再導
sunflower
栃木にて
二十年ぶりに降り立つホーム。
足の裏に感じる、コンクリートのざらついた感覚。
視線を上げれば、色あせたフェンスから覗く立ち枯れた雑草。
うっすらと錆が浮いた鉄骨剥き出しの支柱に、太い梁に乗せられた波打つミント色の屋根。
昨晩から降り始めた雨は、未だ降ったり止んだりを繰り返していた。
日の光が差し込んでくるような、隙間のある屋根だったが、この程度の小雨ならば濡れる心配はない。
昔はこの駅にも駅員が居たような気がしたのだが、現在は無人駅のようだった。
まばらな乗客のおかげで、多少ノスタルジーに浸る時間があったのは幸いだ。実の所、持っている交通系ICカードが使えるのか不安で、改札まで行くことに河合晴人は躊躇していた。しかし、駅舎の奥から改札通過時の音が聞こえてきた事で胸を撫でおろす。
改札を抜け、目に飛び込んで来たのは思い出にある無数の四角いガラスのブロックで埋め尽くした壁だったが、その時に感じていたスケールとは程遠い感じがした。
まるで、思い出をミニチュアにした博物館へ来た感覚だ。
実際に触れてみると、予想に反して少しひんやりしている。
歪んだガラスに映る自分は、あの時よりも肌の色は青白く、あの時にはかけていなかった黒縁の眼鏡は薄く曇り、あの時にはしていなかった長めの七三分けは、湿気で軽くカールしていた。いつの間にか眉を整えるようになり、半日が過ぎればうっすらとひげが生える。変わらないのは大きな二重の目と丸顔。そして大きな鼻だけだ。
駅舎にあるベンチに腰を下ろすと、十数年前に送られてきた数枚の年賀状を大きくなリュックから取り出した。その中から一枚のはがきを選び、他の物は大切に中身の乏しいリュックに片付ける。
ハガキに記された住所は、やり取りの続いていた八年前までは変わっていなかった。その後はと言うと、晴人が大学四年生の時以降返事が帰って来なくなったので、現在の彼が何処に住んでいるのかはわからない。したがって、未だに三浦和馬がその家に現在居る可能性はかなり低いと言える。最悪、彼の現在住んでいる場所を聞ければと思い、実家へ向かったのだ。
自分でも思うのだが、かなり非効率だと思う。しかし、連絡手段の無い晴人にとって、それぐらいしか出来ない。
和馬が通っていたのは何県か跨いだ旧帝大学。
おそらく就職活動に苦労しなかったと晴人は思っており、就職後に大学の近辺に住んでいる事も考えられる。もし、大学の近辺に住んでいるのであれば、晴人の計画においては都合が良い。
和馬と頻繁に連絡する関係を築けていれば、このような不安などありはしないのだが、自身の現状を伝えたくないとの思いから、年賀状だけの関係にしていた。正確に言えば、劣等感から会いたくなかったのだ。
今朝、数年ぶりに部屋を整理していて、出て来たのが年季の入った数枚の年賀状だった。
懐かしさから、部屋のパソコンを使い地図アプリで年賀状に書かれていた住所を片っ端から調べてみると、晴人が現在住んでいる場所から随分距離が近い事に気が付いたのだ。
今までの思い込みでは、思い出の土地に行くには一日くらい移動にかかると思っていた。しかし、実際かかる時間はそれほどでもない。
各駅停車でも行くことが出来る距離。
それが現在の自分には、えらく魅力的に感じた。
いや、会える人だけでも会わなければ最後にはきっと後悔するだろう。
その強迫観念もあり、自分の持っている一番大きなリュックを担ぎ、着替えと年賀状と財布だけを持って晴人は躊躇いなく家を後にする。
そして、最寄りの駅で下りの電車に飛び乗った。
現在、晴人がこの駅に居る理由だ。
「どうしようかなぁ」
