にめくるし、立ち上がるときはガタッと椅子を鳴らす。
でも星宮は、いつも“音を立てない”。
それは、たぶん意識してそうしているわけじゃない。癖になっている動きだ。
俺は、そういうところばかり目につく。
……たぶん、昔からの癖だ。
小さいとき、仕事で夜遅くに帰ってきた母さんは、よく「大丈夫だよ」と笑った。その笑顔の前と後で、目の奥の色が少しだけ違うのを俺は知っている。
それが気になって、表情を見る癖がついた。
笑ってるけど、本当に楽しそうかどうか。声のトーンは無理していないか。指先が落ち着きなく動いていないか。
そんなふうに、いつの間にか“人の揺れ”ばかり見てしまうようになった。
だからこそ。
星宮こころの笑顔が、ちょっとだけ気になっていた。
「……また見てる」
横から山田の声がした。
「何を」
「星宮さん。お前、絶対好きだろあの子」
「いや、そういうんじゃない」
「嘘つけ。視線が毎朝ルーティン化してんぞ。体内時計かよ」
「いや違うから。なんか、動きが変だなって思って」
「動きが変って告白の理由にしたら振られるからやめとけ」
山田はケラケラ笑っている。こいつは人の“揺れ”とかあまり興味ないタイプだ。いい意味で鈍感で、だからこそクラスでうまくやれている。
俺は適当に受け流しながら、もう一度星宮を見る。
ちょうどそのとき。前の席の男子が、机の上から消しゴムを落とした。
「あ」
転がる消しゴム。床に落ちる――その、瞬間。
星宮の右手が、ふわっと伸びた。
一見、なんの躊躇いもない自然な動き。でもその位置、そのタイミング、その角度。
……物理法則と反射神経にケンカ売ってないか?
消しゴムは、彼女の指先にぴたりと収まる。
「はい、落としましたよ」
にこっと、小さく笑って前の男子に渡す星宮。男子は照れくさそうに礼を言っている。
周りの女子が、「星宮さんって器用だよねー」とのんきに言う。
いやいやいや。今のを「器用」で片付けるなよ。お前らの視力どうなってんだ。
俺は心の中で総ツッコミを入れつつ、星宮の横顔を盗み見る。
笑っている。いつも通りの、きれいな笑顔だ。
ただ――目の奥だけ、ほんの少し、緊張しているように見えた。
消しゴムをキャッチしたことじゃなくて、「自然に見せないといけない」という緊張。慣れているはずの笑顔の筋肉が、ほんの少し硬い。
……おかしいな。
朝からそんなに意識して笑わないといけない高校生活って、あるか?
チャイムが鳴って、担任が入ってきた。
いつも通りの日常が、そのまま始まる――はずだった。
◇
一時間目。現代文。
教科書の音読を当てられた星宮の声は、やっぱり綺麗だ。
綺麗すぎる。
音程は抑揚があるのに聞き取りやすく、声量は大きくないのに後ろまで通る。教室という狭い箱の中で響くのに、耳が痛くならないちょうどいいボリューム。
先生も「うん、聞き取りやすいね」と満足げだ。
……いや、多分それ、満足してる場合じゃないやつですよ先生。
俺は思う。
これ、素人の出せる声量と響き方じゃない。
二時間目。体育。
今日は体育館で、バスケットボール。
星宮は、球技の授業が始まる直前まで、体育座りをしてじっとボールを見ていた。
それが、合図を聞いた途端、スイッチを入れたみたいに立ち上がる。
「じゃあ適当に二人組作ってー」
先生の号令で、クラスメイトたちが「あ、組もー」「お願いー」とざわつく。
俺は山田と組むことになった――んだけど。
「うおっ」
視界の端で、軽い音がした。
星宮がドリブルを始めたのだ。
ぽん、ぽん、ぽん。
リズムが一定で、姿勢がまっすぐ。目線は前を向いていて、ボールは視界の端で見ている程度。女子のドリブルって、もっとバウンドが荒くてボールがあっちこっち飛ぶものだと思っていた。
なのに。
ここまで安定していると、もはや“スポーツ少女”のそれじゃない。
