第7話 賑やかな今日が始まる――欠けた日常の中で(6)

 叡明学園の最上階、尖塔の中央に位置する学園長室は、外界から隔絶された静謐せいひつな聖域のようだった。


 広大な室内の採光は意図的に絞られ、窓の外に広がるアンティナの街並みも、ここでは色褪せた絵画のように遠い。壁面を埋め尽くす重厚な黒檀こくたんの書棚には、古今東西の魔導書や学術書が整然と並んでいる。


 部屋の中央、磨き抜かれたオーク材の巨大な執務机の上では、精巧な真鍮製の天球儀が微かな駆動音を立てて回っていた。


 空気は澱んでいるのではない。古い紙とインクの匂い、そして長い年月をかけて蓄積された魔術的な残滓ざんしが混じり合い、皮膚に張りつくような緊張感を与えている。


 その空間の主、オズウェル・リッテンブルクは、沈黙そのもののように座していた。


 豊かな白い髭と、知性の光を湛えた薄青の瞳。一見すれば温和な老学者だが、その双眸の奥には世界屈指の魔術師だけが宿す冷徹な深淵がある。驚くほど精緻な刺繍が施された深い緑色のローブは、この学園の設立者としての絶対的な権威を無言のうちに語っていた。


 重厚な扉を叩く音が、静寂を物理的に叩き割るように響いた。


 羊皮紙に走らせていた羽根ペンを止め、オズウェルはゆっくりと顔を上げる。壁の仕掛け時計を確認し、予定されていた面会時間を脳裏に呼び起こした。


「入りたまえ」


 老人の呟きに近い声は、部屋の魔術的な音響措置によって増幅され、腹の底に響く重みを持って届く。


「失礼します」


 扉が開かれると同時に、廊下の乾いた空気を纏ってサラス・リースティアが姿を現した。長い茶髪を一筋の乱れもなく結い上げ、上級講師としての制服を完璧に着こなしている。


 その鋭く理知的な眼差しは彼女の優秀さを物語っていたが、オズウェルの目は誤魔化せない。目元に浮かぶ微かな隈、瞬きの瞬間に滲む焦燥。表情の小さな変化の中に、疲労が滲み出ている。


「掛けたまえ」


「……失礼いたします」


 サラスがソファに腰を下ろすと、オズウェルもまた対面の席へと移動した。重い沈黙が、天球儀の駆動音と共に二人の間に降りる。


「さて、同好会の設立についてだったな」


「はい。表向きは、ですが」


「やはり、そうか」


 オズウェルは短く息を吐いた。


 通常、たかが同好会の設立に学園長の決裁など不要だ。それをあえて彼女が――それも姿を見せずに大陸を動かし続ける賢者。彼の愛弟子が、事案を直接持ち込んできたという事実。それ自体が、言葉以上の意味を持つ暗号のように思えた。


「それで? 謀略の賢者殿は、この学園を舞台に何を企んでおられるのかな」


 試すような視線を受け、サラスは自嘲気味に口角を上げた。その苦笑には、師の描く壮大な絵図への畏敬と、その駒として動かざるを得ない運命への諦念が入り混じっているように見える。


「我が師は、街の治安における『権力の空白』を憂慮されています。複数の治安維持組織が互いに牽制し合うことで生まれた隙間が、犯罪の温床となっているのです。師はその綻びを埋めるべく、計画を繰り上げることにしました」


「ほう」


「具体的には、アンティナの案内書作成を名目とした同好会を学園外で活動させます。これを治安維持の穴を埋めるための特務組織として機能させる腹づもりです。学園の公式な組織でなければ、他組織との利害関係も生じにくいですから」


 学園長は表情を変えずに頷いた。賢者と呼ばれる男が、目前の綻びを見過ごすはずがない。


「理には適っている。だが、これは街、ひいては大陸の勢力図に影響を与える内容だ。慎重を期すべき事案だろう。それでもなお急ぎ動いたのは、賢者殿に相応の理由があったからだと推察するが?」


「師にも誤算がありました。学園のギフテッドが誘拐された件です。師は、権力の空白を見極めるために静観していたことが、結果として今回の事態を招いたと考えております」


 予想していた問いだった。嘘は言っていない。過程をどう解釈するかは相手次第だ。


「この件については、しがらみのない自分が直接動くために許可を頂きたい、とのことです。本来なら拝謁はいえつして説明すべきところ、今は事を大きくしたくない。無礼をお許しください、とも申しておりました」


 オズウェルは目を閉じ、豊かな白髭を指先で愛撫しながら思考の海へと沈む。


 賢者が直接来ない。それを単なる配慮と受け取るほど、オズウェルも老いてはいない。


「ふむ……なるほど。賢者殿には許可すると伝えてくれ。その配慮に感謝する、ともな」


 それは穏やかな口調でつづられた言葉であった。


 しかし次の瞬間、オズウェルは目を見開き、サラスを射抜く。その瞳は老人のそれではなく、一人の魔術師の鋭さを帯びていた。


「だが、一つだけ確認させてもらおう。賢者殿が今、自ら動こうとしないのは意図的な自制か? それとも――我々が知るべきではない事情によるものか?」


 サラスの呼吸が一瞬、止まった。心臓の鼓動を必死の理性で抑え込む。


 師の弱体化――その事実が露見すれば、大陸全土を巻き込む大戦争の引き金になりかねない。この問いは、喉元に突きつけられたナイフに等しい。


「それは……」


 言葉に詰まる。視線を逸らせば肯定と取られる。彼女はオズウェルの青い瞳を真っ向から見据え、言葉を選び抜く。


「師は、大陸の均衡があくまで破壊者の威圧によって保たれていることを、誰よりも理解しています。この危うい均衡を崩すことは、何よりも避けたい。師が表立って動かないのは、そのことに関係しているとだけ、お伝えします」


 嘘は言っていない。だが、真実の核には触れていない。


 権威を保ちつつ、行動の制約を「あえての選択」として提示する。綱渡りのような弁明だった。


 数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。サラスは心に仮面をつけ、相手の反応を待ち続ける。


 やがて、オズウェルの口元が微かに緩んだ。


「……わかった。その配慮が、彼の真の目的を妨げないことを祈ろう」


 追及は終わった。サラスの背中を冷たい汗が伝う。


 オズウェルは立ち上がり、窓の外の景色へと視線を投げた。


「同好会については、公式には公表しないが、学園警備局が動けない領域における特務機関として私が承認する。我が学園の生徒が関わるのだ。協力が必要なら惜しみはせん」


「ありがとうございます」


 サラスは深く、長く頭を下げた。安堵が、重い制服の下で静かに広がっていく。


 こうして、アンティナ同好会という牧歌的な名を借りた組織が産声を上げた。それは学園の庇護の下、暗闘の渦巻く街へと静かに根を張り始めたのだった。

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