飴色のナイフ
桐生甘太郎
飴色のナイフ
冷房の風を心地好く楽しみ、ビートルズを聴いていた。気分が良い。真夜中ならヒトは寝るだろうに、不必要に満たされた空気が私を野放図にさせる。しかし法律は守らないといけない。
隣人の咳払いがいつも聴こえてくる安アパート。時刻は午前一時だった。
悶々とする暇もなく、服を着替え、きちんと身支度をして外に出た。生来私は外に出る時だけ人間らしいのだ。
〝もしかして、誰それの家に行ってみたら、妖怪の家のような無法地帯だったりしないだろうか。あの人も私と同じように繕っているのではないか?〟
私がまだ人々の暮らしを想像して怯えている頃であった。
音が響かないように静かにドアを開ける。その途端、襲い来る熱気。ぎゅっと目をつぶり口から不平を出す。
「うわ、暑い」
空気というのは、満ちている物なのだ。まるで突然異空間に送られたように、真夏が纏わりついた。
夏の夜は不気味だ。私の知らない私を、死と生の境目を、夏は知っている。そんな気がする。
私は〝それならそれで、ご勝手になさい〟と足を踏み出した。
〝駅前にでも歩いて行って、また帰ってこよう〟
本当にただ歌いたいだけで、ついでに運動をしたのであった。
「It's been a hard day's night~」
口からは数十年間練習もしていない、杵柄が零れる。周囲には誰も居ない。大きな国道の歩道だ。
コンクリートの継ぎ目からも生えている、イネ科の草達の名前は、いつも知らない。しかし彼等はとてもしぶといので、居なくなる心配は無いであろう。
私は普段から、歩く人もないこの田舎の道で、歌いながら歩く。簡単なことだ。遠くに人が見えたら歌うのをやめる。その人とすれ違ってしばらくするまでは、黙って神妙に歩けばいい。
〝昼間は運動が出来なかったのです。貴方もですか?良い夜ですね〟
そんな風な文句を、口に出しもしないのに考えている。
真夜中の散歩は楽しかった。ジョン・レノンの低い声を、ポール・マッカートニーのハーモニーを、リンゴ・スターのシャウトを、ジョージ・ハリスンの歌い方を、真似して歌っている。
冷房の恩恵から、私の享受は生物としての悦びに移ったかもなと思った。
生物は活動し、遊ぶのだ。そして食べる。そんな事は勿論考えてはいないが、後から振り返れば、深夜の散歩も悪くはない。
途中、小さな花畑を見た。暗い中に白い花弁達がぽわんぽわんと無数に浮く。
〝夜でも花は咲くのを休まないのか。ご大層な事だ〟
当たり前のことに感心して、誰も見てくれないのに美しさを誇る花を、しばらく見つめてからまた歩き出した。
歩いていると、あちこちと目が動く癖があるので、ちらとどちらかを見ると、何かと目が合った。
こんな深夜に誰かと目が合うと、一瞬はぎょっとするが、すぐに胸が落ち着いた。それは、大きな蟷螂だった。私は、すぐに彼に近寄る。小さな頃から彼等に憧れていたのだ。子供の為なら番さえ栄養にする、弱肉強食の世界に生きる戦士たちだ。しかし、雄か雌かは私には分からなかった。
その蟷螂は、地面から電線までの黄色いカバーに掴まり、ぴょい、ぴょい…と歩いていた。
しかし私を認めると、彼は下の方に降りようと、細い足をばたつかせる。私は一声掛け彼とはお別れをしようと思った。
「やあ、おやすみかな?邪魔してごめんね、またね」
〝例えば、人間の声が優しかったとして、昆虫は気付くのだろうか?〟
今ここでそんな課題は解決出来ない。私は動物行動学者ではないのた。
〝まあ、あまり怯えさせては彼の今後にかかわるかもしれないし…〟
蟷螂と別れてまた歩き出す。しかし私は困ってしまった。喉が渇いた。カラカラである。
ゆく手に見えているスーパーは24時間営業で、自動販売機が置いてある。
〝ああ、120円とはいえ、あまり外で水は買いたくないが…まあ、喉を枯らしたのは私だ。有難く助けて頂こう〟
ガッコン。この音はどこの自動販売機でも変わった試しが無い。何か大きな力が過去にこれらの機械を束ねて、それから機構は変わっていないのであろう。
〝エアコンの稼働音はどんどん進化しているのになぁ…〟
財布は持ってきたが、残念ながら200円しか入れてこなかったので、残りは80円である。これでは緊急事態に何も出来ない。
〝今度から、2千円は持ち歩くか…〟
水を飲みながらスーパーの敷地を出てから、水の助けを得て、またビートルズを歌う。つくづく懲りない。
歩き過ぎた私は、ここまでで1.8kmは歩いていた。ちんたらと歩くのは得意なので、時に8kmなど歩く事がある。
もうしばらくで、国道に沿って走るローカル線の二駅目に着く。自宅からその駅までは、大体2kmである。
そこで私は、突如として覚醒をしたように、緊張した。
〝駅前には、誰か居るかもしれない。不審に見られては困るな…〟
何となくだが、歳なりの若者でございという顔をしたかった。私はまだ三十路にはなっていなかった。今思えばどうでもいい話である。
流行りのダンスミュージックを聴いてみた。断っておくが、私の気の変わり方は大変激しく、好みは大変に広い。広過ぎて誰もついて来れない事の方が多い。
