絶対的アイドルは、放課後だけ甘えたい

桃神かぐら

第1話 クラスの地味女子、嘘が下手すぎて国民的アイドルなのがバレそうです

 四月の朝の教室は、だいたいいつも同じ匂いがする。


 黒板消しのチョークの粉と、ワックスの残り香と、まだ使い慣れていない一年生の新しい制服の布の匂いが、廊下からふわっと流れ込んでくる。


 俺――浅野颯太は、その匂いを吸い込みながら、自分の席にカバンを置いた。


 窓際の三列目。前には、やたら寝癖のひどい男子。後ろには、朝からテンション高めの女子二人組。たぶん、このクラスの“普通”ど真ん中あたりに俺はいる。


 出席番号も真ん中。成績も真ん中。運動できなくもないけど、特別できるわけでもない。


 ――普通。平凡。モブ。


 そんな言葉でまとめられても文句は言えない人生だ。


「おはよー、颯太」


 横から軽く肩を叩かれて振り向くと、同じく“普通寄り”の友人・山田があくびを噛み殺していた。


「……おはよ。今日も眠そうだな」


「昨日ゲームしてたら三時になっててさ。人間って意外と起きてられるんだなって」


「それ、テスト前に気づいてればよかったな」


「名言っぽく言わないでくれない?」


 くだらない会話をしながら、なんとなく教室を眺める。


 黒板前では、うるさい二人組男子が今日のネタを相談中。窓際の一番後ろでは、ギャルっぽい女子がスマホでSNSをチェックしている。その隣では、真面目そうなメガネ男子が朝読書。班ごとに空気がぜんぜん違うのが、眺めていてちょっと面白い。


 ……で、視線は自然と、ある一角に止まる。


 窓際の、いちばん前から二番目の席。


 そこに座っているのが、星宮こころだ。


 肩にかかるくらいの茶色がかった髪。やわらかそうな前髪を、時々指でそっと直す癖。授業が始まる前からノートを開いていて、シャーペンはきちんと並び、消しゴムの角はまだそんなに潰れていない。