なんというか……テレビで見るプロ選手のフォームに近い。
「なあ、山田」
「ん?」
「あれ見て、何か思わない?」
「星宮さん? 運動神経いいんだなーって。あと体力ありそう。オレにはない」
「感想が雑だな」
山田はボールをぽんぽんしながら笑う。
「いいじゃん。凄いけど、そういう子ってたまにいるだろ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
俺は一歩距離を取りながら、星宮の動きを目で追う。
ドリブル。切り返し。シュート。フォームが綺麗なのは、練習した人間の動きだ。筋肉に染み込むまで繰り返した動き。
それと、さっきから気になっていることがもう一つ。
――息が乱れていない。
体育の授業って、だいたい周りから「はぁ、しんど」とか「もう無理」みたいな声が聞こえてくるものだ。でも星宮は、一人だけ静かに淡々と動いている。額に少し汗を浮かべている以外、息苦しそうな素振りがない。
なのに、休憩のとき。
「みんなー、ちょっと休憩にしようかー」
先生の合図で、クラス全員が一斉に座り込む。
星宮も、すっとその場に腰を下ろした。
そのときの顔。
たぶん、クラスで俺だけが見た表情だ。
一瞬だけ、彼女の眉がほんの少し寄って、口元がきゅっと結ばれる。
疲れじゃない。痛みの顔だ。
左足首のあたりを、そっと手で押さえる。
でも周りの誰も気づいていない。
「星宮さん、すごいねー」
「運動部だったりするの?」
周りの女子が声をかけると、星宮は、さっきの痛みの顔を完全に消して、ふわっと微笑んだ。
「いえ、そんなことないですよ。ちょっと、昔ダンスを習ってただけで……」
声は柔らかくて、笑顔は完璧。
……ただし、呼吸はほんの少し早い。太腿の内側に力が入っている。足首を押さえていた手は、まだわずかに震えている。
それを顔に出さないようにしているのが、透けて見えた。
――無理、してるな。
俺は、見なかったふりをした。
まだここでは、何も言えない。
◇
放課後。階段の踊り場。
「で、結局お前、星宮さんのことどう思ってんの?」
山田がまた、その話を蒸し返してくる。
「だから、別にそういうんじゃないって」
「そういうんじゃないって何だよ。じゃあどういうんだよ」
「えーと……」
言葉に詰まる。
“気になる”のは確かだ。でもそれが恋かと言われると、まだよく分からない。
ただ一つ言えるのは。
「……なんか、その。普通じゃないな、って」
「お、出た。“普通じゃない”いただきましたー」
山田がどこかのワイドショーのレポーターみたいなノリで言う。
「ごめんねー、お友達が急に意味深な発言しちゃってねー」
「そういう意味じゃなくてだな」
俺は溜め息をついて、窓から校舎の中庭を見下ろした。
今日も、明日も、たぶんこの先も、日常は続いていく。その中で、俺はきっと“普通の男子A”として、右へ左へ流されていくのだろう。
――そのはずだった。
「悪い、先行ってて。俺、忘れ物したかも」
「またかよ。いいけど、あんまり長引かせんなよー」
山田と別れて、俺は教室に戻ることにした。
机の中にノートを入れっぱなしにした気がする。明日の小テストの範囲が書いてあるやつだ。
廊下を歩くと、夕方の光が窓ガラス越しに差し込んでいる。西日ってやつは、どうしてこう、ありふれた景色を少しだけドラマチックに見せるんだろう。
自分の教室の前まで来て、扉をそっと開ける。
ガラッ――と音が鳴る前に、すこし力を抜いて押す。こうすると、案外静かに開くのだ。
中には、誰もいない……わけではなかった。
窓際の席に、誰かがいる。
星宮こころだった。
彼女は机に突っ伏していた。顔は横を向いていて、頬に腕を乗せるような形で伏せている。窓から差し込むオレンジ色の光が、髪の毛の輪郭をふわりと照らし出していた。
