秋田にて
鎧張りの白い駅舎は懐かしさを感じさせたが、内装は何度か作り替えた形跡がある。壁際の段差や床のアンバランスさ。そして、何よりも吹けば飛びそうなドアが、この街で暮らしていた頃の自分の姿に重なる。
この地へ移って来た当初、母親の精神面が不安だったのだが、親友と言っていたおばさんを見た途端に安心できたのを思い出す。
駅前で恥ずかし気も無く飛び跳ねて喜んでいた二人は、まるで少女の様に見えた。
母親がここへ来た本当の理由など、晴人は些細な事のように感じていた。ここならば上手く行く。晴人はその時、そんな予感に希望を膨らさせていたのを思い出す。
引っ越し直後は大変だった。
受験前に数か月通った中学の記憶は無く、勉強に集中していたと言えば聞こえはいいが、どうせバラバラになる所に仲間を作るのは、いかにも効率が悪いと思いあえて避けていた。
そうやって、意気込んで挑んだ高校だったが、想像していたよりも目標とする進学校の偏差値が高く、身の丈に合わせる事になる。今まで勉強で負ける事など想像すらしなかった晴人だったが、中学時代には息苦しさを感じるようになっていたのも事実だ。それもあって中学時代は本能的にプログラムの道へ逃げていたのかもしれない。
思い出にふけりながら歩く通りから、金木犀の香りが風に乗って漂ってくる。
久しぶりに見上げた秋田の空は驚くほど高く、この季節の日光は夏のような熱量は無く、それがとても心地いい。
駅前からどれだけ歩いただろうか、目的の『伽藍堂』はまだ見えてこない。それは、高校時代の友人の親が経営している楽器屋で、晴人もお世話になった事もある。名付けた先代が、本気で店を繁盛させたく無い気持ちだったのではないだろうか。そう思いたくなるほどの駅からの距離。そして響きの持つ縁起の悪さが逆に気にかかる。
迷路のような住宅地を歩き続ける事二十分。ほどなく民家が減り、国道が現れる。そこを突っ切ると、商店街の雰囲気が残る片側一車線の道路に差し掛かった。
その最初の交差点の角地に伽藍堂が見えた。黒い木枠で出来たショーウインドウが目立つ、昔ながらの佇まいはどこか安心感さえ覚えさせる。建物は全体的にオレンジがかっており、出来た当時はお洒落な外観だったのだろうと晴人は思う。
この店に石井総司が居るのは確かであり、年賀状もその住所から送られてきていた。
「総司ぃ」
名前を言いながら大きなガラスがはめ込まれた戸を押し入ると、その当時を思い起こさせる楽器が所狭しと並べられていた。当時と変わった点があるとすれば、ショーケースにトランペットやサックスなどの金管楽器が飾られており、昭和のノスタルジックな雰囲気を意図してアピールしている所くらいだ。
「えっ…ハルヒ?」
店の奥には、高校時代の記憶には程遠い姿になった総司が、掃除用具を抱え立ち尽くしていた。
後ろで束ねた金髪に、おそらく八十キロは優に超えた体型の店主は、晴人の事を『ハルヒ』と呼んだ数少ない友人だった。
「懐かしいな!何時こっちに来たんだよ?」
満面の笑みを浮かべ、指をさしながら近づいて来る彼は、当時の雰囲気そのままだ。変わったのは体型と、着ている服くらいだった。あれほど否定したTシャツとジーンズを身に着け、ふくよかになった身体を揺らしながらこちらに近づく。
「ちょっと前に着いたんだけど、この店駅から遠すぎだろ?」
そう言いながら、総司と固い握手を交わす。何年ぶりかは忘れたが、掌の感触は当時よりも岩肌の様にゴツく、彼が今でもドラムステックを握っている姿を想像した。
「ああ、移転の話もあったんだが、めんどくせぇじゃん?」
そう言いながら顎を摘まむ仕草は、高校時代から変わっていない。大抵は何も考えていない時か、聞いて欲しくない時にしていたような気がする。
話題を逸らそうと、晴人は思い出話を始めた。
「そういやバンドって、まだ続けている?」
「この体形で?お腹が邪魔で、ドラムに手が届かないって、言いすぎだろ」
そこまで言うと大声で笑いだす。
晴人は昔から変わっていない総司への安心感と、不思議と湧き上がる一抹の不安を感じた。
「スナッチ最高だったのに…」
晴人は残念そうに呟く。
「んっ?スナッチは勝手にやっているよ?俺と、イナオ抜きで」
スナッチは、当時高校生だった、石井総司、高畑高志、藤井直也、堀本勝の四人で構成されたバンドで、その広報を晴人はやっていた。ちなみに、中学でやっていた頃は、井上辰彦というメンバーが所属していた。
イナオと呼ばれたのは藤井直也。当時のスナッチでギターを担当していた自由人であり、隙を見せるとすぐにアドリブでギターソロを挟む問題児だった。
入学式初日で、金髪に鉢巻を巻いて来た所を正門で押さえられ、初日欠席させられた強者だ。
「リアルにスナッチされたんだ」
晴人は軽く笑いながら、昔を懐かしんだ。卒業ライブでの思い出は今でも忘れない。
「ハタタカは本気だったみたいだけど、俺らは楽しかったらそれで良かったんだよなぁ」
遠い目でショーケースに飾られているサックスを眺めていたが、彼はサックスを吹いた事も無ければ、触った事すらない。
「今、サックス見たけど、お前はドラムだろ?」
