新潟にて
思い出が呼び起こされている中、次の目的地はどんどん近づく。気が付くと、あと数駅になっていた。当初降りようと思っていた駅が近づくにつれ、晴人に一つの不安が募っていく。
本当に彼女に会って良いのだろうか?
そんな事を考えながら窓の外を眺めると、燦然と輝く太陽が雲を下方から黄金色に照らしていた。散乱された光は柔らかく広がり、海面付近は既にうっすらと赤みを帯びている。それは、この先必ず訪れる、海へと消える事を示唆していた。
その光景は、目の前であるにもかかわらず、遠く離れた異国の地で起こった奇跡のように感じられた。
彼女は自分が訪ねて来て、どんな思いを浮かべるのだろうか?
その年、小鳥遊穂乃果から久しぶりに来た年賀状には、『この度、お店のママを任されることになりました。色々な事がありましたが、晴人とはゆっくりお話ししたいので、ぜひお店にいらしてください。スナックやまいぬ 穂乃果』と書かれていた。穂乃果の部分は、うっすらと書き直した跡があり、違う名前が書かれていたようだ。おそらく、源氏名なのだろうと理解したのはつい先日だった。
そもそも、年賀状が来たのはその一回きりで、まだ営業しているのかすら怪しい。
晴人の脳内には、答えの無い疑問がぐるぐると駆け巡り、結局結論が出ないまま電車の扉は開かれていた。
リュックから取り出した一枚の年賀状は少々黄ばんでおり、見れば見るほど現存するか怪しいという思いが強くなる。しかし、閉店しているかもしれないから行かないと言う選択肢は晴人には無い。見つからなかったり、入店を拒否される可能性はあるかもしれないが。
大学生の頃この土地で暮らしていたので、住所を見て駅からある程度距離がわかる。そこは海の近くで、おそらく防風林に隣接した場所だろう。時間も考慮し、迷いなくタクシーを選択する。
晴人は、駅前に列をなしていたタクシーを拾い、年賀状に書かれた住所を伝えた。
運転手は、
「お客さん、『やまいぬ』に向かわれるんですか。あそこで働いていた女の子、新垣結衣に似ててよく通ったなぁ」と、懐かしそうに語った。
その一言で、晴人の気持ちは上がる。
店舗が無くなったとすれば、今のような反応ではない筈だ。後は、穂乃果が出勤している可能性にかける。いや、ママをしていると書いているので、おそらく出勤しているはずだ。
「まあ、先代が引退したので、私には若すぎる雰囲気になりあまり通わなくなりましたけどね」
そう言って乾いた声で運転手は笑った。
「そうですか、今もまだ営業していますかねぇ」
「お客さん、あの可愛いママを追いかけて来ちゃいましたか?わかりますよ~自分の物になりそうだから通っちゃうお客さん。ああいうお店はね、自分の物にしに行くのではなくてね、応援する為に通う所なんですよ」
そう言って、前を見ながら片手でひらひらと手を振る。気が付くと走り出している程に運転は丁寧で、心地よさよりも安心感に満たされた。そこから見えるダッシュボードには『渡辺大』と書かれた名前の上に、面長なうえに両サイドから挟み込んだような皺が目立つ眼鏡をかけた男性の顔写真がある。
「いや、昔の知り合いで…遠方から会いに来たんです」
そう言うと、運転手の声が今までの接客用のトーンとは違い、喋り方に感情が乗っているのが感じられる。
「そうですか!そうだったんですね。いやね、あの二代目ママは本当に苦労していますよね。そのくせ、男を見る目が無くて可哀そうなんですよ。私だけじゃないですよ!沢山の人に愛されてます!私があまり通えなくなったのはね…妻にバレちゃいまして…」
どうやら、この運転手自身が家庭を顧みない援助をしているのだろうと、彼の話を聞きながら晴人は思った。
「はい、五百円です!」
タクシードライバーは、満面の笑みで料金を伝えるが、
「いや、この距離で安すぎませんか?」
「浮いた分、この店で~飲んでってくだせぇ」
任侠映画のような台詞が面白く、ついついここで沢山時間を使いたくなる気にさせる。
「ありがとうございます。そのお金で、ここのウイスキー全部飲み干します」
「ママにゃぁ内緒だぜ」
そう言いながら走り去るタクシーに、晴人は敬礼をして見送る。
振り返ると、ヤシの木こそ無いが、ハワイアンな雰囲気をした建物がライトアップされており、彼女の趣味を思い出すのには数秒もかからなかった。
ビリジアンを主体とした建物と、屋根に沿った真っ白な縁取りの組み合わせ。そのコントラストが、どことなく漂う異国情緒を醸し出していた。
近くに一応民家はあるものの、そこからの常連客でどうにかなるような立地ではない。頼れるのは、近くにあるリゾート風ホテルの客だろう。晴人はそんな風に解釈した。
敷地は広く更地の駐車場もあるのだが、それはそれで不安になる。
車で来てはいけない所だろう。
そんな事を考えながら顔を上げると、店のドアがそっと開いた。
遠目にでもわかる。穂乃果だ。
着ている服は当時毛嫌いしていたピンク色のワンピースで、髪の毛は明るい茶髪になっていた。髪型こそ、当時していた顎のラインまであるショートボブだったが、柔らかい髪質が明るい雰囲気を醸し出す。
向こうは気づいているかどうかわからない無感情な表情だったが、意を決して声をかけた。
「穂乃果…久しぶり!お店、まだ開いてる?」
「…はるひと?」
彼女がそう言ったかどうかはわからないが、晴人にはそう聞こえた。
店に近づく自分を、少々いぶかし気な目で見ながら店内へと手招きする。その表情は何処か硬く、不安で満ちていた。
誰かを警戒するような表情を浮かべた彼女に釣られ、晴人も辺りに気を配らせながら小走りでお店の入り口に駆け寄る。
玄関先まで晴人が来ると、穂乃果は小声で呟く。
「早く入って!誰かにつけられてない?…鼻くそとか」
そっち?
「誰が鼻くそ付けられてるんだよ」
晴人はそう言って、彼女の方を見ると目は潤んでいた。
「怖かったぁ」
鼻声で袖を引く彼女に少々戸惑いながら、とりあえず状況を確認したくなる。
「どうした?何があった?」
「別に?怖がってはいけない法律でも?」
先ほどまで不安そうな表情だった穂乃果が、信じられないくらい冷たい視線で晴人を見ている。
コロコロと変わる彼女の感情に、晴人は全く付いていけない。
「出来る事なら、何であんな表情だったかだけでも教えて」
そう言うと、穂乃果は子供っぽい笑みを浮かべ、
「へへぇ…なかなか来てくれなかったから仕返しぃ」
それだけ言って、袖を引っ張りお店の方へ晴人を引っ張って行く。
穂乃果が行った一連の行動によって、晴人の思い出がどんどんと蘇ってくる。彼女がどんな人間だったのか。どんな境遇だったのか。
「会えてよかった」
ドアを片手で開けている穂乃果から零れた声は、とても穏やかで付き合っていた当初から想像する事が出来なかったくらいだ。
「ゴメン。時間が取れなくて」
一部本心であり、一部は虚言だ。晴人が持ち合わせていなかったのは、正確に言うと晴人の人生において落ち着いた時間を指す。
「ううん。今となってはどうでも良いの。約束通り来てくれたから」
その言葉に込められた思いを、晴人は全く汲み取ることが出来なかった。ただ、年賀状に書かれていた、『追伸 ずっと待っています』という台詞は社交辞令ではなく、晴人が考えているよりも、ずっとずっと重い台詞だったのかもしれない。
カウンターに案内された晴人を置いて、穂乃果は入口まで小走りで行きドアを少し開けて小さな札を出す。その後、ロールカーテンを引き下げた。
「あれ、もしかして閉店後だった?」
晴人はわざとらしい程大きな声を上げる。
「ううん。今日『やまいぬ』は閉店したんだ。その、最後のお客様が晴人とか、奇跡じゃない?ホント、もう、やまいぬ様様」
そう言いながら、穂乃果は軽快なステップでカウンターの奥に滑り込んでいく。
「やっぱりあれ、お客さんが少なかったとか?」
晴人は立地を考え、穂乃果に聞いてみる。
「それは大丈夫だったよ。ホテルのお客さんと、あとご近所さん…そう、大ちゃんなんてタクシーを呼んだお客さんをどんどん連れて来てくれて、ホント助かったんだから…だから、ここに居たかったんだけどね…そう言うの出来ない時もあるじゃん?」
「大ちゃんって誰だよ?」
晴人は笑いながら聞き返す。
「そうそう、大ちゃんはタクシー運転手でね、渡辺大って言うんだけど…」
穂乃果が説明に詰まっているが、俺は知っている!
