第24話 推理の完成が始まる──欠けた街の中で(3)
だが魔人は見てしまった。
大きく跳ね上げられた共鳴者の腕――タクティカルスーツの全身を走る銀色のラインが――月光を照らし返すだけだったはずのラインが――――自ら銀色の光を放っていることを。
言いようのない不安が、魔人の本能を直接掻き毟るように警告を発する。
勝利の糸は、自分の手元にあるはずだ。
しかし、眼前の共鳴者は、その理不尽さをもって、強引に勝利の糸を、自分の手から奪おうとしている。そのように感じざるを得なかった。
だが、ここで退くという選択肢はない。
まだ勝利の糸は奪われてはいないのだ。たとえ、細く、頼りなくとも、自分の手の内に存在していることに変わりはないのだから。
指先に血が滲んでいようとも、それどころか指が切り落とされていようとも――この糸だけは掴まなければならない。
後先を考える余裕など、今はない!!
「オォォォォォォォォッ!!」
喉が裂けんばかりの咆哮。それはもはや言葉の体をなさない、剥き出しの殺意の塊だった。
大気を震わせる咆哮の振動に合わせ、魔人の肉体を喰い破って、全身から黒い刃が弾丸のように射出される。
結末が揺らいでいる。だが魔人は、己の魂をも打ち振るわせる咆哮によって、その揺らぎを強引に引き寄せ、手繰り寄せようとした。
しかし――勝利の糸を掴んだのは、銀色の光を放つ黒い手であった。
共鳴者の銀色の髪が、重力を無視するように逆立つ。
シンギュラリティより供給される過剰なまでのエネルギーが、共鳴者の全身に潜むナノマシンを極限まで活性化させ、逃げ場を失った膨大な熱が白銀のオーラとなって放出される。
さらには黒いスーツに刻まれた銀のラインが、脈打つ血管のように淡く鋭く輝く。
今、共鳴者の内側では、常軌を逸したエネルギーが濁流となって駆け巡っている。
――近すぎる。
魔人が理解した時には、すべてが遅すぎた。
大気が震え、空間が爆ぜるような衝撃が走る。
腹部を抉る、凄まじい衝撃。 踏み込みと同時に叩き込まれたその一撃は、強固な肉の壁を易々と透過し、内臓の芯、さらには魂の境界線までも直接揺さぶった。
だが、共鳴者とて無事では済まされない。
これはナノマシンの超活性状態。シンギュラリティのエネルギーを、その身を砕けよとばかりに喰い荒らす代償として、最悪の呪いが目を醒ます。
周囲からのエネルギー強制摂取――。
飢えた最小の怪物どもにとって、最も身近な餌は、宿主である共鳴者の細胞に他ならない。
今、この瞬間も、命の灯火が数多の小さな魔物に生きたまま貪り喰われ続けている。
だが、共鳴者の仮面の奥で光る瞳には僅かな陰りすらなかった。
――次で、終わらせる
右腕の光剣に、最後の変化が訪れる。ナノマシンが蒼い光剣に入り込み、銀色の文字となる。
「が、はっ……あ、あああああ!」
魔人もまた、姿勢を立て直し、紫色の瞳を怨嗟とともに共鳴者へと向ける。魔人は理解しているのだ。次の一撃が命の捨て所であることを。
対する共鳴者は、命を捨てるのではなく、命にしがみつくことで、己の身の変化に耐えながら最後の一撃を放とうとしていた。
極度に活性化したナノマシンによる身体強化により、共鳴者の視界は異様なほど鮮明になり、魔人の血管の脈動さえ見えている。
しかし、共鳴者の体感温度は極限の矛盾の中にあった。内側から焼き尽くされるような熱に浮かされる一方で、細胞の一つ一つから熱を奪われるような、底知れぬ寒気が神経を刺す。思考が鮮明になるも、同時に凍り付き世界が遠ざかっていく。さらには、徐々に肉の感覚が失われていくかのような喪失感すらも――。
敵にも自分にも退路はない。
共鳴者の右腕に成形された光の刃に現れた銀色の模様が燃える。 それは因果文字。共鳴者が纏う旧き世界の因果の複製。
「使わせはせんぞぉぉぉぉぉぉぉお!!」
魔人は銀色の運命に抗う。
正体の分からない文字。だが、あの文字が完成し、放たれれば、抗いようのない運命に自分が呑み込まれることは理解できる。故に、運命に抗うには、あれが放たれる前に、勝負を決しなければならない。