「ああいうかっこいい楽器が良かったんだよ。ドラムセットが唯一揃うからって、俺はずっとドラムをやらされていた」
俯いた総司の口元は、うっすらと笑いをこらえている。
「暇な時間、ずっとドラム叩いてたくせに?」
「バンドなんて本気じゃなかったし」
「少しでもライブに人が来るように、チケット手売りしていたのに?」
そう言えば、当時人集めに必死になっていた総司の手伝いをしていた記憶が蘇る。
「可愛い女の子、呼びたかっただけだかんな」
「嘘言え!剥げた親父や七十超えたおばあさんにまでチケット売ってたじゃんか!新興宗教かと思われて追いかけられたの覚えてない?それともあれか?ストライクゾーンは」
『無限大』
あえて被せてくるところは昔のまんまだった。
「けど、本気でモテたいと思っていたんだぞ。普通、バンドやったらモテると思うじゃん?みんなウエタツとかモトカツばっかりに女の子が集まって面白くなかったから、剥げ親父とか呼びたくなるじゃん?」
総司との会話は、いつも本気かどうかの探りあいだ。
「しかし懐かしいな~大学行ったんだっけ?」
そう言いながら、総司はスマホで何やら検索している。
「ああ、大学には行ったよ…卒業まで五年かかったけどな」
「ほほう、そんな呑気に大学通ってたなら、たまには顔出してくれりゃ良かったのに」
総司は何かを見つけたのか、画面を見せつけてくる。それは晴人がスナッチで歌った最初で最後のステージだった。
「懐かしいな…」
笑いながら当時の映像を眺める。
「すごいよな!ハルヒ!歌詞なんて無関係。何ならメロディーも無視して、まるでラップじゃんか」
そう言いながら流れてくる音楽に、二人は耳を傾ける。
「基本的に歌詞覚えられなかったからね」
「そうそう、最初出会った時からそうだったよね」
そう言いながら総司は飾っているドラムを軽く叩く。そのリズムは狂いなく、小気味良いリズムを刻み出す。
「初日に行ったカラオケ、まだ覚えてたの?」
晴人は照れくさそうに頭を掻く。
そうだった。晴人は家に帰りたくなくて、二人で深夜までカラオケに行ったのだ。『今日出来た友達とカラオケ行ってくる』その一文だけ母親にメールし、深夜まで、喉が枯れるまで、今まで溜め込んだフラストレーションを吐き出す様に、不幸な運命をぶち壊す様に歌い続けた。
晴人の好きだった歌手は歌の部分とは別に語る部分があり、そこに全てをぶちまけていたのだ。
会話の最中に、一瞬脳裏を掠めたのは帰宅後のテーブルだ。入学式のお祝いだったのだろうか、豪勢な食事が手を付けられないままラップで包まれていた。あの時は何も考えず、自分の好きな量だけ取り出し、一人で遅い食事を取り母親に声もかけずに眠った。それが今になってもたまに思い出される。
「ハタタカが居たら、ソッコードロップキックしていたよな」
「高畑、普段は緩いキャラのクセにベース持ったら怖えもん」
ベースの高畑高志。几帳面にベースラインを守り、決してリズムを外さない。練習量も半端なく、ギター以外の楽器も弾ける万能型だった。見た目は一重に色白で人当たりも良く、シンプルな服装を好む好青年バンドマンなのだが、一度演奏が始まると鬼の形相と化し妥協を許さない。他のバンドには白い能面と呼ばれていた。まあ、白以外の能面を見たことが無いのだが、そんな細かい事を気にする人間はバンドなど始めようとは思わないだろう。
音楽の趣味に関しても、彼の好きなバンド以外は何処が演奏者としてダメかを延々と語り、最後はこんなんだからバンドマンは嫌われる。そう言いながら落ち込んでいる愛すべきベーシストだった。
「懐かしい!ハタタカ!高畑何してんの?」
「あいつは…渡米した…」
後ろでドアベルの音が聞こえた。店の入り口の空気が動く。
「日本に居るわ!」
高畑の声だ。
「単身渡米したって…いつ日本に?」
叩いていたドラムを止め、立ち上がり抱き着こうと高畑に近づく。
「毎週このくだり要る?メジャーになって帰国するシーン」
そう言いながら、横目で晴人を確認する。
「おっ、晴人じゃん。ピックでも買いに来た?」
昨日や一昨日別れた友人にするような声のトーンで高畑が声をかけてきた。
「そうそう、ここのピックじゃなきゃ良い音が出ないんだよ…」
「当店自慢のピックでございます」
総司は壁に掛かっている、いかにも量産品のピックを手荒に取り、そっと晴人に差し出した。そして、辺りに目配せしながらピックに付いた値札をこっそり見せる。
「いや~わざわざ来た甲斐があるなぁ…お値段もリーズナブルな百十円…電車賃のが高けぇ…」そう言いながら晴人はピックを投げるフリをする。
昔はこんな時間が永遠に続くと思っていた。いや、そもそも終わりがあるなど感じることは無い。高校生にとっての時間とは、高速で下階に向かうエレベーターの中と同じだ。ふわふわとした気持ちが何処から発生し、いつ終わるのか誰も気に留めない。むしろ、その感覚が当たり前すぎて、いずれ到着するであろうグランドフロアも、目の前のドアが開くまで認識できなくて当然なのだ。