 地味、と言えば地味なのかもしれない。


 派手なアクセサリーもしていないし、話しかけられてもしょっちゅう笑顔――というわけでもない。どちらかと言えば、控えめで静かな“いい子”。


 男子の間でも、女子の間でも、話題にのぼることはそんなにない。


 ただ、俺の目から見ると、少しだけ気になるところがあった。


 ――仕草が、いちいち綺麗だ。


 プリントを取るときの指の動き。教科書を開くときの手首の角度。椅子から立ち上がるとき、机に手をつく位置。


 無駄がない。妙に洗練されている。


 普通の高校生って、もっと雑だ。プリントはばさっと取るし、教科書は乱暴にめくるし、立ち上がるときはガタッと椅子を鳴らす。


 でも星宮は、いつも“音を立てない”。


 それは、たぶん意識してそうしているわけじゃない。癖になっている動きだ。


 俺は、そういうところばかり目につく。


 ……たぶん、昔からの癖だ。


 小さいとき、仕事で夜遅くに帰ってきた母さんは、よく「大丈夫だよ」と笑った。その笑顔の前と後で、目の奥の色が少しだけ違うのを俺は知っている。


 それが気になって、表情を見る癖がついた。


 笑ってるけど、本当に楽しそうかどうか。声のトーンは無理していないか。指先が落ち着きなく動いていないか。


 そんなふうに、いつの間にか“人の揺れ”ばかり見てしまうようになった。


 だからこそ。


 星宮こころの笑顔が、ちょっとだけ気になっていた。


「……また見てる」


 横から山田の声がした。


「何を」


「星宮さん。お前、絶対好きだろあの子」


「いや、そういうんじゃない」


「嘘つけ。視線が毎朝ルーティン化してんぞ。体内時計かよ」


「いや違うから。なんか、動きが変だなって思って」


「動きが変って告白の理由にしたら振られるからやめとけ」


 山田はケラケラ笑っている。こいつは人の“揺れ”とかあまり興味ないタイプだ。いい意味で鈍感で、だからこそクラスでうまくやれている。


 俺は適当に受け流しながら、もう一度星宮を見る。


 ちょうどそのとき。前の席の男子が、机の上から消しゴムを落とした。


「あ」


 転がる消しゴム。床に落ちる――その、瞬間。


 星宮の右手が、ふわっと伸びた。


 一見、なんの躊躇いもない自然な動き。でもその位置、そのタイミング、その角度。


 ……物理法則と反射神経にケンカ売ってないか?


 消しゴムは、彼女の指先にぴたりと収まる。


「はい、落としましたよ」


 にこっと、小さく笑って前の男子に渡す星宮。男子は照れくさそうに礼を言っている。


 周りの女子が、「星宮さんって器用だよねー」とのんきに言う。


 いやいやいや。今のを「器用」で片付けるなよ。お前らの視力どうなってんだ。


 俺は心の中で総ツッコミを入れつつ、星宮の横顔を盗み見る。


 笑っている。いつも通りの、きれいな笑顔だ。


 ただ――目の奥だけ、ほんの少し、緊張しているように見えた。


 消しゴムをキャッチしたことじゃなくて、「自然に見せないといけない」という緊張。慣れているはずの笑顔の筋肉が、ほんの少し硬い。


 ……おかしいな。


 朝からそんなに意識して笑わないといけない高校生活って、あるか?


 チャイムが鳴って、担任が入ってきた。


 いつも通りの日常が、そのまま始まる――はずだった。


     ◇


 一時間目。現代文。


 教科書の音読を当てられた星宮の声は、やっぱり綺麗だ。


 綺麗すぎる。


 音程は抑揚があるのに聞き取りやすく、声量は大きくないのに後ろまで通る。教室という狭い箱の中で響くのに、耳が痛くならないちょうどいいボリューム。


 先生も「うん、聞き取りやすいね」と満足げだ。


 ……いや、多分それ、満足してる場合じゃないやつですよ先生。


 俺は思う。


 これ、素人の出せる声量と響き方じゃない。


 二時間目。体育。


 今日は体育館で、バスケットボール。


 星宮は、球技の授業が始まる直前まで、体育座りをしてじっとボールを見ていた。


 それが、合図を聞いた途端、スイッチを入れたみたいに立ち上がる。


「じゃあ適当に二人組作ってー」


 先生の号令で、クラスメイトたちが「あ、組もー」「お願いー」とざわつく。


 俺は山田と組むことになった――んだけど。


「うおっ」


 視界の端で、軽い音がした。


 星宮がドリブルを始めたのだ。


 ぽん、ぽん、ぽん。


 リズムが一定で、姿勢がまっすぐ。目線は前を向いていて、ボールは視界の端で見ている程度。女子のドリブルって、もっとバウンドが荒くてボールがあっちこっち飛ぶものだと思っていた。


 なのに。


 ここまで安定していると、もはや“スポーツ少女”のそれじゃない。


 なんというか……テレビで見るプロ選手のフォームに近い。


「なあ、山田」


「ん?」


「あれ見て、何か思わない?」


「星宮さん? 運動神経いいんだなーって。あと体力ありそう。オレにはない」


「感想が雑だな」


 山田はボールをぽんぽんしながら笑う。


「いいじゃん。凄いけど、そういう子ってたまにいるだろ」


「……まあ、そうかもしれないけど」


 俺は一歩距離を取りながら、星宮の動きを目で追う。


 ドリブル。切り返し。シュート。フォームが綺麗なのは、練習した人間の動きだ。筋肉に染み込むまで繰り返した動き。


 それと、さっきから気になっていることがもう一つ。


 ――息が乱れていない。


 体育の授業って、だいたい周りから「はぁ、しんど」とか「もう無理」みたいな声が聞こえてくるものだ。でも星宮は、一人だけ静かに淡々と動いている。額に少し汗を浮かべている以外、息苦しそうな素振りがない。