「そのタクシー乗ったわ!」
晴人は笑いながら言う。
穂乃果も笑いながら、見覚えのあるネックレスを触る。
「あれ、そのネックレス…まだ付けててくれんだ」
晴人が彼女の為に買ったアクセサリーの中で、一番高価だった銀で出来た棒状の笛。当初、被災した場合に声を出して助けを呼ぶよりも、笛を吹いて生存を知らせる方が生存率が高いと言う情報と、可愛い見た目で購入した穂乃果へのクリスマスプレゼントだった。
これを贈った日、彼女の友人からはバッシングの嵐だったと聞いている。女性にはわからないのだろうか。この機能美に秘められた美しさが。
『見た感じ、ただの棒状のネックレスなんだけど笛になっていて』そう友人に話すと、口を揃えて『彼女を犬だと思っている』とか、『呼んだら来る、召使とか思ってそう』などのバッシングを受けたみたいで、これを笛だと知る友人の前では付けなくなったと聞いている。
「うん。これはね、私と花梨の命を救った宝物だから」
そう言いながら、穂乃果は大切そうにネックレスを握った。
プレゼントした当初より大切にされているのを見て、晴人の涙腺は少々緩くなる。
「なにがあったの?」
晴人が質問すると、穂乃果は微笑む。そして、
「質問は、私が先!今更だと思うだろうけど…あの日、何があったの?」
おそらく、十年程前にあった事だろう。
「俺が実家に帰ったの、気になってたんだ!」
そう言うと、晴人は大きな声で笑った。理由は至極簡単で、それを気にするくらいならば、彼女の取った行動は矛盾している。
ただ、そこで突っぱねるくらいならば晴人はここに来ていない。自分の人生における答え合わせの時間なのだ。
「うん、大学…3年の時ね…。年末に、実家に帰った時だっけ?」
「そう!何で実家に帰ったの?私…予定キャンセルして正月空けたんだよ?」
必死に訴える彼女の顔が、当時付き合っていた頃の顔にダブって見えた。いや、大学生だった彼女が目の前に座っている。
「ごめん…。理由…言って無かったよね…」
晴人は表情を隠す様に俯き、ゆっくりと語り出す。
その日はクリスマスを過ぎ、大学はとうに冬休み。晴人は去年から付き合いだした同じ大学の実行委員だった穂乃果と、今年は年末年始を過ごす予定にしていた。
去年は、彼女が入れ込んでいたアマチュアバンド『クルーセル』のライブに行くからと言って、正月は一緒に居なかった為、正直初めての大晦日と正月になる…予定だった。
晴人はこの年の十一月、穂乃果との同棲を始めており、初の大晦日に二人きりでの年越し予定だった。
二十九日、埼玉に帰った母親から一本の電話が入る。内容は、『今年の正月は埼玉に帰って来ないの』など、何気ない電話だったと思う。ただ、異常を感じたのは、電話を切った数時間後に、全く同じ内容の質問が繰り返しされたからだ。
まあ、母親の性格において同じ内容の質問で確認する事も多いのだが、この時は今までとは違う何かを…違和感を…いや、虫の知らせと言った方がいい。良くないなにかが進行している。そんな気がして、この日の夜には穂乃果にそれとなく伝えてみた。
「ねぇ、今年の年末だけど、ライブとかキャンセルしてくれた穂乃果には悪いんだけど、埼玉の実家に帰って良い?」
そこまで話すと、ピンクのワンピースを着た穂乃果が割って入る。
「ちょいまって!その、お母さんに異常を感じたって所、今まで聞かされていないんですけど!」
「うん、話してない」
真顔で答える晴人に、穂乃果は湧き上がる怒りを抑えるのに苦労している。
「どういう事?理由なく帰ったわけじゃなかったの?」
晴人は冷静さを辛うじて維持している穂乃果を見ながら、今語った内容を反芻してみた。確かにそうだ。理由も言わず行動をしていた事を、今になってようやく気が付いた。
「そう言うのあるじゃんか?すれ違いの半数がその理由だと思うし」
晴人は当時の事を正確に思い出すと、急に当時の『彼女なんだからわかってくれていて当然』との思い上がりを実感する。そうだった。すれ違いの原因は自分の配慮の無さ。自分の状況を言い訳にするのは良い。ただ、伝えていないことは、無かったこのとと同じなのだ。
「ほう、他に原因でもあると思いますか?」
深い悲しみと、怒りに我を忘れるほどの怒りを堪えた穂乃果の表情が、晴人の凝り固まった心を揺り動かす。彼女に全てを話してみよう…と。
「そうなんだ。母親が明らかにおかしくなったので、様子だけ…いや、正確じゃない。どうにかしなければならない状態だと…思ったから……」
淡々とした表情の彼女は、こちらを見ながら口を開く。
「それで、お母さんの状態はどうだったの?」
そうだった。彼女は、たった一人の母親を目の前で亡くしたのだ。通常の精神状態でない事はわかる。付き合った当初は、その事を知らず母親の愚痴を言い、その度に諭された記憶が、今でもふとした瞬間に思い出され心臓をギュッと握ってくる。
「一度しか返らなかった実家は…まるで知らない土地みたいだった。けれど、この時期に乾いた道路が、どこか懐かしかったのを覚えてたんだ」
ふと気が付くと彼女の質問から大きく逸れ、思い出話をしている事に気が付くが、穂乃果は優しい目でこちらを覗き込んでいた。
「こっち側は雪が多いもの」
それだけ合いの手を入れた。その声には、優しさと『焦らなくていいの』という感情が乗っている。その声に促され、晴人は話を続けた。
穂乃果へ実家に帰る事を告げた翌日、晴人は朝一の新幹線に乗り埼玉へ向かった。大学一年の時に行った以来だ。母親が借りたのは、自分の実家の近くにある二階建ての古びたアパートだったが、リビングと寝室とキッチンが分かれており、『晴人が帰ってきた時ゆっくりできるような場所にしたよ』そう自慢していた。翌年、晴人が実家に帰らない事を伝えた時、寂しそうな声をしていた事も覚えている。
「母さん」
いきなりアパートに現れた息子を、キョトンとした表情で見返す母親。別段驚くでもなく、喜ぶでもなく、淡々と「こんな寒い所じゃなく、家に入ってから要件をききます」その一言だけだった。
目の前の女性は果たして自分の母親なのだろうか?
こうしている間も、意識はあるのだろうか?
数々の疑問が晴人の思考領域を降り積もる雪のように埋めていく。そして、周りに響く小さな音まで雪は包み込み、静寂に飲み込まれる。
「俺、晴人だよ!」
手を握りありったけの感情を母親に向けるが、困り果てた表情が事の深刻さだけを物語っていた。
すると、不意に目に光が戻る。いや、魂が降りて来たという感覚に近い。
「晴人かい?どうした?大学は?」
弱々しい母親の声を聞き、自分の無力さを自覚する。母親は自分の異変よりも、目の前の息子の心配をしているのだ。
「年末だし、久しぶりに帰って来たよ」
今にも泣きそうな表情を隠しつつ、玄関先に置いていた荷物を、何事も無かったかのように部屋に運び込む。
その姿を嬉しそうに見ながら母親は、「そうかい…ゆっくりしていきなよ」とだけ言って、部屋の片づけを始めた。恐らく自分の為にしてくれているのだろう。
そんな母親に言葉を投げかける。一番気になる事だった。
「そういや、身体は大丈夫?なんか調子悪そうで心配していたんだけど?」
「大丈夫よ!秋田より暖かいからね。年明けから仕事探さないといけないけどね…」
あれほど負けず嫌いだった母親は、素直に自分の状況を語る。恐らく自身にとっても不安な出来事なのだろう。
「どうしたの?なにかあった?」
晴人はなんとなく想像をしていた。あれほど仕事には自信があった母親だけに、この状況ではまともに働くことは出来ないだろうと。
「母さんね…仕事をクビになってね…」
申し訳なさそうな母親に掛ける言葉を何一つ見つける事が出来ず、
「お疲れ様…昔からいっぱい頑張って来たもんね。神様も少しは休みなよっていっているんだよ」
そう言って洗面所に向かう。そこは、想像を超えて酷い状況になっていた。
足の踏み場もないほどにゴミは散乱し、鏡は白く曇りまともに見えない。
家に居た時は鏡の曇りどころか、髪の毛一本落ちているのを嫌っていたのに。
とりあえず、晴人は急いで祖母に連絡した。
「晴人かい…」
相変わらず柔らかい声質に安心し、少し気分が落ち着いたのだが、実際何の解決もしていない。現状は最悪だ。
「あなた…だれ…」
電話をしている晴人の背後から、魂の抜けた瞳が見つめている。それは母親の形をした何かだった。
「ばあちゃん、ゴメンいったん切る」
とりあえず電話を切ったのだが状況が良くなる訳は無い。
「母さん、落ち着いて…」
「私は落ち着いています。人を呼びますよ?」
実の母親がどんどん離れていく。
信じられない程の感覚で。
理解できない症状によって。
「陽子…」
玄関から祖母の声が聞こえる。
「かあさん」
振り向いた途端、母親の顔に安堵の色が伺える。
「さあ、大晦日なんですからお家でゆっくりしましょう」
祖母は母親の手を引き家から連れ出す。
母親の手を引いたまま振り返り、祖母は晴人にも声をかけてきた。
「晴人さんも、自分でどうにかしようと思わないで、無理せず出来る人に頼りなさい」
そう微笑む祖母が、この時どれほどありがたかったか…。
二人を見届けると、晴人は自分の荷物と母親の荷物を準備し始める。
自分の荷物はすぐに準備出来たのだが、母親の着替えなどが全く分からない。何を必要とするのか、何が無ければならないのか。適当に詰め込んだバッグははち切れんばかりになり、ずっしりと肩に取っ手が食い込む。その重さに涙が溢れる。
あれほど強かった母親が、あれほど仕事に自信を持っていた母さんが、あれほどユーモアにあふれていた愛する家族が…何やら得体の知れない病気に蝕まれ、跡形もなく崩れ去っていく。
絶望の淵から見える風景は、漆黒の闇ばかりだった。一瞬だけ照らす灯台は一点だけを照らし、足元すら確認する事を許さない。
祖母の家は案外近く、家に母親を連れて行った後再びアパートまで戻ってくれた。歩いて行き来できる程に近いアパートは、母親の独立心を表している。そう、強い人だったのだ。
歩いている最中、祖母は晴人に話しかけてくる。
「年末だけど、開いている病院ないかしら」
「その事だけど…この、脳外科に行ってみる?」
そう祖母に言うと、晴人はスマホを渡す。
「どこも予約がいっぱいねぇ。救急車でも呼んだ方が良いのかしら…」
祖母は寒空を見上げながら呟いた。
「とりあえず、年明けまで待とうよ。その頃には良くなっているかも知れないし」
晴人は一縷の望みをかけて祖母の家に入る。その言葉には全く希望は無かった。ただ、母親を押し込む先を考えていたに過ぎない。
穂乃果のメールが来ていたのだが、この状況を伝える勇気が出ないまま晴人は正月を迎えた。
正月になると、現実と妄想の間を揺れ動く母親の状態は少々落ち着き、祖母と安心していた時だった。
「晴人!陽子が居なくなった」
午前五時。意識が朦朧とする中すぐに着替えをして晴人は家を出る。
「ばあちゃんは家に居て!母さんが帰ってきた時、困ると思うから」
そう言い残し、晴人は母親の住んでいたアパートに向かった。恐らく実家の記憶が一時的に消去され、自分が住んでいたアパートに向かったのだろう。そう推測した。もし、自分が小学生の時の記憶が蘇っていたら…。
そんな不安もあったのだが、遠目に見えるアパートの一室に明かりが見える。間違いない母親だ。
晴人はアパートの階段を駆け上がると、玄関のノブを回す。鍵はかかっていない。一瞬、それを不思議に感じた。ここを出る時、確かに鍵はしたはずなのだ。
恐る恐る玄関を開けると、リビングに正座している母親が見える。ドアをそっと開き、晴人は静かに母親に近づいた。
母親は自分の気配に気が付き、振り返った目には魂が宿っている。よかった。晴人が安堵していると、
「晴人!泥棒が入ったみたいで、家の物が無くなっている」
そう言いながら、歩み寄ってくる母親が不気味な存在に見えた。どこまで理解していて、何処からわからないのか。その線引きが全くできないのだ。
「正月だから、ばあちゃんちに二人で行ってたやろ?」
そう優しく諭し、母親の手を引くも不安は募る。いつこの手を振りほどき、『あんた誰よ!』と言われかねない。そんな恐怖が常に付きまとう。ただ、病院に行けば…。この状況も笑い話になる。その思いで母親を祖母の家に連れ帰った。
正月が開けて数日が経つも、病院の予約は取れなかった。このまま不安定な母親を、祖母一人に看させる訳にはいかない。その思いから晴人は大学に帰るのを遅らせる決断をした。
