Dホテル ゲストルーム(2)

「どういうことだ」


 思わず、声が漏れる。


 今日の夕方から行われるはずの、俺の試合が、夜明け前の今に放送されている? 最近伸長著しいという、生成AIを使えば、こんな映像も作れるのだろうか。いやしかし、誰が、何のために?


 はっと改めて、椅子の男を見やる。この男が製作したのか。


「ほら、始まるよ」


 催眠術のように、つ、と注意が男から外れてしまった。モニタの中で、名乗りを上げ終わったビジャホノと、もう一人の健郎が、リング中央に近づいていく。




 赤いスパッツに浅黒い肌、対して黒いスパッツに上気した白い肌。二人の巨漢が、対角線のコーナーから背を離した。審判は両者の中間をステップで測定するかのような軽やかさで移動し、鋭く振り下ろされる手刀に、その軌跡を追って開戦のコールが走る。


試合開始ゴンッ」


 カァン、と、いっそ脳天気なゴングの響きに合わせ、健郎とビジャホノがグローブタッチ、一瞬だけ視線が絡みあう。


 本人を置き去りにして始まった試合に、モニタのこちら側の健郎は唾を呑み込んだ。


 アウトボクサーとしての経験を十全に活かし、ビジャホノは左半身を聳やかし、右腕で胴部を守る、右利き構えオーソドクスのシェルガード。一定の距離を保ちながら、軽快にリングを周遊する。

 一方の健郎は、両拳こそ顔の前に構えてはいるが、重心は明らかに後ろ、防御的なスタンスのまま、ビジャホノの攻め気と向かい合う。


「ビジャホノは、まだボクシングを引きずりすぎだよな」


 独り言なのか、男が呟く。


「あの構えスタンスじゃ、打撃は捌けても、タックルに対応できないだろ。尤も……」


 言葉を遮るように、ビジャホノの左腕が、霞を纏ったようにぼやけた。


 ジャブだ。

 アウトボクサーの必中技、フリッカージャブ。肩を支点とした振り子のように、左腕を撓らせて放つ、高速の打撃。


「これで、懐には入らせないって寸法か」


 鞭を振るうのと同様の理。先端部、つまり拳の加速にすべてを集約し、人間の反応速度を超える速度をもって、相手の顔面を打つ。予備動作の小ささも相まって、ビジャホノレベルのフリッカージャブを回避できるボクサーは――つまり人間は、ほぼ存在しない。


 一歩、いや半歩でも前に出ていれば、健郎の顔面は拳によって弾かれ、その隙を逃さぬメキシカン・アウトボクサーの連打が彼を襲うこととなっただろう。


 健郎は動かなかった。


 動けなかったのではない。ほとんど捉えられぬ兆候、筋肉動作、音を裂く拳、そういったすべてを感覚し、止まったのだ。


 ビジャホノの瞳孔が、僅かに拡大した。驚愕したためでもあるが、健郎の次の動作を確実に把握するためでもある。


 改めて、半歩。

 すり足に近い、独特のステップが、両者の距離を縮めた。


 ビジャホノの、間合いだ。

 長い四肢を持つビジャホノにとって、絶好の狩りの時。一方的に打撃可能。

 瞬間、躊躇もなく、拳が奔った。


「早いッ」


 男の驚嘆の声。ビジャホノのジャブに対してではない。

 人間には反応できないはずの一撃に対し、反応し、掻い潜った、健郎に対してである。


 観客席からも沸き起こるどよめきを背に受け、ビジャホノの腰に両腕を回した健郎は、身体ごと押し込むようにテイクダウンを奪った。

 正確に言えば、相手の右半身へ重心をかけるように押すとともに、重心の乗った相手の右足を自身の左足で封じてバランスを崩し、転倒させて自らの身体で抑え込んだのだ。

 バタつくビジャホノの両足に、自身の下半身を取られないように素早く脇へと移動、ビジャホノの腰のあたりに自分の右膝を置いて、柔道で言うところの左横四方固めに近い体勢を取る。


 MMAではこう呼ばれる。


「完璧な、サイドポジションだね」


 下のポジションから抜け出そうと身を捩るビジャホノ。健郎の全身には、何ら余分な力が加わわっていないにも関わらず、その厚い胸板の下から脱出することは叶わない。




「これ、どうやってんの?」


 唐突に、男は健郎に質問を投げてきた。


「あ、ええっと……サイドのときには、むしろ力込めると重心転がされやすいンで。脱力して、相手が余計なことをするのを待って……」


 意識の外からの言葉だったがゆえに、滑り込んできたのと同等の速度で、健郎からも回答が出てきてしまった。はっと、今の状況を思い起こし、首を振る。自分が仕掛けているわけではないのに、自分が何万回と練習してきたすべてが、眼前に展開されている。意識が両断されたかのような不気味さが、どれほど頭を振っても脳に絡みつく。




 ビジャホノが動きを止めて、体力の消耗を防ごうとすれば、健郎の左拳が、側面からビジャホノの頭部を狙う。ノックアウトを狙う一撃ではないが、被撃を嫌って体を動かし、防御のための行動をせざるを得なくする。このプレッシャーが、ビジャホノの動作をワンパターンに、そして漫然としたものにさせていく。

 背筋を活用したブリッジ、蓋のような健郎の体が少しだけ浮く。機と見たビジャホノが背を反らせたその瞬間こそが、健郎にとっての狩りの時間だ。


 右手で、ビジャホノのの左手首を掴む。同時に、開かれた肩甲骨の隙間から、蛇のように健郎の左腕が滑り込む。鳥の手羽のように折りたたまれた、ビジャホノの左腕に、毒蛇が絡みついていく。


「Ahhーッ」


 健郎が、右手の角度と力の向きを変えれば、ビジャホノは短い悲鳴をあげた。空いている右手が、健郎の広い背中を二、三回、小さく叩く。


 ゴングの音が、相変わらず何の悩みもなさそうに響き渡った。

 モニタの中の自分自身が静かに立ち上がり、勝ち名乗りを受ける様を見つめ、そのモニタに向けて満足気に拍手を送る男に視線を移す。


「いい腕絡みV1アームロックだったねえ。教科書みたい」


「あんた、一体誰なんスか。この試合は、一体……何なんスか」


 ようやく男は、こちら側の健郎に向き直った。

 小太りの、中年男だ。座ってはいるが、立ち上がっても身長は165cmといったところか。

 笑い皺の寄った目尻、幸せそうに上がった口角は、なんとなく好人物という印象を与えるが、そもそも好人物は夜明けの格闘家の寝室で、当人そっちのけで試合観戦などしていないだろう。

 あまり季節感の感じられない長袖のTシャツと、履き古したデニムパンツ。衣服に包まれた胴部、腕部、脚部を見ても、およそ格闘技経験があるとは思えなかった。


「私は、まあ、そうだね」


 何だか男は、照れたような顔をして、短めに整えられた髪を撫でた。


「神さま、的な存在かな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る