ラッフルズ図書館の炎上
尾崎滋流(おざきしぐる)
ラッフルズ図書館の炎上
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
そのうわさによって、わたしの恋人は死んだ。
そして今、図書館は炎に包まれている。
月光の下、立ち並ぶ椰子の木をざわめかせて、白亜の館が紅い炎に蝕まれている。
東インド世界で最大と言われたその蔵書と、あらゆる博物学の資料を灰と化しながら。
渦巻く熱と煙の中で、わたしは一心にアイシャのことを考えている。
わたしは必ず、彼女を取り戻す。
1
図書館──厳密に言えばひとつの建物を図書館と博物館が分け合った施設の名前は、ラッフルズ・ライブラリー・アンド・ミュージアム。
今からおよそ30年前、1887年に建てられた、ギリシアの神殿を思わせるファサードと、瀟洒なドームをもつ新パッラーディオ様式の館だ。
そこで、わたしはアイシャと出会った。
図書館の、輝くばかりに白く、優雅で荘重なたたずまいは、ヴィクトリア通りやビーチ通りに建つ公館や教会とともに、英国からこの蒸し暑い南国にやってきたわたしをひととき安心させてくれた。
1916年──世界大戦が始まって三年目の年、夫は植民地省の行政官として、わたしはその妻として、この
ユーラシアのはるか東の端への旅には不安もあったけれど、戦争の続くヨーロッパを離れられることは嬉しくもあった。
マレー半島の突端にある小さな島に移り住むとまもなく、夫はあまり家に帰らなくなった。
わたしたちは多くを話さなかったけれど、おそらく夫は、英国で求められていたような「男」として振る舞うのをやめたのだと思う。
もちろんこの赤道直下の街にも社交があり、わたしたちは時に着飾って馬車に乗り、ラッフルズ・ホテルのテラスやバンケットルームに集まってさえずるようなお喋りをする。
でもこの街の照りつける陽光となまぬるい風、花と果実の香りの中では、霧深いロンドンで夫を縛りつけていたものはずいぶん弱まったのだろう。
そうして夫は、わたしに対するかつての役割から降りた。
わたしも、同じようにすることにした。
アイシャの褐色の肌と、見慣れぬ柄の裾の長い服は、英国の書棚がそのまま持ってこられたかのような区画で目を引いた。
英語が読めるマレー人の女性は、そう多くはないからだ。
高い天井と優雅な列柱の下、書棚に囲まれた机で、黒髪を固く結い上げた彼女が『イリアス』を読んでいた。
「ホメロスが好きなの?」
そう話しかけると、彼女は弾かれたように顔を上げ、
「すみません、この本、読まれますか」
「いいえ、そうじゃなくて……私も好きなの」
こんな風に英国人から話しかけられることなどないのだろう、彼女は驚いていた。
「わたしはイーディス。この街に来たばかりなの。あなたは?」
「……アイシャといいます」
大きく黒い瞳が、少し不安げに揺れていた。
アイシャはある分署の長を務める警察官の娘で、家の仕事の合間を見つけてはこの図書館に通っていた。
わたしたちはすぐに意気投合し、『イリアス』や『オデュッセイア』、あるいは様々なギリシア悲劇、あるいはシェイクスピアについて語り合った。
特に英雄アキレウスとその親友パトロクロスの物語はわたしたちを共に惹きつけ、見つけうる限りの出典を確かめようとした。
「イスラム教徒も、こんな異教の物語を読むなんてね」
「ええ、変わり者と言われますけど」
この街の建設者の名を冠した知識の殿堂は、わたしたちの興味によく答えてくれた。
「いつかアテネやトロイアに行ってみたいです。わたしは、この半島から出たことがないので」
神話の時代を、地中海の半島と島々を語る時のアイシャは、はるか遠いものに魅せられた目をしていて、わたしはそれを見るのが好きだった。
奇妙なうわさを耳にし始めたのは、その頃のことだ。
「聞いた?アイシャ。おかしな話なんだけど……この図書館で、幻が見えるんですって。それも、古代の世界の幻が」