ここで、ようやく穂乃果にメールを返す。『ごめん、母親の病気によって帰る事が出来ません』その一言だった。無論、そのメールには返信は無い。それどころか既読にもならなかった。
一週間ほどメールを確認する日が続いたのだが、晴人はそのうち確認する事すらしなくなる。それは、これほど自分が追い詰められている状況にもかかわらず、何故謝らないといけないのか。何故…助けてくれないのか。そんな気持ちで晴人の心はいつしかいっぱいになっていた。
一月も終わりに近づき、ようやく病院の目途が立った頃、晴人はそろそろ大学に戻らなければならないと思い始める。
「ばあちゃん…俺…」
恐る恐る祖母に話を持ち掛けると、意外な答えが返って来た。
「学業も大事だとは思うけれど、それ以上に大切な事があるでしょ?もう、大学は諦めなさい」
優しい声ではあるが、晴人が大学に戻る事をはっきりと拒絶したのだ。それを見た母親は駆け寄り、
「母さんのせいでごめん!病院に行ったら、晴人は大学に戻りなさい」
そう言って晴人を抱きしめた。それを見ていた祖母は、
「けれど、陽子!学費はどうする?あんた、もう働けないでしょうが!」
確かにその通りだ。晴人は、今後どうやって学費を工面する事など考えもしていなかった。このやり取りを聞いて、理解した事がある。
父親の養育費は既に止まっており、大学の学費を母親が全て工面していたと言う事実と、祖母は自分に働いて欲しかったのだという事だ。
「俺、休学してバイト代貯めるから大丈夫。母さんこそ、ゆっくり病気を治してよ」
晴人は、そう言うと別室に行き、静かに泣いた。
誰も望んでいない人生だった事に…。
今後の人生がゆっくりと崩壊しつつあることに気が付いて…。
翌日、晴人は自分のアパートへ帰ると部屋が殺風景になっている事に嫌でも気が付いた。
無いのだ。
穂乃果と一緒に選んだ家具が。
穂乃果と一緒に撮った写真が。
穂乃果の面影が…全て失われていた。
「私、これ…正に悪人じゃんか」
穂乃果は目を伏せつつグラスに注がれた、ジョニーウォーカーを軽く煽った。
「そんな事無いよ。だって、一か月近く放置してたの俺だし、そもそも…それ以降もバイトだらけで、穂乃果と連絡すらまともに取れなかったと思うよ」
晴人はそう言って、目の前にある同じ銘柄のハイボールを一気に飲み干した。
「てっきり浮気したか、完全に乗り換えたのかと思ったのに…」
穂乃果は目を伏せたまま、グラスの氷を揺らす。
「それより、店仕舞いの理由…聞かせてくれるんでしょ?」
晴人は穂乃果の顔に数センチほどの距離まで近づいた。そのタイミングで、穂乃果の背後から愛らしい声が聞こえて来る。
「ママ…寝れないの…」
ぬいぐるみをしっかりと抱きしめた、もこもこのスウェットを着た天使。ただ、この時の晴人には天使では無かったのだが…。
「あっ花梨ちゃん!」
穂乃果の声色は、はっきりと母親のものになっていた。
「ごめんね。ママお仕事中なの…」
そう言って、晴人と距離を開け花梨と呼ばれた女の子を抱きかかえる。
「娘さん?めちゃめちゃかわいいね」
しっかりと穂乃果に抱き着く女の子の髪は長く、緩くウェーブがかかっていた。目鼻立ちは暗がりで見え難かったが、穂乃果に似ていれば奇麗になるだろう。
「寝かしつけて来るから、ちょっと待ってて…」
そう言う穂乃果に、
「そこのソファーで寝かしたら?誰も居ないし」
晴人は、そう言って奥にあるボックス席を指す。
「じゃあ、VIP席へどうぞ」
飲み物を手慣れた手つきでトレイに乗せ、花梨ちゃんに掛ける毛布を用意して穂乃果は奥のソファーに腰掛けた。
すると、物の数分もしないうちに花梨ちゃんは寝息を立て始める。
「この子が居るから私は強く生きていけるの」
穂乃果の目には強い光が宿っていた。それは母親の持つ特有の力なのだろうか…。
「お店をたたむのも、花梨ちゃんの為?」
晴人は軽く聞いてみる。
「そうね…そう言えば、まだ質問に答えて無かったね…」
穂乃果は遠くに視線を移す。
そして、グラスにうっすらと残る琥珀色の液体を飲み干した。
「私等と一緒に実行委員だった黒崎って居たでしょ?彼が出所するって連絡があってね」
黒崎が出所?
晴人の理解が追い付かない。
「あいつ、そんな犯罪とか無縁の男だったじゃん」
「関係が深くなると、人は変わるもんですよ」
穂乃果の答えを聞いても、全く理解できない。どうして黒崎が出所したら危険なのだろうか?そもそも、あんな真面目な奴が何故捕まったのか?穂乃果と黒崎の間に何があったのか?どれから聞いていいか解らなくなり、晴人の口から言葉にならない声が溢れる。
「ははっそうだったね。晴人は知らなかったかぁ。私、黒崎君と結婚してたんだ」
学生時代の若々しい表情から、一気に知らない女性の顔へと変貌する。これだから女性は怖いのだ。
「じゃあ、彼の犯した罪って…」
「そう、DV…」
そう言いながら、穂乃果は前髪をかき上げると、左側の額にうっすらと傷が見える。
「これでも、コンシーラーでかなり薄くなっているのよ?すっぴん、凄い痛々しいんですから」
そう言うと、穂乃果は晴人の目の前におでこを突き出してくる。晴人は誘われるままに人差し指で傷跡を撫でると、少し盛り上がっているのが触感で理解できた。それが、ケロイド状の傷だと推測するのは容易だった。
「付き合いだしてすぐ?それとも、何かきっかけがあった?」
晴人が言葉を選びながら質問すると、穂乃果は少々考え込んだ後口を開く。
「そうね…元々無理があったんじゃないかな?」
穂乃果は軽く微笑む。
「そうなの?じゃあ、何時から黒崎と付き合ってた?お見合いとか?」
「それ聞く?」
穂乃果は軽く笑いながら、顔の横で手を振る。
その仕草でおおよその見当は付いたのだが、晴人はそれでも直に聞きたい欲望から逃れられない。
「もしかして、俺が帰った時から…」
晴人は慎重に声に出す。
「少し後かな…」
穂乃果は目線を真横に逸らし否定する。
「年始…もしかして、年末には?」
晴人は思わず声を荒げた。自分が埼玉に行った直ぐ後ではないか。だからこそ、言葉は真実だと思える。
「晴人が田舎帰ってたの、たぶん黒崎知っててさ…。その日の夕方には誘われた…止めて欲しくてさ…晴人に、止めて欲しくて電話したのに一回もかけ直しも無くて…返信も無くて…」
「それ、俺もダメだった!確かに俺の対応は十点満点で、マイナス一万点くらいダメだった! けど、穂乃果の言い訳…マイナス一億点を遥かに超えた。逆に清々しさを感じるよ」
別れた理由を当時の自分が聞いたなら、抹殺する事は確定だろう。ただ、状況的にみると無駄に不幸な目にも合っておらず、むしろ人生の選択としては正解と言える。
「黒崎君、あの時には外資系に就職決まってて、親は金持ちでしょ?ルックスは好みじゃなかったけど…」
晴人が口を挟む。
「えっ?見た目はシャープで…韓流スターっぽくなかった?」
穂乃果は瞬時に手を大きく振り、
「ないないない!私は、あの気取った態度とシャープな輪郭が嫌いなの!むしろ、顔だけで言えば晴人のような、丸顔で優しそうな眼をした人が好き!むしろ、晴人の許せなかったのは私に対しての態度だもん」
そう言って穂乃果は頬を膨らます。昔から違和感がある程しか膨らまないので、人前では止めた方が良いよと何回も言った顔だ。それが未だに直っていない。止めるか、頬を伸ばす努力をして欲しいものだ。
「しかし、速攻で切られてたんだね…俺」
そう言いながら、穂乃果が新しく作ってくれたラムハイボールを煽る。ホワイトラムのフルーティーな飲み口に、軽く絞ったレモンが心地いい。今の気分に一番合っている。
「結婚を前提に付き合って欲しいって言われて…私も舞い上がっていたし…いきなり家から居なくなるのとか、どう考えても面白そうだったし…」
ものすごい事をサラッと言ったが、穂乃果はこういう性格であり、そこに惚れ込んでいたのも確かだ。
「じゃあ、付き合ってすぐ同棲したの?」
「そう!同棲当初は楽しかったなぁ…料理も家事も半々で、体調の悪い時は楽させてくれて…」
遠い目をした彼女の表情は、大学生だったあの頃に戻っていた。
「じゃあ、結婚して変わったんだ!」
穂乃果は即否定する。
「ううん!二年くらいはそのまんま!義両親も優しくて、順風満帆ってこの事か…そう思っていた」
いつの間にか穂乃果は日本酒を飲み始めていた。ショットグラスに並々と注がれている日本酒は、流体の表面張力ギリギリの量で、ゼリーのように妙に蠢いている表層に唇を寄せる。そして、スッと吸い込んだ。それは、一瞬で幸せが消え失せた。そのような表現にも取れる。
「そこからDV?」
「早いよ!次の段階は…仕事を辞めてくれ!これ、義両親にも言われたんだ!せっかく就職して直ぐよ?『自分の母親もそうだったから、家庭に専念してほしい』とか、『お互い働いているから子供が出来ない』とか!そして、会社を辞めたら次はモラハラ!いっぱい言われたよぉ…洗濯物や掃除の仕方料理!特に、熱があろうが体調が悪かろうがお構いなく、最高の家事をする為に仕事を辞めたはずですって?あんただろうが!辞めさせたの!ずっと腹の中で思ってた」
一息ついた穂乃果を見ると、表情に迷いを感じた。恐らく、自分には言い難いのかと思い、思い切って口にする。
「それで、インディーズバンド『クルーセル』でしょ?ライブに行きまくった?ストレス発散に行ったんでしょ?」
「そう!よく覚えてくれていたね!ハマったーあのカッコよさに、あの音楽性!専業主婦のストレス発散に、ライブ活動は必須。それがあるから、毎日奴隷のような自分を奮い立たせることが出来ていたの」
妙に大げさに声を上げる彼女と違い、晴人はゆっくりと言葉を放つ。
「追っかけと言うより、夜だけの女だったんでしょ?」
以外な人物からの、意外な発言が彼女の時間を止める。
「いつ知ったの? 誰から?」
動揺した表情の穂乃果は、膝の上にある花梨ちゃんの事を忘れた様に晴人に詰め寄る。
「もちろん付き合っている当時から知っていたよ。まあ、だからと言ってそれを理由にぞんざいに扱っていた訳じゃないよ? けれど、高校時代にバンドやってた時多かったもん! 一人で追っかけをしている女の子で、可愛い子は大抵そうだったからね。普通は二人以上で行動したい女の子が単独で行動する場合、それをできる環境が必要な理由がそれくらいしか無いんだって。それがバレたから?」
すると、先ほどまでの表情とは一変し、穂乃果は妙に艶っぽい表情を浮かべる。
晴人は、女性にはどれだけ仮面が備わっているのか、少々恐ろしくなった。
「じゃあ言い易いね。モラハラが起きる前までは自粛してた。失うのが怖かったからね。けど…専業主婦という名の牢獄に入った途端、私の日常は地獄の変わった。毎日の家事なんて、働いて家政婦さんでも雇った方が経済的だし社会においても求められたスタイルだと思うの! けれど、彼は一切それを受け入れず、会話にならない程激怒したの…」
「あの? 黒崎が? 冷静沈着で、じっくり議論するタイプだったのに?」
小馬鹿にするような笑みによって、穂乃果は質の悪い小悪魔に見える。どこまでが本心で、何処からが虚言なのか捉え難い。
「あのタイプがおとなしいのは、自分の影響力が十分に及ぶと知っている空間においてだけだよ。社会に出ると質悪いんだから」
それは穂乃果の経験なのか、それとも元々知っていたのかは不明だが、彼女はその被害者だという事を痛く感じた。
「そんな風に黒崎を見ていたんだ」
「うん! けど、妊娠がわかってからはライブに行くのも止めて、大人しくしていたのに、ある日買い物から帰ると電気も点けずに家の中に黒崎が居るの。驚いて電気を点けたら、ダイニングテーブルの上に、ホテルに行く私と『クルーセル』のメンバーの写真をばら撒いてて焦ったわ! だって、怪しいと思ったら先に問い詰めない? 先に証拠写真よ?」
晴人は、どちらが先かはあまり気にならなかった。事実である事は変わらないのだ。
「そこで平謝りしたの?」
「ううん! 全力で逃げた! だって、私を落とす為に晴人の家から家財道具ごと持ち去る人だよ? 危ないじゃん?」
その言葉に、申し訳ないが笑ってしまう。自分の家から逃げたと言う自覚はあったのだ。そして、当時の手段が常軌を逸していた事も理解していたとは。
晴人は思う。最初は連れ去るほど好きという気持ちが、純粋に嬉しかっただけだったのではないのか? そして、いつしか彼の行動が異常なのではないのかと、気が付き始めた。それが専業主婦を希望した時だった。そう理解すると、少し彼女の真相が見えてくる。
特別になりたかった。
愛されたかった。
その気持ちに、自分は答えきれてなかったのではないのか?
