影を育てる少女
都桜ゆう
第1章 黒いもやが見える少女
六月の湿った空気が、築四十年の古い校舎にまとわりついていた。換気のために開け放たれた窓からは、雨上がりの土の匂いと、どこか生臭い川の風が入り込み、教室内の埃っぽい熱気と混じり合って重く停滞している。廊下を歩く上履きの音さえ、湿気を吸って粘りつくような響きを立てていた。
土日を挟んだ休み明けだというのに、五年二組の教室には活気というものがなかった。むしろ、連休の終わりを惜しむような、あるいは降り続く雨への苛立ちを溜め込んだような、妙な圧迫感があった。湿り気を帯びた空気のせいで、生徒たちが交わす数少ない言葉も、低く、まるで水底から響いているかのようにこもっている。誰もが口を重く閉ざし、ただ気怠げに教科書を広げたり、窓の外のどんよりとした空を眺めたりしていた。
その、耳が痛くなるような不快な静寂を破ったのは、教員用の出席簿を抱えた担任が、古びた引き戸をガラガラと音を立てて開けた時だった。
その密室のような教室に、担任に促されるようにして一人の少女が足を踏み入れた。その瞬間、教室内を支配していた澱んだ空気が、鋭く切り裂かれた。
少女、
しずくの瞳は、クラスメイトたちを一人として捉えてはいなかった。彼女が凝視しているのは、彼らの顔ではない。首筋や肩のすぐ横。何も存在しないはずの空白の空間を、まるでそこに動く虫でもいるかのように執拗に射抜いていた。視線を向けられた生徒たちは、自分を通り越して後ろの何かを見られている感覚に、得体の知れない悪寒を覚えた。
「今日からみんなの仲間になる、水無瀬さんだ。家庭の事情で急な転入になったが、みんな仲良くするように」
担任の声が沈んでいく中、しずくは会釈すらしない。ただ、最前列に座っていた男子生徒が椅子を引いて後退りするほどの強烈な視線を、彼の背後に向けていた。
「……背後に、気をつけて」
唇から漏れたのは自己紹介ではなく、呪詛のような、あるいは切実な警告だった。その声は小さかったが、不自然なほど静まり返った教室内には波紋のように広がっていった。
「何だこいつ」
「気味が悪い」
囁き合う子供たちの間を抜け、しずくは一番後ろの席へと歩き出した。彼女が通り過ぎた通路には、鋭い冷気が這い出したような重い何かが残された気がして、生徒たちは思わず自分の肩をさすった。
休み時間になると、好奇心を隠し持った子供たちがしずくの席を囲んだ。中心にいたのはクラスの女王、美咲だった。
「ねえ、水無瀬さん。さっきの、どういう意味? 背後に幽霊でもいるの?」
美咲が声を張り上げると、周囲からクスクスと下品な笑い声が漏れた。美咲はわざと自分の背中を振り返り、何もない空間を払う仕草をした。
「ねえ、もしかして私、後ろに誰か背負ってたりする? 私のランドセル、重くなってたりしない?」
美咲のふざけた問いかけに、取り巻きたちがドッと沸いた。しかし、しずくは笑わなかった。美咲の右肩のすぐ横にある空間を、吸い寄せられるように凝視している。そのあまりに真剣で虚無な眼差しに、笑っていた美咲の表情がわずかに強張った。
「……黒いもやが見えるの」
しずくは、美咲の肌に触れるかのような至近距離の虚空を見つめたまま呟いた。
「悪いことをしようって思ってる人の背中に、それは出てくるの。最初は薄い煙みたいなんだけど、ずっと悪いこと考えてると、どんどん色が濃くなって、生き物みたいにウネウネ動き出すんだよ」
教室には大きな爆笑が巻き起こった。無遠慮な野次の中、美咲も挑発するように顔を突き出した。
「じゃあ、今の私の後ろには何が見えるわけ? 真っ黒な悪魔でも立って私を応援してるとか?」
美咲は挑発したが、しずくはそれ以上一言も発さなかった。ただ、怯えたように唇を震わせている。しずくの瞳には見えていた。美咲の背中から、毒々しい灰色をした霞が立ち昇り、彼女の髪を愛撫するようにネットリと漂っているのが。それは、美咲がしずくを嘲笑い、優越感に浸るたびに、墨汁を垂らしたようにじわりとその濃度を増していた。
「……何よ黙っちゃって。気味が悪い」
美咲はつまらなそうに鼻を鳴らすと、取り巻きを引き連れて自分の席へと戻っていった。
翌朝、登校時間。しずくはクラスメイトの佐藤の姿を見て凍りついた。彼のランドセルの上から溢れ出し、後頭部までを飲み込もうとしている異様な黒。それは光を一切通さないほど濃密で、まるで底なし沼が彼の背中に張り付いているかのようだった。
「……っ。もう手遅れ」
その掠れた呟きを、近くの女子生徒が敏感に聞き取った。
「ちょっと、水無瀬さん? 何が手遅れなの? 朝から変なこと言わないでよ、怖いんだけど」
女子生徒が眉をひそめて問い詰めたが、しずくは青ざめた顔で自分の机に突っ伏し、拒絶するように固く目を閉じた。佐藤は自分のすぐ近くでそんなやり取りがあったことにも全く気づかない様子で、取り憑かれたような虚ろな足取りのまま、自席に座り込んだ。
事態が一変したのは、その翌朝だった。
「ええと、佐藤くんだが家庭の事情でしばらく学校を休むことになった」
担任の言葉は説明不足で、かえって不信感を煽った。先生が教室を出た瞬間、堰を切ったようにざわつきが始まる。
「佐藤、昨日駅前のコンビニで警察に連れて行かれるのを見たやつがいるらしいよ」
「マジで? 万引き?」
噂が瞬く間に広がっていく中、昨日しずくの呟きを聞いていた女子生徒が、ひきつった顔でしずくを振り返った。
「……思い出した。水無瀬さん、昨日言ってたよね。佐藤くんの背中が真っ黒だって。『もう手遅れだ』って……」
その囁きは油のようにクラス中へ広がった。
「あいつ、本当に当てたの?」
「予言じゃなくて呪いじゃないのか」
クラス中の視線が一斉にしずくに突き刺さり、彼女の周囲だけが真空地帯のように静まり返った。
昼休み。しずくは一人、屋上のフェンス際でお守り袋を握りしめていた。
彼女には見えてしまう。人の心に芽生えた悪意が漏れ出し、背後に溜まっていく様を。それは一度もやとして現れれば、寄生虫のように持ち主の心を蝕み始めるのだ。
「この力は悪い人を見分けるためのものなんかじゃない。ほんの少し、悪いことが頭をよぎっただけの心に、あいつらが寄ってくるのが視えるだけ。そこで『もや』がどんどん大きく膨らんで、『やっちゃいなよ』って背中をグイグイ押すんだよ。そうして、その人を引き返せない場所まで連れていっちゃう。私は……、それをただ黙って見てることしかできない」
しずくが教室に戻ると、美咲がこちらを睨みつけていた。自分を恐怖させた転校生への憎悪。美咲の背後の霞は、昨日よりも明らかに濃く、粘り気を帯びた墨汁のようになって、彼女の肩に居座っていた。
しずくの警告は、誰の心にも届かない。黒いもやは、人々の無関心と好奇心を餌にして、確実にその根を広げていた。
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