それに気が付く人間が居るとするならば、周りが見える特殊なエレベーターに乗っているか、もしくは鋭すぎる感性で知覚する者。勿論、晴人もその類では無かった。
「はいはい、小芝居終了で」
そう言いながら高畑が背中に背負っていたギターケースを開く。
「そのベース懐かしい」
晴人は思わず声が漏れる。出会った時から黒く傷だらけのベースを高畑は愛用していた。当時は修理して使うスタイルに、ある種の憧れを持ってはいたのだが、知識が伴うようになると何故あの安くて古いだけのベースを使うのか理解できない。簡潔に言うと、古くて安い楽器は、新しくて安い楽器に負ける。それは車や電子機器にも言える事だ。やはり、技術の粋を駆使して作成された物は何でも優れている。ビンテージ品と言われる物は違うのかもしれないのだが、元値が安い物は古くなるとそれなりに悪い面が強調されてしまう。
「俺と同じで、見た目はポンコツ中身は最新だから」
そう言いながら、いきなりベースソロを始める。恐らく店外に聞こえていたであろう、総司のドラミングへの挑発だろう。実際、音の乗せ方は高校時代とは比べ物にならないぐらい心地よく、複雑なフレーズも簡単そうに聞こえるのは彼の技術だ。
そこに、先ほどまでくだらない事を言っていた総司がドラムで挑発にのる。それは最初漫才の掛け合いの様に始まり、見事に融合していく。そのセッションは高校時代とは比べ物にならない程心地よく、思わず癖で撮影機器を探す。
「高校時代と変わんないね」
二人が晴人に向かい、同時に声をかける。
「そのおかげで伝説が出来た」
総司がそう言うと、
「伝説は晴人が作ったんだ」
高畑が強く主張するが、自分には全く身に覚えが無い。むしろ、どう考えてそこに辿り着いたか知りたいぐらいだ。
高校時代、学園祭で初めて聞いた生のバンドの熱量。
総司に呼ばれて行った会場である体育館は、それほど人数は集まっておらず、感覚的に自分の存在を異物として判断する。
総司を見たら帰ろう。
晴人は暗がりの中、渡されたプログラムで出番を確認する。
「よりにもよって、最後から二番目かよ…」
晴人は思わずつぶやく。
「えっスナッチ目当てですか?」
隣から真面目そうな女子の声が聞こえた。
暗がりで良く見えないが、晴人は声質からして可愛いと思う。
「総司に呼ばれて…」
「えっ…あのドラムの知り合い?」
明らかに女子の声質は異次元の物に変わり、視界の中から消えた。
遠くから、「あの人、変態ドラマーと知り合いなんだって」「えっ? キッつ……」姿は見えないが、話声だけが聞こえて来た。
何をした…総司…お前の名前出すの、すまないがこれからは止める…。
晴人は決意を新たに音楽に集中した。いや、正確に言えば先ほどのトラウマを払拭したかったのかもしれない。
最初に出てきたバンドは、明らかに合唱コンクールレベルだと瞬時に分かった。よく聞く音楽を練習し、難しい部分は簡易版に変えとりあえず逃げ切ったぞ。そんな思考が伝わって来た。その次からはもっとキツく、オリジナルなのかカバーなのか全くわからない曲を演奏し、観客の一部だけが盛り上がっている。関係者なのか、知り合いなのか、そんな裏事情を考える程には暇だった。知らない曲の場合、上手いか下手かもわからない。そして、興味が無いとしてもスキップは出来ないのだ。
これは思ったより苦行だ。そう、思ったのはこのバンドが出てくるまで…。
『バチスタ』というグループがステージに上がる頃、客席は今までにない程の観客に溢れていた。これは後で聞いた話だが、バチスタとは心臓手術で心を開くと言う意味らしい。知的なイメージを追い求めているようなのだが、少し恥ずかしくなる。
だが、その音は圧巻だった。メジャー曲のカバーという事もあり、聴いていて上がるテンションは心地よく、変なノイズは無い。そして、今までにあった無邪気な観客とのやり取りも無く、本気度が伝わってくる。
音源はパソコンがメインだった自分にとって、振動版が押し出す空気の塊が体育館を揺さぶる感覚が新鮮だった。
音には種類がある。
鼓膜を揺らして感じるもの。
視覚を通して通じるもの。
肌を直接揺らす物。
そして、会場の床から伝わる振動。
今にして思うと、技術はプロの足元にも及ばないのだろうが、ライブの良さはそれではない。これはプロのライブを聞いた事が無いからかもしれないのだが、その当時の自分はこれほど音楽で熱くなるとは思いもしなかった。
「このバチスタでも大トリを逃したんだ。じゃあスナッチも聴いて行こうか」
観客から聞こえる会話によって、晴人はある程度理解した。この演奏順は、後に行くほど上手なのだという事を。
ようやく『スナッチ』が演奏する番になったのだが、よりにもよって知らない曲だ…。テンションは幾分か下がったが、大トリという事もあり期待をしている。
ギターのサウンドチェックが、晴人の心に深く刺さった。
ああ、これを聞きに来て良かったと…。
それと同時に、これを小さな所だけで共有している事への不満が募る。
控室から出てくる総司に一言、
「俺、スナッチの広報担当になりたい」
今回のライブで感じたありったけの熱量をぶつけた。
その表情は今でも鮮明に覚えている。
馬鹿なのか?