ふと、その時の状況を晴人は俯瞰で見てみる。
大好きだったクルーセルの年末コンサートをキャンセルまでして、年末年始一緒に居ようと約束した彼女を自分は見捨てたのだ。
連絡もせず、一週間近くも…。
お揃いの新しい部屋着や、大晦日に食べる予定の年越し蕎麦。特に、年越し蕎麦は家族で食べたことないから楽しみにしていたはずなのだ。紅白を観て、除夜の鐘を二人で聴き、初日の出を見る為に夜明け前から歩いて初詣に行き、お昼はお雑煮を食べてゆっくりする。
小さかった頃、晴人がよく行っていた正月のルーティーン。その話を聞いて、『なにそれ?わたしやってみたい!』と言って無邪気にはしゃぐ彼女を見ていたはずだ。その全ての予定を、彼女は年末が近づくにつれ楽しそうに話していたではないか?
晴人はようやく、彼女とした約束の一部を思い出したのだ。
片親で、年末年始も忙しく接客業をしていた母親。
ゆっくりした家族での正月など、彼女には無かったのだ。
穂乃果の祖父の家も敦賀にあり、とても一人で行ける距離ではない。
そのような寂しい思いをさせないようにと選んだ父親は、穂乃果の事を性的な目で見て、寸前の所で母親に救われた話を聞いても、それは晴人にとって他人事だったのではなかったのか?彼女の心に、真に寄り添った行動をしていたのだろうか?
彼女との思い出が、数多の映像となり脳内を巡る。
まるで走馬灯のように。
やはり、自分は彼女に首輪を付け、笛を持たせた男だった。
彼女は、それをわかりつつも付いて来てくれていたのだ。いや、温かい家庭の夢を観させ誘い込んだに過ぎない。それが、河合晴人という人間の本質だ。
「そしたら黒崎が鬼の形相で走ってきて…ねぇ…聞いてる?」
無邪気そうに話す、彼女の壮絶な過去。
晴人は麻痺させられていたが、どう捉えてもその状況は尋常ではない。
家に帰った途端に言い訳もせず逃げるなど、普通はあり得ない。一回は対話を試みる筈だ。穂乃果はそれを試みる事無く、その足で逃げ出した。それは、会話も出来ない環境だったという事なのだろう。そう思うと、彼女の環境が本当の監獄であった可能性の方が強い。
今、笑って話してくれている、息の詰まる鬼ごっこについてもそうだ。それは生死を賭けたサバイバルに他ならない。こんな体験をしなければならないほど、彼女は悪かったのか?
思考が散乱している所に、ようやく彼女の言葉が降りてくる。
聞かなきゃ!
自分が手放した彼女の人生を…。
いや、幸せにするはずだったこの女性の話を…。
自らの判断を誤ったせいで降りかかった不幸とも言える話を…。
「穂乃果、聞いてるよ! ただ、あまりにも壮絶で…意識が飛ぶくらい怖かった…」
そう、穂乃果は今自分が考えるよりも、もっと壮絶な恐怖の中に居た。
誰にも話せない環境で…だ。
「そんな事無いよ! ねぇ、聞いてよ!他の人に話せないんだから~」
ふくれっ面も、このコミカルな話し方も、相手の事を思って柔らかくしているだけだ。そう思うと、今彼女に必要なのは気持ちよく話を聞いてあげる事だと思った。
「うんうん!それで、どうなったの?」
改めて座り直すと、穂乃果は自信満々に話を続ける。
「山の方に逃げちゃったの! 人間、後ろめたい時は人の居ない方に逃げる性質があるんだね!」
穂乃果は、机を軽く叩きながらからからと笑う。
「けど、人が沢山居る所でも、殺人鬼に追われて殺された女性の話も聞くから、山道も間違いでは無かったのでは?」
同調しようとひねり出した晴人の相槌は、全くの駄作だった。
「へぇ、そうなの?じゃあ、私も間違いでは無かったって事か…」
ここが彼女の優しさだと、今になって解る。否定せず、自分を合わせ、他人の心を大切にする気持ち。それを一番に選択できる彼女は既に凄いのだ。
「それでどうなったの?」
「うんうん! それでね、やっぱり追いつかれるじゃん? そこで倒されて…もうボコボコ!お腹だけは! 花梨だけは守らなきゃって、庇うから顔がノーガード! 数分も経たないうちに悲鳴すら上げられなくなったの! その時ね!口元にあの笛が乗っかった? いや、降って来た? とりあえず口元に来たから思いっきり吹いたんだ!」
そう言いながら、首元に光るネックレスを左右に小さくゆする。
この時も自分のプレゼントしたネックレスを付けていた穂乃果に、なんとも言えない気分になった。あれほどの裏切りをした男のアクセサリーを身に着けるのだろうか?それも、友人に非難された物を…。
「ちゃんと、笛として役に立ったんだ」
「うん! それはもう、甲高い澄んだ音で、辺り一帯に響き渡ったんだ! 黒崎も一瞬怯んで手を止めたくらいに!」
興奮冷めやらぬ彼女は、ぶら下げていた笛を一呼吸だけ拭く。
その音は、鳶の鳴き声の様に、気高く澄んだ音だ。
「想像よりもいい音だね。我ながらいい物を贈った」
嘘くさい照れ笑いをしながら、穂乃果の首元にあるネックレスに触れる。その細部には細かな傷があり、装飾の間には赤茶色のシミがあった。それは、当時の壮絶さを物語る証人だ。
「そう! この音が最高だったの!怯んだ黒崎は笛の音だけにビビった訳ではなかったの! 白い大きな山犬が目の前で彼を威嚇していたの! ウウウ…って!」
狼のような身振りは、とても三十歳手前とは思えないくらい真剣で、逆にそれが愛らしい。
「それでね、私は助かりたい一心で何度か笛を吹くと、何十匹の山犬が黒崎に飛び掛かって行ってね、数匹の山犬が私を取り囲むように座り込んでくれたの。多分、私を守ってくれていたんだと思う! そんな事想像できる?訓練とかしていない山犬よ? 犬に襲われていた黒崎は悲鳴を上げるわ、山犬は吠えるわ、笛の音は聞こえるわで、近所に住む人達がわらわらと集まって来て、その惨状を見ると直ぐに警察を呼んでくれたの。そりゃそうよね! 数匹の犬に嚙みつかれた男性と、数匹の犬に守られた女性が居るんだもの! 自分達で何とかしようとは思わないじゃない?」
そう言うと、穂乃果は日本酒を興奮気味に煽り、一気に飲み干した。
「それで、店名が『やまいぬ』なんだ!」
晴人は大げさに驚きながら、その状況を想像してみた。絶望の淵で見た、山から下りて来る真っ白な山犬。暗がりの中で唸り声を投げながら、自分に危害を加えようとしている人間に対峙している姿はどれほど神々しかっただろうか。
「白い大きな山犬でしょ? それ、リアルもののけ姫じゃんか」
あまり良い返答では無かったのだが、穂乃果の目を見るとまんざらでもないと語っている。
「生きろ!なんて、今のあたしにピッタリね!そう、花梨の為にも強く生きなきゃ!」
穂乃果は太ももの上にいる、小さな花梨ちゃんを愛おしそうに穂乃果は撫でる。
その光景を見て、不意に晴人は疑問に思う事があった。花梨ちゃんは誰の子供なのだろうか…。疑問はすぐに言葉になっていた。
「そういや、花梨ちゃんは黒崎の子供?それとも…」
花梨ちゃんを撫でる手を止める事無く、晴人に答える。
「男がどうだかわからないけど、私から産まれた娘は間違いなく私の子供でしょ?それ以外に気にすることは無いわ。女っていいでしょ?」
その言葉に、少々噛みつきたくなった晴人は、
「自分の子供じゃなくても、俺は幸せにしたいと思うよ!俺の愛はそんな断定的じゃないからね。子供は皆幸せになる義務があって、大人はそれを手助けする権利があるだけだ!」
晴人は言い切ったと同時に、ラムハイボールを飲み干した。ただ、その行動は目の前の穂乃果を見られなかったからに過ぎない。恐らく感情が昂っている。
「ふうん…晴人がそんな考え持ってたとは意外…」
穂乃果の気の抜けたビールのような台詞は、晴人をゆっくりと不安に沈める。
「意外性の男ですから!」
晴人はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり歩き出す。しかし、自分の足がまるでいう事を聞かない。いや、世界の地面が大きく揺らいでいるのだ。そこに、先ほどまで座っていた穂乃果が晴人を支えた。
「どこ行くつもり? どうせ泊まる所無いんでしょ?」
そう言うと、肩を貸しトイレまで連れて行ってくれた。
ドアを開けつつ、
「明日は行かなきゃならない所があるから」
そう言って晴人は糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。そう、目的地である上越だ。胃の中にあるアルコールを便器の中に盛大に放出し、晴人は自分の人生に向き合う覚悟を決める。幸せな時間はここまでなのだ。
トイレから出た晴人は、目の前に立っている穂乃果に声を掛けられる。どうにか視線を上げると、彼女は晴人を心配そうに見つめていた。
このままでいいじゃないか。
晴人の中で声が聞こえる。
違う。良くない。冗談じゃない。ふざけるな。
心の声がいつしか小さく零れていた…。
「そんな状態でどうする気?」
目の前に座り込んだ穂乃果はゆっくりと晴人を抱きかかえ、奥のソファーに連れて行く。
そして、「お水でも飲んで…」そう言いながらグラスを晴人の口元へ運んだ。
それがこの日覚えていた晴人最後の記憶だ。
薄れゆく意識の中で、「どこへ行く気?」そう聞かれていた記憶がうっすらと残っているが、自分自身何処へ行こうとしていたのかわからない。
「ねぇねぇハルたん!」