眠っているのか、ぼんやりしているのか、その表情はここからでは分からない。
ただ、いつもの“クラスの星宮こころ”とは雰囲気が違った。
背中の丸め方が、少しだけ子どもっぽい。
肩の力が抜けていて、どこか安心しているように見える。
……帰ろうか、声をかけようか、一瞬迷う。
そのときだった。
かすかな音が聞こえた。
「……♪」
歌だ。
鼻歌よりはっきりしている。けれど、誰かに聞かせるための声ではない、小さなメロディ。
それは、最近テレビで何度も耳にしている楽曲だった。
国民的アイドルグループ《Hoshino*》の最新シングル。
サビの部分だけじゃない。Aメロ、Bメロ、間奏明けのブリッジまで、すべて音程が外れない。歌詞は普通に口ずさんでいるだけなのに、どこかでマイクを握って歌っている姿がそのまま浮かぶくらい、声の乗せ方が“出来上がっている”。
そして何より。
音程の揺れが、ない。
人間が適当に歌うと、大抵どこかで微妙なズレが出る。音程がくいっと上がったり、下がったり。でも星宮の歌声には、それがほとんどない。
それはもう、“練習で擦り切れるほど歌った人間の声”だ。
俺は、教室の入り口で固まっていた。
そのまま聞いていたい気持ちもあった。でも、盗み聞きしているみたいで後ろめたい。
だから、そーっと後ずさって――
机の脚に足を引っ掛けた。
「っ……」
ガタンッ。
静かな教室に、やけに大きな音が響き渡る。
完全に、やらかした。
星宮が、びくっと肩を震わせて顔を上げる。
目が合った。
「――っ!」
星宮の目が、まん丸になる。普段の落ち着いた表情からは想像できないくらい、分かりやすく驚いている。
「あ、ご、ごめん。忘れ物取りに来ただけで、その……」
言い訳が口から勝手に滑り出る。
慌てて教室に入り、机に向かう。その途中で、床に小さなケースが落ちているのが目に入った。
拾い上げてみると、それは白いプラスチックのケース。中には、耳にかけるタイプの小さな機械が収まっている。
イヤホン……にしては形が特殊だ。耳の後ろに回すフックが付いている。
そして、ケースのふたの裏側に。
黒いマジックで書かれた文字。
《Hoshino* 星宮こころ》
「……………………」
思考が真っ白になる、というのはこういうことなんだろう。
目をこすって見直しても、文字は変わらない。
テレビで何度も見た、キラキラしたステージ。センターで歌っている女の子。観客の歓声。ニュース番組で「いま最も勢いのある国民的アイドルグループ」と紹介されていたその名前。
――Hoshino*
その隣に書かれている名前は。
星宮こころ。
俺のクラスメイトの名前だ。
「あっ、それ……!」
星宮が、椅子から飛び上がるように立ち上がった。さっきの体育よりも素早い動きだ。
俺は条件反射で手を離しそうになって、かろうじて堪える。ケースを落としたら洒落にならない。
「これ、星宮の?」
「え、えっと……」
星宮は一瞬こちらを見て、視線を泳がせる。あからさまに動揺している。普段の落ち着いた物腰はどこへ行ったんだ。
そして、震える声で言った。
「そ、それは……あの。イヤホンの、親戚……みたいな?」
「親戚?」
「はい……いとこ……?」
いや、イヤホンに家系図あるのかよ。
心の中で全力ツッコミを入れながら、俺は彼女の顔を見た。
声はいつもより半音高い。これは、取り繕っているときの声だ。
指先はぎゅっと握りしめられている。これは、不安でどうしていいか分からないときの手。
目の奥は、洒落にならないくらい揺れている。これは、「バレたくない何か」が露呈しかけているときの顔。
――ああ。
やっぱり、そういうことか。
俺は、そっとケースを星宮に差し出した。
「落としたよ。名前、書いてあるし。……その、Hoshino*ってやつの」
