後編

――そうだ。拙者が今、この江戸の町で戈を執っている、その始まりだ。


白無地のかみしもの男は、主君・浅野内匠頭あさのたくみのかみである。内匠頭の前に切腹用の短刀が見える


そうだ。あれは江戸城でのことに遡る。


白い床。

高い天井。

勅使ちょくしをお迎えするために敷き替えられた真新しい畳。

廊下を響く坊主の擦る足音。


張り詰めた朝の空気の中、刃が鞘走る音が、異様なまでに大きく響いた。


道理である。小口を切っただけで謀反と見なされる。抜刀の音は、地獄の門を開く鐘の音のようであったろう。


一閃。

誰かが叫ぶより先に、血が走った。


「――刃傷でござる」「殿中でござるぞ」


声だけが残り、身体が崩れ落ちた。

将軍の居城での刃傷は重大な禁忌である上に、その日は勅使饗応という重要な日であった。

刀が床に落ち、乾いた音を立てた。


主君内匠頭が江戸城内で切りつけた遺恨の相手こそ、仇討の標的、吉良上野介きらこうずけのすけ


額に切り傷を負い、突然の出来事に狼狽して畳に伏せている吉良と刀を奪われ取り押さえられる内匠頭。

「あと一太刀、あと一太刀」


安兵衛は自分が見たこともないこの場面を、光の球の中に、まるで鳥が空から見下ろしているように見た。


誰か「浅野内匠頭様ご乱心」と叫んだのだろうか。音が小さくなり言葉の最後のほうは反響してほとんど何を言っているか聞き取れなかった。


見えている場面も次第に遠ざかり、天から見下ろす江戸城が点のように小さくなり消えた。最後に浅野内匠頭の白無地の裃が赤く染まるのが見えたような気がした。


すべては、あの日から狂い出した。



――今日まで、決して短い時間ではなかった。


安兵衛はそう思う。


耳に、今度は三味線の音が聞こえてきた。

なんだ、にぎやかだな。


頭上に浮かぶ光の玉には木目のようなぼんやりとした像が浮かんでいる。

次第にはっきりしてきて、どうやら欄間の彫り物のようだ。欄間の隙間から芸者が舞う豪奢な座敷が見える。


外から雨の音が割って入ってきているようだ。

激しくはない。降り続くとも、止むともつかぬ、間の悪い降り方であった。


三人の芸者の前に、一人の男が見える。


楽しげに座っていた。背筋を伸ばしているわけでも、崩しているわけでもない。ただ、そこに在った。盃を手にしていた。


その男、大石内蔵助おおいしくらのすけ。今宵の討ち入りの総大将である。


これは祇園ぎおんの一力茶屋か。


周囲の視線を、その男、内蔵助は感じていた。

笑っている者もある。軽蔑している者もある。どちらでも構わぬ。視線は、斬れぬ。


「今は臥薪嘗胆がしんしょうたんのとき」

内蔵助くらのすけは、待っていた。


何を、とは己れでも言わなかった。

言葉にした瞬間、狂いが生じるからである。


今は動く時ではない。

赤穂藩あこうはんが失ったものは多い。

だが、それを数える時は、まだ来ていない。


人は言う。

大石内蔵助は堕ちた、と。

忘れたのだ、と。


内蔵助は、何も答えなかった。

答えは、ここにはない。


雨音の向こうで、何かが確実に近づいていた。

それを待つことだけが、男の仕事であった。


沙汰が降りた。

――浅野家御家断絶。

希望がついえた。


あの時から今日までの苦汁の日々は、筆舌に尽くしがたい。


本日、丑三つ時頃、鳴り響く山鹿流陣太鼓。裏門隊の火事騒ぎの陽動から表門突破。


太鼓の音が、夜を割った。

低く、重く、腹の底に響いた。


門が破られ、浪士がなだれ込んだ。

声、足音、刃の音が一斉に重なり、屋敷は一瞬にして戦場に変わった。


――


そうだ。今は本所松坂町の吉良邸内である。安兵衛は、断続的な叫声がこだまする場に、己れが倒れていることを認識した。


血と鉄の匂いが混じり、粘ついた。息を吸うと、喉が焼ける。

上に覆いかぶさっている男を払いのけて立ち上がった。