駅舎から出ると、駅前の風景はかつて彼が過ごしていた頃の雰囲気とは違い、見慣れない建物や記憶よりも広い道路が敷設されていた。
普段ならばスマホで道を検索しているのだが、それを持つ勇気が今の所無い。おそらく、手元にあったとしても電源を入れる事は無いだろう。
「和馬の家は…」
独り呟き、こめかみに指を強く押し当てながら昔の記憶を手繰る。
幸い、小雨は止み濡れた道路の匂いだけが辺りを包む。
そのおかげで、電車に乗る時に折りたたんだ傘は、もう広げなくて良さそうだ。
うっすらとした記憶を頼りに数分歩くと、思い出にある住宅地に差し掛かった。
この、白い木製のポーチがあるにも関わらず、短い石畳もあるアンバランスな家はおそらく和馬の家だ。
サビの浮いた黒い門扉の脇にあるインターホンの前で、晴人は立ち止まる。
ガレージには黄色いスポーツカー。
いつかの年賀状に載せていたその車だ。
ここで間違いないのだが、どう言って和馬を呼んでもらおうかと思い悩む。
時間にして二十年が経過した晴人を見て、どういう反応を示すのかが怖くなった。それと同時に、年賀状を断ち切られた恐怖も過る。
ここまで来て不審者として扱われるのは非常に気まずくもあり、精神的に持ちそうにもない。だとすれば、ここは通り過ぎるべきなのか…。
そんな事を考えていると、背後から人の気配を感じて振り返る。そこには見覚えのある女性が立っていた。
「晴人…くんよ…ね…」
声をかけてきた女性の首元には、当時無かった皺が目立っており、目じりのシミや張りの無い口元から既に初老の雰囲気がある。
失礼な話なのだが、記憶にある時点で既におばさんの域だった和馬の母親であっても、二十年後だと言われて納得するのには難しく、祖母という事はあり得ない。
「はっ…はい…」
晴人の脳内では、和馬の母親だろうという事は理解できているのだが、どうしてもその見た目から伝わって来る感覚として拒絶している。
「和馬…に、会っていく?」
えっ?
和馬が実家暮らし、もしくは帰省している事はこの上なく嬉しい誤算だった。
ただ、現状を多く語りたくない事もあり、露骨に躊躇してしまう。
「そっそうですね…和馬が忙しくなければ…それに俺、この後も予定あるし…」
確約された予定など無い。
現状を聞かれたくないと思う心から生まれた虚構だ。
現在の精神状態から、忙しくありたかった…とは言える。
そうは言っても和馬は本当に実家暮らしなのだろうか。そういう疑問もあった。
「少しでいいから…会って…欲しいの」
晴人の迷いを感じたのか、突然祈るような目つきで和馬の母親は自分に懇願してきた。
それは、どう考えても良い知らせではない。しかし、母親の表情を見た後で会わない選択肢など無くなってしまった。
思い出の中にあった真っ白いポーチは朽ち果て、全ての鉢植えは枯れたまま放置されている。
和馬の母親に誘われるがままに、オレンジ色の玄関の扉を開けて和馬の家に入った。
小学生時代であれば、エントランスの脇にある少し急勾配な木製の階段を駆け上がり、二階の部屋に一直線だったのだが、この年齢ではそうもいかない。母親に誘われるままにリビングに向かい、そこを通り越して奥の座敷の間に案内される。座敷に通じるガラス戸を和馬の母親が引くと、中から線香の香りが漂ってきた。
晴人の記憶にはほとんどないこの部屋は、かつてお泊り会などをした時くらいしか入ったことが無かった。
入室した時の空気の揺らぎで、蓄えられた灰がホロっと零れ落ち、下から赤々とした燃焼部が顔を出す。
どんな鈍い人間であれ、この時点で…いや、その前から何となく想像はできてはいた。そう、晴人は準備が出来ていたにも関わらず、それを受け止められる程に晴人の精神力は強くない。そして現実ではない事を、浅はかにも祈っていたのは事実だ。