可愛い手触りが、晴人の頬を刺激する。薄目を開けると、そこには朝日に照らされた花梨ちゃんの顔が見える。思わず両手で自分の口を塞ぐと、穂乃果を探し辺りを見渡す。
飲み過ぎた次の日は、口臭が酷いのだ。こんな可憐な女の子に…。いや、自分に懐いてくれているからこそ、格好つけたいという男心からかもしれない。
「朝ごはん、食べるでしょ?」
そう言った彼女は化粧っけの無い穂乃果だと数秒で理解した。晴人は、昨日の煌びやかで美しい顔よりも、この野性味漂う顔の方が心を揺さぶられる。
「何があるの?」
声色が寝起きなのは、彼女の興味を引きたくて作った声だった。
「そうねぇ、ベーコンエッグとトースト!ただし、モーニングの別料金はちゃんといただきますよ」
フライパンに視線を落としたまま答える彼女に対して、自分の口臭を気にして思い切り声を出せないもどかしさを感じる。
「お金はあるので、歯ブラシをいただけませんか?」
晴人は、調理台の前で調理している穂乃果にそう伝えた。
「高いですよ?」
穂乃果はそれだけ言うと、花梨ちゃんが代わりに晴人を洗面所に晴人を案内してくれた。洗面台には、封を切っていない歯ブラシが何本も刺さっており、そのうちの一本をいただく。
調理場からいい匂いが漂ってきた頃に、花梨ちゃんが晴人の手を引いて昨日のボックス席に連れていく。
テーブルには人数分のお皿が置かれており、トーストと焼いたアスパラやブロッコリーに目玉焼きがのっていた。
席に着いた花梨ちゃんが、晴人に話しかける。
「ねぇハルくん、ママのおりょうりおいしいですよぉ」
満面の笑みを湛え自慢げに語る彼女は、軽く焦げ目の付いたブロッコリーやアスパラガスを晴人のお皿に移している。
「こら、花梨!そんなんじゃ美人さんになれないよ!」
席に着いた穂乃果が強く叱ると、花梨ちゃんは晴人の膝の上によじ登り始める。
「ママをどうにかして!ハルたんがけっこんしてあげたら、やさしくなるとおもうの」
その言葉に、晴人は大笑いし穂乃果に向かって、
「俺と結婚したら優しくなるの?」
意地悪い笑みを浮かべ聞いてみた。
「花梨~」
その声で花梨ちゃんは晴人の膝から飛び降り走り去る。
「あんた、許さないよ」
大声を出しながら花梨ちゃんを追いかける穂乃果は、学生時代よりも若さを感じた。昔味わえなかった幸せを取り戻そうとしている様に。
捉えられた花梨ちゃんは強引に椅子に座らされ、強制的にパンや野菜を口に詰め込まれている。その光景を微笑ましく見ていると、不意に穂乃果が話しかけてきた。
「高田なら目的地の途中じゃん?一緒に行こうよ」
一瞬、何のことかわからなかったが、泥酔時に目的地について喋ったのだろうと推測する。晴人はその行動を思うと恥ずかしくなり、わざと同行する距離を短く見積もった。
「もちろん!駅まで送って貰えるのであればありがたい!」
「駅まで?高田までだよ。勿論、晴人が運転するんだけどね」
そう言うと、穂乃果は軽く微笑む。学生時代、お金が無い代わりに車があったおかげで、目的も無くドライブしていた頃の記憶が晴人の脳内に蘇る。
ただ、楽しんでいい物なのだろうか?自分への葛藤と、昨夜何処まで話したのか気になり思考は混沌としていく。
「そういや、どうやって目的の場所を説明したんだっけ?」
晴人には全く記憶に無いのだが、細かい所を忘れた体で会話を始める。
すると、穂乃果は手の甲で口元を押さえ、笑いながら答える。
「昨日の夜、年賀状出してきたじゃん!ドン引きするくらい破られていたやつを」
そう言って、カウンターの横に視線を向ける。そこには父親から送られた年賀ハガキが丁寧に置かれていた。原形をとどめない程バラバラになっている状態の年賀状を、セロテープで繋ぎ合わせたもの悲しい姿。
ゴミ箱から拾い集めた、このハガキを繋ぎ合わせていた高校生の自分はまだ、家族の絆を修復できると信じていた。
「それ、見せたんだ…だいぶ酔ってたなぁ」
晴人は穂乃果の反応を見て、全てを話したわけではない事がわかり少し心が緩む。
「そういや、高田ではこの松尾柊さんに会うの?」
その言葉は、穂乃果の人柄をよく表していた。渡したハガキの内容も見ずに置いておいたのだろう。そこに書かれていた名前は『松尾柊』父親だ。裏面には、『突然いなくなってすまない。晴人には本当に申し訳ない事をした。困った時にはここへ電話をしてくれ。父さんはいつまでもお前の父さんだ』そう書かれていた。
苗字も違い、名前を言った事も無かったのでごまかすことも出来たのだが、ここで逃げる訳にはいかない。それは昨日から穂乃果を見ていてそう思ったのだ。彼女は常に前を向いていた…。どんな状況でも…。それがとても眩しく、自分の今後取るべき姿だったと思った。
「松尾柊…中学時代まで父親だった人…」
晴人は数十年口にしなかった人物の名前を告げる。
「えっお父さん?どこで会う約束してるの?」
穂乃果の言葉に晴人は答えられない。そう、連絡すらしていないからだ。
「連絡してないから、会えるかどうかもわからないけど…」
そこまで言うと、穂乃果が晴人に詰め寄る。
「私には関係ない事だから、気分を害したなら無視して。本気で会いたいならば、連絡を入れるべき!それほど会いたくないならば、会わない!ただ、自分の親に会いたいと言う気持ちは、そんな軽くはないと思う!だから連絡して!でなければ、私が後悔するから」
こんな台詞を、父親を亡くした女性に言われて誰が否定できるだろうか…。彼女は連絡すら取れないのだ。それを考えた途端に、急に胸が熱くなる。
「電話…貸してくれない?スマホ持ってないんだ…」
その言葉と同時に、目の前に電話の子機とメモが現れる。
「そのままで外線に繋がるから」
ぶっきらぼうに言い放つと、穂乃果は花梨ちゃんと一緒にお皿をキッチンに運ぶ。その行動は、会話を聞かないから大丈夫というアピールだと晴人は思う。
晴人は、繋ぎ合わせたハガキを手元に置き、数回コールを重ねた。出て欲しいと言う思いと、出なければいいのにという思いが交錯する。
「はい、松尾です」
聞きなれていた声は随分と歳を取っており、晴人は一瞬言葉を失った。
「父さん?俺…晴人…どうしても聞きたい事があって…今日、時間取れない?」
精一杯無感情に話したつもりだったが、色々な思いが頭の中を駆け巡り声は少し震えていたような気がする。
「わかった…」
父親の事務的な受け答えに、お金でもせびられると想像しているのだろうと邪推が止まらない。
「じゃあ、そのカフェで…うん…十三時に…」
父親が提示したのはインター付近のカフェだった。場所をメモすると、晴人は静かに電話を切る。それと同時に花梨ちゃんが駆け寄って来た。
「ねぇ、かりんもおはなししたい」
無邪気に笑う花梨ちゃんの笑顔が、晴人の心を優しく包み込む。
「ごめん、電話切っちゃった」
そう言うと、そのまま彼女を抱きしめた。
「しょうがないねぇハルくんは」
花梨ちゃんは晴人の頭を軽く撫でると、子機を持って穂乃果の方へ駆けて行く。
「さあ、目的地もはっきりしたし、急いで出発の準備するよ。晴人は拭き掃除して」
穂乃果はダスターを晴人に手渡すと、調理場へと向かう。
何かの作業がある事は、今の感情を抑えるのに都合が良く、晴人はありがたさを感じる。
洗い物をしていた穂乃果が、調理場から今日の予定を喋り出す。
「一旦聞いて!えっと…まずは、花梨の荷物を積み込むでしょ?そして、空いたスペースに私の荷物を積み込む。私はもう一度ここへ帰って来ないといけないから、その時に残りの荷物を積んで帰ります。高田で晴人を降ろすのは十三時だから…ここを十時に出ようと思います」
そこに花梨ちゃんが反応した。
「いぎあり。かりんのおとうさんは、はるひとくんがいいとおもいます。おろさずにあたらしいおうちまでつれていきましょう」
その言葉に対して穂乃果は、
「却下します!ママの好みとか関係ないのですか…?」
穂乃果はそのまま座り込み、泣きまねをしていると花梨ちゃんが駆け寄る。
「こどもじゃないんだから、ママ?しっかりしなさいよ」
その言葉に、笑いを堪える穂乃果の横顔が垣間見えた。
「そうだよ!泣くほど嫌とか、酷すぎる!あんまりだ!」
迫真の演技だったのか、穂乃果と花梨ちゃんは横隔膜が引きつる程笑い出した。
「さっ小芝居はこの辺りにして、本格的に準備しますよ~」
穂乃果は身に着けていたエプロンを椅子に掛けながら調理場の奥に入って行く。
スナック『やまいぬ』の奥には通路があり、その先は穂乃果と花梨ちゃん、二人の生活空間だった。出入口は他にもある様で、窓からは折り畳み机やプラスチック製のタンスなどの家財道具を、穂乃果が玄関に運び出しているのが見える。花梨ちゃんはお手伝いしているつもりなのか、小さなおもちゃを持って行ったり来たりしていた。
「お役に立ってて偉いね」
晴人は店舗から外へ出ると、花梨ちゃんの頭を撫でつつ家に居る穂乃果に声をかける。
「手伝うよ」
そう言いながら、晴人は中に入ろうとすると、
「ダメ!積み込むのが大変なんだから、ここに置いた荷物を庭にあるバンに積み込んで」
晴人は衣装ケースを抱えて出てきた穂乃果に片手で制止させられ、顎でドアの外に行けと合図された。
外に出ると、そこには可愛らしい淡い水色の軽バンが止まっていた。
昭和レトロな雰囲気で、銀色の縁取りがある丸目がとてもかわいい。ピカピカに磨かれたグリルは、笑顔で笑っているように見える。