 なのに、休憩のとき。


「みんなー、ちょっと休憩にしようかー」


 先生の合図で、クラス全員が一斉に座り込む。


 星宮も、すっとその場に腰を下ろした。


 そのときの顔。


 たぶん、クラスで俺だけが見た表情だ。


 一瞬だけ、彼女の眉がほんの少し寄って、口元がきゅっと結ばれる。


 疲れじゃない。痛みの顔だ。


 左足首のあたりを、そっと手で押さえる。


 でも周りの誰も気づいていない。


「星宮さん、すごいねー」


「運動部だったりするの?」


 周りの女子が声をかけると、星宮は、さっきの痛みの顔を完全に消して、ふわっと微笑んだ。


「いえ、そんなことないですよ。ちょっと、昔ダンスを習ってただけで……」


 声は柔らかくて、笑顔は完璧。


 ……ただし、呼吸はほんの少し早い。太腿の内側に力が入っている。足首を押さえていた手は、まだわずかに震えている。


 それを顔に出さないようにしているのが、透けて見えた。


 ――無理、してるな。


 俺は、見なかったふりをした。


 まだここでは、何も言えない。


     ◇


 放課後。階段の踊り場。


「で、結局お前、星宮さんのことどう思ってんの?」


 山田がまた、その話を蒸し返してくる。


「だから、別にそういうんじゃないって」


「そういうんじゃないって何だよ。じゃあどういうんだよ」


「えーと……」


 言葉に詰まる。


 “気になる”のは確かだ。でもそれが恋かと言われると、まだよく分からない。


 ただ一つ言えるのは。


「……なんか、その。普通じゃないな、って」


「お、出た。“普通じゃない”いただきましたー」


 山田がどこかのワイドショーのレポーターみたいなノリで言う。


「ごめんねー、お友達が急に意味深な発言しちゃってねー」


「そういう意味じゃなくてだな」


 俺は溜め息をついて、窓から校舎の中庭を見下ろした。


 今日も、明日も、たぶんこの先も、日常は続いていく。その中で、俺はきっと“普通の男子A”として、右へ左へ流されていくのだろう。


 ――そのはずだった。


「悪い、先行ってて。俺、忘れ物したかも」


「またかよ。いいけど、あんまり長引かせんなよー」


 山田と別れて、俺は教室に戻ることにした。


 机の中にノートを入れっぱなしにした気がする。明日の小テストの範囲が書いてあるやつだ。


 廊下を歩くと、夕方の光が窓ガラス越しに差し込んでいる。西日ってやつは、どうしてこう、ありふれた景色を少しだけドラマチックに見せるんだろう。


 自分の教室の前まで来て、扉をそっと開ける。


 ガラッ――と音が鳴る前に、すこし力を抜いて押す。こうすると、案外静かに開くのだ。


 中には、誰もいない……わけではなかった。


 窓際の席に、誰かがいる。


 星宮こころだった。


 彼女は机に突っ伏していた。顔は横を向いていて、頬に腕を乗せるような形で伏せている。窓から差し込むオレンジ色の光が、髪の毛の輪郭をふわりと照らし出していた。


 眠っているのか、ぼんやりしているのか、その表情はここからでは分からない。


 ただ、いつもの“クラスの星宮こころ”とは雰囲気が違った。


 背中の丸め方が、少しだけ子どもっぽい。


 肩の力が抜けていて、どこか安心しているように見える。


 ……帰ろうか、声をかけようか、一瞬迷う。


 そのときだった。


 かすかな音が聞こえた。


「……♪」


 歌だ。


 鼻歌よりはっきりしている。けれど、誰かに聞かせるための声ではない、小さなメロディ。


 それは、最近テレビで何度も耳にしている楽曲だった。


 国民的アイドルグループ《Hoshino*》の最新シングル。


 サビの部分だけじゃない。Aメロ、Bメロ、間奏明けのブリッジまで、すべて音程が外れない。歌詞は普通に口ずさんでいるだけなのに、どこかでマイクを握って歌っている姿がそのまま浮かぶくらい、声の乗せ方が“出来上がっている”。