「わたしが聞いたのは別の話ですね。なんでも、クレオパトラのため息が聞こえたとか」
うわさの内容は一定せず、あいまいな、さまざまな形をとっていた。
ただ、そのどれもが、古代の世界が垣間見えるということを語っていた。
わたしは家事のために帰ろうとするアイシャを引き止め、幻がよく見られるという夕刻まで図書室で息を潜めた。
それは彼女にとってはちょっとした逸脱行為で、その表情には戸惑いとともに、微かな興奮の光が宿っていた。
そして、何度目かの試みで、それが現れた。
巨大な図書館があった。
壁面を埋めつくす棚に無数の巻物が収められ、見知らぬ神の像がそれを見守る。
貫頭衣をまとった、様々な肌の色をした人々が行き交い、聞き取れぬ言葉を話している。
図書館の外には壮麗な神殿があり、その向こう、海に突き出た埠頭に、天を衝くような大灯台がそびえていた。
わたしとアイシャは、息をするのも忘れてそれを見ていた。
思わず、彼女の手を握っていた。
異国の情景はやがてかき消え、沈みゆく陽が射し込む白い柱廊だけが残った。
2
「あれは、アレクサンドリアです。間違いありません」
翌日、アイシャは興奮してまくし立てた。
アレクサンドロス大王がエジプトに築き、その息子が開いたプトレマイオス朝の都として栄華を誇った街。
古代の七不思議として有名な、アレクサンドリアの大灯台のことはわたしも知っていた。
そして、最後の女王クレオパトラと通じたカエサルによって燃え落ちたという、その伝説的な図書館のことも。
「見てください、イーディス」
アイシャが開いた本には、円筒形の帽子を被り、豊かな髭をたくわえた神の像が描かれていた。それは確かに、幻の中で見たものと似ている。
「これはセラピス。アレクサンドリアにおいて、ギリシアから来た人々とエジプトの住民の融和のために、それぞれの神を習合させて生み出された神です」
「じゃあ、わたしたちが見た建物は……」
「ええ、きっとあれが、アレクサンドリアの大図書館なんです」
アイシャは燃えるような視線を、まっすぐに私に向けていた。
いつも本を読みながら話していたので、こんなふうにまっすぐに見つめ合ったことは、今までなかったと思った。
「アイシャ、わたしたちは、すごい発見をしようとしているのかな」
「そうです、きっと」
それからわたしたちは、以前にもまして図書館に入り浸った。
アイシャは厳しい父親をなだめすかし、家事を前倒しで終わらせ、スコールの合間をぬって夕刻の図書館に足を運んだ。
幻は幾度も現れた。
コリント式の列柱。
壁に描かれた、色鮮やかなフレスコ画。
都から見渡す、果てしない砂漠。
そして何よりも、万巻の書を収めた図書館。
まるで図書館同士が喚び合っているかのように、その姿は何度も現れた。
ホメロスの読者であるわたしたちにとって、アレクサンドリアの図書館は尽きせぬ興味の対象だった。
現在読まれている形での『イリアス』や『オデュッセイア』が編纂されたのが、古代アレクサンドリアにおいてだからだ。
ホメロスは物語を書き残してはいない。それは幾世紀にもわたって歌い継がれ、その歌がやがて書き記され、その多くの写本の中から、ひとつの物語が纏められた。誰も、本来の『イリアス』の姿を知らない。
わたしたちは幻の中に、それを探していた。
そんなある日、別の幻が現れた。
沈みゆく陽の見える西翼の窓際にいたわたしたちは、壁にもたれて芝生に座る男の姿が空中に浮かぶのを見ていた。
「これって……ここの中庭じゃない?」
わたしがそう言うと、アイシャが声を上げた。
「この人、知っています……この図書館の掃除夫ですよ!」
顔を見合わせる。
男は側面から夕日に照らされ、憑かれたような目で前方を見ている。
男を照らす光は、今わたしたちの前にある窓から射し込んでいる光と同じだ。
わたしたちはスカートの裾を持ち上げ、わたしたちに許された最も速い駆け足で中庭へ向かった。
階段を降り、芝生を蹴って走ると、果たして物陰にその男がいた。