「どこで借りたの?」
晴人の純粋な疑問は、汗だくで荷物を運ぶ穂乃果の怒りを買うには十分だった。
「いま…その質問する?」
穂乃果の表情は、完全に鬼の形相だ。
「いえ、すべきではないですね」
そう言うと、晴人は運び出された荷物をパズルのように組み上げながら車に納めていく。
最後の方になると理解不能な荷物が運び込まれているが、穂乃果の性格上捨てるかどうか迷った場合はいつも保留だった。決めたら早いが、決めるまでの時間が長いのは昔から変わらない。
「出来た!」
晴人がリアハッチを閉じた瞬間、花梨ちゃんが両手を大きく上げ目の前で飛び跳ねる。我ながら、どうやって取り出すのか不安になる程、きっちりと組み上げられた荷物を見ると、それなりの爽快感があった。
「では、出発しますかぁ」
子供向けのゆっくりとした言葉遣いは、何故だか穂乃果のツボにはまったらしい。
「なにそれ!やる気の無さよりも、煽っている感じが酷いよね?練習した?練習した?練習した?」
しつこく繰り返す穂乃果に、正直嫌気がさしてきていたのだが、花梨ちゃんが自分に変わって小言を言う。
「ママ…にもつはこびとかやってくれた、はるさんにそれはないでしょ?わかる?やさしくされたらなんていうんだっけ?ありがとうでしょ?それもいわずに、ひとのあげあしとりとか、おとなとしてどうかとおもうの!ママが、りっぱなママでいれるためにいってるのよ?」
この台詞に、晴人が先に吹き出す。おおよそ三歳児がこれ程までに言葉を扱えるのかと!
「こら、ハルくんも…ちゃんちききなさい!あなたのためですよ?」
『ちゃんち…』可愛い言い間違いだったが、晴人はあえて指摘せずにいた。
指摘して言わなくなるのは悲しいし、逆に意識して連呼されるのもなんか嫌だ。
彼女はこのままで居るから…いや、子供は何かしら可愛い。晴人の持論だ。
ちなみにこの時、頬を膨らましても膨らまないのは、穂乃果の遺伝だろう。そう思うと、彼女の人生は未来へと繋がっているんだ…それが、ただただ羨ましかった。
運転席に座り、バックミラーを見ると、チャイルドシートに座る花梨ちゃんとだけ目が合った。後部座席に乗るはずの穂乃果が見当たらないのだ。
晴人は窓を開け『やまいぬ』の方へサイドミラー越しに視線をやると、しっかりと施錠した後に一礼する穂乃果が見えた。声を掛けようとしたが、本人がこちらに来るまで待つことにする。
昨日来た晴人とは思いが違うのだ。
しばらくして後部座席に乗り込む穂乃果に、
「ママ、ちこくはいけませんよ」
ただのドライブだと思っている花梨ちゃんを宥め、
「ちゃんと挨拶できた?」
一言だけ穂乃果に声をかけた。
声にならない掠れた返事は、彼女の物語にある一つの章が終わったのだろう。
車は穂乃果の悲しみも、喜びも、幸せも、恐怖も、迷いも、全てを残して走り出す。
晴人は高田へ向かうには、時間のかかる海岸沿いの国道を選択した。
この時期の海岸線は、晴人が今まで見てきた中では別格だ。花梨ちゃんにそれを見せたかった。
これが新潟県最後の思い出になるとの思い。
そして、幼い日の大切な記憶となる願いを込めて。
車窓から見える、巻雲は視界の続くかぎり何処までも続き、青い空は遥か彼方で白く濁る。青い海もまた、水平線付近では光を反射し白く混ざり合い境界線は無い。
青々とした木々が、空や海との境目を鮮やかに描く。
「いい景色でしょ?」
晴人が花梨ちゃんに声をかける。
「すごいね!うみ!はいりたい!」
「もう寒いよ!」
穂乃果が花梨ちゃんを止めるが、
「足だけでもつけていく?」
晴人は気軽に花梨ちゃんの提案に賛成した。
「知ってますか?私が何処まで行くか?」
穂乃果の声に、現実の重さが籠る。
「どこまででしたっけ?」
晴人は気軽に聞く。
「敦賀なんですけど!今、どの辺りを走ってらっしゃるのかしら?」
晴人のシートを揺らしながら叫ぶと、
「ダメ!じこしてしんじゃう」
本気の声で、花梨ちゃんが穂乃果を止める。
「ごめんって!花梨ちゃん、次の夏に海行こうね」
晴人は軽く口にした約束に対して、
「ぜったいだよ!いっしょにママもつれてってあげる」
偉そうな口調で穂乃果に自慢すると、
「ママはね、晴人君と海行って一緒に写真撮るデートしたんですよ?現像したら、いっぱい隠し撮りされていて、ドン引きしたんだけどね」
何故か、穂乃果が付き合い始めの甘さよりも渋さが勝る思い出を口にした。
「ねえ、かりんつれてってもらってない!」
その声は、本気で怒った時の声だとこの数時間で理解していた晴人は、花梨ちゃんに優しく言い聞かせた。
「花梨ちゃんが大きくなったら、花梨ちゃんを本当に大切に出来る彼と二人で来る時の為にとっておきなよ」
この状況がくれた、自分史に残る素敵なフレーズだと思ったのだが、花梨ちゃんには響かなかったようだ。そのまま金切り声をあげる。
「かりんはいまがいい!すぐ!このうみじゃなきゃやだ。おしゃしんもとる!ぜんぶがいいの」
晴人は自分の失策に今気が付いた。一回乗った話題は、そう簡単に降りられないのだという事に。そして、それを面白半分に焚きつけた穂乃果の罪は重い。
すると穂乃果は窓を開け、
「この先にある美味しいご飯屋さんで皆と楽しくするのと、海に入っておいしい御飯が食べられない可哀そうな晴人君を見るの、花梨はどっちを選ぶ?」
淡々と状況を告げる穂乃果は、やはり花梨ちゃんの扱いには長けている。いや、弄んでいると言っていい。
「かりんはおなかすいてないけど…ごはん…たべさせてあげて…ハルくんかわいそう…」
涙を堪えた花梨ちゃんを見ていると、今すぐにでも車を止めて水遊びをさせてあげたかったが、穂乃果の事を考えると…いや、花梨ちゃんの事を考えると、あまり遅く敦賀に着くのはいかがなものか…。ようやくそれに気が付いた。穂乃果はもう、立派な母親だったのだ。
「お腹空いてたんだ~ありがとう花梨ちゃん」
晴人は大げさに振舞うと、彼女の表情は満更でもない。そんな笑みを浮かべていた。
「何食べる?」
穂乃果の質問に、晴人は即答する。
「へぎ蕎麦!」
「へぎそば?」
花梨ちゃんは不思議そうに聞き返す。
へぎ蕎麦とは新潟の名物で、蕎麦に海藻が練り込まれており、そのつるつるとした食感は他では味わえない。
まあ、子供の人気は皆無なのだろうが…。
「晴人君が食べたいんなら、皆で行こうよ」
穂乃果は花梨ちゃんを乗せようとするも、イマイチ反応は良くない。
「かりんねぇ、まわるおすしとかでてんぷらがたべたい…」
申し訳なさそうに主張する花梨ちゃんが、この時誰よりも愛おしいと晴人は感じた。
「全部食べよう!俺の食べたい蕎麦に美味しい天ぷらも!そんでお寿司も」
海岸通りから大きくルートを外れ、晴人は内陸側の大きい通りに出る。
「晴人はこの辺のお店知ってるの?」
穂乃果が心配そうな声で聞いて来るが、この辺りのお店など覚えておらず皆目見当がつかない。それを見透かしたのか、穂乃果はスマホを使い候補地をどんどん上げていく。
数店の大まかな位置を把握した晴人は、店舗がある程度密集したエリアへとバンを走らせる。すると、一軒のへぎ蕎麦が食べられそうなお店が現れた。普段ならば、スマホでお店の評価を見るのだが、スマホが無い以前にお腹の減り具合が晴人の行動力を後押しする。
「よし!ここだ!」
ウインカーを出し、素早くお店の駐車場に入る。
「えっそのお店美味しいの?」
いきなりの展開に、穂乃果が半笑いで晴人に確認してきた。
「とりあえず、停車したらダッシュ!お昼前は混むからな」
晴人は、後ろを見ずに二人に声をかける。
「りょうかいハルくん」
「任しといて!駐車に時間のかかる晴人さん」
「最後のは余計!余計だわ…」
項垂れたフリをする晴人を無視し、二人は停車と同時に仲良く手を繋いで店舗へと小走りで店の中に入っていった。
久しぶりの自由闊達な彼女の後姿に、隠し撮りをしていた時の記憶を重ねる。
あの時も…こんな感じだった…。
晴人は彼女の先読みの鋭さは、夏樹さんの用意周到に練り上げられた計略とは違う。その行動は、常に輝いている。穂乃果は今でもそれは変わらない。この心地よさは、大学時代の無知だった自分よりも色々知った今の自分の方が遥かに価値を感じる事が出来た。
「座敷、空いてるって!」
弾む声で穂乃果が運転席から降りたところの晴人に声をかけると、
「ありがとう!さすが穂乃果!いつも最高だよね」
晴人は自然に彼女を抱きしめた。
「ん……」
穂乃果は小さな声を上げ、晴人を押し返す。
二人の間には十年の歳月が確かに存在した。
「へぎ蕎麦、久しぶりだね晴人!色々あって、新潟で暮らし始めたんだけど、へぎ蕎麦を食べる機会どころか、存在すら知らなかったんだ。学生時代って、お蕎麦食べようとも思わないじゃん?」
唐突な思い出話を始めたかと思うと、穂乃果は突然小走りで店舗へ駆けていく。
晴人は返事をすることも、声をかけることも出来ずにその背中を見つめていた。
店内に遅れて入ると穂乃果の姿が見えない。その代わりに、不安そうに一人で座っている花梨ちゃんを晴人は難なく見つける事が出来た。早く安心させたくなった晴人は、多少強引に混雑した店内を進む。人との隙間をする抜けようとすると、不意に声を掛けられた。穂乃果だ。
「もう、後ろついて来ていると思って、知らない人に話しかけちゃったじゃん」