 そして何より。


 音程の揺れが、ない。


 人間が適当に歌うと、大抵どこかで微妙なズレが出る。音程がくいっと上がったり、下がったり。でも星宮の歌声には、それがほとんどない。


 それはもう、“練習で擦り切れるほど歌った人間の声”だ。


 俺は、教室の入り口で固まっていた。


 そのまま聞いていたい気持ちもあった。でも、盗み聞きしているみたいで後ろめたい。


 だから、そーっと後ずさって――


 机の脚に足を引っ掛けた。


「っ……」


 ガタンッ。


 静かな教室に、やけに大きな音が響き渡る。


 完全に、やらかした。


 星宮が、びくっと肩を震わせて顔を上げる。


 目が合った。


「――っ!」


 星宮の目が、まん丸になる。普段の落ち着いた表情からは想像できないくらい、分かりやすく驚いている。


「あ、ご、ごめん。忘れ物取りに来ただけで、その……」


 言い訳が口から勝手に滑り出る。


 慌てて教室に入り、机に向かう。その途中で、床に小さなケースが落ちているのが目に入った。


 拾い上げてみると、それは白いプラスチックのケース。中には、耳にかけるタイプの小さな機械が収まっている。


 イヤホン……にしては形が特殊だ。耳の後ろに回すフックが付いている。


 そして、ケースのふたの裏側に。


 黒いマジックで書かれた文字。


《Hoshino* 星宮こころ》


「……………………」


 思考が真っ白になる、というのはこういうことなんだろう。


 目をこすって見直しても、文字は変わらない。


 テレビで何度も見た、キラキラしたステージ。センターで歌っている女の子。観客の歓声。ニュース番組で「いま最も勢いのある国民的アイドルグループ」と紹介されていたその名前。