「っ……」
星宮は一瞬息を飲む。それから、きゅっと唇を結んで、ケースを両手で受け取った。
その手は、小さく震えていた。
「浅野くん」
「なに」
「……今の、その……見た?」
「見たね」
「聞いた?」
「まあ、ちょっとだけ」
俺は、できる限り穏やかな声で返す。
星宮は、しばらく俯いたまま固まっていた。
教室の中に、夕方の光と、時計の秒針の音だけが満ちる。外からは、部活に向かう生徒の足音と、グラウンドから聞こえる掛け声がかすかに聞こえてくる。
やがて、星宮は意を決したように顔を上げた。
「……屋上、行かない?」
「え」
「ここだと、誰か来るかもしれないから」
目は、覚悟を決めた人間の目だった。
◇
屋上に出ると、風が思ったより冷たかった。
春の終わりかけの夕方は、見た目より空気が冷える。フェンス越しに見える空は、オレンジと青の境目で、雲の端っこが赤く染まっている。
星宮は、フェンスに近づきすぎない距離で立ち止まり、深く息を吸った。
「……さっきは、ごめんなさい」
最初の一言が、それだった。
俺は少し意外に思う。
「謝ること、あったか?」
「あります。だって、その……隠してたから」
星宮は、ケースをぎゅっと握りしめたまま言う。
「本当のこと、ずっと言わないで、普通のクラスメイトのふりしてて。浅野くんに気づかれちゃって。……ごめんなさい」
声が少し震えている。さっき教室で聞いた歌声よりも、よほど心の揺れが伝わってくる声だ。
「怒ってる?」と、彼女は小さく続けた。
怒ってるどころか、俺は混乱していた。
いや、混乱の中にも妙な納得感がある。あの動き。あの声。あの笑顔。全部が一つの線で繋がった瞬間の、変な気持ち悪さと爽快感。
「……怒ってはないよ」
俺は正直にそう言った。
「ただ、驚いてるだけ」
「驚くよね……うん、驚くよね……」
星宮は苦笑した。いつもの“クラスメイト用”の笑顔じゃなくて、どこか力の抜けた、素の笑い方に近い。
「一応、その……事務所の人には『高校生活は普通でいいから』って言われてて。バレないようにする練習もしたんだけど……」
「練習?」
「はい。学校では声のトーンを落とすとか、身振りを小さくするとか、あんまり人前で歌わないとか」
「いや、さっき普通に歌ってたけど?」
「あっ……」
星宮は顔を真っ赤にした。
「鼻歌はセーフって……自分で勝手に決めてました……」
「ルールゆるくない?」
思わずツッコミが口をついて出る。
星宮は俯いて、指先でケースの端っこをいじった。落ち着かないときの仕草だ。
その手が、さっきからずっと小刻みに震えているのに、本人は気づいていないみたいだった。
「……笑った?」
「いや、ちょっとだけ」
「ちょっとだけってどれくらいですか?」
「心の中で五割くらい」
「けっこう笑ってますよねそれ」
思わず、二人で笑ってしまう。
さっきまであった屋上の冷たい空気が、少しだけ和らいだ気がした。
笑いが落ち着いたところで、俺はふと気になっていたことを口にした。
「ねえ、星宮」
「はい」
「その……なんで、そこまでして隠してるんだ?」
彼女は、一瞬目を見開いた。
そしてゆっくりと、フェンスの向こうの空を見上げた。
「だって……」
小さな声で呟く。
「ここでは、“ただの星宮こころ”でいたいから」
その言葉には、変な飾りがなかった。
アイドルらしいキラキラしたフレーズでもなく、ステージ上の決め台詞でもなく、素直な本音。
「ステージに立ってるときの私は、みんなの星宮こころで。テレビの中の私は、誰かの推しで。握手会のときの私は、ファンの人たちのアイドルで」
指先が、きゅっとケースを握りしめる。
「それはすごく嬉しいし、楽しいし、大切な場所なんですけど……。たまに、分からなくなっちゃうんです」
「分からなく?」
