最・強・幻・想 ~ 最強を決めるための決定戦を幻想世界で開催します ~

赤端 独楽男

開催前夜

Dホテル ゲストルーム(1)

 深く、重い液体に放り込まれたような感覚があった。

 

 沈むでもなく、浮かぶでもなく、全身にかかる無形の圧。


 そして微かな、熱。


 確かな温度差が引き起こした対流によって、水底の澱が攪拌されるように、少しずつ記憶が喚起される。


 俺は確かに、この気配に覚えがある。


 暗く冷たい通路を抜けた先、全身に響くこの熱さを、俺は求めている。



 歓声。

 様々な種類の期待に満ちた、大観客の歓声が、黒澤くろさわ健郎けんろうの耳朶を打った。


 同時に、自身がスプリングの利いたベッドの上、体温の染み込んだシーツに包まれて横たわっていることも認識できた。


「……試合は、……」


 我知らず呟いた言葉に、一気に意識が覚醒した。


 シティホテルの薄暗い天井に、印象派の水彩画のような色彩が乱舞している。まだ夜は明けていない。テレビモニタが点いているのだ。歓声も、スピーカーから流れてくる、いつかのどこかの録音に過ぎない。

 テレビを消し忘れる、ということはあり得なかった。健郎に、テレビ番組を見る習慣はない。ホテルにチェックインしてから、今日は動画の類にも一切目を通してもいない。なぜなら、試合の前日だから。集中力を高めながら、入念にストレッチを行って、それから汗を――


 そうだ、今日は試合の日だ。


 国内中堅総合格闘技M M U団体、EXShoTエクスショットの無差別級ワンナイトトーナメント、通称『鬼ヶ島おにがしま』。


 血流の加速、全身総毛立つ感覚、どっと汗腺が開く。

 積み上げてきたもの、流れた血、汗、マウスピースを噛み締める感触、骨と肉が衝突する音。

 なぜそれらを忘れていたのか、分からないほどの緊密さをもって、全身に流れ込む闘争の気配。


「これからさ」


 そして、独白のはずの呟きに応える声。


 健郎は跳ね起きた。肉体同様に研ぎ澄まされた直感が、己を取り巻く様々な異常な環境に全力で警報を鳴らしていた。

 EXShoTエクスショットに準備できる最高級の部屋、つまり都内のシティホテルチェーンのキングベッドルームである。巨大なベッドに面積のほとんどを占められた室内、壁掛け式のモニタが、見慣れた行楽園ぎょうらくえんホールの全景と、満員と言っても良い観客席を映し出している。

 健郎と、ベッドを挟んで向かい側、気持ち程度に設えられた一人用のデスクセットには、呼んでもいないはずの男が座り、両腕を頭の後ろで組んで、モニタの向こうの行楽園ぎょうらくえんホールを眺めていた。


「誰スか」

黒澤くろさわ健郎けんろう対エルクレス・"ザ・ガンスリンガー"・ビジャホノだよ」


 何の話をしている。健郎は拳を握り込んだ。全身が温まっていないが、頭は冴えている。だから滑らかに、ビジャホノの小憎らしい、タワシのような髭に塗れた、シニカルな笑みが浮かんできた。


「鬼ヶ島の第三試合さ。もちろん、知ってるよね」


 モニタの中で、彼が思い描いた表情のまま、行楽園ぎょうらくえんホールの八角形リングに入ってくる男。広い両肩の後ろ、赤く上気した肌の上で、交差したリボルバーピストルを図案化したタトゥーが、発達した筋肉の動作に合わせて拡大収縮を繰り返す。焦茶色の頭髪と接続された髭とが包む頭部から、鍛え上げられた上半身がぬぅとリングに入り込む。

 リングインしたメキシコ人ファイター、元全墨オールメキシカンプロボクシングライトヘヴィ級ランカー、戦績6戦4勝1敗1ノーコンテスト、MMA転向後成績2戦1勝1敗、エルクレス・"ザ・ガンスリンガー"・ビジャホノは再び、健郎が想像したとおりのシニカルな笑みを浮かべ、観客の声に応えて見せた。


「……ビジャホノ……?」


 混乱している健郎を置き去りにして、カメラが動く。リングの対角線上、ビジャホノの入場を見つめる男に、無感情なレンズが向けられる。


 ぶ厚い胸板と、腰であった。日本人の体格ではなかなかたどり着けない筋肉量と、頑健な骨格とが、威圧的なほどの安定感を生んでいた。その男の周囲だけ、凪いでいる、とすら表現できるほどに。

 静謐の中に構えられた刀身のように、弛みなく張り詰めた色黒の皮膚には、対戦者とは対照的に刺青は一切ない。僅かな所作が、神経の滑らかさを表現する。

 そして眼である。よく焼きの入れられた鋼を思わせる、つよく鋭い真っ黒な瞳が、モニタ越しに、健郎の視線を受け止める。

 同時に健郎も、その眼を深く覗き込む、そして知る。

 己の眼の深さ、力強さを。


「さあゴングだねえ、黒澤健郎」


 本日18時から開催予定の鬼ヶ島、その第三試合。スピーカーから、リングアナの絶叫が響き渡る。


「鬼ヶ島ッ、ワンナイトトーナメント! 第三ッ試合をッッッ行いますッッッ」


 呼吸の間。


「赤ァァコォーナァーッ、185cmセンチ、258lbsパウンズッ、」

 世界中の空気がなくなった瞬間のように、アナの声が止まる。

 そして。

「クロォォオォォォサワァァァアァァッ、

 キィィィィェェェェェエェェェェンッ、

 ロォォォォォォォォゥゥウウゥッッッ」


 絶叫に率いられた大歓声に応え、モニタの中の黒澤健郎が静かに、オープンフィンガーグローブをつけた右手を挙げた。


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