 ――Hoshino*


 その隣に書かれている名前は。


 星宮こころ。


 俺のクラスメイトの名前だ。


「あっ、それ……!」


 星宮が、椅子から飛び上がるように立ち上がった。さっきの体育よりも素早い動きだ。


 俺は条件反射で手を離しそうになって、かろうじて堪える。ケースを落としたら洒落にならない。


「これ、星宮の?」


「え、えっと……」


 星宮は一瞬こちらを見て、視線を泳がせる。あからさまに動揺している。普段の落ち着いた物腰はどこへ行ったんだ。


 そして、震える声で言った。


「そ、それは……あの。イヤホンの、親戚……みたいな?」


「親戚?」


「はい……いとこ……?」


 いや、イヤホンに家系図あるのかよ。


 心の中で全力ツッコミを入れながら、俺は彼女の顔を見た。


 声はいつもより半音高い。これは、取り繕っているときの声だ。


 指先はぎゅっと握りしめられている。これは、不安でどうしていいか分からないときの手。


 目の奥は、洒落にならないくらい揺れている。これは、「バレたくない何か」が露呈しかけているときの顔。


 ――ああ。


 やっぱり、そういうことか。


 俺は、そっとケースを星宮に差し出した。


「落としたよ。名前、書いてあるし。……その、Hoshino*ってやつの」


「っ……」


 星宮は一瞬息を飲む。それから、きゅっと唇を結んで、ケースを両手で受け取った。


 その手は、小さく震えていた。


「浅野くん」


「なに」


「……今の、その……見た?」


「見たね」


「聞いた?」


「まあ、ちょっとだけ」


 俺は、できる限り穏やかな声で返す。


 星宮は、しばらく俯いたまま固まっていた。


 教室の中に、夕方の光と、時計の秒針の音だけが満ちる。外からは、部活に向かう生徒の足音と、グラウンドから聞こえる掛け声がかすかに聞こえてくる。


 やがて、星宮は意を決したように顔を上げた。


「……屋上、行かない?」


「え」


「ここだと、誰か来るかもしれないから」


 目は、覚悟を決めた人間の目だった。


     ◇


 屋上に出ると、風が思ったより冷たかった。


 春の終わりかけの夕方は、見た目より空気が冷える。フェンス越しに見える空は、オレンジと青の境目で、雲の端っこが赤く染まっている。


 星宮は、フェンスに近づきすぎない距離で立ち止まり、深く息を吸った。


「……さっきは、ごめんなさい」


 最初の一言が、それだった。


 俺は少し意外に思う。


「謝ること、あったか?」


「あります。だって、その……隠してたから」


 星宮は、ケースをぎゅっと握りしめたまま言う。


「本当のこと、ずっと言わないで、普通のクラスメイトのふりしてて。浅野くんに気づかれちゃって。……ごめんなさい」


 声が少し震えている。さっき教室で聞いた歌声よりも、よほど心の揺れが伝わってくる声だ。


「怒ってる?」と、彼女は小さく続けた。


 怒ってるどころか、俺は混乱していた。


 いや、混乱の中にも妙な納得感がある。あの動き。あの声。あの笑顔。全部が一つの線で繋がった瞬間の、変な気持ち悪さと爽快感。


「……怒ってはないよ」


 俺は正直にそう言った。


「ただ、驚いてるだけ」


「驚くよね……うん、驚くよね……」


 星宮は苦笑した。いつもの“クラスメイト用”の笑顔じゃなくて、どこか力の抜けた、素の笑い方に近い。


「一応、その……事務所の人には『高校生活は普通でいいから』って言われてて。バレないようにする練習もしたんだけど……」


「練習?」