拙者はただ、この夜を越える。

越えた先に何があるかは、夜が明けてから考えればよい。


この夜のことは、後世でいくらでも語られよう。

誰が義で、誰が不義で、何が正しかったのか。


だがその議論の中に、雪の冷たさも、肺を焼くような荒い息も、この一瞬の躊躇いも、史料には残るまい。


この夜の真実に名を与えられることがあるのか。


安兵衛は空拳を見下ろした。拙者の脇差はどこだ。

畜生。上から倒れてきたあの男の体に深く刺さってしまったか。


腰から太刀を抜き、奥へと足を進めた。


狭い!

廊下では思い切り太刀が振るえぬ。

雪明かりを反射する障子を、安兵衛の足が蹴り破った。


部屋にいた侍に一太刀浴びせたが気合と共に放たれた初太刀は、鋭い火花と共に撥ね退けられた。安兵衛の太刀が相手の刃に吸い込まれるようにも思えた。


(見切られたか……!)


間合いを取る。


「あの男、清水一学しみずいちがく!」 背後で誰かがささやく。


吉良家随一の剣客。二刀流の使い手とも、あるいは一刀流の極致とも噂される、当代屈指の剣豪である。


「……待ちわびたぞ。堀部安兵衛、いざ尋常に」


一学の声は、戦場とは思えぬほどに静かであった。太刀を右肩に立てる八相の構え。微動だにせぬその姿は、まるで深山にそびえる古木の如き威圧感を放っている。


その瞬間、周囲の喧騒が遠のいた。 飛び交う怒号、雪を踏みしめる音。そのすべてが磨き抜かれた静寂に飲み込まれていく。安兵衛の耳に届くのは、己の肺が刻む荒い呼吸と、早鐘のように打つ鼓動のみ。視界の端が暗転し、ただ一学の切っ先と、そこから放たれる凄まじい殺気だけが、白く輝く円光の中に浮き上がって見えた。


生死を分かつ極限の静止――それを、一学が打ち破った。


鋭い呼気とともに、一学の体が弾ける。速い。


銀光が奔流となって安兵衛を襲う。 ガギィィン! と、硬質の鉄音が夜気に響き渡った。 一撃、二撃、三撃。 安兵衛は正眼に構えた刀でそれを受け、流し、即座に突きを放つ。互いの鎬が削れ、飛び散る火花が二人の顔を明滅させた。


一歩も引かぬ。引けば死が、そして主君への忠義の潰えが待っている。


「悪いが、拙者には時間がござらん」


安兵衛が低く呟いた。背負った「義」の重さが、彼を死地へと追い込む。 「……肉を斬らせて、骨を断つ!」 安兵衛は防御を捨てた。一学の切っ先が己の肩を捉えるのを承知で、懐深く、渾身の力を足裏に込めて踏み込んだ――。



―― ある史料によると、今宵の討ち入りで吉良側の家臣六十人以上が死傷したが、女子供の犠牲者は一名ないし数名と少数であったと伝えられたらしい。 ――



ほぼ邸内を制圧したが、しかしまだ肝心の標的にたどり着いていなかった。

「主君浅野内匠頭のおん仇、吉良殿の寝所は向こうである。」


寝所まで押し込んだとき、誰かが叫んだ。


――おらぬ。


一瞬、空気が凍った。


探せ、という声が飛んだ。畳を踏み返し、障子を破り、物陰を暴いた。だが、肝心の姿が見えなかった。


夜が薄くなり始めている。


時間がない。

ここで見つけられねば、すべてが無に帰する。

討ち入りは、ただの乱入で終わる。


この夜に賭けたものが、あまりに多過ぎた。



――我らは、私怨で刃を執ったのではない。


浅野内匠頭への裁きは即断で、極めて重かった。

一方で、吉良上野介には、何一つ下されなかった。


浅野家再興に一縷の望みをかけたが、その望みも尽きた。


その不均衡を、誰も正そうとしなかった。

だから我らが、ここにいる。

この行いを、ただの仇討ちとは呼ばせぬ。


御公儀の裁きが正しかったのかどうか、後世に問いたい。


探せど上野介は、見つからない。


東の空が、白くなり始めた。


その時、呼子の音が――!

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