急に年賀状が来なくなったこと。
長期休暇でもないにも関わらず実家に居ること。
学生時代に買った黄色いスポーツカーが、ガレージの奥に砂埃をかぶって止まっていること。
全ての現状が、晴人に両親の想いまで伝えてくる。
仏壇に近づくと、なんとなく見覚えがある…その程度にしか感じる事ができない写真が飾られていた。そう、あまりにも痩せすぎで、あまりにも目に力が無い。控え目に言ってもいたたまれない写真だと言える。
晴人が立ち尽くしているうちに、いつの間にかお茶を用意していた母親がお盆を置きながら話しかけてきた。
「晴人くん、この写真…おかしいよね。けど…和馬らしいでしょ?『俺が死んだら、絶対この写真を飾っていてくれ。晴人が必ず来るからさ…』この…今にも死にそうな顔…している写真なのに…ね。なんで見せたかったのかしら…和馬は本当に変な子だったでしょ?」
「あいつらしいです。いつも必死で、手を抜くのが苦手で…いつも足掻きながら生きている…その瞬間を俺に見せつけてやりたかったのでしょうね」
最初出会った時、「おれ、誰よりも頭いいんだぜ」そんな台詞を恥し気もなく口にしていた和馬。算数のテストで俺に負けた時、「腕が骨折してたんだ。痛くて答えが書けない」とか言いながら保健室に向かう彼を、教室の誰もが無視していた。
実を言うと、それまでの晴人もずっとそちら側に居たかったのだが、ある事件が晴人を変えた。
それは先生が作った算数の小テストだった。
おそらく、和馬が生きていたとしても「思い出せない」と間違いなく言うくらいくだらない理由。
語り出すと鮮明に思い出される和馬の顔は、まだ小学生だ。
示されているのは、箱の二辺の長さと体積だけ。
それを頼りに残りの一辺を割り出す問題で、塾に通っていた晴人には見慣れた問題だった。だからこそ、晴人はその問題を見て気が付いた。
これでは条件が少なすぎて解けない。
それを指摘していいかどうか悩んでいる表情を、問題が解けずに考えていると勘違いした担任が晴人を当てた。黒板の前に立たされ、問題を確認するが、やはり回答の組み合わせは無限に存在している。
「どうした、こんな問題も解けないのか?普段から簡単そうに解いているじゃないか」
晴人はその時の担任の表情を見て、最近目立ち過ぎた罰なのだ、そう解釈するしかなかった。普段から別解などを披露し、周囲から賢いと思われているのを不服だったに違いない。悔しいが、この状況をどうにかする知恵と勇気がこの時の晴人には無かった。
「先生、先生が解いてみてください」
和馬が声を上げた。
「これはな…」
先生は一瞬言葉に詰まると、黒板に書かれた問題に条件を付けたしたのだ。
「自分が間違っていたんじゃんか。晴人に謝れ!」
和馬は大声で担任に叫んだ。
それが合図のように、クラスの皆が騒ぎ出す。
「うるさい!例え問題が変わろうと、こいつには解けないんだよ!」
先生は更に熱くなり、教卓を出席簿で強く叩いた。
一瞬静まる教室。
「おやおや、教員にあるまじき言葉遣いですね…」
「教頭…先生…」
担任の顔がみるみる青ざめていく。
教頭先生はバーコード頭で、眼鏡は瓶底の様に分厚く、痩せた身体にいつもブラウン系のスーツ。テレビで見る大学教授のような見た目にもかかわらず、晴人には言葉遣いの丁寧な魔王にしか見えない。
「この後、お時間いただけますか?」
言葉は優しそうなのだが、その声は子供心にも理解できる程度には強い感情を含んでいる。その教頭先生の傍らには、和馬が息を切らせて立っていた。
あの瞬間に、教室を抜け出して教頭先生を探しに行ったのか?