「はい。学校では声のトーンを落とすとか、身振りを小さくするとか、あんまり人前で歌わないとか」


「いや、さっき普通に歌ってたけど?」


「あっ……」


 星宮は顔を真っ赤にした。


「鼻歌はセーフって……自分で勝手に決めてました……」


「ルールゆるくない?」


 思わずツッコミが口をついて出る。


 星宮は俯いて、指先でケースの端っこをいじった。落ち着かないときの仕草だ。


 その手が、さっきからずっと小刻みに震えているのに、本人は気づいていないみたいだった。


「……笑った?」


「いや、ちょっとだけ」


「ちょっとだけってどれくらいですか?」


「心の中で五割くらい」


「けっこう笑ってますよねそれ」


 思わず、二人で笑ってしまう。


 さっきまであった屋上の冷たい空気が、少しだけ和らいだ気がした。


 笑いが落ち着いたところで、俺はふと気になっていたことを口にした。


「ねえ、星宮」


「はい」


「その……なんで、そこまでして隠してるんだ?」


 彼女は、一瞬目を見開いた。


 そしてゆっくりと、フェンスの向こうの空を見上げた。


「だって……」


 小さな声で呟く。


「ここでは、“ただの星宮こころ”でいたいから」


 その言葉には、変な飾りがなかった。


 アイドルらしいキラキラしたフレーズでもなく、ステージ上の決め台詞でもなく、素直な本音。


「ステージに立ってるときの私は、みんなの星宮こころで。テレビの中の私は、誰かの推しで。握手会のときの私は、ファンの人たちのアイドルで」


 指先が、きゅっとケースを握りしめる。


「それはすごく嬉しいし、楽しいし、大切な場所なんですけど……。たまに、分からなくなっちゃうんです」


「分からなく?」


「“本当の自分”って、どこにいるんだろう、って」


 横顔は夕焼けに照らされていて、さっきまで教室で見ていたおとなしい星宮とも、テレビで見るであろうキラキラの星宮とも違って見えた。


 目の奥に、少しだけ疲れが差している。


 ああ、この表情だ。


 今日一日の中で、俺が一番気になっていた“揺れ”の正体。


「だから、学校だけは……普通の子でいたくて。友だちと宿題の話したり、先生の愚痴言ったり、体育でバスケして足ひねったり」


「ひねってたんだ、やっぱり」


「見てたんですか!?」


 星宮が振り返る。驚きすぎて、髪がふわっと揺れた。


「いや、だって顔がちょっと痛そうだったし。足首も押さえてたし」


「……観察力高すぎません?」


「昔から、そういうの気になっちゃって」


 俺は肩をすくめる。


「母さんがよく『大丈夫』って笑う人でさ。その笑顔が本当に大丈夫かどうか、ずっと気にしてたら、目の奥の色とか、指の動きとか、いろいろ見る癖がついた」


「目の奥の色……」


「だからさっきのも、見てた」


 星宮の目が、少しだけ揺れる。


「さっき教室で笑ったときの顔。あれ、多分“仕事用の顔”だよね」


「……」


「体育のときも。足首痛いの隠してたよね」


「…………はい」


 小さくうなずく。


 そのときの星宮の表情には、“諦め”と“少しの安心”が混ざっていた。


「だから、隠すの、たぶんもう難しいよ。少なくとも俺には」


 そう言うと、星宮は目を丸くして、次の瞬間――


「ごめんなさいぃぃいいいい!!」


 勢いよく頭を下げた。え、土下座いく? いくの? やめて、屋上で土下座は目立つから。


「そんなつもりじゃなかったのに……! バレないって思ってたのに……!! 事務所の人にも『学生生活は普通でいいから、バレそうになったら上手くごまかしてね』って言われてたのに……!!」