そんな表情だった。
「バカかと思った」
総司が間髪入れず突っ込む。
「ファーストライブがあれじゃね。浅すぎる」
高畑の補足はもっとひどい。もっと言葉を選べ。晴人は心で毒づく。
「けど、あれから動画をずっとアップしてくれていたんだよね。そのおかげもあって集客が楽になったのは確かだから」
総司は遠い目をしながら言葉を投げかけた。路上チケット販売をした仲だったので実感があるのだろう。
「オリジナル歌詞を歌わなきゃ、ウチの専属ボーカル候補だったんだけどなぁ」
高畑は笑いながら付け足す。
「そうそう、ハルヒって自由に歌うの好きだったもんね。ライブ終わりとか、客が帰った後オリジナル歌詞で歌ってたもんな」
「俺的には、その方がかっこいいと思っていたんだよ」
晴人は、別にそう思ってはいなかった。ただ、彼等のセンターで歌う快感は半端ないのだが、カラオケの様に歌詞が出ないのが難点だ。ごまかすのも面白くないと思った晴人は、気分に任せてそこで思いついた言葉を載せていた。それがライブハウスのバンドメンバーの間では有名人となっており、出番のない永遠の控えボーカルと言われていたのを随分後で知る。それを聞いた堀本は激怒したと言う。何故、彼が激怒したかは未だにわからないのだが。
堀本勝はギターボーカルとして高校時代にスナッチに所属したメンバーだ。
中学時代は井上辰彦がメインボーカルを務めていたが、井上は高校受験に失敗して進学先が別れてしまったらしい。その後も校外でのライブ活動には参加していたのだが、ある日突然プロを目指すと言って高校を中退し、上京してしまった。
晴人にはその行動力は眩しかったのだが、堀本は『夢を追いかけて学校を辞める程上手かったか?』そう言っていた。
プロになるとはどういうものかはわからないのだが、ただ一つだけはわかる。才能が最低限必要であり、それはどこに居ても光り輝く灯の様に何百マイル離れようと多くの人が導かれる。そのような圧倒的な才能だ。
晴人が彼らをアップし続けたのは、彼等の灯光が何処まで届くのか見たかったから。それだけだ。
それとは反対に、堀本勝はリアリストであり多少ギターが出来て、声が良いので高校時代はそれなりに楽しめると計算してスナッチに所属したと当時の晴人は思っていた。基本は学校のテストや行事を優先し、模範的な軽音部の生徒として教師には違う人気があった。
達也が居なくなると、学外でのライブも堀本がメインボーカルとなる。
今いるメンバーには、
「他のバンドに比べたら悪くないのだが、井上程の魂を揺さぶる声程では無い」と、言われていた。しかし、晴人はその差をそれほど感じていなかった。彼の努力を一番知っていたのはライブ映像を撮り続けた晴人なのだ。ただ、それを誰一人受け入れなかったのは事実で、メンバー間のノイズになっていた。
そんな事を晴人は頭に思い浮かべていた時、ドアが再び開く。
恐らくは総司が呼んでくれたのだろう。直也だ。
「ウチには問題児がもう一人居たもんな」
高畑がにやけながら直也を見る。
「問題児? 俺のギターソロはスナッチで一番の武器だっただろうが」
アンプの繋がっていないギターを弾きながら入って来た。
「直也、来てくれたんだ」
「ウチのベイビー寝かしつけるのに時間かかってよ」
卒塔婆みたいな顔立ちに、ロン毛に鶏ガラ体型は今も変わっていない。普段着ではないではあろう革ジャンを着込み、真っ赤なエレキむき出しで店内を闊歩する彼は間違いなく変態だった。
「タカラララが呼んだの?」
総司が意味不明な名前を呼ぶが、誰も反応しない。それがスナッチの鉄則だ。
「晴人に一番会いたがっていたの、お前じゃんか」
高畑はそう言うとベースをかき鳴らす。
「くだらねぇ」
そう言いながら、ギターのコードをこそこそと繋ぎだす。晴人は、この行動を可愛いと思っていた。どんなギタリストにしても、ベーシストにしても、アンプに繋がらなければただの半端な楽器だ。そして、ジャックに繋ぐ、その必須の行動はかっこいい物ではない。
「俺は直也のギターソロ好きだったよ」
晴人はあえてソロの話を振る。この、彼のギターソロにより学祭や大会で優勝を逃していたと言われている。まあ、スナッチファンの間だけだ。個人的には、彼の即興は日に寄るが、晴人の心を揺さぶる物があったのは確かだと思う。そして、最初に好きになったのは、彼の暴走したソロ演奏がきっかけなのだが、この状況では付け足し難い。
「アンケートの結果、いつもあったじゃん?」
高畑が突っかかってくる。
「今、ハタタカもソロを練習しているでしょ?」
総司が間に入りながら思いがけない事を言い出す。
「そうなの?」
直也が笑顔になる。それは決して煽っている訳ではない。純粋に嬉しいのだ。音楽の感性が合う時の感覚は、一万ピースのパズルの最後のピースがハマった時と同じだ。全てのわだかまりが一枚の絵になる。その瞬間なのだ。
挑発的な表情で、ジャックに刺し込む。相変わらず可愛らしい仕草に、晴人は笑顔がこぼれた。
「即興はセンスだからよ」
そう言いながら、直也は即興でギターソロを始める。