魔人の全身から生えた無数の刃は、戦術を宿すことなく放たれる。この一瞬で、勝利の糸を掴む者が決まる状況で、戦術を考えるなど最悪の愚策。
無数の刃が、魔人の全身から放たれる。それは鋼鉄の礫が空を埋め尽くし、共鳴者の命を喰らい尽くさんと迫る。
共鳴者が走る。
相変わらず理不尽すぎる。素人同然の動きを、圧倒的な身体能力で――しかも、これまで以上の速度で、魔人へと迫る。
しかも降り注ぐ刃の雨を、避け、剣で弾き、腕で払い、距離を急速に詰めていく。化け物じみた身体能力と反射神経は、もはや人間どころか魔物の域すらも超越している。
高く鋭い金属音が響く。
飛来する刃のいくつかが仮面を掠めて火花を散らし、スーツを裂いて浅い傷を作っていく。だが、共鳴者の足は鈍らない。己自身が武器になったかのように、自身の望みを叶えるために、共鳴者は走る。
「……っ、ぐ……ぅ……ぁあっ!」
魔人の口から漏れるのは、もはや言葉ではなかった。
沸騰する血が喉を焼き、過負荷に耐えかねた骨が軋む音。それらが凄まじい魔力の奔流と共に、戦場に撒き散らされる。 魔人は残されたすべての魔力を注ぎ込む。もはや絞り出しているのが魔力なのか、己の命そのものなのかすら判然としない。狂乱の中で、彼は自身の全存在を力へと捧げた。
――それでも、懐に入られた。
死線の真っ只中。仮面のレンズの先にある共鳴者の瞳と、魔人の目が初めて重なった。
――覚悟は決まっている。
魔人は自身の肉体を、願いを、命を、その全てを、己の身から生える刃として示す。狂気、怒り、憎しみ、なにもかも全ての終着点として、この一撃を放つ。
全身から突き出した刃は、これまでにない程に、長大な物だった。
その姿は、禍々しい刃の結晶。
全ては、共鳴者を葬るためだけに。 刃が何本折れようと構わない。全て折れたなら、爪で引き裂く。爪が折れたなら、牙でその喉元を噛み切る。 それすら叶わぬなら、肉を、骨を、己の身を削り取ってでも死を突き立てる。
あらゆる物を捨て去り、因果の果てに――必ず、殺す。
「おおおぉぉおっ……!」
言葉ではなく、獣の咆哮をもって、共鳴者に覚悟を示す。これが正真正銘、命を捨てて放つ最後の一撃。
共鳴者は応える。突き進む魔人の腹部へと、理不尽な速度で左腕が撃ち込むことで。肉を打つ音ではない。重厚な鋼鉄が、強固な防壁を粉砕する轟音。
この一撃で、魔人の体を守護していた幾重もの魔力障壁が、ガラス細工のように無惨に粉砕された。
――もう妨げるものは何もない。
右手の青い光剣に刻まれた因果文字が、視界を白く染めるほど鮮烈に発光する。剣の青を銀の文字が喰らい尽くしながら、剣そのものが銀の炎として燃え上がらせる。剣は銀色の文字への供物になり下がり、糧として消費されていく。
共鳴者は応えた。魔人の命を捨てて放った最後の一撃に、己と相手の命を拾う最後の一撃をもって。
――
銀の炎と化した剣の残滓が、無防備な魔人の胸へと深く沈み込む。
その炎は何も燃やさない。肉を焼くことはない。その剣は何も傷つけない。皮すらも切ることはない。ただ氷のような銀色が、肉も魂も透過し、存在の深淵へと届くだけだ。
その一撃は、因果。
積層された旧き因果を、対象の存在そのものに刻みつけ、書き換える福音。
魔人に、刻まれる。
【なにかが笑った】
旧き世界の深層で、強大すぎる何かが。それは優しさに満ちた狂気の中にあり、
――今、破壊の因果は、魔人の命を静かに拾い上げた。
終焉が、魔人という歪んだ因果を呑み込んでいく。
本来あるべきでない影は、銀の光に貪られ、染められ、蹂躙され、在り方すらも失い、清冽な無へと還される。
だが、複製であっても、あまりにその因果は強大すぎた。
銀色の炎は血管を伝い、男の身を器として溢れ出す。蜘蛛の巣のように緻密な因果の文字が夜の虚空へと広がり――やがて、凍てつく静寂へと溶けて消え去った。
後に残されたのは、かつての禍々しい姿ではない。 魔人ではない、ただ一人の男だけ。
夜の静寂が、辺りに帰ってきた。
星の冷たい輝きからも、小さな囁きが聞こえるかのような、静かな夜の沈黙が。