それからまた音楽を聴きながら、ロータリーに近くなるまでは歌う。実はそこまで難しくない。ダンスミュージックは、踊りながら歌うのだから、息継ぎが頻繁に出来る曲作りなのだ。
〝ビートルズの方が大変だ。彼等はワントーンが長いからなぁ…〟
駅に近くなってくると、道の舗装は丁寧になり、国道の両側に、少し価格帯の高い飲食店が並ぶ。
不動産のチラシなぞ見ても何も意味は無いが、空き物件の案内がきちんと貼ってあった。それらはきちんとラミネートされており、雨に濡れても人が見られるようにしてある。人の仕事は細かいものだ。
駅前のロータリーを回ってから、同じ道を歩いて帰るのに、反対の歩道を進もうと思っていた。そうして良かったと思った。
百日紅の花の盛りだ。様々な看板を照らしている照明が、鮮やかに咲き誇る街路樹、百日紅の美しさを、夜でも伝えてくれた。
〝花は夜でも咲いている〟
もう一度そう感じて、ライトアップされた百日紅からしたら得なのかもしれないと思った。しかしそれはヒトからの評価であり、彼等の繁茂の手助けになるかは分からない。
桃色の房が天に向かって伸び、しかしそれは少しも辛そうに見えない。花や木が重力に逆らう咲き方をしていたとして、どれ程力を使うのかは、私達は悟れない。たくさんの花がついたところは重そうに垂れ下がっている。でもそれも、美しい景色なのだ。花の重さは、彼等の栄華だ。満ち足りた証に花は咲くのだ。
ようやっと駅に着くと、ここなら少しは人が居るかと思っていたが、誰も居なかった。本当に人っ子一人居ない。
私は、東京の都心の辺りに住んでいた事がある。
駅前に行きさえすればいつも必ず人が居て、酔っ払って騒いでいたりする。私はあまり好きな景色ではなかった。「夜なんだから、酒を飲んでまで無理して起きていないで、眠ればいいじゃないか」と、駅前をふらついている自分を棚に上げていたものだ。
「いい土地に来たな」と思った。みんな今、家でぐっすり眠っているのだろう。私は、見知らぬ小さい子供が安心して布団にくるまって、寝息を立てているのを思い浮かべた。
駅前の公衆トイレで用を足して手を洗っていると、鏡に小さなバッタが張り付いていた。
「やあ、バッタさん。君たちは夜も起きているんだね」
バッタと別れて、「虫は意外と夜でも元気なんだな」とまた感心した。後で分かった事だが、昼行性の虫も夜行性の虫も、どちらもとんでもな多いらしい。
駅前の喫煙所を目指す。申し訳ないが私は愛煙家なので、こういった場所はとても有難かった。今はもうないだろうが。
ジッポで火を点け、煙を吐き出す。その時聴いていたのは、宇多田ヒカルだ。夏に出されたアルバムなのか、夏の景色を歌った曲ばかりだった。私はそこで、はた、と、我に返る。
〝昔、こんなことをしていた気がする〟
この時よりも遠い夏、どこかの駅前で、宇多田ヒカルを聴きながら、煙草を吸っていた気がしたのだ。
そんな淡い感覚が急に胸にこみ上がり、「夏だなあ」と口にした。そして私はさっさととって返す。
駅前を離れようとして、一度駅を振り向いた時に、薄い薄い、上弦の月と目が合った。
薄青いスクリーンを僅かに切り抜き、後ろから白い壁が見えているような新月。そんな普段と違う様子に不審がる事もなく、私はするりと〝朝だなあ〟と思った。
新月に近い月は、もう白み出した薄青の空に浮かんで、「綺麗でしょう?」とこちらを見つめ返していた。私は、「綺麗だなあ」と言った。
帰り道は、ボーカロイドから好きな曲を歌っていた。相変わらず歌うのに手こずるなあと苦笑しながら、そして、自分の記憶と重なる、悲しい悲しい曲も歌った。
空は少しずつ明るくなり、薄闇から白んでいく。これ以上明るくなりようがないという頃には、金のキャンバスへ画家がくまなく目を光らせて白い光を落とした後だ。上等の一枚絵である。
夜という衣を脱ぎ、次は朝を着る。私達はそうして「おはようございます」と頭を下げたり、子供を起こしたりする。
〝花や動物には、衣はないだろう。彼らは初めから裸だ〟
ずいぶんと彼らが遠い存在になってしまった。寂しく思ったが、所詮別の生き物なのだから仕方ない。朝だからと風は冷たくならないらしいが。
〝花や動物は、幸福への道が決まっている。日が当たり雨が降り、大風が吹かなければいい。幸福に迷っているのは、我々だけか…〟
なんとも寂しい気持ちで家に着き、この世と別れる辛さを込めてノブを捻った。
明るい朝日をドアで封じ、私は自分の世界へ帰ろうとしていた。だが、その時何気なく、恐らく希望を込めて私は振り返った。
目に飛び込んだのは、飴色のナイフだった。
朝の空を遮るのに、自家用車や向かいの家の屋根が突っ立っている景色の向こうに、それはあった。
遠い雲間からちらりと見えている強い日光が、金色に光り私の目を焼く。
あるいは神が居るとするなら、こんな現れ方もしてみせるだろう。
私は力を込めてそれをひと睨みし、苦しいながらも微笑んでみせてから、家の中へ入った。
End.
飴色のナイフ 桐生甘太郎 @lesucre
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