第25話 推理の完成が始まる──欠けた街の中で(4)
共鳴者と逃走者が繰り広げた死闘は、夜の区画に無残な爪痕を残している。
漆黒の闇の中、魔法の刃が描いた軌跡と、砕け散った石畳が冷たい月光を弾いて淡く煌めく。かつて往来を照らしていた街灯は、所々で無残に折れ曲がり、灯火の核を砕かれて沈黙している。
往来の突き当たりに鎮座する小さな礼拝堂も、その例外ではない。聖母を象った精緻な浮き彫りは斜めに一閃され、剥落した大理石の破片が、まるで捧げられた花弁のように地面を覆っている。
明朝には区画を封鎖し、本格的な修繕が必要になるだろう。手配はクラリスが抜かりなく進めるはずだが、今はそれよりも優先すべき事象がある。
だが、この辺りで店を構えていた者たちには、申し訳ないことをした、という気持ちを完全に拭うことはできなかった。
補償の予算は折り込み済みであり、商売の再建を助けるための公的な補助も用意させるつもりだ。だが、生活の場を壊したという事実に対する微かな痛痒までは、金銭では拭いきれない。
これをきっかけに、商売を止められたらと考えると頭が痛い──などと、つい賢者の視点で街を見てしまうのは、一種の職業病かもしれない。
無人となった街の静寂は、耳の奥が痛くなるほどに不気味だ。しかし今は、この静けさが己の存在を秘匿してくれるという一点において、微かな安心を抱けた。
周囲を一度見渡し、仮面型デバイスの機能を思考で立ち上げる。視覚野に現実の風景に重なる形で、青白い逆三角形のマーカーが表示された。
マーカーの誘導に従い、辿り着いた先は一軒の花屋だった。
夕方を迎えるまでは彩り豊かであったはずの外壁に、逃走者の放った高周波刃によるものか、深々とえぐり取られたような断裂が刻まれている。
視界の隅で、仮面型デバイスの計測値が微細に刻み込まれ、青白い逆三角形の頂点が一点を指し示した。目標地点――。僅かに腰を落とし、重心を右の拳へ叩きこむ。
ナノマシンによる強化によって、骨格と筋繊維は瞬時に生理的限界を超えた出力を叩き出した。巨人の一撃にも等しい重圧が壁面を捉える。
乾いた破壊音が深夜の街に響き渡ると、先程の損傷も相まって、装飾壁は構造を維持できず、粉々に粉砕された。
砕けた場所に指先をかけ、ひしゃげた建材の縁を強引に引き剥がす。剥落したコンクリートの粉塵が舞う中、壁の暗がりに潜んでいた「それ」が、月光の曝露を受けた。
剥き出しになった壁の暗がりに隠されていたのは、一つの白い包み。
これを嚥下するには、まず喉を湿らせる水が必要だった。もしそれを忘れたなら――「いや、思い出したくない」と、脳が即座に回想を拒絶した。
気の早い本能が、近い未来に起こる出来事に対し悲鳴を上げている。
それでも共鳴者はその包みを手に、壊れた壁からそのまま店内へと足を踏み入れた。
日中は彩り豊かだったであろう店内は、先刻の戦闘の余波によって凄惨な姿を晒していた。棚から崩れ落ちた陶器の鉢が床で粉々に砕け散り、ぶちまけられた土と水が、切り刻まれた花びらと共に泥濘を作っている。
一応は、こういう事態が起こった場合の対策はしてある。だから店の被害は最小限に抑えられているとは思う。しかし無残に散った花々を見ると、罪悪感が去来する。
だが、立ち止まっている時間はない。彼は泥濘を避け、奥の作業スペースへと向かった。
やはり花屋だけあって、水回りの設備はしっかりしている。手入れをされた蛇口を捻ると、透明な水が勢いよく流れ出す。
確保した水を手元に置き、躊躇いながらも仮面の下部に指をかける。
顔の皮膚と仮面を接着するナノマシンが、装着者の意思を感知して封印を解く。仮面が僅かに浮き上がると、隙間から入り込んだ夜の冷気が、剥き出しになった口元を容赦なく撫でる。
仮面の隙間から覗く素肌。そこには、血管に代わって皮膚を走る銀色のラインが刻まれていた。それは皮膚の下に深く根を張り、月光を反射して回路のように冷たく輝いていた。
先程、壁の隙間から取り出した、白い合成樹脂のパッケージに目を向ける。
表面に刻印された無機質な文字列は、これが栄養学の産物ではなく、兵站という名の計算式から導き出された「備品」であることを示している。中身の衛生だけは保証されているが、人間の尊厳までは保証されていない。
外装を引き裂こうとしたところで指が止まる。脳が、これから訪れる「悲劇」をあらかじめ察知し、指先への信号伝達を拒絶しているのだ。だが、数秒の逡巡の後、ようやく動いた手が、封を破り中から一本の固形物を取り出した。
指の節ほどの太さ。携帯性と保存性のみを最適化したその形状は、食欲という名の生理現象への訴えを徹底的に排除している。月光の下では、それは精製された薬品の塊か、あるいは産業廃棄物から削り出した石膏の棒にしか見えない。
それを口へと運ぶ。だが、寸でのところで手が止まった――この期に及んで、未だに戸惑っていた。
しかし時間が惜しいと自分に言い聞かせ、勢いに任せて口へと押し込んだ。
味、という概念はない。いや、これを味と表現するのは、文明への冒涜だ。
それでも強いて言語化するならば、湿ったプラスチック、あるいは有機溶剤を練り固めた粘土だ。咀嚼のたび、生存本能が「これは食物ではない」と脳内で警鐘を乱打している。
これは機能性を求め過ぎた無垢なる尊厳への暴力。考案した人間に対して、小さな殺意を抱くことは当然の権利であると、聖女であっても認めてくれるはずだ。
「……っ……」
嚥下するたび、喉の奥が痙攣し、拒絶反応が神経系を駆け抜ける。
無理やり胃に流し込んだそれが、かつて味わった温かな料理の記憶を、溶けたプラスチックの味と食感で容赦なく塗りつぶしていく。
やはり考案者には殺意を持った方がいいかもしれない――その仕様に最終的な許可を出したのは自分自身なのだが。
腹に落ちれば、あとはナノマシンがこれを効率的に分解し、損傷した細胞へと配分するプロセスが始まる。数十分後には栄養として最適化されるはずだが、今この瞬間、胃の腑から逆流してくる無機質な後味だけは、どれほど高度な技術をもってしても隠蔽しきれなかった。
これは、考案者に殺意を抱かないことこそ、人類への裏切りなのかもしれない。暗澹たる思考が脳裏を掠めるが、それを強引に振り払い、仮面を再び顔へと押し当てた。
ナノマシンの再結合が完了し、皮膚とデバイスが不可分の領域へと戻る。その微かな振動が、その意識を「人間」から「共鳴者」へと強制的に引き戻した。
一度、深く吐息を漏らす。吐き出された熱が仮面のフィルターを抜け、冷え切った夜気に溶けて消える。その一呼吸の間に、彼は暗澹たる感傷を完全に切り捨てた。
もはや、この場に留まる理由は一つとしてない。
潜伏場所へと移動する数十分――その間に、ナノマシンが胃の中の異物を燃焼させ、肉体の損傷を埋めていくだろう。今は、その事実だけで十分だ。
共鳴者は仮面の奥に双眸を光らせ、夜の闇へとその身を投じた。
因果の破壊者 賑やかな日常が始まった――欠けた器の中で @homugi
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