「事務所、信用しすぎじゃない?」


「ごまかせてなかったですか……?」


「うん。残念ながら、嘘めちゃくちゃ下手だと思う」


「そんな自信満々に言わなくても……」


 星宮はしょんぼり肩を落とした。


 俺は慌てて付け加える。


「でも、別に責めたいわけじゃないから」


「……え?」


「隠してたことも、アイドルってことも。怒ってないよ」


 星宮は、ゆっくりと顔を上げた。


 目が、驚きと戸惑いで揺れている。


「怒って……ない?」


「なんで怒る必要があるんだよ」


「だって、その……騙してたし……」


「騙すってほどでもないだろ。別に『私は絶対アイドルじゃありません』って宣言してたわけでもないし」


「いやでも……」


「それにさ」


 俺は、星宮の目をまっすぐ見る。


「ここでアイドルだってバレたら、面倒なこといっぱいあるだろ」


「……いっぱいありますね」


「ファンとか、押しかけてくるかもしれないし」


「こわい……」


「教師にも何か言われるかもしれないし」


「こわい……」


「クラスで変な空気になるかもしれないし」


「それはいちばんこわい……」


 星宮は肩を抱くようにして震えた。本気で嫌そうな顔だ。


 その表情を見て、俺は少しだけ笑った。


「じゃあ、言わないよ。誰にも」


「え」


「星宮がアイドルだってことも、俺が知ってるってことも。全部、黙ってる」


 当たり前のように言った。


 星宮の瞳が、さらに揺れる。


「……どうして?」


「どうしてって」


 俺は、少し言葉を選ぶ。


 観察するのは得意だけど、自分の気持ちを言葉にするのはあんまり得意じゃない。


「だって星宮、さっき言ってたろ」


「え?」


「ここでは“普通の星宮こころ”でいたいって」


「あ……」


「それ、壊すの嫌だから」


 シンプルに、それだけだ。


 彼女が“普通”でいたい場所なら、そうさせてやればいい。俺が余計なことを言って、その日常をドロドロにするのは、なんか違う。


「それに、俺が誰かに『実はうちのクラスにHoshino*がいてさ』とか言っても、信じてもらえないだろ。適当に聞き流されて終わりだよ」


「それは……まあ、そうかもしれないですけど」


「だから平気。星宮の“普通”は、ちゃんと守る」


 そう言うと、星宮はぽかんと俺を見つめた。


 数秒後。


「…………ずるいです」


「え、何が」


「そういうこと言われると、なんか……甘えたくなっちゃうじゃないですか」


 頬を少し赤くしながら、彼女は呟いた。


 さっきまで震えていた指先から、力が抜けていくのが見える。肩の力も、ほんの少し落ちた。


 その変化が、俺にははっきり分かった。


 ――ああ、今の顔の方が、ずっと“本当”に近い。


 俺が黙っている間に、夕焼けの色が少しずつ濃くなっていく。


 風が吹いて、星宮の髪が揺れた。


「ねえ、浅野くん」


「ん」


「一つ……お願い、してもいいですか」


 星宮は、慎重に言葉を選ぶようにして話す。


「放課後だけでいいから……浅野くんの前だけは、“普通の星宮こころ”でいてもいいですか?」


 その声は、さっきまでのどんな声よりも小さくて、どんな歌よりも真っ直ぐだった。


「アイドルじゃなくて、センターでもなくて、『絶対的』とか言われる誰かでもなくて。ちょっと怖がりで、ちょっと緊張しぃで、ちょっと甘えたくなる、ただの……」


 そこで言葉が途切れた。


 目の奥が、少しだけ潤んでいる。笑顔は作ろうとしていない。むしろ、作る余裕がないくらい、本気で俺に問いかけている。


 うまく笑えない顔って、こんなに子どもっぽくて、こんなに人間らしいんだな、と変なことを考えてしまう。


「……いいよ」


 気づいたら、口が勝手に答えていた。


「放課後だけじゃなくてもいいけど、まあ、放課後は特に。いくらでも普通でいればいい」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「甘えても?」


「……まあ、ほどほどに」


「ほどほどってどれくらいですか」


「俺が潰れないくらい」


「じゃあ、けっこう大丈夫そうですね」


「人を丈夫な家具みたいに言うな」


 二人で、ふっと笑う。


 笑いながらも、俺は心の中で一つだけ決めた。


 ――この子が無理して笑っているときは、ちゃんと気づいてあげよう。


 目の奥の色。声のトーン。指先の震え。歩幅の変化。


 俺にしか見えない“揺れ”なら、俺が拾えばいい。


「浅野くん」


「なに」


「さっき、教室で歌ってたの、聞こえちゃいましたよね」


「まあ、少しだけ」


「えへへ……恥ずかしい……」


 星宮は頬を押さえた。


「でも、浅野くんが聞いてたなら、まあ……いっか」


「その基準はよく分からないけど、まあいいや」


「今度、ちゃんと歌ってあげますね」


「え」


「その代わり、浅野くんも、ちょっとだけハモり練習付き合ってください」


「いや、俺音痴なんだけど」


「大丈夫です。私、教えるの得意なので」


 にこっと笑う。


 その笑顔は――さっきまで見てきたどの“仕事用スマイル”より、ずっと柔らかかった。


 俺は、なんだか少し胸のあたりが熱くなるのを感じながら、空を見上げた。


 夕焼けは、さっきよりも赤くなっている。


 日常と非日常の境目みたいな色だ。


 教室の中で、俺はいつも通り“普通の男子A”でいるだろう。星宮こころは、いつも通り“静かな女子”としてそこに座っているだろう。


 でも、その裏側で。


 放課後の屋上で。


 俺だけが知っている顔で、彼女は笑うのかもしれない。


 それは、クラスの誰も知らない秘密だ。


 テレビの向こう側のファンでさえ知らない、星宮こころの“本当の顔”。


 ――たぶん、今日。


 この日を境に。


 俺の“普通”と、彼女の“絶対”は、少しずつ重なり始めるのだろう。


 そんな予感が、夕焼けの色と一緒に、じわりと胸に広がっていった。

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