激闘の余熱が、冷え切った夜気に混じって白く立ち上る。 何事もなかったかのように、とは言い難い惨状だった。周囲を照らしていた街灯は大半がへし折られて火花を散らし、歴史を刻んできた石畳も周辺施設の壁も、あの一撃が放った衝撃波によって無残に砕け散っている。
そして、かつて魔人であった男の腕には、腕輪から伸びた触手に深く抉られた痕が、生々しい戦いの記憶として刻まれていた。 だが、その破壊の痕跡を覆い隠すように降りてきた現在の静寂は、あまりに深く、重い。すべては幻であったのではないかと錯覚させるほどの静けさが、この場を支配していた。
「新しい世界を見届けろ。その命が尽きるまでな」
共鳴者の言葉が、凍てつく空気の中に静かに落ちる。宣告にも似たその声には、拒絶できない重みがあった。
地面に伏した男は、震える腕で辛うじて顔を上げた。体は恐ろしいほどに消耗し、指先一つ動かすことさえ、魂を削るような苦痛を伴う。 魔人化という過負荷が解けた反動もあるだろう。だが、男を縛り付けているのは肉体的な疲弊だけではなかった。あの一瞬、銀の光の中に垣間見た何か――。
男の瞳には、生物としての根源的な恐怖が、拭い去れぬ澱のように宿っていた。
自分は、何を見たのか。あの光の奥に、何がいたのか……。
あの一瞬、全細胞が拒絶するほどの途方もない存在を感じた。 それは神か、あるいは悪魔か。だが、男の体に刻み込まれた因果は、その正体について何も語りはしない。
『……先に逝かせてもらうぞ』
脳裏をよぎったのは、かつて聞いた声――どうでもいい。
そうだ。あの瞬間に何を見たかなど、どうでもいい。生きている限り、足跡を刻み続けなければならない。先に足跡を刻みつけられなくなった、同志達の分まで。
なによりも……すでに命が奪われ過ぎている……
「……アイツの――─我らのぉっ!!」
喉元とまでは言わない、せめて腕の一本くらい、それが無理なら指の一本程度は喰いちぎってみせる。
執念。それだけが動かぬ体に火を灯す。
今にも遠のきそうな意識のなか、男は残された魔力を右手に集める。再燃させた殺意と共に、術式を編み上げ、無防備に立つ共鳴者に魔術を発動する。
「……なぜ」
男の唇から、絶望が漏れる。
魔術が発動しない。渾身の力で練り上げた術式も、再燃させた殺意の炎も、すべてが指先から溢れ出した途端、粒子のような銀色の光となって霧散していった。
「くっ……ぅぅ、届けさせて……くれないのか……これほどっ、これほど手を伸ばしてもぉぉぉぉおお!」
届かない。
その相手は、ほんの数メートル先にいる。だが、男がどれほど魂を削り、声を枯らして手を伸ばそうとも、届かない。たった、ほんの数メートルの違いが、決して手が届く事のない山の頂と崖の底とに隔てられている。
「ぅ……ぅぅ……………」
急速に失われていく意識の混濁の中でも男は思い続けた。
そして、一つの答えへと辿り着く。
あれは、本当に人だったのか? そして、もう一つの答えに手が届きかける。共鳴者は、マキナ・マイスターではなかった、のか? それとも、その先にある――しかし、手が答えを掴む前に、男の思考は闇へと沈んだ。
夜の闇に、完全な静寂が戻る。
銀のラインが脈動を止めると共に、スーツから立ち上がる蒸気が徐々に薄らいでいく。あの輝く銀もまた、光を失い月光を反射するのみとなっていった。
共鳴者は動かなくなった男へと視線を落とす。その胸の僅かな上下を確認し、彼がまだ命を繋いでいることを見届けると、仮面の下で微かに声を響かせた。
「……これなら、怒られずにすむか」
それは、誰を思っての言葉なのか。もはや、この沈黙した世界で、答えを知る者はいない。
誰も聞いていない言葉を残したまま、共鳴者は意識を失った男に背を向けて歩きだした。
街に権力の空白が生じている今、どの三大勢力も、誘拐という重大な事件ですら迂闊には動けない状況にある。しかし、この場に倒れている身元不明の人間を、人道的に保護するという大義名分があれば、お互いの立場を気にすることなく動けるだろう。
なら、この場に自分が留まる必要はない。まだ、この夜のうちに果たさねばならない役目があるのだから。
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