男の手元に金属の器があり、その中で何かが燃えている。
マレー人のその男は、わたしを見ると明らかに狼狽えて、
「ごめんなさい、誰にも言わないで、これは返します」
たどたどしい英語で話しながら木製の箱を差し出してきた。
「あなたも今、幻を見ていたんでしょう?」
アイシャがわたしの言葉を訳して問いかけると、男は頷く。二階の窓際で幻視した時、男はわたしたちがアレクサンドリアを見つめている時と同じ目をしていた。
「何を燃やしていたんですか」
尋ねると、男はまるで取り調べを受ける容疑者のように話しだした。
「この紙を燃やすと、幻が見えます。最初は偶然です。煙草の巻紙にしようと思って……」
渡された箱の中には、何も書かれていない古い紙の束が入っていた。薄く色がついており、繊維質で厚みがある。
「何年も前から、倉庫の奥にしまってあった紙です。みんな忘れてるものだと思って」
箱には小さな金属のプレートが嵌められており、そこには「サー・アーサー・ヘンリー・マクマホン 1915」という文字が刻まれている。
3
夫の伝手で施設の記録を辿り、紙の正体がわかった。
それは、かつてインドの外務省に務め、現在はカイロに駐在している高名な外交官であるマクマホン卿から寄贈された、古代のパピルスの束だった。
おそらくは大英帝国において名高いラッフルズ・ライブラリー・アンド・ミュージアムに敬意を表してのことだったのだろうけれど、寄贈された側にとっては扱いづらい品だったようだ。
何も書いていないので書物としての価値はなく、また建物の半分を占める博物館の側は東アジアの事物を専門としており、古代エジプトの遺物は場違いだった。
また、空気の乾燥した地中海沿岸で作られた植物繊維の束を、この島の気温と湿度の中で管理することは難しかった。
そのようにして、このパピルスは図書館と博物館の間でもてあまされ、いつしか忘れ去られたのだろう。
「このパピルスが、故郷の記憶を呼び覚ましているんですね」
夢見るように語るアイシャをわたしは可愛らしいと思ったけれど、わたしも同様にそれに魅せられていた。
ある夜、わたしたちは閉館後の図書館に忍び込んだ。
パピルスのことを口外しないことと引き換えに、わたしはあの掃除夫から合鍵を手に入れ、アイシャを誘い出した。
わたしたちの最初の実験を行うのだ。
「こんな時間に、外に出たのは初めてです」
緊張した面持ちをした彼女も、興奮を隠しきれずにいた。
ガラス戸の嵌められた黒檀の書棚が並び、街の建設者たるトーマス・スタンフォード・ラッフルズの胸像が見下ろす図書室で、わたしはマッチを擦ってパピルスの切れ端に火をつけ、小さな真鍮の鉢に落した。
「あっ」
マッチを使い慣れない私は、火のついたそれを消そうとして手元が狂った。
書棚の隅にマッチが落ち、赤い炎が舐めるように燃え移った。
背筋が凍った。
「そんな」
何もできず立ちつくす私の横から、黒髪の影が飛び出した。
アイシャが自分の鞄を振り上げ、火が燃え移った場所に何度も叩きつける。
あっけないほど簡単に、火が消えた。
「アイシャ」
声を震わせる私の前で、彼女は書棚を見つめ、
「すぐ消えて良かった。でも、少し焦げ目がついてしまいました。もとが黒いので、あまり目立たないとは思いますが──」
立ち上がるアイシャに駆け寄ろうとして、思わず足を止めた。
時を経た、古い紙と土の匂いが立ち込めた。
乾いた空気に、皮膚がざらついた。
吹き抜けの大広間の、左右の壁に格子状の棚が作り付けられ、その全ての格子に巻物が積み上げられ、わたしたちはその中に立っていた。
振り返ると、列柱の向こうに海と大灯台が見えた。
「イーディス、イーディス……」
アイシャが怯えたようにわたしの名を呼び、わたしは彼女の手を取る。
それは、今までに見た幻とは全く違っていた。
それは、幻と呼ぶにはあまりにも生々しかった。