ただ、どの曲のアレンジかわかったのか、総司はすぐさまその音にリズムを与え、それに高畑が厚みを与えた。素晴らしい音楽とは独りよがりでは成り立たない。それを再確認した晴人だったが、直也が例の如く暴れ出す。その荒れるコードや音程を高畑がそれを包み込み、総司が骨格を増強する。音楽は個性の衝突であり、無言の補正作業なのだ。すなわち、この音源は息をしている。晴人はマイクを探すも、流石に楽器店にそれは無い。それを見ていた総司が、スマホの音楽を大音量で流す。
それは卒業ライブの映像だった。
「あんときゃ大変だったよな」
手を止めた高畑がしみじみ言うと、
「一番の被害がハルヒだもん」
高畑は同じく手を止め、笑いながら付け足した。
「あんときゃ俺でもビビったからね」
直也が音源に合わせ引き始める。
「こねえよ堀本!」
控室で直也が声を荒げる。
「堀本が…インフルだって…」
この時、バチスタに人気投票で負けオオトリを逃していた。
その状況でボーカル不在と言うアクシデントがスナッチを追い詰める。
「晴人! いつものカラオケやっちゃいますか? 観客はいっぱいいるけど?」
総司が笑いながら晴人の肩を叩く。
高畑も笑顔で、
「いつも通り自由に歌えば、最高のステージになるさ! 例え声が出なくても!」そう言うと肩を抱いて来た。その行動も発言も今までには無かった事だ。
次いで直也が、
「ビビんじゃねえぞ、いつものライブハウスより真面目だったら殺す! 真面目に殺す」
これはもう意味不明だ。一番プレッシャーを感じているのは彼なのかもしれない。そう思えた。総司がもう一度目の前に立ち、
「おれ、ハルヒと行ったカラオケから好きでした」彼らしい言葉に、メンバー全員が吹き出し、それを見て晴人も吹っ切れた。
ここで止めればスナッチは出場できない。
皆はライブ用の衣装だったのだが、晴人は学ランを脱ぎ捨てシャツのボタンを適当に外しただけの恰好。これでは盛り上がらないのは確実だ。これまでに登場したチームは入学時よりかなりレベルを上げており、人気一位のバチスタに至ってはリハーサルの時から自分達よりもテクニックが上だと感じた程だった。その上でビジュアルまで良いのだ。革ジャンやブーツだけでなく、髪形まで意識して合わせている。
しかし、スナッチはメインボーカルが学生服だ。あり合わせ感が半端ない。
そうは言っても代案が無い以上やるしかないのだ。
晴人は最初、メンバーに誘われるがままステージ中央に立つ。そう、晴人は何処が中央かすらわからない。
ただ、逆光で観客席はまるで見えないのは助かった。それにより、幾分か緊張が緩和される。
マイクテストでは音は反響し、正しい音程を掴めない。
彼等はこんな所で演奏し、そして観客を熱狂させていたのかと思うと、晴人は怒りとは違う感情の渦に溺れる。
それは、混沌としたステージの空気を知らず、動画に納めなかった無知さへの憤りか。
それとも、緊急事態にもかかわらず、どこか高揚している自分に対しての蔑む思いか。
あるいは、最高の舞台に立てなかった勝への哀れみか。
晴人の思考は迷走しており、最初の曲は歌詞通り歌うと決めた。
もう何度も聞いた曲であり、編集も行っていたので問題はない。
晴人の歌いだしを聞いたメンバーの空気が変わる。
それは安堵なのか、それとも哀れみか?
今日は直也も大人しく、いつも乱れる総司も最高のパフォーマンスを見せていた。
メロディーラインも美しく、観客も惹きつけられている。
それにもかかわらず、晴人のわだかまりは高まり続けた。
これがスナッチなのか?
気を使われている…。
誰に?
メンバーに!
突然のヘルプ、晴人ごめんな…みたいな?
2年以上スナッチを撮り続けてきた俺に対して?
大丈夫、俺たちがサポートするから。今までありがとう。
そんな音楽だった。
パソコンで、イヤホン越しに聴いた音。
母親と二人で乗った電車の中で聴いた曲。
テレビから流れるメロディー。
晴人は吐き気がした。
このステージを誰よりも大切にしていたメンバーが、自分を気遣い丁寧に合わせに来ている。
裏切られたと思った。
いつも暴れる直也が借りてきた猫よりもおとなしい事に。
そう思うと、二曲目を始める前に晴人は自然に振り向いた。
メンバーに向かい、マイクを外して言葉を放つ。
「これがスナッチ? 広報担当なめんじゃねぇ! 今の俺にはロックしか縋る物が無くて…それに色を、重さを、破壊力を見せつけた責任を果たしやがれ! 頼むから俺に、スナッチの音楽を見せつけてくれよ」
その一言を言い切り、晴人はいきなり次の曲を始める。
「いつものやつで」
それは、予定にはなかった曲だが、ライブハウスの余り時間で良く歌わせてくれたベタベタのロックだ。バンドマンはこの手の楽曲をコピーする事を嫌うのだが、晴人にはこの選択肢しかなかった。初めて総司と行ったカラオケで熱唱した曲。
歌詞は画面に流れていたが、フル無視して歌い切った歌。
観客は最初の歌詞を期待しているのはわかるが、それは無い。
晴人だから。
バンド練習の時、常に楽しませてくれたこの歌。
ラップだとか、替え歌だとかよく言われたけれど、それしかないは最強だ。
他の事なんて考えなくていいのだから。
晴人の気持ちは異常なまでに落ち着いていた。
「このステージに全てを置いて行く」
そう言って、晴人がようやく舞台中央で振り向いた。
不満だらけ極寒の地は
腐れ縁も無く丸腰だぜ
どうしょうもない両親抱えた罪は
キリストやブッダにもぶちぎれるぜ
無難な青春送るガキには
何言っても響くわけないね
殺人、強盗、凶悪犯罪、動画と一緒でしょ?
スマホに並んだコンテンツですら
つまんねぇくだらねぇ言っててさ
結局自分がどれ程の価値だか
見失ってんのわかってんでしょ?
くだらない人生選んでるくせに
責任転嫁かっこわるくない?
社会や労働くだらないなんて
誰でも言えちゃうね
自分はいつも、滑稽、狡猾、打算に塗れて生きていて
ガキ臭い理論は破綻しているが、何一つ気にしちゃいないね
大人のふりして見掛け倒しで中身なんか何もなく
自分の人生ひっくり返しても
くだらねぇガラクタにまみれてる
ずーとロックなんかなんてやる奴はダメだよ
未来の為だとか都合の良い理由つけてさ
やりたい事も続けたい事もない癖に
癪に障る言い方だけが上手になってさ
それが誰の得になってんのか考えた事ある?
気持ちよく他人を否定して好き勝手言いうのやめたら?
くだらない事吐く為に口使うくらいなら
音にのって、ロックでもしちゃいなよ
誰かの期待に乗っかってんのは人生気楽になるのかねぇ
価値観のズレ期待値のズレそんなの気にしちゃってんねぇ
あんたさぁどうするの?
ごちゃごちゃうるせえ
そんなもん知るか
この先大人になるとかそんなもん
くだんねぇつまんねぇ気にしてもねぇ
いつもの日常なんてもんないし
てめえが勝手に決めんじゃねぇ
焚きつける様に、言葉吐く癖に
ノープラン、ノーリスク、ノーマネー
行先不明、人生の道は、行き止まり
振り向いて、歩き直し
晴人が歌い切ると、会場が崩れる程の足踏みを起こし講演は一時中断した。
動画サイトに投稿されたその時の動画は今も再生され続けている。
それがスナッチ最大のコンテンツになっていた。
「あの時の動画、足踏みの振動でカメラが倒れたんだっけ」
直也が熱く語るが、晴人は
「ああ、あれね。実は別撮りの動画を探し出して、音声をその時のライブに載せた」
「狡猾!打算的」
高畑が笑いながら突っ込む。その意味が解らなかった総司が聞き直す。
「なんで?なにが打算的?」
何度も説明させられると、晴人は途端に恥ずかしくなる。
「その方がかっこいいと思ったから、わざと倒した画像に変えたの。直也も熱く語ってたでしょ?」
「へぇ、あれ後付けだったんだ」
総司がようやく理解したようだったが、今度は直也がそこに疑問を持つ。
「いつ撮り直ししたの?」
「学際の後の、写真を別撮りした日」
すると、高畑がそれに被せるように聞いて来る。
「どうやってカメラ倒したの?あの日は足踏みなんてないじゃん」
すると、晴人は笑いながら答えた。
「そもそも足踏みでカメラの三脚が倒れる訳ないじゃん?手で動かしたに決まっているじゃんか。それ以前に、何度か試行錯誤して動かし方を考えたんだよ?ていうか、発案者は勝な」
「まさる?」
この瞬間、総司、高畑、直也、彼等の感覚がはっきりと伝わって来た。彼らの中ではスナッチのボーカルはずっと井上辰彦なのだ。
高校受験に失敗し、途中で抜けたにもかかわらず、彼が戻ってくると信じている。いや、戻ってくると思いたいのだろう。その事に関して、はっきりと言いたい事が晴人にはあった。
「ちょっとお前らさ、堀本勝の事軽く見てない? あいつはさ、確かに俺みたいな奴にまでライバル視してたよ?バンドの空気とか、俺には関係ないとか言いながら無視してたよ? それはわかる。非常に不愉快な奴だった。けどね、アイツはチケットの手売りどころか俺の動画配信まで手伝って、スナッチがあたかも人気バンドなんじゃないかと思わせるくらいになる程、構成や画像編集をやってたんだよ!ライブハウスで揉めた時には必ず真っ先に矢面に立ってさ、皆の愚痴を聞いたり足りない機材とか中古で安く探してきたのは奴だから」そこまで言うと、晴人は不思議と涙目になっていた。
あれ程スナッチを支えた彼を、名前ではなく苗字で呼ぶ他人行儀な態度や、現スナッチのメンバーが高畑だけという事を、イナオとソウジを抜いたメンバーと評した総司。どれをとっても晴人には耐えがたい行為だった。
「晴人、間違っている。堀本勝は、現スナッチのギターボーカルで、歳のせいにして引退した総司と直也を根気よく説得し、激務で心が折れそうなこの高畑をずっと励まし、突然消えた晴人の広報担当も引継ぎ、ライブのイベントも作り、子供達の音楽教室までNPO法人で立ち上げ、コイツ政治家にでも立候補する気なのかと思っている人物なんだぞ?」
直也が晴人を諭す。
「そんで、今メールが来たが、晴人の声が聞きたいから木に縛り付けてでも捕まえろって書いて来る変態だ」
高畑がそれに補足した。
「俺の店が潰れない理由も、あいつが学校やら幼稚園やらに卸す楽器の業者に推薦してくれたのが大きい。だって考えてもみろ、こんな場末の楽器店なんて売れる訳ないじゃん?駅前の好立地とか羨ましいけれど、あいつ曰く『この不便な位置にある事が良い!学校帰りの子供が、このショーケースを覗き込んでいるんだよ。ここの伽藍堂ではそれに直に触れることもできる。それがどれほど素晴らしい事か総司にはわかるだろ?』そう言って仕事を回してくるんだよ」
想像以上に活躍する堀本勝に晴人は少々気後れした。
そうだったのか…。
勝手にくだらない想像をしていたのは自分だけだったのか…。もしかすると、彼等が名字で呼んでいたのは尊敬の念からかもしれない。
そう思うと今までの熱い語りが唐突に恥ずかしく思えた。それはメンバーも同じで、気まずい空気が数分流れる。
「晴人!まだ居るか?」
ドアを激しく開ける音と共に駆けこんできたのはその人、堀本勝だった。
あの時から変わらぬ短髪だったが、銀縁眼鏡をかけ、当時よりも痩せて見える。
「懐かしいね、勝」
そう言いながら、晴人は深く握手した手を引き寄せ勝を抱きしめた。
「おい、びっくりするから止めろ」
勝の、思いの外冷静な口調に我に返る。そう言えばこういう人間だったな。その部分も含め愛すべきメンバーだと再認識した。
「この楽器屋、まだ続ける気か?儲からないだろう?」
いつもの嫌みが非常にチープに聞こえ、メンバー全員笑い出す。
「お前が総司に言った事も、やった事もバレてるんだからな。その、クソダサいやり方スナッチらしくていいじゃん」
高畑が片手で拝み謝る。
「まあそういうこって、俺らもスナッチに復活するが…晴人、お前もどう?」
直也が指をさして確認するが、その視線を正面から受け止められない。
残された時間はどれほどあるのか、その後の人生がどう転ぶのか、自分にもわからないのだ。
それだけでは無い。あの時の『全てを置いて行った』のは晴人だけだったのだ。
今では自身の心に残っていた青黒い炎は無くなり、歌詞に何の気持ちも乗らない。当時晴人が歌っていた理由はただ一つ、心から漏れ出る言葉を音楽に乗せ、外部に放出していただけなのだ。
自分は彼等とは違う。音楽における向き合い方や、思い入れ。それらが欠落した状態にもかかわらず、スナッチのメンバーとして受け入れられていた事実。
他のメンバーはこうして毎週集まり、こうやって思い出に浸っていくのだろう。案外それはある種の答えなのではないか、晴人にはそう思えた。それがスナッチのメンバーでなくとも。
ただ、自分はその場所に生きてはいけない。それだけの価値が無く、その資格も無かった。
「ありがとう。仕事を引退したらね…」
晴人はそう言うと、やんわり直也の差し出した手に手をかけ優しく下げる。
総司が晴人と直也の間に割って入る。
「いいって、ハルヒ!いつでもまた来いよ。カラオケ、散々させてやるから」
そう言って叩かれた肩は途方もなく熱く、そして重たいものになった。
仕事も無く、未来も無く、さまよう屍は何処へ収まるのだろうか。晴人は、それだけを気にしていた。
晴人はすぐにここを出ようとしたが、四人のかき鳴らす音楽が心地よく1時間以上聞いていた。そこにSUUNTOに設定していたアラームが鳴る。
「ごめん…じゃあ、もう行くね」
晴人の一言で音楽は止む。
「夜に飲みに出ようよ」
総司の一言に、晴人の決心が一瞬揺らぐ。もし、ここに高畑や直也、そして竜也まで駆け付けてくれなければ誘いに乗れたかもしれない。しかし、皆が集まり、昔より洗練された音に包まれ、プライベートでのつながりを知った瞬間、晴人は満足した。
酒が入り、思い出話を語り、バカ騒ぎをする。そんな経験がほとんどなかった晴人だが、楽しい時間は容易に想像できた。そして、彼等に話したい事も山ほどある。
ただ、それは過去と向き合うのではない。そんな幸せな時間を無邪気に送れる程、晴人は善良な人間では無くなっていた。
「ごめん、先約があって」
そんな物はない。今日の様に突然現れ、答え合わせを行ったら次へ進む。その繰り返しなのだ。
「そっか、せっかく会えたのに…」
昔からクールに見えた高畑の一言が、やけに重く響いた。
皆が晴人との再会を喜び、別れを惜しんでいるのだ。それだけで十分だった。
この旅はここが終着点ではない。もっと先に。もっと奥にある。
「じゃあ、またいつか…」
自分の置かれている状況を噛みしめながら、軽快な音で満たされた伽藍堂を晴人は振り向きもせずに後にした。
「ハルヒ!これ!」
少し進んだところで総司が後ろから走って来た。
「なに?」
「忘れ物だよ!よく機材の裏とか、配線のチェックしていただろ?その時に使ってたライト!」
「あっ!無くしてたと思ってた!」
懐かしそうに白いライトを眺める。
「電池は入れ替えてある!なんたって、使わせてもらってたからな」
総司は豪快に笑う。
「じゃあ、あげるよ!俺、配線なんて金輪際する必要無いから」
晴人はライトを突き返そうとすると、総司はその両手を握る。
「また配線見に来てくれよ!お前が居ないとさ…つまんないんだよ」
「それじゃ、また来るよ」
晴人は笑顔で返事をする。
「スナッチがメジャーになったら、マネージャー兼ボーカルとして雇うから覚悟しとけ!」
晴人を両手で指さしてそう言い、踵を返して総司は伽藍堂に向かって駆けて行く。
店を出てしばらく経っても、晴人の耳に残った陽気な音楽は流れ続けている。いつまでも、いつまでも彼らの傍に居るような感覚に戸惑う。
晴人は、その余韻に浸りながら足元に視線を向け歩く。駅に到着すると、晴人は不思議な感覚に陥る。伽藍堂に辿り着くまでに歩いた時間より、駅に帰りつく時間の方が思いの外早く感じたのだ。その時間間隔が少々気になり、SUUNTOが示す時間を確認したのだが、現在の時刻は十五時。店を出てから二十分ほどであり、行き返りの時間はさほどの誤差は無い。次の目的地の事を考えると、これ以上滞在するわけにはいかなかった。
晴人が駅舎に入るタイミングで、不意に道路を振り返る。そこには何も言わないスナッチのメンバーが笑顔で見送っていた。
目を疑い、もう一度注意深く見るとそこには誰も居らず、ただ大型バスが通り過ぎている所だった。その広告に映る話題のバンドの写真が、彼等に見えたのかもしれない。
晴人は少々落胆した気分で改札を抜け、表示板を確認しながらホームへと歩みを進める。単純そうに見えた駅舎内は改築により少々複雑になっており、十分な時間の余裕は瞬時に食いつくされた。
狙った時刻の電車は既に到着時刻になっており、ゲート付近に近づくと同時に電車が滑り込んでくるのが見える。
この旅は、少々慌ただしいので一本遅らせようか…。
そう思いベンチに座ろうと見てみると、荷物が山のように置かれているか、数名の若者に占拠されており、この不快な雰囲気から離れたいと言う思いから渋々乗り込む決意を固めた。
乗り込んだ車両内は割と空いており、自由に座席を選ぶ事が出来たため、晴人は四人掛けシートの窓際にある席に着く。
そして、晴人は窓の外に流れ去る景色を見ながら、この街を後にする前の高校最後の数か月間を懐かしく思い出す。
当時晴人が通っていた高校は、それほど偏差値が高くない。いや、正直偏差値は低い方だと感じていた。したがって、大学進学を希望する生徒は学校側からかなり重宝されていた。
ただ、学校の方針で成績上位の学生は、自分の意志よりも高校の方針を優先させられるのだ。
晴人の本心で言えば、その状況は満更でもない。高校側が提示してきた大学は、和馬が入学する大学とある程度関係があり、レベルも低くない。さらに言えば、そこまで距離が無い分高校の友人と会えるのではないか、そんな期待すらあった。
それだけでは無い。この時の晴人は、和馬に大きく離されたくないと言う気持ちも強かったと言える。変な私立に入るより、近くにあった国立大学に入ったと言いたかったのだ。
決心がついた晴人は、好きだった音楽も聴かなくなり、自由な時間は出来るだけ勉強に充てた。勿論友人との会話は自然と勉強関連となり、スナッチのメンバーとはほとんど話していない。
短期決戦の場合、晴人は強いのだ。
そのおかげで、共通テストで臨む以上の結果を得た。ただ、それは和馬の足元にも及ばないレベルなのだが…。
晴れて甲信越にある大学の学生になった晴人は、母親に一人暮らしが出来るか相談する。いや、当初から話には出していたので、ただの確認作業に思っていた。
それは、ごくありふれたシチュエーションなのだが、晴人の母親である陽子の反応は全く想像も出来ないものだった。
「それ、いいね。私も付いて行こうかな?」
だった。
どこの大学生が母親同伴で下宿先を探すだろうか?
答えはノーだ。いや、不可能一択だ。
「そんなかっこ悪い事出来ないし、第一就職はどうするの?学費出してくれるんじゃなかったの?」
ようやく一人で生活のほとんどを決められる時が来たと思っていたのだが、それが台無しになりそうになり少々強めに反発してしまった。
「晴人がそんなに言うなら良いよ……じゃあ、この土地に一人で暮らすのは不安だから実家のある街に帰ろうかな」
今度は実家に帰ると言い出す。確かに一人暮らしの不安はわかるのだが、こんな時期に転居の提案をする母親の考え方は到底理解できなかった。
ただ、親一人子一人の母子家庭では母親の意見が常に最優先される。
結果的には、母親はあれほど仲の良かった秋田の親友を捨て、実家に一時帰郷する道を選んだ。
この瞬間から、晴人の実質的な故郷は母方の祖母だけが住む馴染みのない土地となった。
そう、秋田で出来た友人全てと気軽に会う機会も失ったのだ。
今まで過去を捨ててきた晴人にとって、それほど大きな出来事ではないという認識だったのだが、転居の時はさすがに不安の方が勝った。それもそのはずだ。帰るべき場所が見当たらない人生をいつまで過ごせば良いのか…。
何とも言えない思い出は、大学の入学式まで続く。
晴人はそんなわだかまりを払拭するように、大学で一番多忙なサークルを選んだ。そう、実行委員だ。
文化祭やイベントだけを担うのではなく、学外のイベントにも駆り出される。それにアルバイトを重ねる事により、晴人の自由時間はほぼ消失した。
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