第2話 因果の少女:賑やかな今日が始まる――欠けた日常の中で(1)

 いつも通り目を覚ました。


 そうか……終わらなかったのか。


 いつも通り、目の前に広がっている真っ白い天井を眺めながら、今日が訪れたことを考え続けた。


 やがて周囲を見回すも、やはりいつも通りだ。やたら豪華な屋敷の一室。分厚いカーテンの隙間から差し込む光が、金糸の刺繍が施されたシーツの上で煌めいている。


 ぼんやりとした頭で、いつものようにベッドから降りようと身体を起こした――その時だ。


 全身のバランスが異様に軽いことに気づいた。そして、床に足をつき一歩踏み出した瞬間、重心がまったく合わず、前のめりに倒れそうになった。


 手を伸ばそうとする。しかし間に合わず、絨毯にキスをする羽目になった。なぜか体の感覚が、いつもとズレていたのだ。


 しかし、絨毯が分厚かったおかげで、全く痛みはない。


 辛うじて壁に手をつき、転倒を免れる。視線が低い。身体の節々が、やけに細く感じる。まるで、長年使ってきた馴染み深い自分の体が、突然別のものに置き換えられたような違和感だった。


 その時、ノックと共に扉が開いた。


「ご主人様、朝で……って????」


 俺の顔を見るや否や、意識が飛んでしまったかのような間抜けな顔になったメイド。専属メイドのクラリスだ。


 彼女は朝食のトレイを取り落とす寸前で留めたが、トレイよりも重要な何かを見つけたかのように目を血走らせ、俺に駆け寄ってきた。


 そのまま俺の身体を鷲掴みにし、驚くほどの力で強く抱きしめてきた――デカくなったな。いや、そんなはずは……?


「つ、ついに……ついにやりやがった! 怪しいと思っていたけど、私たちには手を出さず、こんな……こんな純粋そうで自分の色だけで染められそうで、いい匂いのする子に手を出すなんて、うらや――じゃなくて、なんて酷いっ!!」


 俺を強く抱きしめ、色々と聞いてはいけない言葉をサラッと口にしまくっている。かなり混乱しているのが分かる。いつもは本性を完全に隠して、清楚なお姉さんを演じているからだ。