目に見えるだけではない。五感に与えられるあらゆる情報が、そこが熱帯の街とは全く別の場所だと伝えていた。
「アイシャ、わたしはここ」
「イーディス、これは……そんな」
「アイシャ」
私は彼女を抱き締めた。
「イーディス、わたし」
「何も言わないで」
アイシャは震えながら目を閉じた。
わたしたちの肌を吹き抜ける風は、驚くほどに乾いていた。
4
「最近、帰りが遅いようだが、どこに行っているのかね」
ストレーツ・タイムスに目を落しながら、夫がさして興味も無さそうに尋ねた。
「相変わらず、図書館にいますわ」
「そんなに遅くまで開いているとはな」
「館員の方と仲良くなって、特別に入れてもらえるんです」
「そうか」
紅茶を一口啜り、新聞を捲る。
「オスマン・トルコでアラブ人の反乱が起こったようだ。もうすぐ、奴らをわがヨーロッパから追い出すことができる」
「早く、そうなるといいですね」
わたしは様々な人種の集う古代都市の光景を思い浮かべていた。
小アジアやオリエントから来た人々も、あの中にいただろうか。
あやうく火事を起こしかけたあの夜から、わたしたちはよりいっそう、幻にのめり込んだ。
わたしたちは夜の図書館に忍び込み、パピルスの切れ端を燃やしては、アレクサンドリアの光景に見入った。
どういうわけか、その現象が起こるのは図書館の中でだけだった。
試しに家でパピルスを燃やしてみても、黴臭い匂いが立ちこめるばかりだった。
古代の遺物が時を越えて見せるものを、わたしたちは食い入るように見つめた。
アレクサンドリアの数々の伝説──大図書館、学術の殿堂ムセイオン、ホメロスを神として祀るホメレイオン、そしてあの大灯台──それらは全て書物によってのみ伝えられ、実際にあった場所すら定かではなかった。
わたしたちの前に現れる古代都市の像はあまりに迫真のものだったので、それを子細に観察すれば、あのシュリーマンのトロイア発掘のような発見が得られるかもしれない。
とはいえ、あの最初の夜、書棚を燃やしかけた夜に体験したほどの鮮明な幻、視界の全てに広がり、五感すべてに押し寄せるような像が現れることはなかった。
現れるのは幻燈のような、あるいは空中に開かれた窓から見える風景のような、古代の光景を映す像にすぎなかった。それでも、その像はわたしたちを深く魅了した。
アイシャの厳しい父親は、わたしの存在によって、娘の夜の外出に目をつむった。
多くの人々に力を及ぼすことのできる自分の立場に、わたしは酔っていたと思う。
夜のとばりと、ゆらめく炎は、わたしたちを親密にした。
「クレオパトラのため息が聞こえるといううわさがあったけれど……あなたの吐息を、過去の誰かが聞いたのかもしれない」
「わたしはエジプトの女王様ではありませんよ」
「わたしにとっては、どちらも同じように胸がときめくわ」
アイシャは少し困ったような目でわたしを見る。
わたしは彼女の長い髪をほどく。
ある日、日中に実験すれば別のものが見えるかもしれないと思い、わたしたちは図書館の物置に隠れた。
アイシャと手を取り合い、いつものように真鍮の器の中でパピルスを燃やそうとすると、湿気のせいかうまく燃えず、くすぶるように煙だけが立ち昇った。
その時、眼前に幻が現れた。
それは古代の像ではなかった。
そこは、どうやら同じ図書館の中にある、談話室のようだった。
二人の男性が椅子に座り、煙草をふかしながら話していた。
いつか、マレー人の掃除夫の姿を見た時と同じように、館内の別の場所が見えているのだと、すぐにわかった。
「本当ですか、サイクス卿が」
「ええ、先月のことです。トルコの分割について、フランスとロシアとの間で話がついたと」
「しかし、それはマクマホン卿の協定と……アラブ人居住地はどうなります」
「それは──」
その時、男の目がこちらを見た。
目が合った。
「何……」
もう片方の男も、こちらを見ていた。
ラッフルズやグッドウッドの晩餐会で見知った顔だった。
像が搔き消え、狭い物置の光景が戻った。