「“本当の自分”って、どこにいるんだろう、って」
横顔は夕焼けに照らされていて、さっきまで教室で見ていたおとなしい星宮とも、テレビで見るであろうキラキラの星宮とも違って見えた。
目の奥に、少しだけ疲れが差している。
ああ、この表情だ。
今日一日の中で、俺が一番気になっていた“揺れ”の正体。
「だから、学校だけは……普通の子でいたくて。友だちと宿題の話したり、先生の愚痴言ったり、体育でバスケして足ひねったり」
「ひねってたんだ、やっぱり」
「見てたんですか!?」
星宮が振り返る。驚きすぎて、髪がふわっと揺れた。
「いや、だって顔がちょっと痛そうだったし。足首も押さえてたし」
「……観察力高すぎません?」
「昔から、そういうの気になっちゃって」
俺は肩をすくめる。
「母さんがよく『大丈夫』って笑う人でさ。その笑顔が本当に大丈夫かどうか、ずっと気にしてたら、目の奥の色とか、指の動きとか、いろいろ見る癖がついた」
「目の奥の色……」
「だからさっきのも、見てた」
星宮の目が、少しだけ揺れる。
「さっき教室で笑ったときの顔。あれ、多分“仕事用の顔”だよね」
「……」
「体育のときも。足首痛いの隠してたよね」
「…………はい」
小さくうなずく。
そのときの星宮の表情には、“諦め”と“少しの安心”が混ざっていた。
「だから、隠すの、たぶんもう難しいよ。少なくとも俺には」
そう言うと、星宮は目を丸くして、次の瞬間――
「ごめんなさいぃぃいいいい!!」
勢いよく頭を下げた。え、土下座いく? いくの? やめて、屋上で土下座は目立つから。
「そんなつもりじゃなかったのに……! バレないって思ってたのに……!! 事務所の人にも『学生生活は普通でいいから、バレそうになったら上手くごまかしてね』って言われてたのに……!!」
「事務所、信用しすぎじゃない?」
「ごまかせてなかったですか……?」
「うん。残念ながら、嘘めちゃくちゃ下手だと思う」
「そんな自信満々に言わなくても……」
星宮はしょんぼり肩を落とした。
俺は慌てて付け加える。
「でも、別に責めたいわけじゃないから」
「……え?」
「隠してたことも、アイドルってことも。怒ってないよ」
星宮は、ゆっくりと顔を上げた。
目が、驚きと戸惑いで揺れている。
「怒って……ない?」
「なんで怒る必要があるんだよ」
「だって、その……騙してたし……」
「騙すってほどでもないだろ。別に『私は絶対アイドルじゃありません』って宣言してたわけでもないし」
「いやでも……」
「それにさ」
俺は、星宮の目をまっすぐ見る。
「ここでアイドルだってバレたら、面倒なこといっぱいあるだろ」
「……いっぱいありますね」
「ファンとか、押しかけてくるかもしれないし」
「こわい……」
「教師にも何か言われるかもしれないし」
「こわい……」
「クラスで変な空気になるかもしれないし」
「それはいちばんこわい……」
星宮は肩を抱くようにして震えた。本気で嫌そうな顔だ。
その表情を見て、俺は少しだけ笑った。
「じゃあ、言わないよ。誰にも」
「え」
「星宮がアイドルだってことも、俺が知ってるってことも。全部、黙ってる」
当たり前のように言った。
星宮の瞳が、さらに揺れる。
「……どうして?」
「どうしてって」
俺は、少し言葉を選ぶ。
観察するのは得意だけど、自分の気持ちを言葉にするのはあんまり得意じゃない。
「だって星宮、さっき言ってたろ」
「え?」
「ここでは“普通の星宮こころ”でいたいって」
「あ……」
「それ、壊すの嫌だから」
シンプルに、それだけだ。
彼女が“普通”でいたい場所なら、そうさせてやればいい。俺が余計なことを言って、その日常をドロドロにするのは、なんか違う。
「それに、俺が誰かに『実はうちのクラスにHoshino*がいてさ』とか言っても、信じてもらえないだろ。適当に聞き流されて終わりだよ」