 その騒ぎを聞きつけて、廊下から何人かのメイドたちが部屋に飛び込んでくる。そして、その群れの中に、プラチナブロンドの少女がいた。


 リミア。


 彼女は、周囲のメイドたちが騒然とする中、俺を見ると、口元にニヤリと意味深で薄ら寒い笑みを浮かべた。


 クラリスは、抱きしめたまま俺に頬ずりをする。


「怖かったでしょうけど、もう何もさせないから。大丈夫ですよ」


 聖母のような笑みを浮かべているが、背筋を走った悪寒と共に俺の本能が警戒音を放った。


 同時に、コイツが幼い頃に他の少女に抱きついていたとき、粘着質なおぞましい何かを感じて、急いで引きはがしたことを思い出した。


「ちょっ、待てっ! 俺をどこに連れていくつもりだっ!!」


「私の部屋ですよ。お姉さんが一緒にいるから、安心して下さいね」


 お姉さんの部屋というワードに、自分の血の気が引いていくのが分かった。


 コイツ……これまでこんなことなかったのに、朝っぱらから盛りやがって。


「誰か、この淫魔を止めろっ!! 見てないで、止めろぉっ!!」


 軽々と持ち上げられ、本格的に身の危険を感じ、周囲に助けを求める。しかし彼女たちは皆一様に困ったような表情を浮かべるだけだ。


「お前らっ! 主人を助ける気概はないのか!」


 俺が叫ぶも、メイドたちは困惑した表情をするばかり。


 コイツら……俺を見捨てる気だな。


 いや、職務規定にそういうのは含めていないから仕方がないんだろうけど、せめて主を助けられない悔しさくらいは演じて欲しい。


 その中を、先程ニヤリと邪悪な笑みを浮かべていた少女、リミアが近付いてきて、勝ち誇った顔で交渉をしてきた。


 リミアの邪悪な笑みは、獲物を前にした小動物のそれだった。


「シュークリーム、三個で助けてあげる」


「……一日に一個ずつを三日でどうだ」


「それで、手を打ってあげる」


 そんな小声でのやり取りの後、リミアはクラリスに告げた。


「これ、アンタのご主人様。生体魔法を使ってみるといいよ」


 リミアの言葉に、メイドたちがお互いの顔を見合わせた。


 色々と話し合った後、クラリスが俺の額に手を当ててきた。そういえば、コイツは生体情報を確認する魔法を使えたのだったか。


「これからは、お嬢様とお呼びすればよろしいのですね」


「やっぱ狂っていたか」


 おかしなことを言い出したクラリスに、思わず本音を漏らしてしまった。


 コイツのこと、怪しいと思っていたが、遂にこの日が来てしまったか。……などと考えていられたのは、別のメイドが手鏡を見せてくるまでだった。


 そこに映っていたのは、見知らぬ少女。


 幼い印象で、14か15歳といった感じか。肩までの黒髪。そして垂れ目というわけでもないのに、なぜかとんでもなくやる気のない銀色の瞳をした少女が映っている。これは焦点が合っていないように感じるせいで、目の前で起こっていることに関心がないように見えるせいか? だが、どこかで見たことのある目だ。


「……………………………………少し疲れているみたいだ。もう一眠りしてくる」


 手鏡を見た俺は、鏡に映る黒髪の女の子が誰なのかを考えるよりも先に、自分が働き過ぎであることに気付いた。


 そういえば、最近は一日に八時間しか寝ていなかったな。休日も週に三日しかとっていなかったし。


 ここは健全な生活を送る人間であるために、寝るべきだな。


 そのように考えながら、ベッドに帰ろうとしたが、クラリスは手を離してくれなかった。


「お嬢様、朝食の準備ができておりますので、お着替えをしましょうね。さぁ、さぁ」


 鼻息荒く着替えを催促してくる変態、もといメイド。


 彼女の圧に耐えきれなくなった俺に言えることは、一つしかなかった。


「一人でできるから、出ていってもらえるか?」


 鏡に映った黒髪の少女が誰なのかを考えるよりも、今は少しでも変態を遠ざけたいというのが偽りのない心境だ。


 だが、彼女が出ていくことはなかった。 屋敷が、轟音と共に揺れたからだ。


 襲撃か!?


 すぐに廊下から、ドタドタと複数の足音が響き始める。


「俺が迎撃する。お前はメイドを守れ!」


 クラリスに指示を出し、そのまま飛びだそうとした――が、転んだ。


 それだけで、今の爆発音が嘘だったかのように、静寂がこの場を支配した。


 やばい。手足が短くなっているせいで、距離感が狂ってまともに動けない。


「お嬢様は下がってください」 「お嬢様はやめろ!」


 クラリスが、この期に及んで不穏な呼び方をしてきた。 ここで釘を刺しておかなければ、今後なし崩し的にお嬢様扱いされかねない。俺の本能がそう警鐘を鳴らしている。


 そんな茶番をしていると、破壊された扉のずっと向こうから、他のメイドの声が聞こえてきた。


「お待ちください!」


 制止しようとしているということは、話が通じる相手か。だが、あの轟音は一体――。


「失礼いたします! サラス様、ディーン様、コウル様がいらっしゃいました! 旦那様の遺言の件でお話があるとのことです。お引き止めする間もなく、扉を破壊して強行突破を!」


 その報告を聞いた瞬間、部屋にいる人間全員の視線が、俺に突き刺さる。


「あっ、やべ」


 遺言には心当たりがある。そう言えば今日、弟子たちに遺言書が届くよう代理人に依頼してあったのだ。


 こんな早朝に届けるとは、あの代理人、とんでもなく真面目だったんだな。人選としては大当たりだが、もう少し時間をおいてくれれば遺言書を回収できたものを。


 とりあえず、クラリス宛の遺言書だけは確保せねば。


 俺は部屋の隅、ベッド脇のサイドテーブルへちらりと視線を走らせる。


「「「先生!!」」」


 数人の叫び声が重なり、部屋をビリビリと震わせた。


 こいつら、ダイレクトに俺の寝室に来やがったな。場所を教えた覚えはないんだが、なぜ知っている?


「クラリス、先生はどこだ!」 「落ち着きなさい!」 「先生はどこにいる!」 「ねぇ、先生は!?」


 クラリスが立ちはだかるも、三人の弟子たちは聞く耳を持たず、一方的に質問攻めにする。


 何度も繰り返される押し問答に、ついに堪忍袋の緒が切れた……クラリスの。


「黙りなさい!!」 「ぐぼぁっ」


 鈍い音と共に、一際体格のいいディーンの腹にクラリスの拳がめり込んだ……大丈夫か、アレ。内臓いってないか?