見ると、アイシャがパピルスを踏みつぶしてくすぶる火を消していた。器を持つ手が震えている。
「こちらを見ていました」
「そうみたい」
わたしは彼女の緊張を和らげようと、その手を両手で包み込んだ。
5
次の日、アイシャは図書館に姿を見せなかった。
それは特別なことではなかったけれど、前日の彼女の表情が、わたしに胸騒ぎを覚えさせた。
汗が滲み出るような暑さの中、わたしは彷徨うように街を歩いた。
スタンフォード通りからアルメニア通りへ。白く厳かな聖グレゴリー教会、赤と白の煉瓦で建てられた消防局を、容赦のない陽射しが照らしていた。
ハイ・ストリートに立ち並ぶ二階建て商店の軒下をそぞろ歩いて、シルヴァの宝石店を見つけた。
ふらりと店内に入ると、珊瑚でできたカメオのブローチに目が止まる。
七色の光を仄かに反射する白い横顔がわたしに似ているように思え、インド人の店員からそれを買った。
次に二人でパピルスを燃やし、あの美しい都市が見えたら、その時にこれを彼女に渡そう。
わたしはブローチを胸に握りしめ、家路を辿った。
翌朝、アイシャが死んだことを知った。
彼女は胸を撃たれていた。
打ち捨てられていた死骸を、仕事に向かう
わたしは夫に詰め寄った。原因は、あの日、図書館で聞いた会話としか考えられなかった。
おそらく事情を知るであろう夫も、そこで起こった奇妙な出来事を飲み込んではいないようだった。
ただ彼は情報漏洩があったことだけを理解し、
「こんな地の果てでも、秘密は守らねばならないだろう」
とだけ言った。
わたしはわけのわからない罵声を夫に浴びせ、カップを叩き割った。
そして部屋に駆け戻り、枕にかじりつくように泣き崩れた。
雷鳴と降りしきる雨の中、私は喪服に身を包み、葬儀が行われるモスクを訪ねた。
モスクには車止めがなく、馬車から降りると黒いドレスがずぶ濡れになった。
門の前で、彼女の父親はわたしを遮った。
「ここはあなたの来るところではありません」
「彼女に会いたいんです。会わせてください」
「お引き取りを」
その顔には、岩のような硬さが張り付いていた。
それは、彼が決して口にできない多くのことが、長い時間の中で凝り固まったような表情だった。
その硬さと、底知れぬ厚みに、わたしは何も言えなくなり、踵を返した。
談話室で話していた二人の男は、わたしの顔も見ていた。
そして、アイシャだけが殺された。
わたしは今になって、アイシャの表情にもまた、あの父親と同じように、口にできない多くのことが張り付いていたのだと気づいた。
わたしの無邪気な言葉が、自分のもつ力を知らないかのような態度が、彼女を口ごもらせていたはずだった。
わたしは珊瑚のカメオを見つめ、そのことを彼女に確かめなければ、このブローチを渡すことはできないと思った。
でも、その機会はもうない。
わたしは亡霊のように音もたてず図書館に向かい、パトロクロスを失ったアキレウスの嘆きの歌を読み返した。
親友の亡骸を奪い返そうと、英雄は鬼神のごとく闘い、それを勝ち取った。
わたしは、彼女に別れを告げることすらできない。
家に帰り、中国人のメイドに濡れたドレスを脱がせてもらいながら、気づかれぬよう涙を流した。
それ以来、わたしは図書館へ行くのをやめた。
家から出ることもなく、塞ぎこんでいるわたしを見かね、夫が一冊の本をよこした。
「たまには、気楽な本でも読んだらどうだ」
食卓に置かれたその本は、読み古されたペーパーバックで、おおかた植民地省で誰かが読み捨てたものを拾って帰ったのだろう。
いかにも夫が読みそうな通俗小説のように思え、気のない視線をやりながら、
「ありがとう」
とだけ答えた。
アイシャのいない時間は長かった。
わたしは一夜にして、あらゆる喜びを失ったように感じた。
あれほどわたしを魅了した書物も、今は彼女との時間を思い出させるばかりだった。
屋根に叩きつける激しい雨の音を聞きながら、慣れぬ煙草を吸おうとマッチをたぐり寄せ、火をつける。