苦手なふくれっ面で真剣に目を見て来るが、晴人はその眼を見返す事ができなかった。
二人同時にお座敷に上がると、「花梨ちゃん待った?」と声をかける。
ほんの数分だったが、晴人は何故か数時間近く待たせた気になる。
「ううん…それよりおなかすいたの…」
振り向き様に愛らしい困り顔で晴人に訴えかける。この子は既に魔性の女の子だ。
店内は鰹節のいい香りが漂っており、空腹でなくともお腹がすきそうだ。無意識に晴人は花梨ちゃんの隣に座ると、穂乃果は目の前の席に座り身を乗り出す。
「じゃあ、何を食べるか選ぼう」
晴人は店内の騒がしさに負けないよう、出来るだけ花梨ちゃんの近くで語り掛けていた。
「じゃあ、私山菜…」
穂乃果の注文を晴人は注文を遮る。
「おぅい!ここは、天ぷらセットかお寿司セットやろうがい」
満面の笑みの穂乃果は続けて、
「そうねぇじゃあ、晴人と同じ物」
わざとだ!それにしても悪質!晴人はメニューを広げ、
「ここはシェアして食べる流れじゃん?」
そう言って、写真の載ったメニューをテーブルに広げ指さすも、
「わたしもさんさいたべてみたい…」
花梨ちゃんの発言に、言葉を失った。どうも、花梨ちゃんも山菜が気になる様だ。
「じゃっじゃあ…山菜蕎麦と、天ぷらセットで…」
晴人は店員さんに来てもらい、注文するも穂乃果はずっとにこにこ笑っている。
「こちらが、山菜蕎麦と天ぷらセットです」
テーブルに置かれた、山菜蕎麦に目もくれず、花梨ちゃんはエビの天ぷらに手を伸ばす。やはり、天ぷらが正解なのだ。
しかし、子供用の箸は滑りやすく花梨ちゃんは上手くエビ天を掴めない。それを見ていた晴人は、先だけ軽く天つゆにつけたエビ天を満面の笑みで花梨ちゃんの口に運ぶ。
心地よい衣が砕ける音。
上品な油の匂い。
かじりついたエビ天の断面から上る湯気。
食べなくとも、ここの天ぷらは美味しいと確信できる。
しかし、花梨ちゃんは二口三口食べると「もういい」そう言って穂乃果が食べている山菜蕎麦に食指を伸ばす。
穂乃果は知っていたのだ。花梨ちゃんが言った言葉と、実際のイメージしている食べ物の落差を…。
小皿に取り分けられた山菜蕎麦を勢いよく啜る。
「おいしいね!こえ、おししいね」
勝ち誇った笑みの穂乃果を横目に、寂しそうに横たわる齧られたエビ天を蕎麦の付け汁で食べてみた。
旨い。
衣の厚さと固さ。
それに負けないエビの歯触り。ぷりっと嚙み切れる感覚が心地いい。
そして、出汁から香るカツオの風味。
どれをとっても最高なのに…。
その表情を見てなのか、穂乃果が声をかける。
「花梨を甘く見ていたら痛い目見るよ」
そう言って、穂乃果は自分の山菜蕎麦を汁まで飲み干した。
「まだ食べたかったのに」
悲しそうな花梨ちゃんを見ていると、もっと食べさせてあげたくなり追加で山菜蕎麦を注文した。
「ハルくんやさしいね」
にこにこしながら膝によりかかる花梨ちゃんは、この世のどんな生き物よりも愛らしい。もし天使が実在したとしても、この子は負けないだろう。なんせ、魔性の天使なのだから。
そうして運ばれてきた、山菜蕎麦に花梨ちゃんはほとんど興味を示さない。現在はサツマイモの天ぷらを箸に刺し、美味しそうに口に運んでいた。
「三歳児の発言を信じるなんて、宝くじが当たると信じているくらい無謀だよ。私、もう食べられないから」
そう言って、穂乃果は花梨ちゃんの口の周りを丁寧に拭きだした。
いくら蕎麦だからと言って、二杯はキツイ。それも、食べ応えのあるへぎ蕎麦ならばなおの事。
とりあえず、麵が伸びるといけないので温かい山菜蕎麦から片付けにかかる。
丼を傾けると、琥珀色の汁から湯気が上がってきた。
カツオの香りと共に曇る眼鏡。
そのまま丼を口元に運び、一口汁をすする。
旨味の暴力が口内を駆け巡り、鼻から抜ける空気からもカツオ風味が感じられた。
山菜蕎麦の出汁は少し甘めで、それにより晴人の食欲が再燃した。
茶色いのや、おそらく蕨であろう緑色の山菜は、良い歯ごたえだけでなく独特の風味が甘めの汁によく合う。
気が付くとすぐに食べ終わっており、穂乃果の気持ちがなんとなくわかった。
晴人は丼を置くと、ようやく顔を上げる。そのタイミングで二人が声をかけた。
「花梨と二人で、食べておいたよ」
「おいしいね!へぎそば!またたべたい」
そう言って、蕎麦がのった蒸篭を自慢げに見せてきた。
「美味しかったでしょ?へぎ蕎麦は、やっぱりざるそばが一番!普通の蕎麦との違いが出るからね」
「うん!つぎからかりんもざるそばにする」
穂乃果はその発言を聞き、クスクスと笑っている。
「いつもこの調子だから気を付けてね。三歳児の頭の中は宇宙だよ。果てしなく広くて、理解できたような気がするけれど、何一つわからない。気まぐれじゃないの。謎の理論が確かにそこにはあるの。だから、『てんぷらとまわるおすし』と言ったのも、何かしらの理論で花梨ちゃんの中では繋がってるの。『おなかすいていない』から、いきなりお腹空いたに変わるのも、言いたい事を言い忘れたのではないの。お腹が空いていない花梨ちゃんと、お腹が空いている花梨ちゃんが同時に存在して、入れ替わっているだけ。人類がまだそこに到達出来ていないだけ」
そう言って穂乃果は手早く身支度を始める。付き合っている時も準備は早い方だったが、ここまで手際が良かったわけではない。おそらくお店をやっているうちに身に着けた技術か、子育てで鍛えられたのだろう。
店を後にし、車に乗り込んだ直後に花梨ちゃんが穂乃果に耳打ちしていた。
「なんでさっき言わないの!」
焦る声の穂乃果が、運転席の隙間から顔を出す。
「ゴメン晴人、その辺りにコンビニない?花梨…トイレに行きたいみたい」
このタイミングで?そう思ったのだが、先ほど穂乃果から聞いた『お腹が空いた花梨』のくだりを思い出して吹き出す。そう、『トイレに行きたい花梨ちゃんと、トイレに行きたくない花梨ちゃん』その二人が入れ替わっただけなのだ。
「いいよ、すぐ目の前にコンビニがあるから」
「いや!あおいところはいや!きいろいところがいい」
色のイメージで何処だかはわかるが、黄色い所を見つけるのが至難の業。そう思いバックミラー越しに穂乃果に問いかける。
「近くにある?」
「いや、この顔はもたない!強行突破よ」
穂乃果の判断で青い所に飛び込み、穂乃果は花梨ちゃんを抱え奥に走り去った。
そう言えば、穂乃果…ゴリゴリの物理学科だったなぁ…。だからあの蕎麦屋での説明なのか。彼女なりに花梨ちゃんを分析しているんだなぁ。
晴人は今朝からの出来事を自分なりに消化し始める。時間がいつまであるのかわからない自分に、この経験が必要となる事はないと思いつつなのだが。
トイレからいつの間にか出て来た二人は、レジの前で別の押し問答をしている。どうやら花梨ちゃんはチョコを二つ買ってもらおうとしている様だ。晴人ならば両方買ってすぐに終わらせたくなるのだが、穂乃果にとってそれは教育上良くないとの判断だろう。横から口を出すのも良くないと思い、晴人は自然に店外に出ていく。おそらく、あのまま見ていれば穂乃果もこちらを気にして買わざるを得なくなると思ったからだ。
「ごめん、花梨が…」
「ううん、いいんだよ!そろそろ行こうか」
再び走り始めた車の後部座席では、穂乃果の膝の上で眠る花梨ちゃんの姿が少しだけ見えた。長かった旅も、ようやくここで終わる。そう思うと、神様がくれた最後の時間に感謝しかない。
目的地までの車内では、昨日できなかった思い出話を前後の席で二人は懐かしそうに語る。春に桜を見に行き、夏には海で釣りをして、秋には紅葉という名の登山に出掛け、冬はスキーを楽しんだ。たった一年半の記憶は、少しも色あせる事も無く、いつでもその情景が脳裏に浮かぶ。
目的のカフェに着いたのは、約束時間を少し過ぎた頃だった。
「ごめんね、色々あって遅くなったね」
穂乃果は後部座席から晴人に謝る。
「いいや、これぐらいの待ち時間で帰られていたら家まで押し掛けるさ。こちとら何年も放置されてたんだから」
そう言いながら晴人は運転席からリュック片手に降り、SUUNTOに視線を落とす。
「ねえ晴人…」
一緒に降りていた穂乃果が後ろから声をかける。
「どうしたの?急がなきゃ敦賀に着く頃には朝になるぞ」
この旅での唯一の荷物であるリュックを背負い直し、振り向くと今までに見た事のない程不安な表情の穂乃果が立っていた。
「本当に会う必要があるの? 会いたいの? 会ってどうするの? ううん…ごめん…晴人の選択だもんね…」
穂乃果は再び車に戻る気配はなく、強い視線で晴人を見つめている。
「うん…今朝…穂乃果に言われて…今では行かなきゃいけない気がしてる。ありがとう…穂乃果に出会えて本当に幸せだったよ」
晴人はそう言って店へ向おうとすると、
「待って…」
そう言いながら一枚のチョコを押し付けた。
「これは花梨から! 今度会う時、一緒に海で食べたいんだって! 貴方と私と花梨の三人で…晴人は大丈夫! きっと大丈夫だから! とっとと全部済ませてきなさい」
穂乃果は顔を背け、素早く運転席に乗り込む。そしてエンジンをかけると振り向きもせずに窓から片手を振り走り去った。
晴人は貰ったチョコをリュックの一番奥に仕舞い込み、ようやく店に向かって歩き出す。
木製の大きな扉は、思ったよりもスムーズに開く。店内に入ると一応辺りを見渡す。