「それは……まあ、そうかもしれないですけど」
「だから平気。星宮の“普通”は、ちゃんと守る」
そう言うと、星宮はぽかんと俺を見つめた。
数秒後。
「…………ずるいです」
「え、何が」
「そういうこと言われると、なんか……甘えたくなっちゃうじゃないですか」
頬を少し赤くしながら、彼女は呟いた。
さっきまで震えていた指先から、力が抜けていくのが見える。肩の力も、ほんの少し落ちた。
その変化が、俺にははっきり分かった。
――ああ、今の顔の方が、ずっと“本当”に近い。
俺が黙っている間に、夕焼けの色が少しずつ濃くなっていく。
風が吹いて、星宮の髪が揺れた。
「ねえ、浅野くん」
「ん」
「一つ……お願い、してもいいですか」
星宮は、慎重に言葉を選ぶようにして話す。
「放課後だけでいいから……浅野くんの前だけは、“普通の星宮こころ”でいてもいいですか?」
その声は、さっきまでのどんな声よりも小さくて、どんな歌よりも真っ直ぐだった。
「アイドルじゃなくて、センターでもなくて、『絶対的』とか言われる誰かでもなくて。ちょっと怖がりで、ちょっと緊張しぃで、ちょっと甘えたくなる、ただの……」
そこで言葉が途切れた。
目の奥が、少しだけ潤んでいる。笑顔は作ろうとしていない。むしろ、作る余裕がないくらい、本気で俺に問いかけている。
うまく笑えない顔って、こんなに子どもっぽくて、こんなに人間らしいんだな、と変なことを考えてしまう。
「……いいよ」
気づいたら、口が勝手に答えていた。
「放課後だけじゃなくてもいいけど、まあ、放課後は特に。いくらでも普通でいればいい」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「甘えても?」
「……まあ、ほどほどに」
「ほどほどってどれくらいですか」
「俺が潰れないくらい」
「じゃあ、けっこう大丈夫そうですね」
「人を丈夫な家具みたいに言うな」
二人で、ふっと笑う。
笑いながらも、俺は心の中で一つだけ決めた。
――この子が無理して笑っているときは、ちゃんと気づいてあげよう。
目の奥の色。声のトーン。指先の震え。歩幅の変化。
俺にしか見えない“揺れ”なら、俺が拾えばいい。
「浅野くん」
「なに」
「さっき、教室で歌ってたの、聞こえちゃいましたよね」
「まあ、少しだけ」
「えへへ……恥ずかしい……」
星宮は頬を押さえた。
「でも、浅野くんが聞いてたなら、まあ……いっか」
「その基準はよく分からないけど、まあいいや」
「今度、ちゃんと歌ってあげますね」
「え」
「その代わり、浅野くんも、ちょっとだけハモり練習付き合ってください」
「いや、俺音痴なんだけど」
「大丈夫です。私、教えるの得意なので」
にこっと笑う。
その笑顔は――さっきまで見てきたどの“仕事用スマイル”より、ずっと柔らかかった。
俺は、なんだか少し胸のあたりが熱くなるのを感じながら、空を見上げた。
夕焼けは、さっきよりも赤くなっている。
日常と非日常の境目みたいな色だ。
教室の中で、俺はいつも通り“普通の男子A”でいるだろう。星宮こころは、いつも通り“静かな女子”としてそこに座っているだろう。
でも、その裏側で。
放課後の屋上で。
俺だけが知っている顔で、彼女は笑うのかもしれない。
それは、クラスの誰も知らない秘密だ。
テレビの向こう側のファンでさえ知らない、星宮こころの“本当の顔”。
――たぶん、今日。
この日を境に。
俺の“普通”と、彼女の“絶対”は、少しずつ重なり始めるのだろう。
そんな予感が、夕焼けの色と一緒に、じわりと胸に広がっていった。
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