第2章 母の背後の異常

 学校という小さな社会から逃れるようにして、しずくが家路につく。しかし、自宅もまた彼女にとっての安息の地ではなかった。

 古びた木造アパートの階段を上る足取りは重い。

 玄関のドアを開ける前から、空気を切り裂くような母の鋭い声が漏れ聞こえていたからだ。


「ふざけないでよ! お父さんが亡くなる前に、あの土地は私に譲るって約束したの。あんたたち夫婦に一文だって渡すつもりはないわ!」


 リビングに入ると、母・真理まりが受話器を握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。その形相は、しずくの知る優しいお母さんの面影を完全に失っている。だが、何よりもしずくを戦慄させたのは、母の背後に渦巻く黒の密度だった。


 それは、クラスメイトの佐藤や美咲が見せていたものとは比較にならないほど巨大で、重厚だった。沸騰したアスファルトが重力に逆らって立ち昇っているかのような、どろりとした黒い塊。それは母の細い肩から噴き出し、天井に届くほどの高さまで蠢いている。

 もやの先端は、時折鎌首をもたげる蛇のように形を変え、怒りに震える母の耳元で何かを囁いているように見えた。


「お母さん、もうやめて……!」


 しずくはカバンを投げ出し、母の腰にしがみついた。


「お願い電話を切って。お母さんの後ろ、すごく変だよ。真っ黒なもやがお母さんの首に絡みついてる。お願い、変なこと考えちゃだめ!」


 真理は、娘の必死の訴えを煩わしそうに振り払った。無理やり電話を切ると、荒い息をつきながらしずくを見下ろす。その瞳には、血走ったような鋭い光が宿っていた。


「しずく何言ってるの。さっきから『後ろ』だの『もや』だの……。気味が悪いわね。お母さんは正しいことをしているだけよ。あの親族たちが、私たちからおじいちゃんの遺産を奪おうとしてるの。あいつらさえ、あいつらさえいなくなれば、私たちはもっと広い家に住めて、あんたにだって不自由させないで済むのよ……。そうでしょう?」


 母がその言葉を口にするたび、背後の黒いもやは歓喜に震えるように激しく波打った。

 しずくには分かっていた。母が自分の怒りを正しいことだと思い込むたびに、もやはそれを餌にして、どんどん力を増していくのだ。


「違うよ。お母さん……。それお母さんの気持ちじゃないよ。お母さんの中に生まれた嫌な気持ちを食べて、怪物が大きくなってるだけ。お願い、あいつに操られないで……!」


 しずくは涙を流しながら、母の背後でゆらゆらと揺れる闇に向かって、思わず手を伸ばした。しかし、指先がその黒い霧に触れようとした瞬間、焼け付くような冷たさが彼女を襲った。それは心が凍りつくような、ドロドロとした悪意の感触だった。


「あんたまでお母さんをバカにするの!?」


 真理はしずくの手を荒っぽく叩き落とした。見えていない母にとって、しずくの行動はただの狂った邪魔立てにしか映らない。真理は激昂し、しずくを強く突き飛ばした。床に倒れ込んだしずくの目に、信じられない光景が映る。母の背後のもやが、一瞬だけ巨大な口の形になり、転んだ娘を嘲笑うように歪んだのだ。




 それからの数日間、家の中は死んだような沈黙と、時折爆発する母の独り言で満たされた。真理の背後の影は、日ごとにその解像度を上げていった。もはやそれは不定形の霧ではなく、母の体から生えたもう一人の人格のように、明確な意志を持って母の背中を押していた。


 そして、運命の夜が訪れる。  

 嵐のような雨が降る夜、遺産トラブルの話し合いのために訪ねてきた叔父と、真理が玄関先で激しい口論を始めた。


「いい加減にしろ、真理! お前は病んでるんだ!」


 叔父の怒鳴り声が響いた直後、しずくは見てしまった。母の背後から、黒いもやが巨大な腕となって叔父の胸元を突き飛ばすのを。いや、突き飛ばしたのは母の手だったのかもしれない。しかし、しずくの目には、影が母の体を操り、強大な力で叔父を階段の下へと突き落としたように見えた。


 ゴトッ、という鈍い音が静まり返ったアパートに響き渡る。階段の下で不自然な方向に首を曲げ、ピクリとも動かなくなった叔父。その死体から立ち昇る絶望を吸い込むようにして、母の背後の影は、かつてないほど巨大に膨れ上がった。それは歓喜の雄叫びを上げるように、暗闇の中で激しく揺らめいた。


 やがてパトカーのサイレンが近づき、真理は虚ろな表情で連行されていった。警察官に腕を掴まれて歩く母の背後で、黒いもやは一瞬だけしずくの方を向き、真っ黒な瞳のような空洞を見せてニタリと笑った。母を操り人形のように動かしていたその巨大な腕は、しずくがいくら泣いて縋っても、母の瞳に娘の姿を映させようとはしなかった。


 独り残された静かな部屋で、しずくは震えながら、自分の知っていたあの残酷な真実を、嫌というほど突きつけられていた。


 黒いもやは、罪を犯したから現れる罰ではない。最初は、誰の心にもある「あいつなんていなくなればいい」という、ほんの小さな嫌な気持ちに過ぎないのだ。もやはその種を見つけると、どこからともなく寄ってきて、持ち主の背中をグイグイと押し始める。「いいんだよ、やっちゃいなよ」と囁き続け、その毒をどんどん大きく、深く育てていく。そして、本人が気づいたときにはもう、自分の意志では抗えないほど巨大な悪意となって、引き返せない場所まで連れていってしまうのだ。


「お母さんは……、もうお母さんじゃない」




 後日、施設へと移動する車窓から、しずくは夜の街を見つめていた。街灯の下を歩く人々の背中に、数えきれないほどの小さな芽が揺れているのが見える。

 しずくは、自分の小さな、震える手を見つめた。母を救えなかった。その冷たい後悔が、彼女の胸の奥で、じわりと熱を持っている。


(お母さんを、あんな風にしたやつが憎い)


 そう思った瞬間、しずくは息を止めた。窓ガラスに映る、自分の右肩のすぐ横。そこには、今まで見たこともないほど小さく、けれど墨のように真っ黒な芽が、ゆらりと姿を現していた。

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