時間帯もあってかまばらな店内の四人掛けの席に、おぼろげながら記憶にある後ろ姿を確認すると一直線に歩を進める。
「久しぶり…」
晴人は自分でも驚くほど低い声だった。
「ああ…晴人か! もう来ないかと…」
父親だった男は見た事も無い眼鏡をかけており、当時よりも皺は深く刻まれ、振られた手は浅黒くゴツゴツしていた。
父親の言葉より、数席離れた店の奥に居る大柄な女性の視線が気になる。見ると小学生くらいの女の子を連れており、子供はゲームか何かに夢中になっていた。思ったよりも待たせたようだ。
「それよりどうした、どうして会ってくれる気になったんだ?」
父親の言葉に、強い不快感が晴人の臓物を覆う。
「時間が出来たんでね…あっアイスのストレートティーお願いします」
テーブルに来ていた店員に注文し、晴人ははす向かいに深く腰掛けた。
「そうか…よかった…母さん…陽子さんは元気か?」
返事をする前に、晴人は何か飲み物が欲しかった。このどす黒い何かを落ち着ける為にも。
「今のあんたに関係ある?」
母親はもう数年前に若年性アルツハイマーと診断されたが…。晴人は一瞬、その事を話そうとするも、今の父親には無関係の事であり、おそらく数あるゴシップのひとつとして捉えると感じた。だから、母親の事を考えると目の前の男に伝えるべきではない。そう判断し、質問を拒否する言葉を放つ。
「そうだな…」
父親だった男は言葉を失う。
そのタイミングで、店員は無言のまま晴人の飲み物をテーブルに置く。
アイスティーを口に含み、蟠りと共に一気に飲み込む。
「そうだ! 就職は上手く行ったか?飯は食べているか?」
作り笑顔が酷く、晴人は直視できない。
「今まで放っておいた人間が気にする事ですか?」
仕事は数日前に退職したさ…。そんな近況報告をしに来るとこの男が思っている事に怒りを覚える。何故、これ程この男は場当たり的なのか。何故、こちらの雰囲気を覗いながら会話をしないのか。何故…こんなにも愚かな男を自分は父親として認識しているのか。その全てを歯を食いしばって晴人は覆い隠す。
「すまん…」
男は謝り、両の拳をテーブルにつけ俯く。
それを見て晴人はゆっくりと口を開いた。
「僕はね、聞きに来たんだよ。何故母さんを騙し、その後に捨て、どんな気持ちで今まで暮らしていたのかを…」
男は小さく溜息をつき語り出す。
「お前にわかるのか?たった一度の浮気で生活の全てを管理され、取り繕う事を強要され、お前の為に演じ続ける生活がどんなに過酷か…。会社では地位を剝奪され、出社すればよく出社出来たなって顔で見られ、会社を変わることを母さんは許さず、俺がどんな気持ちで二年間生きて来たかわかるのか?」
男の拳を見ると、小さく震えていた。
「二年間?たった一度の浮気?」
そう言いながら奥の方を見ると、大柄の女は鋭い眼光でこちらを見ている。見たことがあった。遠い昔の記憶で、あの大柄の女を! 声が妙に粘り気があり、とても不快に感じすぐに家に帰った事があった筈だ。
「お前が六年生の時に…」
言いかけた男の言葉を刈り取る。
「違うだろ?もっと前の筈だ! 一体いつから母さんを…俺を騙していた? 自分だけ良かったらそれでいいのか? お前が押し付けた中古のノートパソコンは、人生をやり直す唯一の希望だった…。その中にあんたが残したくだらないメールのせいで全てが崩壊したんだぞ?それでいいのか?逃げ出せればよかったのか? 踏ん切りをつける為、時限爆弾の様にその女とのメールを続けてて希望にあふれていたのか?」
男は眼鏡を外すと顔を拭くふりをしながら涙を拭っていた。
「話す気にならないなら、用は無いんだが…」
晴人はテーブルの上で両手を組み、男を睨みつける。
そして、言い切った途端に、後ろめたさが体の奥底から吹き出す。それが、この男よりも自分の方が最悪な男だと言う自覚だ。
「わかった…。勘のいいお前だ…。全てを話す…。お前の視線からもう気が付いているとは思うが、後ろに居るのが今の妻だ…」
父親は振り向きもせず小声で答えた。
一人で来れなかったのかよ…。
晴人は心の中で毒づく。
「彼女はお前が小学校に入る前くらいから関係している。勿論、乗り換える気だった俺はお前を一度だけ彼女に会わせた事もある。だが、お前は完全に拒否してたな…。俺はな、安らぎが欲しかったんだ。何もしない休日や、出世競争など気にしない家庭が欲しかった…。しかし母さんは自分もめいっぱい働くし、会社の誰が昇進したかとか聞いて来る。挙句の果ては、休みの日と言えば家族で登山だ! 何が体力に勝る努力は無いだ! 何が私はこれ程稼いでるだ! 何が週末には豪勢に外食してマナーを磨くだ! そんな家庭なんか偽物だろ?」
そこまで言うと、男はミルクと砂糖でいっぱいになったグラスの液体を飲み干した。
「そんな主張は、あんたがしたことに対して何の理由にもなっていない」
晴人は驚くほど冷静に告げた。
「そうだな…。俺が悪かった…それを聞きに来たんだろ?」
男はテーブルに頭を付ける。
晴人にとって、そんなことはどうでも良かった。ただ、理由が欲しかっただけかもしれない。父親だった男にも、納得する理由があって今、自分はこんな目に遭っているのだと…。
「謝罪など必要ないから。どんな気持ちで出てったのか話してよ」
顔を上げた男は、視線を下げたまま言葉を口にした。
「…パソコンの件は悪かった。父さん…最初はお前がプログラムを始めるって自分から言うから、嬉しくなってパソコンを準備したんだ…。けど…魔が差しただけだったんだ。お前に貸し与えたパソコンなら、母さんもチェックしないだろうと…彼女と連絡が取れる…。そんな安易な発想しかなかった。それがお前の…」
「そんな事はきいてないよ…。逃げ出した時の気分だよ! さぞ嬉しかったんだろ?」
不敵に笑う自分は、人生で最も嫌いな人間に成り下がった瞬間だった。それは業だ。こんな自分であった自身の…。
男は意を決したのか、真っ直ぐに晴人の目を見て語り出す。
「…そりゃ、お前…解放された気分だったさ。重圧も無けりゃ、監視も無い。あの会社にだって行かなくて良い…。ただ、お前の事だけは心残りだった…。だから…年賀状を書いてた。毎年…届いているかどうかもわからない年賀状を…」
晴人は言い過ぎた謝罪の意味を込め、リュックの中から破り捨てられていた継ぎはぎの年賀状をテーブルの上にそっと置いた。
「僕に届く前に、全て破り捨てていた唯一の生き残りだよ…」
男はその無残な姿を見て再び涙を浮かべた。
「そうか…そうだよな…俺はな…いつか話せる日がくるって思って…ここに書いた番号から携帯は変えなかった。いつかお前と話せる日が来ると思って…」
震える両手でハガキを持ち上げると、「晴人…本当に…すまなかった…」消え入る声で再び謝った。
「もういいよ…俺こそ、ごめんな…ただ確かめたかっただけなんだ。自分の人生がどうしてこうなったかを…」
その言葉で、男は再び号泣し、気が付くと大柄の女性がその傍らに立っていた。女性の目には溢れんばかりの怒りの意志を込め、連れていた女の子は男の背中を抱きしめ、
「お父さんをいじめないで!」
大声で晴人を怒鳴りつける。
色々と言いたい事はあったのだが、この子には謂れのない事だ。ここで聞かせるのも忍びなく、口を噤んだ。『お前らの幸せは、俺らの不幸の上に立っている』その言葉を飲み込む。そして無言で席から立ち上がると、大柄の女性は躊躇なく跪く。そして、頭を床につけたまま謝る。
「もう、許してください。私のしたことがどれほどの事だったのか、自分の娘が小学生になりようやくわかりました。卑怯で卑劣だったのは認めます。この人の弱い部分に付け込んだ形になり申し訳ございません。どうか、この度はお引き取りください。どうか…」
女の子はそんな両親の前に両手を広げ、
「私の大切なお父さんとお母さんに手を出すな」
再び店内に響き渡る声で晴人を制止した。
元より何もする気が無かったのだが、店員が慌てて二人の間に入り、
「おかえりくださいお客様!」
そう言って、晴人を掴み店の外に連れ出した。
それを見ていた男は、
「彼が悪いんじゃない! 私が悪いんだ! 大切な息子なんだ! 俺の愛した息子なんだ! 暴力は辞めてくれ」
店員に必死で抗議しているのが聞こえて来た。
外へ出ると、すっかりと日は落ち辺りは夕闇に覆われている。SUUNTOのボタンを押すと、バックライトで現在の時刻が浮かび上がった。
文字盤には透明なシールが貼られており、そこに印刷されていた文字がうっすらと映る。今まで気が付かなかったが、バックライトを使うと目視出来るようだ。
『お前はまだ、何者でもない』
おそらく、和馬が死ぬ寸前まで見ていた言葉。
何者かになろうと足掻き、苦しみ、運命に弄ばれ、それでもなお何者かになろうとしていた。
それと比べ、自分はどうだ?
まだだ!
何もなしとげていないじゃないか!
晴人の人生はまだ、何も始まっちゃいない。
逃げ続けた人生だったが、これだけの人が必要としてくれていたじゃないか!
俺が誘ったパソコン教室から自分の夢を叶えた雄介!
再び仲間とバンドを再開した総司!
生きる目的を見つけた穂乃果!
そして、新しい家庭を作った父親…も。
人生はやり直しの連続で、間違えたら正せば良い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます