宮城にて

 滑り込んだ目的地の駅は既に日が落ちかけていたが、昔と違い併設する店舗の明かりのおかげで不安な感覚は薄い。

「この時間にいきなり尋ねる訳にもいかないよな…」

 改札を出て案内所の近くを通ると、近辺のホテルなどが載ったチラシを発見した。中を見ずに、そのままズボンのポケットに差し込む。

 後で電話を掛けるか、直接行って宿泊できるか聞いてみよう。それよりも、まずは腹ごしらえだ。

 晴人は、最初はどこか泊まれるような場所を探し、泊まる場所のある安心感を優先しようとしたものの、数日ぶりに迎えた空腹感はそれよりも勝り、とりあえず居酒屋に向かうために駅構内から足を踏み出す。

 晴人が住んでいた時の記憶とは違い、駅前は清潔感のある繁華街に変わっており、馴染みのあった大きなビルすら消えていた。それは昔を憂う瞬間でもあるのだが、同時に魅力的な場所へと変貌したともいえる。

 居酒屋らしき飲食店は数分と経たず目に飛び込んで来た。

「海鮮系か…」

 歩道へ出された手書き看板を見ながら呟いていると、後ろから妙にテンションの高いサラリーマン風の集団がその店へと詰めかけ、晴人は人の波に巻き込まれる。

「この店っすよ!社長」

「ここ、本当に旨いのか?こちとら奥さんの手料理キャンセルして来たんだから、それよりも美味しくなかったら、あれだな!島流し」

「いつの時代っすか」

 笑いながら通り過ぎる、社長と呼ばれる男性を見た時…いや、声を聴いた時からなんとなくそうではないかと思っていた。

「雄介?」

 一瞬遅れて男性が振り返る。

「ん?はる…ひと君?松尾晴人!」

「社長…知り合いですか?」

 雄介があまりに大きな声を出したので、男女数名の社員が一瞬で振り向いた。

「ああああ!知り合いってもんじゃない!師匠だよ!俺の!いつも話してる!マジで?いつ来た?」

 話ながらの身振り手振りが大きく、陰キャの極みだった頃の面影は無い。しかし、その声と石膏像のような顔つきは間違いなく雄介だ。

「さっき、着いたばかりで…」

 この雰囲気、気まずい…。もしこの集団と一緒に行動するとなったら、絶対聞かれたくない事まで聞かれそうな気がする。そう思い、他の店に行くふりをしようと、頭の中で断る理由を考え出した瞬間だった。

「すまん!みんな!今日は本当に申し訳ない!」

 そう言いながら数万円を社員に両手で渡し、深々と頭を下げた。

「またっすか?土曜日ならって言ってたのに…」

「ほっんと申し訳ない!」

「皆で飲んだらいいじゃないですか?」

 後方に居た女子社員が、晴人を居酒屋に連れて行こうとすると、雄介はその手をやんわりと外し両手で拝む。

「晴人君がもし来たら、連れて行きたいって所があったんだ!頼む!この通りだから」

「まるで遠距離の彼女に会った彼氏みたい」

 そう言って社員は諦め顔でお店に入って行く。

「行かなくてよかったのかよ?」

 晴人は巻き込まれなかった事には安心したが、そもそもこれ程までに雄介に歓迎されるとは思っても見なかった。

「ちょっと一本電話だけさせてくれ」

 そう言ってスマホを取り出すと小声で誰かと話し始めた。

「だから、違うって!あれ、ある?…そうそうそう!…」

 満面の笑みをした雄介の横顔を少し羨ましく思うも、晴人はまるで自分自身に起きた幸せな時間に感じていた。願わくば、このままずっとこの時間を味わっていたい。そう心から思っていた。

 振り向いた雄介は、こちらが恥ずかしくなるほどに興奮した声で、

「大丈夫!最高のおもてなし出来るから」

 そう、力強く答えた。

「おもてなしなんて要らないよ。明日仕事だし」

「えっ?日曜日も仕事かよ!それはすまない!俺、今でも自分の事ばかりだな…」

 平謝りした雄介に、少し後ろめたさを感じた。

 日曜日に仕事をする事は晴人にとって珍しくない。むしろ、忙しさの基準だったくらいだ。長い時間一緒に居たくないのを演出する為の口実が、彼の心を傷つけていないか晴人は心配した。

「大丈夫、俺も雄介に会えた事は嬉しい。むしろ、ワンチャン会えるかもって思ったからうろついていたんだし」

「ホントか!マジかっけー。俺なら会えないかもって思って、そんな行動出来ない。むしろ、綿密に連絡を取っていても不安になるタイプだから」

 そう言って、雄介は首の後ろを掻く。

 自信が無くなると出る、この辺りの所作は中学生の頃からまるで変っていない。

「無計画をかっけーとか言うな。しかし雄介も相変わらず叩き壊すまで石橋をたたくねぇ」

 そう言って雄介の肩を軽く叩いた。

「じゃあ行こうか」

 雄介は通りのタクシーを呼び止め、目的地を告げる。

 後部座席に乗り込むと、開口一番雄介は聞いて来た。

「そういや、どんな仕事でここに来た?」

 当たり前と言えば当たり前だ。

 翌日仕事だと告げれば誰だって気になる。晴人は瞬間的に数週間前の記憶を辿った。

「工作機械を販売する為に来たんだよ。ほら、工場とかプラントって日曜日止まるじゃん?その止まっている間に位置の計測とかすると製造ラインの邪魔にならないからね」

「そうなんだ!日曜日出勤が必須なんだなぁ」

 雄介は少し寂しそうな顔をしている。おそらく、朝まで飲み明かそうとか考えていたのではないかと想像すると、いたたまれない気持ちになるのだが、晴人としてそれほど長居出来ない状況なのも事実だ。自分に残された時間はそれほど長くない。その自覚からどうしても嘘をつき続ける必要がある。

 それに、自分が幸せになる権利などとうに捨てたのだ。

「わかった、じゃあホテルには何時くらいに帰れれば良い?」

 具体的な時間を言われ、晴人は少し考え込む。実際に無い予定など、今まで考えたことが無いのだ。

 急いで過去のメールを調べたかったが、手元にはスマホが無い。それを逆手に取る。

「実際、それほど朝早く無いんだけど、スマホをホテルに置いて来てしまって…約束の時間は十一時くらいなんだよね…ただ、クライアントからの連絡が入るかもしれないし…」

「マジか!今から引き返すか?」

 雄介は真剣な眼差しで晴人を覗き込んだ。

「いや、今日中に帰れば問題ないし…なんなら、朝一でも大丈夫かも…」

「晴人…俺に気を使ってないか?」

 晴人は申し訳なさでいっぱいになり、自分の手首を軽く握るとそこには普段しない腕時計が巻かれていた。和馬には会う事すらできなかった。それはこの先一生かかっても…だ。この先、もし雄介に会えなくなった時…いや、会えなくなるのがわかっていて、それを最後まで後悔したくない。そう思い直し、強く否定する事に決めた。

「そんな訳ないじゃんか!俺は…お前に会えるかもって思いながらうろついていたんだぞ?失敗したら…雇ってくれればいいじゃんか」

「それ良いね!晴人が居れば心強いよ!だって、俺の師匠だからね」

「その、師匠ってのどういう意味?」

「覚えてないの?」

 雄介は口をとがらせながら説明しようとした矢先、

「あの、着きましたが…もう少しどこか回りましょうか?」

 タクシーの運転手は気を回してきた。

「続きは後な」

 そう言って雄介は料金を払いタクシーから降りた。

 晴人も続いて降りたのだが、どうも住宅地の真ん中あたりだ。居酒屋など見当たらなかった。昔テレビで見た事のある、自宅をレストランにしている隠れ家的な所も想像するが、要予約の筈で飛び込みなど聞いた事もない。

「雄介…どこに向かって…」

 そう言いかけた時、雄介は不意に門を開けた。

 表札は『山本』と書かれており、雄介の家で間違いない。間違いないとは思うのだが…想像よりもでかい。社長にもなればこんな豪邸に住めるのか…そう思いながら芝生に覆われた庭を、雄介の後に続いて進む。

 ポーチに辿り着いた雄介は、振り向き様に晴人に告げる。

「この家も、俺の嫁も、会社も全て晴人のおかげなんだ…だから師匠なんだよ。それに、朝帰ればいいのなら、泊まって行って欲しい」

 晴人は全く身に覚えのない謝意に困惑する。

「どういう意味?」

 師匠と呼ばれる所以や、自分に会った時の異常な高揚感の理由を聞くが、目の前に居る雄介とはどうも会話が嚙み合わない。

 そんな晴人にお構いなしに、雄介は玄関を開けドアを押さえて待つ。

「さあ、さあ、入って!」

 広い玄関に通されると、奥さんがエプロン姿で待っていた。

「嫁の夏樹!最高の嫁だ」

 にやけながら紹介している雄介を晴人は直視できない。彼は恥ずかしさの無い世界で生きている。それだけは理解できた。

「もう、晴人さんが困っているでしょ?」

 そう言いながらも、まんざらではない笑顔で迎える雄介の奥さんは、茶色がかった緩いウエーブの髪が胸元辺りまで伸びている。太めの眉に切れ長の目をした東洋的な顔立ちで、自分がどう思われており、どの角度が一番奇麗に見えるのかを熟知しているに違いない。

「私の作る料理が、晴人さんのご期待に添えるものかわかりませんが、腕にはそこそこ自信がありますので楽しんでください」

 夏樹さんは、そう言うと微笑みながら家の中に案内してくれた。

「いきなり来たのですから、例え出て来た料理が永谷園のお茶漬けであっても満足ですよ」

 夏樹さんにそう告げると、後ろから

「マジで美味いんだから!その辺りの居酒屋とか行きたく無くなるくらいに」

 雄介は会話を遮りそう答えた。

 その発言には全く悪い気はしない。むしろ、その幸せそうな雰囲気が心地よかった。

「料理にうるさいお前が言うなら確かだ」

 晴人はそう言って、二人で笑い合いながらダイニングに入る。晴人が後ろ手でドアを閉めている最中に一枚のチラシを落とす。それは後ろのポケットに入れていた、ホテルの案内だった。

「あらあら落ちましたよ」

 夏樹さんはそう言いながら自然な感じで後ろまで来ると、流れるような所作でチラシを拾う。一瞬、凝視した後に晴人に手渡す。

「ありがとうございます」

 晴人はチラシを受け取ると、持っていたリュックに急いでチラシをしまい込んだ。

「先に座っといて。鞄置いて来る」

 そう言うと、雄介は鞄を置きにダイニングの奥へと小走りで走り去る。

「その…ビジネスホテルに泊まるんですか?」

 一瞬の間を置いて、夏樹さんはにこやかに聞いて来た。

 すると、既に鞄を片付けた雄介が入ってくる。

「そうそう、今日中にそこに帰れれば良いみたいだから…明日の朝一でも良いらしいが…」

 冷蔵庫からビールを取り出しながら、雄介は夏樹さんに晴人の予定を伝えた。

「…ここに泊まってってください。せっかく来られたんだし…」

 晴人は、雄介に泊まればいいと言われた時は話半分で聞いていたが、実際には宿泊場所が決まっていないのだからこの誘いは正直ありがたい。

 しかし突然の来訪を女性は良い顔しないものだと、経験上知っていたが夏樹さんはそうではないらしい。

「えっ? 大丈夫なんですか?」

 だからこそ、夏樹さんからの提案には随分驚かされた。

「そうだよ! 泊ってけよ! じゃあ祝杯のビール!」

 雄介はロング缶の底を晴人に向ける。

「ありがとう」

 晴人が受け取ると、夏樹さんが「グラス使いますか?」そう言って食器棚を開けようとする。

「このままが美味しいんです」

 晴人はプルタブを少々開け、炭酸を飛ばす。

「じゃあ、ホルダーだけでも使ってください」

 夏樹さんは晴人と雄介に缶ホルダーを差し出す。確かに手は冷たくならないし、第一飲みやすい。この気配りに晴人は感心した。

 細かい事を気にしないタイプであれば、「泊まりましょうよ」と言った事も予想出来たのだが、外見や整理された室内を見ても到底そのようなタイプではない。本心は嫌なのではないだろうかと、夏樹さんの顔色を覗うも終始笑顔が崩れなかった。

「ウチにはやんちゃ坊主も居ますが、それで良ければ…大歓迎ですよ」

 どう見積もってもやんちゃではなさそうな子供が、雄介の足にしがみ付いているのに気が付く。

「御挨拶は?」

 ビールを片手にしゃがんだ雄介が、今まで聞いた事の無い優しい声で子供に話しかける。

「こん…ばん…は…やまもと…はるきです」

「晴樹?」

 晴人は耳を疑う。

「そう、晴人君から一文字、夏樹から一文字づつ貰って晴樹!いい名前でしょ?夏樹、晴樹…雄介って、俺だけ一文字も入って無いやん」

 そう言いながら雄介は大笑いした。

 笑顔に満ちた家族。

 一生懸命挨拶をする息子。

 それを応援する両親。

 晴樹くんの挨拶を聞き取ろうと同じ目線になる自分。

 この瞬間、自分にもこんな時期があったのだと過去を懐かしく思った。

 少なくとも、これくらいの時期には…。

「さあさあ、皆ご飯にしますよ」

 挨拶を済ませた晴樹君を子供用の席に座らせると、夏樹さんは料理を並べ始める。

 スモークサーモンのカルパッチョ。

 砂肝のアヒージョ。

 ペンネのアラビアータ。

 赤魚のアクアパッツア。

「こんな短時間に、この料理は凄い…」

 晴人は素直に感動した。

「スモークサーモンも、砂肝も、赤魚も全て下処理して冷凍しているので、急な来客時はほぼこのメニューでーす」

 そうは言うものの、見た目から既に美味しさを連想させる美しい色どりだ。

「ワインはこの白ワインで良い?」

 既にビールを飲み終えた雄介が手にしているボトルは、見た目から高価なワインだという事がわかる。普段、スクリューキャップのワインしか飲んでいなかった晴人は、久しぶりにコルクの香りをかいだ。

 一口含むと、花の香りが鼻に抜ける程薫り高く、舌の上で液体はフッと消える。食中に飲むようなワインでは無かったのだが、香草の香りと混じり合い鼻腔が花畑へと変わるのも良い。

 久しぶりの豪華な食事を終えると、雄介は眠そうな晴樹をお風呂へ連れて行く。

 それを確認した夏樹さんは、食器を下げ始める。

 晴人は和やかな空気を崩すまいと張っていた気が抜け、ダイニング横にあるソファーに深く腰を下ろした。

「…晴人さん…」

 それを見た夏樹さんが、今までの印象とはまるで違うトーンで声をかけてきた。

「そのホテル泊まる予定だったの?」

 それはまるで尋問の様だった。

 勿論、晴人は否定するわけにもいかず、

「はい…」

 とだけ返すのが精いっぱいだった。

「そのホテル…私の知り合いがオープニングスタッフで雇われているのだけれども、実際のオープンは来月からなの…」

 衝撃だった。まさか中身もよく分からずに手にしたホテルのチラシは、スタッフ募集のチラシであり、実際の宿泊案内ではなかったのだ。

「あれっじゃあチラシを間違えたのかな?」

 焦る晴人は、鞄を探るが他のチラシなど手にしていない。それどころか、近辺にどんなホテルがあるのかすら調べる事が出来なかった。

「それにね、外食しようと外へ出る人間が、スマホを置いて外へ出るなんてありえない…だから、理由だけでも知りたくて…」

 重い空気が流れる。

「すみません。それは言えませんが、雄介に会いたかったのは事実です。もう帰った方が良いようですね…」

 そう言いながら、手にしたリュックを背負う。

 すると、夏樹さんは予想外にリュックを掴み、晴人に真剣な眼差しを向ける。

「主人は貴方に会うのを誰よりも…何よりも楽しみにしていました。だから…我儘だとは思いますが…朝まで、朝までは居てあげてください」

 懇願するような瞳に、晴人の心が揺さぶられたのは否定できない。それ以上に、何故彼女はこんな怪しい自分を引き留めるのか腑に落ちなかった。

「でも、早朝には家を出て欲しいの」

「わかっています。こんなに怪しい人が晴樹君の近くに居るべきではないから」

 言いかけた言葉を制するように夏樹さんは言葉を被せる。

「朝の遅い時間まで居れば、あの人は必ず貴方をホテルまで送り届けます。それでは困るでしょ。理由はそれだけです」

 そうは言われても、晴人には全く理解できない。どう考えてもスマホすら持たない、しかもこの時間になっても宿泊する場所すら決まっていない。そんな人間を雄介が信頼するならばまだしも、今日初めて会った夏樹さんが何故そこまで固執するのか…。

 それを見越してか、不意に彼女の艶っぽい唇が震えながら開く。

「実は…毎年送られてきた貴方からの手紙を…」

「夏樹ぃ晴樹が出たから拭いてあげてぇ」

 風呂場の方から雄介の声が聞こえてきた。

「はぁい」

 夏樹さんは何事も無かったかの如く返事をし、その場を後にした。そこに残った香りの余韻と、彼女が手を置いていたソファーの温もりだけが、あの奇妙な時間が現実であった痕跡だった。

 夏樹さんは眠そうな晴樹君を連れて二階へと上がって行く。晴樹君は名残惜しそうにこちらに手を振っていた。それを見ていた雄介は、懐かしそうに語る。

「相変わらず晴人は人見知りに人気だな…」

 コニャックナポレオンを片手に、雄介は遠い目をしていた。

 これが素面の時の雄介ならば絵になるのだが、アルコールの影響で赤ら顔になっていた為に、真っ赤に染まったモアイにしか見えない。しかし、それはデメリットばかりでは無かった。周りの人間に、要らぬプレッシャーを感じさせない空気感を醸し出すには十分だ。おそらく、仏陀やキリストなどはこのような相手をリラックスさせる能力が途轍もなく抜きん出ていたのではないかと思う。警戒心を取り去れば、人の言葉は心に直接響く。昔の彼には無かった能力だ。

「本気で泊ってってよ」

「今更帰れるか」

 雄介の言葉に被せるように、晴人は意思表示を行う。

 今は、夏樹さんは晴樹君を寝かしつける為に寝室。

 ようやく訪れたゆっくりと流れる時間。

 飴色の空気がダークブラウンで統一したリビングを覆う。

 ノスタルジックを感じるのはそれだけで十分だ。

 その空間に沈み込むように、晴人は二人の思い出話を語り出す。

「何年ぶりだっけ?」

「もう師匠とは…」

「それ、止めてくれよ」

 笑いながら晴人は片手で雄介を制す。

「だって…」

「中学ん時にはそんな呼び方してなかっただろ?」

「そうなんだが…」

 照れくさそうに雄介は強めにカールした頭の後頭部を掻く。この仕草は、考え事や恥ずかしい時に彼が良くやっていた仕草だ。

「じゃあ、晴人!晴人と最後に会ったのは…十五年くらい前じゃなかったかな?」

「そんな前だっけ?初めて雄介に会ったのって、中学の入学式だったよな?」

 雄介が作ってくれた、マッカランのハイボールを眺めながら過去を思い返す。

「そうそう!いきなり話しかけてきてびっくりしたよ。俺は元々陰キャだったから…今もか。同じ中学の人間が居るのか居ないのかすらわからない程には孤独だったなぁ…」

 晴人は転校初日を、入学式に調整してくれた父親の気遣いを思い返していた。



 不安で眠れなかった前日。

 晴人は、中学では自分のキャラクターをどうするかという事ばかり考えていた。

 前の小学校ではほとんど和馬と行動を共にしており、会話の内容は勉強やよくわからない科学の話が多く、ポジション的には秀才グループといえる。正直、和馬ほどそれ等の話題に興味があったわけではなかったのだが、クラスが自分に抱くイメージが心地よく、居心地はそれなりに良かった。

 しかし学年が進むにつれ、次第に難しくなる話題に息切れを感じていたのは事実だ。月日が経つにつれ、和馬の話を理解する事は難易度が高くなり、電子の動きなどの学術的な話題よりもその時流行ったゲームの話の方が余程興味があった。

 今回はゲームの話が出来る友人と過ごしたい。

 小学生からのイメージを一新する方針を決め、まだ見ぬ級友を想像すると、晴人はすぐに眠りに落ちた。



「晴人くんがそんなに緊張していたなんてわからなかったよ。俺なんて、そこまで頭も回らなくて、どの様な中学生活を送るかとか想像すらしていなかったからね。だから自己紹介は…ほんっとにボロボロだった。それなのに、晴人くんがその時話した内容で話を振ってくれて、ちょっと嬉しかったんだよね」

 雄介が笑いながらブランデーを煽る。

「そうなんだ。準備しない人間も居るんだ。雄介から見た俺って、あの時どう見えてた?正直知りたいかも?」

 晴人は今の話を聞いて、自身が中学時代にどう見られていたのか唐突に興味が湧き上がる。雄介から見えていた自分は、果たして師匠と呼ばれる程の人物だったのだろうか。



「山本君はどの部活にする?」

 いきなり話しかけられた山本雄介は、晴人からの質問に即答できなかった。

 理由としては至極簡単で、何処の部活にも入る予定がないためだ。別に塾が忙しい訳でもなく、身体が弱い訳でもない。この時の雄介は何かに所属するという感覚に、心の奥底で抵抗を感じていた。

「いや…まだ決め切れて無くて…」

 そうは言ったものの、入る気の無い部活動紹介をまともに見ていなかった為、どんな部活があるのかすらわからなかった。この中学では、一年生は入学後一週間程で所属する部活動を決めなくてはならない。もちろん、学校外の活動などに参加する極少数の生徒や、塾などを理由に帰宅部という選択肢もある。ただ、雄介は、そこまで頭が回るわけでもなく、家に帰ってハマっているゲームの続きがしたいといった願望がだけが思考を支配していた。晴人と会話している現時点でも、頭の片隅では次に何をするのが効率的か、脳内でゲームのシミュレーションしているくらいだ。

「この、プログラム研究部とか一緒に入らない?」

 唐突に、晴人は部活動紹介のプリントを見せてきた。

 確かに強制的に部活に入るのであれば、このようなパソコン関係の部活が一番興味ある。しかし、時間や場所を固定される窮屈さ。どこにでも湧いている、ただ一年早く産まれただけで、指図する権利があると勘違いした先輩と呼ばれるクリーチャー。雄介はそれ等全てに嫌悪感を持っており、何処にも入部する気にはなれなかった。

 ただ、即答で断れなかった理由としては、自分に話しかけてきた貴重な存在を、どうしても無下に扱えない。その気持ちの狭間で大きく揺れていた。

「いや、ゲームは好きなんだけど…プログラムは出来るかどうか…」

 雄介は後頭部をかきながら、当たり障りのない会話で結論を避ける。

「わかる!基礎が全く分からないのに、部活でプログラムが出来るようになる気がしないよね?それに、俺も雄介君と同じでゲームを作ってみたいんだよね。それなのにプログラムからスタートって正しいのかなぁ…」

 晴人は視線をチラシに落としたまま雄介の意見に同意した。

 ここに来てようやく雄介のギアが動き出す。思考の回転速度は遅いが、トルクには自信があった。

「最初だからこそ、基礎は専門の人に習いたいよね。それに、どこからスタートするかよりも、ゲームを作るという事はどういうことなのか、全体像が知りたい…」

 雄介の頭の中に、この回答が最初にあった訳ではない。脳内の片隅にある、小さな違和感を見つけ時間をかけて解析し言語化する。その過程が他人よりも時間がかかるので、即答する事が出来なかったのだ。晴人は自分の違和感を言語化するきっかけと、結論に至るまでの時間をくれたのだ。

 今まで付き合いのあった友人は、じれったくなり雄介の回答を急かすか、安っぽいレッテルを張り、くだらない分類をして悦に入っていた。

 しかし、晴人は違う。

 朝一で行った自己紹介の支離滅裂な自己PRにも拘わらず、ちゃんと聞いてくれていた。いや、話せていない部分まで脳内で補正し、伝えたい内容を確実に捉え、それをこちらに匂わす事無く話す事の出来る人物に出会えて雄介の心は熱くなっていた。

 今まで、どんなに自己紹介をしても辛うじて苗字を覚えてくれていれば御の字。名前まで聞いている人は皆無だった。まあ、山本と言う苗字なので、自己紹介は皆が飽きた頃。クラスが落ち着いている事すら少ない。まあ、晴人も最後の方だったので、暇つぶしに聞いていただけなのかもしれないのだが…。

「じゃあ、帰りにさぁ…」

 雄介は、家でゲームしようと晴人を誘いたかったが、スマホに向き合っている表情から声をかけるのを躊躇する。

 晴人の邪魔をしないように、自席の荷物をそっとリュックに片付け席を離れようとした瞬間、晴人が声をかけてきた。

「このプログラム教室の体験入学!今から一緒に行ってみない?」

 雄介は一瞬固まる。自分のくだらない願望を、晴人は初めて正面向き合って聞いていたのだ。

 そう、『将来の夢は、ゲームクリエイター』を。

 両親にも、当たり障りのない友人にも『そんな事出来るのは、一部の天才だけ』と、瞬時に否定され続けた夢。小学校の卒業文集でも『大手ゲーム会社に入りたい』と書いたのだが、自分自身でかき消した夢…。それを初日で、それも初めて肯定する人間が現れたのだ。

 雄介の返事は迷わなかった。

「それ、何処でやってる?」

 会場は駅前の商業ビル一階で、主催している会社は大手の出版社。イメージとして、学校で習うよりも信頼感はある。謳い文句にも、『パソコン初心者である事が、貴方をよりクリエイティブにする』だったのだ。

 この素人という状況がプラスになる。そう思うと、差し出されたスマホを晴人に返すのを忘れ、ずっと画面に魅入っていた。

「集中しているみたいだけど…あの…それ、一緒に行く?」

 晴人の言葉を聞くと、急いで差し出されたスマホを晴人に返す。勿論、画面に付いた自分の指紋をポケットティッシュで丁寧に拭いた後に…だ。

「絶対行きたい!本当に、僕なんか誘ってくれて大丈夫?」

 雄介はよくわからない謙遜をするが、断られた場合には一人で行く事などできない。こんな事を言っているにもかかわらず、断らないでくれ…そう強く願っていた。

「いやいや、一人で行くのも嫌だっただけだし、こちらこそありがたいよ」

 雄介が絶対に届かないと思っていた将来の夢が、突然目の前に現れる。いや、この小さな画面の奥底から、しっかりとこちらに向かい微笑んでいる様に感じた。

「そうと決まれば今から予約するけど、ダメだったら他も探そう」

 晴人が放つその言葉の数々は、前を歩いていると勘違いした大人達の遥か上を超えている。そう確信していた。確信していたからこそ、こんなつまらない質問が口をつく。

「けど、ゲーム会社って有名大学出身しか入れないって聞くけど…勉強の方が近道なんじゃないの?」

 その言葉を聞いた晴人は、鼻で笑うとそれまでのイメージからは想像できない理論を浴びせる。

「それ、多分だけど周りのゲーム会社に勤めた事の無い無責任な大人の言葉でしょ?漁師でもない人間が、漁船の操り方を少し聞いただけの知識で、自慢げに水産業とは何かについて語っているだけ。そんな言葉の何処に信憑性がある?完全に無価値!誰に言われたのかはわからないけれど、ゲーム会社の知識だってちゃんと調べもせずに、ネットに転がっている自分に都合が良い情報だけを切り取って、一つの理論として語っているのをわかっているはず。だって今、雄介はそんな言葉を信じていないから。信じているのならば、もっと勉強しているはずでしょ?」

「ゲームなんてしないでさ」

「ゲームなんてやらないでさ」

 何故かわからないが、雄介も晴人と同じような台詞が零れた。この質問は、雄介がずっと否定したかった、親から言われてきた理論だ。自分がずっと縛られていた理論を、この晴人と言う人間はいとも簡単に論理的に否定し、それまでどうしてよいか想像すらできなかった霧の中に漂う夢を、手の届きそうな現実に変えてしまう。それは今まで出会ってきたどんな人物よりも魅力的で、誰の言葉よりも心に深く突き刺さった。



「おいおい雄介。あの時に何気なく言った事を、まだ覚えていたんだ」

 晴人はにやける口元を隠し、恥ずかしさから雄介から視線を外す。

「衝撃だったんだ!親とか先生みたいな大人って、あの時の自分としては何もかもを知っている存在で、全ての答えは彼等の中には既にある。晴人が、その空想していた世界をいとも簡単に粉々にぶっ壊した。そのきっかけになった言葉を忘れる訳ないじゃないか。自分の頭の中で何回も繰り返して、その度に意味を考えて、数日を経てその言葉こそが自分の求めていた理なのだと理解した。嫌な事があっても、切れそうになっても、諦めそうになっても、この言葉が自分を奮い立たせてくれたんだ。誰に何を言われようと、本当に自分より知識があるから言っているのか?その発言に間違いは無いのか?この状況でも正しいのか?そう考える事で、進むべき道を他人の言動で外れる事無くここまで来れたんだ」

 両手を強く握りしめた雄介は、真っ直ぐこちらを見ている。おそらく、この賞賛をずっと俺に投げかけたかったのだろう。しかし、実際は受け取る人が違う。

 このような考え方をしていたのは偉大な親友である和馬であり、その才能を開花させたのは教頭先生なのだ。この時の事をはっきりと思い出せないが、今ならば何故否定しなかったか痛い程にわかる。穴だらけの一般論で武装した雄介に対して、自分とどれほど知識の差があるのか、手に入れた論理的な考え方の崇高さを感じさせたかった。ただ、それだけの事だ。中学時代の自分の言動は、分析する必要も無い。自己愛からくる虚勢だったはずだ。何故なら、今の自分にはその欠片も残っていないから。おそらく『じゃあ勉強しなきゃね』と、逃げていたと思うから。それに気が付いた瞬間、何故彼に会いたがったのか、自分自身の奥深くにある気持ちをなんとなく理解した。

 雄介は中学時代に出会った自分のせいで苦労しているのではないのか…。

 会社を興し、自分の夢を叶える。その、ドラマみたいな展開の奥底にある、自身の想像の中に存在する不遇の状況を確認したかった。

 いや、もしかすると、本心は彼が不遇の状況であって欲しかったかもしれない。

 だからこそ。

 だからこそ。

 今まで連絡先も交換しなかったのだ。

 そうでない場合、自身の境遇と比べてしまい本当に気が狂いそうだったから…。

「あれ、ししょ…晴人君酔ってる?眠いならもう寝る?」

 昔と変わらない雄介を見つめ、晴人は虚勢だけで言葉を繋ぐ。

「いや、懐かしくて浸ってた。それより、凄かったよね~そのプログラミング教室!」

 そう返すのがやっとだった。



 当たり前の事なのだが、二人は自分用のパソコンなど持っていなかった。そもそも、雄介がパソコンを使ったのは小学生時代のカリキュラム程度だ。『パソコン不要』の文言が無ければ行こうとも思わなかった。しかし、教室の前に立つとその考えが浅はかだという事に気が付く。

 書道教室に行くには筆と紙が必要だし、野球教室に行くにはバットとグローブは最低でも自分で用意する。その事を晴人に伝えようか迷ったのだが、意外にも晴人は全く違う考え方を語り出した。

「体験無料だよね。しかもパソコンも用意してくれるとか、これ程敷居を低くする理由はなんだろう?いきなりパソコンを買わされるとかかな?」

 えっ?雄介は声が出なかった。

 自分はこれまで常に相手に合わせるにはどうしたらいいかで判断し、思考方法も如何に周りに溶け込むにはどうすればよいかと考え生きてきた。そもそもこの教室が営利目的である以上、晴人の様に考えるのが正しいのかもしれない。

「冗談だよ!雄介君があまりに固まるから」

 そう言って、にこやかに笑いかけながら既にガラス戸に手をかけていた。

「けど、本当にパソコン無くて大丈夫なの?」

 晴人の背中に隠れながら雄介は中に入って行く。

 すると、晴人は肩越しに、

「平気だと思うよ?大手だもん。それに、一人じゃないって事がありがたいんだよ。ついて来てくれて、ありがとね」

 そう言いながら晴人は受付に向かう。

 事務所の中は非常に明るく、背の高い観葉植物やパーテーションで仕切られたブースがたくさん並んでいる。パーテーションにはスマホで見た体験学習のポスターや、国家資格のチラシなどが張り付けられていた。

 どれもこれも何に使う資格なのかさっぱりわからないが、おそらく自分には必要ないと感じる。何故そう感じたのか、今でもわからないのだが…。

「プログラムの体験学習をしたいのですが…」

 晴人が声をかけると、受付の女性は笑顔で書類を渡す。そのまま晴人は後ろを指さすと、もう一枚書類を差し出してきた。小声で呼ばれた自分は、晴人の横に並びそのままカウンターの上で記入し始める。

 書き終えた書類を事務員さんに手渡すときに、

「その年齢で、もう将来を見据えて動き出すのが凄いわね…うちの子なんて、貴方達よりも随分年上なのに、遊んでばかりで…」

 そう言いながら、二人を奥にある別室へと案内する。

 雄介は曖昧な返事をしながら晴人の後に続いて行った。

「もう少しで始まるから…あの前にある席…二席並びで空いているから、そこに座るといいわ」

 そう言って教室を後にする事務員さんに向かい、

「どうもありがとうございます」

 晴人はその背中に向かってお礼を言う。自分も言わなければと思ったのだが、会釈するのがやっとだった。

 事務員さんはお礼を聞くと振り返り、

「いえいえ、若いのにしっかりしてるわね」

 そう言って小さく会釈を返した後に外へ出た。

 教室の机は味気のない程に真っ白で、椅子はよくあるビニール製のパイプ椅子だ。全ての席にはノートパソコンと冊子を置いており、雄介は数日だけ通った学習塾との事前準備の差を思い返していた。

 座席の無い教室は雑然としていて、案内する人間すらいない。配るプリントは足らず、講師自らが印刷しに行っていた。それに比べ、案内され連れてこられた教室は整然としており、パソコンまで全席に配置されている。初手で感じる不安を、見事なまでに抑え込んでいた。これがプロの職場なのだ。

 しばらくすると、講師であろう男性が入って来て開口一番、

「さあ、このテキストの中にある、自分が作りたいと思う物からアプリを選んで」

 そう言いながら手元の冊子を捲る。

 この教室では、最初にプログラムの初歩を学ぶのではなく、自分の作りたいと思うものにいきなりチャレンジすると言う手法だった。

「あの…基礎とかからじゃないんですか?」

 晴人が講師に問いかけると、

「そんな事したいの?」

 講師と晴人の会話している姿を横から覗き込む。

 疑問があると迷いなく聞く姿が、同じ年齢とはとても思えない。その横顔は自信に溢れ、頼もしく映っている。自分自身も同じことを考えていたのだが、それが常識かもしれない世界において疑問を発言する勇気が無かった。

 もし、自分一人でこの教室に辿り着いたとして…実際はあり得ないのだが…おそらくこの状況に耐えられず、適当に時間を潰し逃げ出していたと思う。

「それは、基礎よりかはこの方が楽しそうだけど…」

 晴人は未だ不服そうなまま、渋々冊子に目を落としている。

「でしょ?まずは楽しいかもしれない!その気持ちが無きゃ続かないって」

 講師は笑顔で晴人の肩を叩いていた。

 自分もそれに続き、冊子に目をやるが、どれも自分で作れそうなイメージが湧かない。むしろ、余計敷居の高さを感じるだけだった。

 隣に目をやると、晴人は一心不乱に何かを入力しているのが見える。おそらくテキストに書かれていた手順で、気になる物を作っているのだろうと思う。

 晴人は時折講師を呼び、

「この、ゲームエディッターって、今作ろうとしている物に合ってますか?」

「そうだね、最初に聞いたコンセプトのままなら問題ないけど…こんなのもあるよ?」

 横から講師が別窓を開き、新しいソフトと出来る機能を説明する。

「ここまでじゃなきゃいけない理由が無いので、これでいいのか…」

 別の案や自分の知らない情報を聞くと、晴人は再び画面に戻る。その繰り返しを誰よりも行っていた。

 それに比べ、自分は書かれていた手順が一体何を表すのか分からず、一つも手を付ける事が出来ない。それは英語を初めて習った時と同じ感覚だった。

 単語の意味がわからない。文法がわからない。発音がわからない。

 一つでも引っかかる部分がある度に、理解するまで思考は前進せずその場でぐるぐると回る。一方、習得が早いとネットで語られる人間は、感覚で使ってみて間違いならばそこで修正する。それを繰り返す事で正しい手法の経験を積んでいく。それが晴人だった。

 そのような習得方法を自分も出来れば良いのだが、持って産まれた性質なのだろう。確実に理解するまでその場に留まってしまうのだ。それが自分の学習の遅さだと解っているのだが、そもそも根本を変える事は出来なかった。

「ねえ、どこまで進んだ?」

 気が付くと晴人が隣から自分の画面を覗き込んでいた。

「いや、この意味がわからないから、一つづつ検証している所…」

 そう言って、雄介はほとんど進んでいない画面を見せる。

「とりあえず、打ち込んでいるうちに何となく意味が理解できないかな…」

 そう言いながら画面にテキストをそのまま入力し始めた。

「ほら…ここが…ここに…」

 彼の中では理解できているであろう事はあまりにも難しく、適当に相槌を打つのが精いっぱいだった。あまりにも惨めで、あまりにも情けない。その感情が目の前にフィルターをかけていく。

「そうだな…」

 説明の手を休め、晴人は一瞬間を置く。

「例えばさ…ある日…って言葉だけで、その意味はわからないだろ?」

 何を聞かれているのかわからない。むしろ晴人が求めている正解は何なのだろう。そこに思考の全てを持っていかれる。

 その回答を、晴人はじっと待ち続けていた。

「ある日ってのは、日付を表す言葉…かな?」

「ああ、そうだね」

 日本語を聞いていたのか…。そう思うと、少し気が楽になった。

「じゃあ、そのある日が僕の誕生日なんだ…じゃあ、このある日って何時?」

「そんなのわかんないじゃん?」

 少し小馬鹿にされたような気がして、雄介の眉間に皺が寄る。

「良かった!考えるのが嫌いな人間は、今の質問で黙るんだよね~正解がわからない時、思考を停止して相手が答えるまで口を開かない。けど、自ら答えを求める人間は、わからない時はわからないって言う…。まあ、ここまでが余談なんだけども」

「こんな、長々と話した内容が余談なの?」

 晴人は笑いながら続ける。

「ごめんごめん。昔から無駄な努力が嫌いなんだよね。考えない人に続きを話しても意味がないからね」

 雄介はもやもやしながらも、話の全体像が気になる。

「それで、何を言いたいの?」

「そうそう、それでね、そのある日は僕の誕生日だ。誕生日は十二月二十四日だ。さあ、ある日っていつ?」

「クリスマスが誕生日って、ケーキもプレゼントも一緒にされる悲しいパターンだね…」

「そうそう、せめて一日でも違えばって、そこじゃないじゃん」

 そう言って二人で笑うと、雄介は答えた。

「ある日イコール十二月二十四日でしょ?」

「その通り!このように、全体を書き表してみて初めて解る事が多いんだよ!特に、このプログラムって、入れ子構造になっているから、前から順に理解しようにも理解できない事が多い」

 そう言って、雄介の書きかけたコードの続きを晴人が書き足していく。

 すると不思議な事に、ほとんど理解できないコードにも関わらず、何となくだが頭の中でどの様に動くのかがイメージ出来たのだ。それは言葉では表せない感覚的な物で、今はまだうっすらとした文字列だった。

「なんとなく、やり方はわかった。晴人くん…本当にありがとう」

 晴人が居なければ絶対に訪れる事の無い扉の前に、雄介はようやく立つ事が出来た。

 そう、この時から晴人はずっと師匠なのだ。

 早速、雄介は弟子として一番に行う事を想像していた。それは、師匠の真似をすることから始めるのを、観て来た映画から得た知識で知っている。それが正解かどうかはわからないが、雄介はお礼を言う所から真似をしてみたのだ。

 プログラム教室が終わり、雄介は家に帰るとすぐに両親に相談した。おおよその予測では、中学生には早いとか否定的な意見を言われると思い身構えていたが、現実は予想とは大きく違い両親共にえらく喜んだ。初めて自分の意志でやりたい事を選んだ事。自らその道を探し、ちゃんと言語化して説明した事。

 雄介はそのような所までしっかり見てくれていた両親を、この時初めて尊敬することが出来た。

 翌日は土曜日だったので両親と三人で家電量販店に赴き、割と小さめのノートパソコンを手に取る。それは、小さいながらも性能がデスクトップと変わらず、その時に流行りであるタッチスクリーン機能まで実装していた。

 その愛くるしい見た目と性能。これをずっと使い続けよう。

 雄介は、そう心に誓ったのだが、実際問題パソコンの性能は途轍もないスピードで進化し、いずれ限界が来る消耗品だ。しかし、この時の雄介には予測すらできない事実だった。

 帰りに寄った父親御用達のバイクショップに寄ると、そこに並んであったステッカーを意味も分からず大量に買い込み、買ったばかりのパソコンに張り付ける。そのパソコンを眺めるだけで自分が稀代のハッカーになった気分に浸れた。

 何の気なしに開くインターネットは未知の世界であり、そのうち画面に映し出される画像がゼロイチ信号に変わる妄想で胸が躍る。

 明日、晴人とどんな会話をしようか、そればかりを想像しながら雄介は眠りにつく。

 週明けの月曜日、晴人にプログラム教室に入る許可を得るまでの流れを報告すると、彼は自分事のように喜んでくれた。しかし、彼の表情が何処かしっくりこない。心が定まっていのか、感情と表情の隙間が微細にひずんでいた。

「もしかして…ダメだった?」

「いや、教室に通うのは良いんだけど…パソコンがね…」

 そうだった。体験入学ではなく、ちゃんと教室に通うには自分用のパソコンが不可欠なのだ。

「じゃあ、パソコンが手に入るまで俺も待とうか?」

 雄介は晴人の視線を確認しながら言葉を選ぶ。

「どうにかするよ…あては…あるから」

 そう言うと、晴人は無言のまま授業の準備を始めた。

 スマホも持っていて、見た目も清潔感がある晴人は雄介にとってお金持ちの部類に見えていたのだが、実際に彼がどの様な環境で過ごしているか全く知る由もなかった。何せ、昨日今日の付き合いなのだ。

「気を使ってくれてありがとね…」

 どこかぼんやりしている晴人が絞り出した言葉。この台詞に対して雄介は経験上最適解を持っていない。

 出来る事と言えば、要らぬ気を遣わせないよう雄介は会話を押さえ気味にするぐらいだった。

 パソコンの話題、しなくてよかった。

 この時初めて、自分の口数が少ない事が数少ない美徳だったことに気が付く。要らない言葉は極力使わない。それが相手を一番思いやる事になる…筈なのだ。

 翌週の放課後、二人は揃ってパソコン教室の前まで来ていた。

 雄介は逸る気持ちと、晴人に対する遠慮が心の中で渦を巻いている。いっそのこと、この教室に通うのを止めればどんなに楽になるか。そんな事を考えるまでにその思考が強くなっていた。

 記入用紙に書き込む手が止まる。

「パソコンは…レンタル出来ますか?」

 事務員さんに小声で確認している晴人の声だ。

 雄介は契約書の記入に集中し、晴人の声が聞こえていなかったふりをする。その為、最初にかけてきた「記入終わった?」の投げかけを、あえて無視した。

 しかし、それは全くの徒労に終わる。

「ごめんごめん、気を遣わせちゃったね」

 晴人はレンタルしたパソコンを小脇に抱え、小走りで雄介の元に駆け寄って来た。その様子を見ると、雄介は晴人に無理をさせている自覚が大きくなる。しかし、そこでも雄介は『辞めようか…』と言い出せないまま、二人は前回訪れた教室に向かう。

「天才少年たち、また来てくれたんだね」

 一足先に来ていた講師が二人を見つけ歩み寄る。

 今日は体験では無かったので、一応教室の説明を受ける事になった。

 授業の頻度としては週に1回で、曜日は勿論時間も自由に選べる。難易度も自分の進捗によって違うが、同じクラス内に居て難易度を変更できる点が二人にとって魅力的だった。

 どんどんと先に進む晴人と、課題を一つづつ踏みしめながら進む雄介。同じクラスに居ながら各々が自分のペースで知識を高める事が出来る。おそらく、一人で通う事になれば、歩みの遅い雄介自身の足は遠のいてしまうだろう。そこに、晴人が居ると言うだけで心は安定し、遅いながらも自身の能力を安心して高める事が出来た。

 嬉しい事はそれだけでは無い。ある日突然自分のノートパソコンを手に教室に来たのだ。傷だらけで、使い込んだ感じのする外観だったが、スペックは悪くなかった。聞くと、父親が家で仕事をするために会社から下取りしてきたと聞く。従って、土日などは父親が使うため、教室に通うのは自然と平日の夜になる。パソコンが自由に使えるようになった晴人は、やる気も一段と高まり、とうとうプログラミング部にも所属する事になった。

「平日にどれだけコンピュータに触れていられるかが勝負な気がする」

 晴人からの提案だった。

 この向上心に刺激され、雄介も差をつけられてばかりではいられない。半年間は晴人の方が先のカリキュラムをこなしていたのだが、雄介もどうにか追いつき同じレベルの課題に取り組みだす。二人が本格的な設計作業が始まりだしたその頃。

「そろそろ大会に応募してみない?」

 講師の言った台詞に、雄介は少し後込みしてしまう。

「まだ、早いかも…」

 即答だった。

 それは自身の経験的な物を指すのではなく、自分の気持ちそのものだった。

「二人で作るの…ありですか?」

 晴人が雄介を制しながら質問する。

「えっでも…」

 雄介の頭の中には何もできない自分が容易に想像できた。

 どの課題も彼に聞きながら、噛み砕いてもらいどうにか理解する。そんな自分と組んで何が出来るのだろう。そう思い断ろうとすると、

「雄介に教える事で、俺も改めて理解できたことが多く、非常に助かっている。お前と一緒ならやりたい」

 その強い視線に背中を押され、

「晴人と一緒でも良いですか?」

 そう言えた。いや、言えるようになったのだ。

 講師は頬を緩ませながら、

「もちろん、チームで構わないよ…ただ、ちょっと難しいかな?意思の疎通とか…まあ、それも経験か!エントリーするカテゴリーは…」

 言い終わる前に二人で、

「エンターテイメント」

 そう答えていた。

 一番人気があり、映像や音楽要素まで幅広く一番難易度が高い。

「そう、一番したい事をやるのが一番」

 そう言ってエントリーするアドレスを教えてくれた。

「なあ、作戦会議しないか?」

 そう声をかけてきたのは晴人で、雄介は一も二も無く即答する。

「じゃあ、ウチに来る?一緒にご飯食べて…寝るまで会議」

「泊まんの?悪くない?」

「今から母さんに電話する!来てくれるよね?」

 晴人は自分のカバンを軽く叩き、

「わかった。けど、一回帰って良い?」

「パソコンね」

 雄介は、晴人のパソコンが未だに彼の所有物ではない事をこの時再認識する。もし、自分が同じ状況でも、ここまで情熱を持って取り組めただろうか…。そう思うと、彼の真剣さ眩しく思えた。

「夕ご飯食べないでね。晴人がうちに来るって言えば、ウチの母さん絶対美味しいもの造るから」

 雄介は母親に電話をかけながら晴人に約束を取り付ける。

「悪いが俺、グルメだよ?」

「晴人が?スルメの方がまだ現実味あるわ~」

「悪いが俺、スルメだよ?って、どんな状況だよ」

「俺がスルメと歩いている…状況?」

 そう言うと二人は共に笑い出し、走って自宅へと戻った。

 数十分後に晴人が雄介の玄関の前に立っているのを見ると、雄介の母親が雄介よりも前に出て晴人を強引に家に招き入れる。

「うちの子が、本当に立派になって…もうね、別人と入れ替わったのかと思ったのよ。それもこれも、みんな晴人君のおかげよ」

「スルメだけどな」

 そう言いながら横から雄介も晴人を引っ張り、半ば強引に家に引きずり込んだ。

 二人は夕飯を食べると晴人から風呂に入った。そして、後に入った雄介は少しぐらいゲームしても良いよな?そう思いながら濡れた髪にタオルを載せたまま部屋に戻ると、晴人が自分のパソコンを開き、電源を入れないまま愛おしそうに触っているのが見える。彼には未だにパソコンが無いのだ。プログラムを学びたいにも拘わらず。その光景が目に入ると、如何に自分がつまらない人間か突き付けられた気になった。彼は平日しかパソコンに触れる機会が無いにもかかわらず、あれほど知識を蓄えていたのだ。それに比べ、自分は帰ってからパソコンを開く事すらない。それなのに、夢はゲームを作る事だと…。

 何という事だろうか…。

 雄介は言葉にならない感情を隠し、再びドアを開けた。

「あっ電源入れておいてくれた?ありがと」

 晴人は少し驚いた表情で雄介を見ると、

「ごめん、勝手に触ってた」

 そう言って素早く手を引っ込めようとする。

「チームなんだから、俺のパソコンは晴人も自由に使っていいに決まってるだろ?」

 雄介はそのまま晴人の横に座り込む。

「じゃあ、何を作るかアイディアを出そうか」

 そう言って、晴人は鞄から真新しいノートを引っ張り出した。



「俺、このノート今でもたまに見るんだ」

 そう言いながら、雄介は表紙がボロボロになった一冊のノートをテレビ台の引き出しから取り出した。その持ち方は、まるで国宝にでも触れるかのように優しく丁寧に机の上に置いた。

「まだ持っていたとは…」

 晴人は何十年も前に譲ったことを、目の前にしてようやく思い出すことが出来た。

「当り前じゃんか!これがどれほど俺の気持ちを後押ししてくれたか!本当にありがとう」

 そう言うと、雄介は晴人の手を両手で握りしめた。

「政治家みたいだな」

 雄介はそれを聞き、

「この、山本雄介に清き一票を」

「どこに投票させる気だよ」

「スルメ新党…」

「そうだね、投票用紙がスルメで…書きにくいわ」

 晴人がそう言うと、二人は昔を思い出して思いっきり笑う。

 一頻り笑いあった後、

「エクセルとかなら簡単に共有出来たのに…ごめんな」

 晴人が小さく呟くと、

「パソコン…晴人が週末使えなかったから仕方ないじゃん?」

 雄介はそう言いながら、懐かしそうにページをめくっていた。

 そこにはどんなゲームにするかが図と文字でギッシリ埋まっていた。

「こんなに書きこんだっけ?」

 久しぶりに対面したノートは、誰か別の人間が書き起こしたように見える。いや、ほとんどの書き込みは雄介だったのだ。

 作業の割り振りは、いつも雄介が発案し、それを晴人がコードに起こして入力する。その流れだったのだ。今考えると、この時もっとノートを見るべきだったと晴人は反省した。

 中学生の頃は気が付かなかったのだが、自分が想像していたのは一筆書きをマスを移動させながら完成させるゲームで、彼が作りたかったのは、十六マスゲームの上を走る電車を脱線させないようにマスを動かす物だった。これならば確かに対戦も出来るし、アイテムの意味合いも解る。何故過去の自分は彼を完全に理解した気になって、ノートを見返さなかったのか。何故、自分は彼よりもアイディアが優れていると思ったのか。

 大切な事は、いつも遅れて気が付く。

 ずっと、そんな人生だったのかもしれない。

 それは、今でも…。



「うーん…イメージと少し違うんだよね…もっと、こう、アクションが面白い感じで…」

 雄介の的を得ない説明は難解で、中々完成には至らなかった。いや、正確にはひと月経ってもプロトタイプすら出来ていない。

 講師も、

「方向性を合わないと、なかなか形になんないでしょ?」

 そう言って笑っていた。

「この、一筆書きにアクション要素を入れる感覚が掴めない」

「そんな事ないよ!二人ならきっと出来るよ」

 揉め事までとはいかないが、この時から教室や部活での会話は段々と少なくなってくる。

 黙々と入力作業を行う晴人。

 そして、この記念すべき二人で作成したゲームを、より良くする事ばかり妄想する雄介。

 会話のやり取りも、このノートで行う事も増えてきた。

「なあ、完成させる気ある?」

 久しぶりにした晴人との会話は、このゲーム作成に対する不満だった。

「わかってるけど…面白い物にしたいじゃんか」

「それはお互いプロになってからで良くない?まずは大会に出す物を作らなきゃいけないじゃん?」

 そう言うと、晴人はノートパソコンを勢いよく閉じ、部室から飛び出して行ってしまう。その彼の後を追わず、雄介はパソコン教室の課題に一人で向き合った。

 翌日、パソコン教室に雄介が一人で入ると、講師に言われた言葉が数分理解できなかった。

「提出したゲーム。初めてにしては、いい出来じゃんか」

 その台詞を聞いても、何を言っているのだろうとさえ思っていた。

「何の…出来ですか?」

 雄介は恐る恐る聞き返す。

「昨日、晴人君が珍しく一人で来て、大会の課題出来ましたってメモリーを持ってきた物を確認したよ!いやぁ完成させるのが一番難しいのに、二人共よく頑張ったね」

 そう、大会に出すゲームを晴人はもう提出してしまったのだ。



「今なら分かるよ。その時の師匠の気持ちが。納期って大切なんだって事。期日までに完成させなきゃ意味が無い事を」

 そう言って雄介はブランデーを再び煽った。

 晴人は心の中で、『そうじゃない。自分が勝手に出したのは…自分の理解が全てで、雄介の意見を軽視していたから。自分の力を示したかったから。教室に通える残り時間が無く、何も成し遂げないままでいる事への焦り。そして、土日にプログラムを修正できる雄介が疎ましかったから』それを言うのは何十年も経った今では簡単な事だったが、師匠と呼ぶ雄介の気持ちを考えると、今更告白して気分が楽になるのは自分だけなのだと自覚し、心に留めておく事にした。彼には妄想上に生きる『松尾晴人』が必要なのだ。



 それから数日しても、晴人がプログラム教室に来ることは無かった。

 この時ほど雄介は部活に通っていて良かったと思ったことは無い。一人ノートパソコンのキーを叩く晴人に近づき、

「教室辞めたの?」

 部室で一人キーを叩く彼に向かって、雄介はそれだけ聞いた。

「うん…そろそろ勉強しなきゃ、行く高校も無いし…」

 いつもとは違い、モニターから視線を外さないまま晴人は答える。

「そうだよね…俺は…もう少し頑張ってみるよ。次の大会が最後かな?」

 そう言うと、雄介は自分のパソコンを開き教室の課題をこなしていた。

 確かにそうだ。

 このままでは成績が下がる一方で、雄介の母親は特に何も言わないが父親は良く思っていない。それはわかっているのだが、大会で良い賞さえ取れれば…良い思い出になる。そして、いつか二人で会社を興す。例え晴人が嫌がろうと、あの日みたいに強引に誘えば…。そんな妄想をしていると、不意に晴人が話しかけてくる。

 勿論、目線はそのままで。

「今回のゲーム、何かの賞…取れたらいいな…」

「わかんないけど…言って欲しかった…」

 雄介は恐る恐る晴人に意見を投げかけてみる。

「ごめん。勝手にゲームを提出して。けど…時間が無かったから…焦って…それに雄介に言ったら、まだ修正するって言ったろ?」

「そっちじゃないよ。教室辞めるの決まってた?」

 雄介は作品の提出よりも、一緒に入った教室にも関わらず、辞めるのは一人で決めるという事が何よりも不満だった。

「それは…家庭の事情だから」

「ああ、わかってる!わかっているけど…」

 そう、雄介は最初からなんとなくは察していた。晴人の家庭では受講料が厳しい事や、自分専用のパソコンも買えない事を。それでもなお、今まで続けてくれたのはパソコンで何かを作るのが好きだけではない。それも理解していた。

 それでも彼と始めたプログラムで何か成し遂げたいと思っていた。

 二人で…。

「何も言わずに辞めたのは悪かったし、勝手にゲームを出したのも悪かった…」

「じゃあさ、次の大会にも出てよ!晴人のゲームと、俺のゲーム、入賞した方が勝ちね」

 雄介はこの時、二人共入賞しよう…とは言えなかった。

「勝ちってなんだよ…それより今回のやつが入賞してたら、それで良くない?」

 『それで良くない?』それでお終いにしようと言う事なのだろうか。雄介は急速に離れていく晴人との距離がどうして出来たのか理解できない。そもそも、今回の作品が入賞できない事を、二人共薄々感じている。これの何処が面白いのか説明できないからだ。作りました!で、安心している作品だ。これで入賞できるのであれば、二人共中学卒業と同時にプログラマーになれる。しかし現実はそう甘くない。それは過去の入賞作品を探し、実際にプレイしてみて実感させられていた。上には上が居ると。

「次回の大会で判断するって事でいいじゃんか」

 このまま晴人が何処かへ行ってしまう気がして、細い糸を手繰り寄せる。

「勉強…どうするのさ…」

 晴人はパソコンを閉じ、雄介に向き直る。

「三年の夏からやる」

 雄介はそうはいったものの、自信は無かった。この楽しい時間を失い、その分勉強に費やすという事を。

「それで大丈夫なの?」

 晴人は心配そうに雄介を見つめる。それは、晴人が小学生の時に勉学に関する知識を貯金していたおかげで、現在の勉強について行くことが出来ていると言った想像は簡単だ。しかし、雄介はゲームばかりしていたせいで、成績はかなり低空飛行だった。おそらく、その事を知っての発言だろうと思うと、無性に言い返したくなる。

「大丈夫!何とかなる。オンラインの塾とかも始める予定だ」

 自分で見つけたかの如く言ったのだが、実際は父親が見つけてきた塾だ。それがパソコン教室を続ける条件だった。

「それだけで成績が上がる?」

「オンラインでも塾なんだし…やれば成績は上がるはずだろ…」

 それを聞いた晴人は、冷静に言葉を返す。

「オンラインの塾を始めたら自動的に成績が上がるように聞こえるけど、プログラム教室にただ通うだけでここまで出来たと思う?」

 雄介は返す言葉も無かった。

 無言で教室を出ると、速足で帰路に着く。別に急いでいる訳ではない。雄介の心の問題だ。心を抉られる発言に対して、雄介は自衛策を持っていない。従って、血みどろになりながら他人と付き合う事しか出来ないのだ。それが、これまで友人が出来なかった理由の一端でもある。

 家に帰ると、雄介は母親に『ゲーム辞める』と宣言し、全てのゲーム機をクローゼットに放り込んだ。パソコンもオンラインの塾と次の大会用のプログラムを書く為だけに使い、空いた時間の全てを勉強に充てる。実際そのような生活にしてみると、意外と難易度は高く感じなかった。

 後日、母親は『晴人くんのおかげ』と連呼していたが、全くその通りだ。今までは勉強方法が全く分からなかったのだが、晴人と一緒にプログラムを覚えるようになって、科目毎にどの様に学習したらいいか等の方針が、いつの間にか構築されていたのだ。それだけでは無い。学習する事自体が、自分のレベルを上げていくゲームとイコールになり、勉強においてもモチベーションを保つ事が苦難ではなくなったからともいえる。

 つまり、彼のおかげで夢を語るだけの人間から、夢を追いかけられる人間に変われたのだ。

 あの日以来二人は部室で何事も無かったかのように話すのだが、今までとは違い微妙なしこりを感じていた。それはお互いの見えなかった部分がようやく見えたからであり、雄介が晴人との距離を…いや、初めて他人との価値観や生活の違いを感じたからだといえる。

 新年度になり、お互い別のクラスになると二人が会話する場所は完全に部室だけになった。ゲームをほとんどやらなくなった事もあり、話題は当たり障りのない薄い内容か、プログラムに関する深い内容。まあ、この時に話せるレベルでの話なのだが。

 大会の受賞者がオンライン上で発表される前日。

「晴人…明日…大会の受賞者発表されるじゃんか…俺の家で結果見ない?」

 本当ならば部室でも良いのだが、企画を始めた場所で結果を見たい。それだけの事だった。

「いいよ。なんか、企画した場所で結果見るのも味があるよね」

 その言葉に雄介は、自分の意図と晴人の思考の距離が案外近かった事を嬉しく思った。

 久しぶりに部屋に来た晴人は、辺りを見回している。それはそうだ。昔はゲーム機で占領されていたスペースは無くなり、そこは大きな本棚が据え付けられていたのだ。並んでいるのはプログラムの本と、少しばかりの教材。これを見せたかった気持ちも幾分かはあったのは事実だ。

 あの時とは変わった事を晴人に視覚的に見せたかった。

「随分と気難しい部屋になったね…」

 晴人は本のタイトルを眺めながら呟く。

「そうでしょ?出来る男っぽい?」

「ああ、凄い…この本とか読みたい…」

 晴人がパソコン関連の本を手に取る。

「他にも読みたい本あったら貸すよ?教材も含めて」

「それは要らん。間に合ってます」

「遠慮すんな…」

 そう言いながらオンライン講座の教材を手渡す。

 晴人は数ページ捲ると、

「やべぇわからん…」

 そう呟いたのが聞こえた。

「そんな事よりも、結果を見ようよ」

 雄介は机の上に、あの日からずっと相棒だったノートパソコンを開く。シールは薄汚れ、何枚か剥がれた痕がある事が、何故か愛おしさを増している。

「合作は合作だからね」

 雄介は大会ホームページを開き、受賞者一覧をスクロールし始める。

「わかったから!次も出るから」

 晴人が笑いながらも肯定してくれる事に少々安堵する。

 数分後、ページの最後まで到達するが二人の名前を見つける事はなかった。当然と言えば当然なのだが、雄介は心のどこかでうっすらと期待をしていたのだろう。その日は寝付けなかった。何がダメで、どう変えれば良かったのかが目を瞑る度に瞼の裏に映る。

 夜明け前、雄介は寝付けなかったにもかかわらず目を覚ます。

 晴人は…どう思ったのだろうか…。

 それが気になったのだ。

 雄介の挑戦はここから始まった。

 季節は恐ろしい速度で進み、気が付けば翌年になる。再びセミの煩い声が嫌でも勝負の夏を感じさせた。普通の人間ならば、受験に使う言葉なのだが、自分の中では違う。晴人を超える為の大会であり、その為だけに一年を費やした自分への勝負でもある。

 三年でもクラスは別で、晴人に会うのはやはり部活動だけだった。

 その部活で見かける晴人も、この一年間は何か一つの作品を作り続けているのが見ていてわかった。借りたいと言った本は増え、時折見慣れない本も部活に持って来ている。恐らく、あの日からずっと一人積み上げていたのだろう。

 ただ、絵に描いたような青春は続かなかった。

 それは夏休み前の、晴人との最後の会話になる。正確に言えば、直接話す最後の機会だ。

「明日から夏休みだね。どこか行くの?」

「どこか、か…行くっちゃ行くか…」

 浮かない顔をしていたが、手元にあるのは薄汚れたノートパソコンでは無かった。

「あれ?新しいのいつ買った?」

 晴人は心ここにあらずと言った面持ちで笑うと、ゆっくりとパソコンを閉じた。

「ああ…前のが調子悪くてね…」

「ようやく自分だけのパソコンになったんだ!これは大会も期待できるね」

 夏から始まり、秋口に締め切りがある大会なのだが、中学三年ともなれば夏を超える事はできない。志望する高校への進学を諦めない限りは…。だからこそ、時間は無駄に出来ない。そういう理由で晴人の親もパソコンの新調を決めたのだと思った。

「この夏の間に転校する事になってね」

「えっ」

 雄介は一瞬理解できなった。どう考えても、受験シーズンの大事な時に、いや…それ以上に大切な大会の前に…転校する?

「ごめん…」

 申し訳なさそうに謝る晴人に対して、

「いきなりじゃんか!なんで…言ってくれなかったんだよ」

 そう言うつもりでは無い。むしろ本人の方が不安なのはわかっている。

「…俺もいきなりだったから」

 そう言うと、晴人は荷物をまとめだす。

「大会は?大会はどうすんだよ?」

 違う!違う!違う!そんな事なんてどうでも良いのに。初めて自分に向き合ってくれた友人を送り出す言葉じゃない。

「新天地でも提出は出来るよ…全国の大会だから…」

 晴人は、力なく雄介に笑いかけた。その意味を雄介は知る事は無い。

「じゃあ、お互いホームページで確認か…」

 何の意味も無い言葉…それが晴人に投げかけた最後の言葉だった。

「ごめんな。色々あり過ぎて…落ち着いたら連絡するよ…」

 そう言い残して教室後にした晴人に、声をかけることも出来ず夏は終わった。



「そういやあの時、ちゃんと大会に作品出せた?」

 雄介は軽く晴人の肩を叩いた。酔いの勢いもあってか、雄介の性格ならば言う事の出来ない台詞だろうな…そう思う。

 正直言うと、提出なんて出来る状態ではなかった。

 数週間前、プログラムの最終チェックをしている時に晴人は寝落ちし、パソコンを開いたままにしてしまっていたのだ。

 父親は浮気した時からスマホは全て母親にチェックされていた。それで身の潔白を証明していたのだが、実際は会社から買い取ったパソコンで、まだ浮気相手と繋がっていたのだ。

 その、メールでのやり取りを母親が発見した。いや、父親は発見されたがっていたのかもしれない。何故なら、パソコンにロックを掛けているとは言え、晴人にはパスワードを教え、終末にはずっとパソコンを使って何かをしていたのだ。母親が気にならない訳がない。

 目が覚めると、パソコンをあらぬ方向に二つ折りにし、画面を叩き割った状態で立ち尽くす母親を見た。半狂乱の母親をなだめ、父親が返って来るのを待ったが、その日から父親は家に帰っていない。狂ったようにかけた電話は繋がらず、会社にも翌日母親が問い合わせたのだが、数日前に既に依願退職をしており消息は不明。むしろ計画的行動だったのかもしれない。

 一年間かけて作ったプログラムは残骸となったパソコンの中にしかなく、気力はパソコン以上にボロボロになっていた。

 母親は仕事を辞めていた為、実家に帰るのかと思いきや、大学時代の友人の住む隣の県に引っ越そうと言い出す。まあ、実家には戻り難かったのかもしれないが、今となっては、真相は永遠にわからない。

 そんな事もあり、新しいパソコンを手にする事は出来たのだが、もうプログラムを書く気力などある訳が無い。ただ、新しいパソコンに実装されていた作曲が出来るソフトを触っていただけだ。

 勿論、雄介の状態など知る由もない。

「雄介は入選だっけ?」

「それ、わざと?審査員特別賞を貰ったの知ってたじゃんか」

 この時、少々の違和感を持った。彼に会ってから、度々感じる違和感。その答えは奥の階段から、ずっとこちらを見ている夏樹さんのせいかもしれない。

 その真相を知るのに、最も合理的な回答はこれだと思い晴人は声をかける。

「夏樹さんも一緒に飲みません?」

 階段で座り込んでいた夏樹さんは少し驚いた表情を見せる。

「えっ?あっ?」

 わざとらしく振舞うが、おそらくこちらに来なければならない理由でもあるのだろう。

「そんな所に居ないで、ほら…ここに座って」

 雄介がソファーを叩き、自分の隣に座らそうとするも、晴人の左隣の一人掛けソファーに腰を下ろした。

「寝かしつけご苦労様」

 雄介は夏樹さんを労った後、自分のグラスにブランデーを注ぎ足す。

「師匠も、もっと飲もうよ?」

 そう言いながら雄介が新しいハイボールを作ろうとした時、夏樹さんはそれを笑顔で制した。

「明日商談があるのよ?師匠が起きれなかったら貴方はどう責任取るの?」

 彼女の狂気じみた笑顔は、この世で最も美しい。晴人は、友人の奥さんながらそう思ってしまった。

「じゃあ、師匠もウチで一緒に働こうよ」

 雄介は晴人を見たまま、グラスを片手に夏樹さんに凭れかかる。

「ダメでしょ!それは雄介さんが決める事じゃ~ないのっ。って、貴方だけの有能な秘書が思っていますよ」

 その言葉に、雄介は即反応する。

「そう!夏樹は出会った頃は秘書だったんだよね…アバンギャルドだっけ?そんな風な名前の会社の…」

 夏樹さんは溜息をつきながら訂正する。

「アルティメットタイニーって小さな会社です。もう、絶対覚える気が無いんだから」

 今まで見てきた雄介と同一人物とは思えない程、夏樹さんに甘えているのがわかる。そして、それが心地いいのか夏樹さんは今まで見た事の無い程の笑顔で笑いかけていた。

「そこ、イチャイチャしない!」

 晴人は笑いながら注意し、二人だけの空間に歯止めをかける。

 すると、夏樹さんは冷静な顔をこちらに向け、

「そう言えば、普通に連絡するのではなく、毎年年賀状とかだけのやりとりだった理由ってあるんですか?二人の仲であれば、もっとこう、こまめに連絡を取るとかしようと思わなかったのかなって思って…」

 おそらく、これが彼女における重要な問題なのだろう。この雰囲気は、聞けるタイミングを計っていたのではないのだろうか…そうとも取れる。しかし、それ以上に気になるのは、ここで全てを話せば夏樹さんの方が厳しい状況になるのは明らかだった。そのような事は俺自身が望んで無いはずだ。そういう読みがあっての質問だったのかもしれない。

「それは…道を諦めた者として…雄介をパソコン教室で独りにした身分だし…気が引けるじゃん?」

 当たり障りのない理由をこじつけるのだが、実際そこまで遠くは無い。それに付け加えるのであれば、過去を切り捨て、前を向くことを強要させられたからであり、生きるために過去を犠牲にせざるをえなかったからだ。

 ただ、本質はそこではない。

 自分が知りたいのは書きもしない事を雄介が語り、知りもしない情報をあたかも自分が知っていると思われている現状だ。

「そんな事気にしていたんだ。師匠はそう言いながらたくさんのアドバイスを毎年くれたじゃん?たくさん救われたよ。このまま無難に大学生生活を消費して、当たり障りのない企業に就職しようとしていた時に、『このまま就職すれば、自分の夢を一つのチャレンジもせず、四十年以上無駄な時間を味わう事になる』とか、『大学生活という、時間のある時にこそ動き出してみろよ』とか…その言葉にどれだけ救われたか。そして、その言葉通り行動して道が開けたんだ」

 身に覚えのない事が多すぎて、理解できない晴人は夏樹さんに視線を向ける。

 『それを書いたのはあなたですね夏樹さん?』と言うように。

「酔っぱらっているとは言え、ようやく会えた師匠を困らせたらダメでしょ?忘れている事もあるだろうし」

 そう窘めたかと思うと、こちらに向き直り鋭い目をしたまま口元だけ笑った。

「そうそう晴人さんから送られてきたハガキ、全部取ってありますから」

 そう言うと、夏樹さんはテレビ台の引き出しを開け、小さなファイルを取り出した。

 この家は、雄介の大切な物を全てテレビ台の引き出しに片付けるルールなのだろう。まあ、酔いが回ると懐かしい物や思い出の物を眺めたくなるので、思いの外効率的なのかもしれない。

 夏樹さんが取り出したファイルを受け取ると、雄介も余程思い入れがあるのか顔を近づけハガキを食い入るように見ている。

 その内容を見ると、現在の仕事に対する『企業のシステム構築、ゲームに新しい分野を開拓するのに生きると思う』など、自分では書いた記憶の無い内容が、裏に印刷されたおめでたい絵などそこに存在しないかの如く、びっしりと書き込まれていた。これを年賀状と呼ぶのは気分的に憚れるのだが、雄介にとってはありがたい指針だったのだろう。

「俺もさ、こんなに考えてくれる師匠に対してどうすれば良いか、夏樹と話しあった結果、来年の報告を一月二日に書いて、その通り…いや、それ以上の結果を出すってやっていたんだぜ」

 それは凄い事だ。理想を書いてその通りにするとか、どれだけ難しいか今の自分でもわかる。それを経営者となってするとなれば、市場がどの様になるか分からないにもかかわらず、常に不退転の決意表明を毎年行っていた。ただし、それは俺にではない。俺に成り代わっていつもアドバイスをしていた夏樹さんに…だ。

「そんな事を…何年も…」

 そう言って晴人は夏樹さんの顔を覗き見すると、俯きながら少し笑っていた。

 優柔不断な雄介を導くために、彼女は死ぬ気であらゆる手段を試していたのだろう。その努力を想像するだけで、晴人の口から言葉が消失した。

 夏樹さんはこんなに危険な所まで踏み込んで、一体何を得ようとしているのだろうか。

 常識的に考えれば、はっきりと『知らない』と言うのが一般的に言われる正義として筋が通るのかもしれない。しかし、盲目的に信じてきた雄介の事や晴樹君の事を考えると、正しいと思っている行動を行うのは得策ではない。むしろ、誰も得しない結果だけが見えているのだから。

 自分自身においてもそうだ。この場合の正しさを主張する事に、どんな達成感があるというのか。むしろ、誤解の波をうまく乗りこなす事が最良の選択肢に思えた。

「そう言えば、二人は何処で知り合ったの?」

 この空気を変えるべく、晴人はハガキに無かった情報を確認し話題を逸らす。

「丁度、高校を卒業して大学生になった頃かな?情報系だったから…アルバイトでパソコン教室の講師をしていたんだ。そこに、会社員だった夏樹が受講生として入って来たんだ」

 そう言うと、雄介は夏樹さんの方を見ながら優しく微笑む。

「びっくりしたのよ。だって、去年まで高校生だった男の子にパソコンを教えてもらうなんて…それも教え方が上手で、すぐに大抵の事は出来るようになったのよ」

「それは、夏樹の理解力と学習能力が異常に高かっただけ。こっちこそ、これ程早くに上達されたら儲からなくなるって思ったくらい」

 二人の出会いを補足するとすれば、自分達より四つ年上だという事。雄介は彼女の聡明さに惹かれ、彼女は雄介のスキルに惚れたという事ぐらいで、後の展開はありきたりだった。

 この、長く当たり障りのない会話は眠気を呼び起こすのには都合が良く、一時間もしないうちに三人共睡魔に襲われる。


 翌日、客間で寝ている晴人の枕元に夏樹さんが現れた。

「起きてください。その方がお互い都合がいいでしょ」

 熟睡できていなかったのだが、その言葉を聞いて数分も経たないうちに晴人は覚醒出来た。

「まずはお食事をいただきながら話しをしましょう」

 そう言うと、夏樹さんは速足でキッチンへ向かう。

 晴人はその後を追ってダイニングに向かうと、仙台味噌の味噌汁と、はらこ飯が用意してあった。朝から少し重いな…とも思ったのだが、艶やかなイクラが食欲をそそる。

 夏樹さんは自分用に珈琲だけを用意して目の前に座った。

「雄介さんはあれぐらい飲めば、九時くらいまで起きられないけれど、出来るだけ急いでくださいね」

 晴人はSUUNTOを確認する。午前6時…予想よりも早い。ただ、確認したい事が残っており夏樹さんを問いただす。

「そう言えば、あのハガキ書いたの…」

 最後まで言い切らないうちに夏樹さんは話し始める。

「そう、私よ。あの人、才能あるのにずっと怖がってばかりで、晴人ならどうする?が口癖だった。雄介さんを変えたい、いや変えなきゃと思って、独り暮らしをしていると聞いたのですぐに同棲したわ。最初は私の意見なんて気にもしなかった。もったいないわよ、あの才能。それでね、貴方の年賀状に追加で私なりのアドバイスを書いてみたの。勿論、秘書をやっていた事もあって、代筆は得意だった。最初は悪戯のつもりだったのだけど、その通りに行動する彼を見てこれは使えるって思ったの」

 そこまで話すと、夏樹さんは珈琲を啜った。

「いつかバレると思わなかったんですか?」

「貴方来なかったじゃない?連絡すらまともに取らなかったでしょ?あんなに頼りにされていると知っていても」

 相変わらず、口元だけ笑う彼女に晴人は少々不気味さを感じる。

「そうだけど…」

「書いてある内容もどうせ読んでなかったでしょ?毎年の年賀状から一目でわかるわ」

 そう言ってまた一口珈琲に口を付ける。

 確かにそうだった。雄介から送られてくる年賀状には、いつしか悩み相談や現状の報告が事細かに書きこまれていたのだ。それを見て、俺は毎年なにを思っていたのだろうか。ただの自慢と流していた? 幸せの報告と喜んでいた? そうではない。書かれている内容を理解できる程の知識が無かった。雄介はいつの間にか遥か上空で暮らしており、交わす言葉や価値観を何一つ共有出来なくなっていたのだ。

 それを夏樹さんは知っている。

 送られてきた文面を見て。

 選ぶハガキを見て。

 頑なに連絡先の交換をしない行動を見て。

「だからと言って…」

 夏樹さんは晴人の話を遮るように返す。

「私が行った事であの人が被害を被った事はありません。むしろ彼を正当な評価がされる世界に導いて、ありとあらゆるサポートをして…雄介さんが貴方をこの家に呼んだのだって、見て欲しかったからなのよ。自分はここまで頑張ったよって」

 そう言うと、夏樹さんは目を伏せた。

 忙しさを理由に雄介を自分の記憶の奥底にしまい込んでいた自分を、この時初めて嫌悪した。こんな自分の言葉を待っている人が居たのだ。

「雄介には悪かったと思います。昨日、ようやくそれがわかりました」

 晴人の言葉を聞くと、夏樹さんはうつむいたまま首を振る。

「ううん…あんなに嬉しそうな彼を見たのは私の記憶には無いわ。会社が軌道に乗り出した時よりも…私と結婚した時以上に…晴樹が産まれた時すら、あんなに饒舌にはならなかった…本当にありがとう…晴人さんが…ほんの少し…羨ましかった…」

 夏樹さんの両手の中にあるマグカップは小刻みに震えていた。それを強く握り締めると同時に、彼女の瞳がスッとこちらに向く。

「そして…もう二度と雄介に近づかないでください。雄介さんの事を思うのであれば。彼は貴方と仕事がしたいと言い出すわ。今の貴方には無理でしょ?」

 その言葉が晴人の心臓を鷲掴みにし、鼓動を止め呼吸すら困難にする。

 目を伏せると思い出す、昨日雄介とした会話。

 軽い内容であったにもかかわらず、理解できない専門用語が多く、知識や経験の差が途轍もなく広がっているのは明らかだった。いや、中学三年の時から既に彼は遥か先を歩いていたのだ。それを肌で感じていたからこそ、大会に情熱を傾ける事が出来なかったし、創作を続ける事も無かった。

 自分はいつもそうだった。導き、手招きをし、気が付くと置き去りにされている。そこにこだわりを持つ事も無く、全てを切り捨てる事で自分を保っていたのかもしれない。

「そうですね。最後に会えて良かった。ありがとう夏樹さん」

 晴人が顔を上げると、夏樹さんが目に涙を浮かべこちらを見ている事に気が付いた。

 ああ、多分この人は優しい人だ。そう思うと、自然に笑みがこぼれる。雄介の中では永遠に追い付けない神のような存在が必要なのだ。そして、それは本当の河合晴人では無くて良い。いや、むしろ自分以上に彼を心配し、気づき、真剣に考える河合晴人が目の前に居るではないか。

 彼女はこれからも毎年彼を導いていくだろう。その役目は…自分には到底出来そうも無いのだから。

 椅子から立ち上がる晴人に、夏樹さんが声をかける。その声は今までのような冷静な口調ではなく、迷いに満ち震えていた。

「晴人さん…本当は…貴方が雄介さんを…いえ…何でもありません。ごめんなさい。これ、電車の中で食べてください」

 そう言って夏樹さんは、青い空の絵が印刷されたランチクロスを渡す。

 晴人は、想像以上に重いそれを受け取ると、リュックの奥底にしまい込む。

 彼女が最後に伝えたかったであろう内容は、全く理解できなかったのだが自分には必要のない事だと思う。彼女は聡明で、自分以上に雄介を大切に思っている。それだけで十分だった。

「駅まで…送りますね…」

 夏樹さんはそう言い、席を立つ。


 玄関を出た彼女は、振り返る事無くガレージに止めていた真っ白いアルファロメオに乗り込む。そして、サンバイザーに挟んでいた淡い色のサングラスをかけた。そのせいで、彼女がどんな表情をしているのか終始わからなかった。『送りますね』以降、一切会話は無い。

 ただ、晴人はそれが一番良い選択だと思った。

 車が駅のロータリーに付くと、晴人は膝の上に置いてあるリュックと共に道路へ降り立つ。空いた方の手でドアを閉めながら、

「夏樹さん大変お世話になりました。晴樹君にもありがとう、楽しかったよって伝えてください」

 そう言って優しくドアを閉め、振り返らずに駅構内へ晴人は進んで行く。背後からはV6エンジンの小気味よいサウンドが遠ざかる。リュックに手を突っ込むと、昨日買った時刻表がすぐに手に触れた。それを取り出すと、人もまばらなベンチに腰を掛け、秋田へ向かう路線を探す。

 時刻表によれば後数分に電車が来るそうで、和馬の形見が非常に役に立つ。

 滑り込んで来た電車に乗り込み座席に座ると、目的地までの乗り継ぎ回数を調べてみた。少なくとも3回以上の乗り継ぎが必要で、おおよそ5時間程かかる。その間晴人は目を瞑り、自分が仙台での過去を思い出していた。


 一番古いのは、中学に入りパソコン教室に通いたいと言った時、父親は喜んでいたのだが母親は反対だったようだ。母親が難色を示した理由は、習い事としては高い割に将来の選択肢が増えない。入試に差し支える。そして、最新技術が出ると途端に無用の知識になるという事らしい。

 まあ、それほど間違っては居なかったが、一番の理由は自分の予定したルートから大きく外れる事が不満だったみたいだ。

 母親は常に全てを把握し、コントロールしたかったのだろう。

 それが原因なのか、父親は距離を置きたがっていた。

 だからと言って、家庭ごと投げ捨てられたのでは子供としてたまったもんじゃなかったのだが。

 金銭的にも、最初から厳しかったのは当時子供だった自分でも気が付いていた。

 左遷された父親と、引っ越しを機に会社を辞めた母親。収入がかなり落ちた筈だったが、なかなか生活水準を落とす事が出来なかった。そんな両親が最初に目を付けたのがパソコン教室だ。今となっては、続けていたとしてもただの趣味程度だったと思う。理由は、雄介ほどの情熱が無かった。それに尽きる。だから、教室を辞める時も大した抵抗はせず、『お金が無いんじゃしょうがないね』といい素直に受け入れた。

 作品を勝手に応募したのは、辞める前に講師に作品を見せたかったと言うのもあるが、一番の理由ではない。思い入れが無かったので、雄介がどんな思いで作品に向き合っていたのかと言う所まで気が回らなかった。それだけの事だ。

 プログラムに関しても、理解せずにパターンで覚えていたので応用が利かず、出来る事は勉強量に見合わない程になっていた。教えていた雄介に教えられるようになった時、丁度クラス替えで別々になり、どれほど救われたか今でも思い出す。既に興味を失ったプログラムに対して、いつまでも興味を持ち続けるフリを四六時中しなくていい。部活で顔を合わす時だけ、彼と同等の意見に聞こえれば良かったのだ。

 最後に作った作品でさえも、切り貼りでどうにか形だけを保った粗悪品だったと当時ですら思っていた。だから、パソコンが壊された時も内心は『助かった…これで理由が出来た』といった思考が真っ先に浮かんだくらいだ。

 秋田に向かう電車の中で、『松尾晴人はこの世から消え、河合晴人として再スタートを切る。次こそは思い描く人生を歩むんだ』そう意気込んでいた。そんな自分を、雄介はそれほど大切に思ってくれているとは夢にも思わないまま。

 

 晴人はある程度頭の中を整理し終えると、あれほど食べたにもかかわらず空腹を感じた。

 SUUNTOは十二時を表示している。次の終着駅まで一時間以上あったので、リュックの中にある包みを取り出すと膝の上に広げた。

 中には英字新聞がデザインされた紙の箱があり、蓋を開けるとサンドイッチがギッシリ入っている。個別にラップされていたサンドイッチは、晴人が食べやすいように気を使っていており、夏樹さんの気遣いを感じた。一口齧りつくとバターの香りが鼻に抜け、ふわふわの食感は歯触りが良い。具材はレタスやチーズそして生ハムなどが挟まれており、塩味も食感も計算されつくしている。ハムだけではない。エビマヨや卵サンドなど、全て違う具材で飽きが来ない。

 彼女はこれを作るのに、一体何時に起きたのだろうか。それも、早めの朝食の準備まであるにも関わらず。

 彼女は夜寝られなかったのではないのか。ふと、そう思った。

 今朝話した内容をずっと心に秘め、何が起こるか分からない状況に怯え、どの様に話せば雄介との関係を今までと変わらず続けて行けるだろうか。それを…ずっと考えていたのではないのだろうか…それもたった独りで…。

 申し訳なさと、情けなさで晴人はいつの間にか涙を流していた。

 食べ終えた空箱とランチクロスを丁寧に折り畳もうとすると、箱の底に分厚い添え板がある事に気が付く。

 箱をどかすと、それは紙袋に入っていた。

 紙袋の中身は折り目の付いた一万円札が数十枚入っており、家中のお金をかき集めた事を感じさせる。そして、一枚の真っ白い便箋が添えられていた。

『晴人さんへ この度は大変失礼な態度を取ってしまい申し訳ございませんでした。おそらく、何らかの事情があって主人である雄介に会いに来たのだろうと思いました。私も、いつかは晴人さんに会うのだろうと思っておりました。その時は彼の元を去る覚悟がありました。しかし、貴方は主人の前で一向にその事に触れず、それどころか私をかばってくれました。それなのに、貴方のここへ来た事情も聴かず、追い出すような真似をした事をお許しください。大変失礼ですが、路銀もあまり持っていないとお見受けいたしましたので、少しばかりですが貴方の旅のお役に立ててください。旅の終着点に幸せが待っていますようお祈り申し上げます。 夏樹』

 手紙を読んだ晴人は書いたであろう時間を想像し、口元を緩める。

「山本雄介!お前は夏樹さんさえ居ればどこまでも生きていけるよ。全く大した嫁さんだ」

 そう、これを雄介に見られずに書く時間は、寝かしつけをしている時だけだ。その時には既に自分が年賀状の事に触れないと確信しており、追い出すまでのシナリオは描かれていた。彼女が妙に年賀状に関して突っ込んだ話をしたもの、確信をして聞いていたと言える。そして、自分がここに来た事情を話したがらないのも確認されていた。

 晴人は、ふとリュックの中に仕舞い込んだホテルのチラシを思い出す。どこを探しても無いのだ。もしかすると、ホテルのオープニングスタッフの話すらハッタリだったのかもしれない。

 そう考えると、このお金の意図もくみ取れる。名前の使用料…もしくは手切れ金。

 晴人は便箋と数枚の一万円札を財布に仕舞うと、残りをリュックの奥深くに忍ばせ俯きながら軽い眠りについた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る