「おほん。よく聞きなさい」


 クラリスが思わせぶりな咳払いをすると、辺りは打って変わって静まり返った。


 言葉ではなく拳で黙らせた気がしなくもないが、もう手遅れだ。何も言うまい。


 腹を押さえてうずくまっているディーンが哀れだが、必要な犠牲であったと諦めるとしよう。


「ご主人様……いえ、先生はなんと! 美少女にバージョンアップしました!!」


 高らかな宣言と共に、いつの間にか背後に回っていた彼女が、俺の肩をガッシリと押さえつけてきた。


 おい、やめろ。


 弟子たちが皆、意識が宇宙の彼方へ飛び去った犬みたいな顔をしているぞ。


「はい、拍手ーー」


 クラリスは俺の肩を押さえつけたまま、狂気じみた明るい声で拍手を求めた。


 同調したのは、部屋にいた他のメイドたちのみ。


 弟子たちは、ただただ混乱の渦中にいる。


「はい、拍手ーー」


 反応が悪いことに納得がいかなかったのか、クラリスは再び同じセリフを吐く。


 だが、やはり拍手は起こらない。それどころか、弟子たちの表情はさらに虚無感を増している。気持ちはよく分かるぞ。


「……拍手してやってくれ。こいつ、ずっと続けるぞ」


 俺の言葉に、ようやくハッとした弟子たちが、パチ、パチ、と乾いた拍手を始めた。


「……………………」


 満足したクラリスは俺を床に降ろすと、すかさず背後から抱き締めてきた。そして、ぐりぐりと自分の顔を俺の背中に埋める。


 勢いでやっておいて、今になって恥ずかしくなったのか?


 奇行のおかげで、少しは場の混乱も収まったが……もしかして、わざとやったのだろうか?


「えぇと……本当に、先生?」


 屋敷を破壊する勢いで飛びこんできた弟子の中で、唯一の女性であるサラス。彼女が恐る恐る、腫れ物に触れるように問いかけてくる。


「口で言っても信じないだろ。今は体が変わったせいで制御が怪しいから出来ないが、マキナを使って山でも吹き飛ばせば納得してくれるか?」


 冗談めかして言ってみる。


「それはやめて下さい。迷惑なので」


 冷静な即答。わりと辛いものがあるな。


「色々と話したいことはあるが――まずは、この変態が俺の匂いを嗅ぐのを止めさせてもらえないか?」


 さっきからクラリスは、俺の首筋に唇が触れるか触れないかの距離で、深呼吸をしながら息を目一杯吸い込んでいる。なんともくすぐったいし、何より変態的だ。


「いつか現実と妄想の区別がつかなくなると思っていたけど、他の人に迷惑かけないようにしようね」


 サラスのクラリスに対する扱いが、とても優しい。だが、その目には深い憐憫の情が浮かんでいた。そういう目で、こいつを見ていたのか。


「失礼ですね」


 クラリスは不満げだが、大体の評価は合っていると思うぞ。現実と妄想の区別がつかないあたりとか。少なくとも俺なら、師匠が女の子になったなどと言い出したら、間違いなく正気を疑う。


「生体確認魔法をこの子に使ってみなさい。コウル、他の子は使えないので、貴方がやりなさい」


「そうですね。では――」


 苦労するよな、コウル。常識人というのは、濃い人間が近くにいる状況だと本当に立場が弱くなる。


「失礼しますね」


 優しく笑い、コウルが俺に掌を向ける。子供の扱いに慣れた手つきだ。


 そのまま魔法陣が展開すると、コウルの表情はみるみるうちに驚愕の色へと塗り替えられていく。人間というのは、表情だけでここまで変わるものなのか。


「……本当だ」


「え、嘘!?」


 一斉に、俺へと再び視線が集まる。


「本当に寝て起きたらこう――」 「先生っ!!!!!!!」


 俺が説明をしようとしたとき、さっきよりも遥かに大きな爆音が響いた。


 なぁお前ら、俺の屋敷をぶっ壊す気か?


「先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生、先生ぇ!!!」


 部屋のドアが開けっぱなしなのもあるが、コウルたち三人よりも声がバカみたいにデカい。


 その声だけで、錯乱している主が誰なのか、顔を見るまでもなくわかった。


「誰か、説明してきてくれないか。あいつ、屋敷ぶっ壊しそうだから」


「僕が行きましょう」


 コウルが部屋から出ていく。よく分かっているな。本当にアイツなら、屋敷を全壊させかねない。


「それと誰か、クラリスを俺から引き離してくれないか?」


 背後から抱き締めていたクラリス。


 彼女は相も変わらず俺を身動きできない程の力で抱きしめ、いまだに深呼吸をして俺の匂いで肺を満たしていた。

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