紅く揺れる炎を、そのまましばらく見つめた。
このまま、家に火を放ってしまおうか。そうやって、全てを燃やして終わりにしようか。
初めてパピルスを燃やした時、あやうく書棚に火をつけそうになったことを思い出した。
あの時、あのまま図書館が燃えて、アイシャと二人で死んでしまえばよかった。
そうすれば、あの日にだけ現れた、まるで現実のように鮮やかな像の中で、彼女と永遠の存在になれたかもしれない。
そう、あの日の幻は、他の日に見たものとは全く違った。
それはまるで、わたしたち自身が時間を越えたかのようだった。
その時、わたしの胸にその考えが去来した。
あの日の、五感すべてで味わった、アレクサンドリアの記憶。
単なる幻とは違う、まるで時を越えたかのような体験。
そして、落としたマッチから、書棚に燃え移った炎。
夫が置いていった本を振り返った。
作者の名はH.G.ウェルズ。
題は『タイムマシン』。
6
月が昇ると、優しい風が吹いて椰子を揺らした。
グアバの花が、月の光を垂らしたように白く輝いていた。
この街では、陽の落ちた後がもっとも過ごしやすい。
わたしは暗い柱廊を歩み、音を立てないように合鍵を使って、図書館の静寂の中へ踏み込んだ。
懐かしい書物の匂いが私を包み込むと、抱き締めたアイシャの温もりが全身に蘇った。
私は身震いをして目を閉じ、つかのま通り過ぎたものを味わった。
そして木箱を開け、残りのパピルス全てを床に積み上げた。
マクマホンがもたらしたパピルスは、この図書館の中でだけ、時間と空間を越えた像を呼び起こす。
そして最初の実験の日、わたしはパピルスだけでなく、図書館の書棚に火をつけた。
パピルスの切れ端と、書棚にほんの少しの焦げ目を作るだけの炎が、あの現実としか思えない像を呼び出した。
あの日、わたしたちは確かに、アレクサンドリアに立っていた。
ならば今度は、残りのパピルス全てと、この図書館全てを、ヘパイストスの炎に捧げよう。
パピルスと図書館、知識と時間にまつわる二つの供物を呼応させ、時間を越える力を引き出すのだ。
わたしたちはパピルスを燃やしながら、永遠の都アレクサンドリアを、古代の全知識を収めた図書館を見たいと強く願っていた。
ならばいま、わたしも願おう。時を越える力の全てを使って、わたしを過去へ、あの日の前へと。
アイシャが撃たれる前、あの話を聞いてしまう前、わたしたちの運命が変わる前へと。
マッチを落とすと、静かに炎が広がっていく。パピルスから床に、床から書棚に、そして柱と壁に。
炎が広がっていく。
書棚の中で、紙とインクが燃え落ちていく。
あの日、カエサルの軍勢が放った火によって焼け落ちたアレクサンドリアと同じように、知識と時間が灰になっていく。
いまや炎は黒檀の書棚と白亜の柱廊を舐めつくし、黒い煙が空へと立ち昇っている。
東インド世界で最大と称された図書館が、燃えつきようとしている。
わたしはブローチを握りしめる。
もしも運命を変えることに成功し、アイシャを救うことができたら、そこから新たな、別の世界が生まれるのだろうか。
炎が、煙が、熱が遠のき、新たな光景が現れようとしている。
ここからわたしは、新しい世界に足を踏み入れる。
そしてわたしはもう一度、あなたに出会う。
わたしが見たいと望んだあなたではなく、あなた自身にとってのあなたに。
わたしはカエサルとなって、この図書館を焼きつくす。
わたしはオルフェウスとなって、あなたを冥府に迎えに行く。
もし未来のどこか、無数の世界のどこかに、この優雅なドームと列柱をもつ館が、燃え落ちずに存在する世界があるとしたら。
そこは、わたしが勝利した世界だ。
(了)
ラッフルズ図書館の炎上 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo
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