その時、こんなくだらない事は黙ってやり過ごすのが最も賢いと斜に構えた自分が、なんともつまらないちっぽけな存在に思えた。この時初めて、諦めずに必死に行動する和馬に魅了されたのだ。
無い知恵を絞り、どうにか問題を解決しようとする彼の姿勢は、晴人の中で今でも輝いている。
「晴人…一緒に帰ろう…」
恐る恐る声をかけてきたのは和馬だった。
教室を見渡すと、問題児が優等生に絡んでいる。皆はそんな目で見ていたのが何故か許せなかった晴人は、全員に聞こえる声で答えた。
「当り前じゃん!戦友だろ」
帰り道は小学生らしいくだらない会話がほとんどで、晴人はこの時に家族とよく登る『男体山』の話をした事を辛うじて覚えていたくらいだ。今となっては何がそんなに面白かったのか少しも思い出せない。
そんな時間も長くは続かず和馬の家に着いてしまう。
和馬の表情は少し寂しそうで、いつまで経っても家に入ろうとしない。
「今日、家で遊んでかない?」
意を決したのか、和馬が誘ってくる。
「いや、塾があって…てか、お前勉強してないの?」
一瞬、晴人は我に返った。
毎日頑張っていた自分と、教室でもまともに勉強しない和馬との差が、驚くほどに少なかったのだ。
「勉強とか、そんな楽しくない事しても意味なくない?」
「とにかく、今日はダメだけど明日ならいいかも?」
真顔で言う和馬に苦笑いを浮かべ、晴人は小走りで帰って行った。
いつの間にか思い出話をしている晴人は、のどの渇きを癒すために青白く繊細な造りの湯呑に口を付けた。
淡い黄緑色のお茶を口に含むと、青々しい爽やかな香りの中にほんのりと甘みを感じる。お茶に詳しくは無いのだが、良い物なのだろうと想像する。
「そんな事があったのね。あの子ね、晴人君と初めて一緒に帰った時、『めちゃめちゃ頭のいい子と友達になったんだよ!ほんっと凄いんだって』そう自慢してきたの。『あいつは俺の右腕になるべき人間だ』とか…何様だよね」
そう言うと、母親はいつの間にか流れていた涙を拭きとった。
「思い出話も…とうに慣れた感覚だったのに…ごめんなさいね」
「いえ…」
晴人もくぐもった声で返すのが精いっぱいだった。
「あの子を勉強に目覚めさせてくれて、本当に晴人君にはどんなに感謝しても足りないわね」
そう言って和馬の母親は晴人の手を取ったが、他人の手柄を横取りしたような申し訳無さからそっとその手を抜く。
「それは…教頭先生のおかげだっただけなので」
次の日、朝から学校の中庭を掃除している和馬を見つけ、晴人は急いで駆け寄った。それは遊びに誘うためではない。教頭が傍らに立っていたからだ。朝の掃除は、晴人の学校では罰のようなもので、昨日の一件で和馬も怒られていると咄嗟に判断したからだった。
「教頭先生、和馬は悪くない」
必死の形相で叫ぶ晴人に、教頭先生はいつも通りの柔らかい声で、
「知っていますよ。一部始終を見させていただきましたから。とても勇気ある行動です」
「じゃあ、何故…罰掃除なんか…」
晴人が困惑していると、和馬が笑いだした。
「お前もそう思うだろ?掃除とかつまらないって!けど、教頭先生が毎日ここを掃除してるの見て、何で掃除してんの?って聞いたらこのざま」
手に持った竹ぼうきを晴人に見せつける。
「どうですか?自分が掃除して奇麗になった中庭を見て何か理解できましたか?」
「ん~わからん!わからんが、やってやったぞ~って気分にはなる」
教頭先生は小さく笑い、
「その気分を味わいたくてやっているのです」
「へぇ…そうだったんだ」
和馬の眼は、語られた言葉から想像できない程に真剣な輝きをしている。
「人間、大抵の事には理由があるものです。もし、掃除しても掃除しても汚れる方が早いようでしたら、私は掃除などいたしません」
教頭先生はきっぱりと言い切った。
その、明瞭な答え方に晴人は引き込まれる。
「教頭先生…何で勉強しなきゃいけないんですか?」
晴人はぼんやりしているが、いつも脳裏にへばりついている疑問を投げかけていた。
「それはですね、小、中、高、大と学ぶ所によって違いますが…そう、小学生が学ぶ意義は、人生の土台を作る為だと私は考えています」
「土台?なんの?」
自分の話題から外れ、遠くへ行っていた和馬が竹ぼうきを投げ出して駆け寄る。
「知識の土台とでも言いましょうか…大きくなって…そうですねぇ、ニュースキャスターに晴人君がなったとします」
「漢字が読めないと困る」
晴人が食い気味に答えると、教頭先生は小さく笑った。
「国語ですね。それも必要ですよね。それだけでは無く、社会科の知識も必要になるんですよ。例えば…夏祭りのニュースを読む時、そもそも何で夏に祭りがあるのかとか、そもそも祭りにはどのような意味があるのかとかわからないまま原稿を読む事になります」
「わからないまま読んじゃだめなの?」
和馬が横から口を挟む。
「ダメではありません。ありませんが、国語の朗読で言われませんでしたか?」
「感情を入れて読むには、物語を理解して読まないといけない」
二人は声を合わせて答えた。
「そうです。貴方達は理解が早いですね。素晴らしい。ですので、お祭りの記事を読むにはお祭りの勉強が必要です。お祭りの勉強をしようとすると、日本全国にどんな祭りがあるのか、そこから勉強しなければならない。しかし、」
「それやった!社会の時間に、なまはげとかねぶた祭とか!大体、なまのはげって何なんだよ?それに、寝る豚を祭るとか意味わかんない!」
和馬は相変わらずとんでもない受け答えをする。そして、担任からはその度に無視されていた。従って、正しいお祭りの起源を和馬は知らない。晴人はそういう疑問を塾で学んでいたのだ。
「そう、お祭りの意味を考えているのは、非常に優秀です。ちなみに、なまはげとは怠け心を戒め、悪霊や厄を追い払う為にあのような恐ろしい姿なのです。ねぶた祭りは眠り流しと言われ、夏の疲労や睡魔を追い払うと言う意味があります。寝る豚…和馬さんの本質に近い回答、流石です。そのように、広く浅く知る事で、自分が調べたい事柄を何処から手を付けなければならないか、それがわかるようになります」
周りの大人で、これほど明確に答えを言う大人に会ったことがなかった。
晴人はこの時初めて勉強の意義とは、ものすごく深い事だと痛感した。
「いい大学に入るためじゃないの?」
更に、晴人はよく言われていた回答を言ってみる。
「それは結果ですね。良い大学…では、何をもっていい大学ですか?東大ですか?ハーバード大学ですか?ケンブリッジ大学ですか?マサチューセッツ工科大学ですか?」
有名そうな大学の名前だが、晴人は東大しかわからなかった。
「そんな事はね、忘れてしまいなさい。晴人君が素晴らしい専門家になる為の学びが出来る大学が、一番いい大学です。そう、大学時代の勉強とは、より純粋な知識を得るために行くところなんですから」
「俺は?俺は?」
和馬が教頭のスーツの裾を引っ張り、気を惹こうとしていた。おそらく、あまり興味が無いので飽きたのではないか。そう思っていたのだが、教頭先生は和馬の目を見て優しく答えた。
「和馬君は本当に賢いね。普通なら、晴人君に言った言葉は皆に当てはまりそうだと言うのに、自分は違うのではないか不安になった。もしくは、もっと良い大学が自分の入るべきところだとでも思ったのでしょうか」
そう言った途端、教頭先生は大声で笑いだした。こんなに笑ったところを見るのは、これが初めてだ。いつもにこやかにしているが、これほど感情を表に出している所を晴人は見たことが無い。
「和馬君は、今みたいにつまらないと思う暇が一切ない大学へ行ってください。誰もが憧れる大学ではなく、貴方が他の事に囚われず、心の底から充実して楽しめる大学へ」
そう言うと、教頭先生は和馬の頭にポンポンと軽く触れる。
「俺でも行ける所があるの?うちのお母さん、『あんたはお兄ちゃんと違って、高校生にもなれないんだから』って、毎日言ってくるよ?」
「えっ?お母さんにそんなこと言われるの?」
晴人が言ったこの言葉に一切の悪意はなく、むしろ母親と話す時間がある羨ましさから出た言葉だ。
「それは、和馬君が言わせているんですよ。宿題とか、勉強とかしないでしょ?」
「それはそうだけど…言われたら勉強なんてしてやらないって思うもん」
和馬の感情の起伏は激しく、今度は消え入るような声だった。
「勉強はね、してやらないとかしてあげるではないのです。ご飯を食べてあげるとか、寝てあげるとか言わないようにね。自分に必要だからする事なのです」
教頭はいつの間にか座り込んでおり、目線が合うからだろうか、晴人はクラスメイトのように感じていた。
「俺は、いい成績を取ったら気分がいいからやるよ!」
晴人は数少ない、和馬にとって勉強の良い所を教えようとした。その脳裏には、ぼんやりだが『俺って頭いいんだぜ』と言った彼の顔が浮かんでいる。自己承認欲求剥き出しの言葉には、自分が母親に言われたこの言葉が響くはずだ。
しかし、その読みは外れた。
和馬は、言葉を選びながら発言する。
「ごめん、言いたかった事が…何となく違う。言われたからやりたくないと、やる意味がわからないは違う。うまく言えないけどさ」
教頭は微笑むと、晴人の頭を一撫ですると目を見てゆっくりと語りかける。
「誰かと競争する為にした土台作りは、本当に苦痛だったのでしょうね。人間は生きている間、ほとんどが競争です。けれど、競争では得られないものもたくさんあります。もし、競争に疲れたならゆっくり休みなさい。そしてしっかり掃除をすれば、きっとあなたの人生もすっきりしますよ。この、中庭のように」
この言葉はすぐに忘れたと思っていたが、今でも晴人の心に残っている。
「とにかく、凄い奴になるための下準備が今の勉強って事だね!」
和馬が飛び跳ねながら教頭先生の周りを回っている。
今まで嫌悪感を抱いていた和馬の突飛な行動が、やけに温かく思えた瞬間だった。
「さあ、朝の時間が始まりますよ。急ぎましょう」
教頭先生は散らかした掃除道具を手早く片付け、二人を玄関へ入るよう促す。
その一件から、晴人は和馬と毎日一緒に帰り和馬の家で勉強した。そのほとんどが、和馬の苦手な算数だった。勉強と言っても晴人が教えていたと言っていい。ただ、和馬は一つの問題の中にある小さな疑問を全て聞いて来た。新しい解き方や、言葉の意味や、歴史の背景まで。和馬の疑問に答えるだけで、晴人の成績はどんどん伸び、校内でもトップを争う程となった。その相手はいつしか和馬になり、卒業間際では塾を辞めた晴人では追い付けないくらい和馬とのテストの点差は開いていたのだ。
「ですから、和馬を導いたのは教頭先生です」
晴人は和馬の母親に教頭先生の話をしていると、あることに気が付く。教頭先生が話題に出していた内容のほとんどが、その時期学習した内容という事。それを的確に会話に混ぜ込んでいる事。
晴人は今になって、ようやくそれに気が付いた。
教頭先生はあれだけいる生徒の学習内容を把握し、それぞれの特徴を理解していたのだ。
「ううん、教頭先生はきっかけよ。あの子、ハル君に勝てれば死んでもいいって、必死に勉強したのよ。良いライバルが居なきゃ火もつかない子だから。もしかすると本当に自分が若くして死ぬことを知っていたんじゃないか…とか思ってしまうくらいに」
「それは無いです。大学卒業したら、一緒にエジプト旅行しようって昔の年賀状に書いていましたから」
晴人の記憶の奥底に眠っていた約束が、和馬との思い出を語る事で蘇る。
「そうだったわね…私もそう言えば、何度か和馬に聞かされていたかしら?」
とうに忘れていた晴人だったが、何故か和馬には旅行の約束を覚えていて欲しかった。それがどんなに我儘だと言われたとしても。
「あの子、大学…いえ、高校生の頃から晴人と一緒に研究がしたいってずっと言ってたの。どんな研究でもいい。世界中の学者が数十年かけても解けない問題を、何年もかけて二人で挑むんだ。俺が問題点を見つけて、晴人が考えるんだって…余程あの頃の時間が楽しかったんじゃないかしら。多分、旅行よりもずっとずっと楽しみだったのだと思う」
和馬の母親は、とめどなく流れる涙を気にもせずに晴人に笑いかけていた。
「俺が…もっと早くに…来ていれば…」
「あの子…会わなかったと思うなぁ。ほら、私が言うのもなんだけど頑固じゃない?博士になるまで…多分ね…」
それは優しさからなのか、それとも本気でそう思っていたのかは解らなかったが、その言葉で晴人は幾分か救われた。それと同時にいたたまれない気分に苛まれる。自分がそれほどの実力を付けなかった事。そして、それほど大切に思ってくれていた友人と会わなかった事。そして、自分にはそれほどの価値がある人間では無くなった事…。
その事を思いながらお茶を飲み干す。喉を通るお茶は、先ほどと同じ飲み物と思えない程に渋く感じた。
「その…」
「あっごめんなさい…この後予定があったのね」
涙を拭った和馬の母は、もう泣いてはいない。ただただ、強い眼差しで晴人を見つめていた。
「ありがとうございます。和馬に会えて本当に良かったです。では、失礼します」
玄関から出る瞬間、何かの反射光が目に入る。
光源方向がある靴箱に視線を向けると、木目調の壁に登山用の時計が壁に掛けられており、その文字盤が昼前の光で輝いていた。
「ふふ、気になったのね。それはね、和馬の忘れ形見よ。持って行って貰える?随分高かったみたいよ…。晴人君が何処へ向かっているかはわからないけど、あの子も連れて行ってあげて…あの子が亡くなる間際まで、ずっと眺めていた時計なんだから」
そう言うと、和馬の母親は壁に引っ掛けられていた時計を外し、晴人の手に巻く。
「そんな、高価なもの…それに、形見でしょ?」
「だからよ、あの子がずっと家に居るなんておかしいもの。けどね、何年かに一度でいいから、見せに来て欲しいの。和馬と共に歩んだ晴人君を」
両手で包むように渡された腕時計は、正確な時間を刻んでいる。おそらく何度か電池交換をし、丁寧にメンテナンスされていたのだろう。
「バカみたいでしょ?それを買ったのは癌とわかってからよ?部屋から一歩も出れないのに、これ付けて山を登るんだって…」
聞き辛かった和馬の死因は、癌だった。若い時に発症すれば、まず間違いなく死ぬことをわかっていた筈だ。
「きっと…きっと見せにきます」
力強く答えると、そのまま振り返る事無く道路まで飛び出した。急ぐ当てもない旅路の指針は、この時計に備えられているコンパスが指し示す。そんな気がしていた。
今朝からの雨は完全に上がり、晴人は秋晴れの空を眺める。そして駅舎に戻りもう一枚の年賀状を取り出した。
「北へ向かおう」
駅舎まで帰ると数分前に電車は出発しており、三十分近くここで待つことを余儀なくされた。
ようやく乗り込んだ電車の中、晴人はスマホが無い事で目的地に何時到着するかさっぱり見当がつかない。もしかすると駅で野宿になる可能性もある。それでも行きたいかと聞かれれば、答えは曖昧だった。ただ、当初思い描いていたこの旅が、想像を超えて全く予想もしなかった方向に転がり出したのは事実だ。自分の歴史に興味を抱いた事が原動力となり、晴人を前へ前へと押し進める。
それに、今は一人きりの心境ではない。腕に巻かれたSUUNTOの時計が導いてくれるはずだ。そんな気がしていた。
途中、新幹線も止まる大きな駅に立ち寄った時に路線図を買い、自身が居る場所の全体像を初めて把握する。それを見ると、あまりにも無謀な計画だと理解した。
次の目的地まで、少なく見積もってもまだ数時間はかかる。新幹線に乗り換えようとも迷ったが、急ぐ必要が見つからず、そのまま各駅停車で旅を続ける事にした。
長い旅路の中、この地を離れた理由が頭の中を巡る。
卒業を控えた晴人が学校から帰ると、突然母親が駆け寄って来た。その勢いのまま抱き抱えると母親は小さく呟く。
「お父さんが浮気した」
小学生の自分としては、言葉のイメージと現実の問題があまりにも距離があり、自分が置かれている立場がどの辺りなのか全く想像できなかった。今となっては理解できる。母にとって一大事であり、今までの生活を一変させる緊急事態だ。
「離婚…するの?」
自分の知識の範疇にある結末を母親に尋ねる。
「いや、向こうと別れる…って…。でも、住むところは変える。もちろん、お母さんも仕事辞めるわ」
この話を聞いた時は小学生だ。知識不足もあって、これらの言葉はただの文字列だった。それすら理解できていない母は続ける。
「お母さんも悪かったの。仕事一筋で家事もしなかったし、お父さんの事、ちゃんと見れていなかった。それに…」
この後に続く言葉は今なら予想できるのだが、それほど重要な情報ではない。それどころか自分の生活が一変する事への謝罪や、これからどうなるのかなどの情報が一切ない事に落胆した事を覚えている。
数年間経って、ようやく理解した内容はこうだった。浮気をしたのは同じ会社の女で、両方を転勤させるという処分で会社は処理した。
母は父を監視する為に仕事を辞め専業主婦になる。ただそれだけの話だ。
しかし、晴人には若干期待もあった。
毎日誰も居ない家で一人ご飯を食べ塾に通う。その繰り返しから、母親の手作りのご飯を食べられる。それだけでは無い。学校の話も聞いてくれるかもしれないのだ。
普通の年齢ならば反抗期も始まり、家族と話す事すら嫌悪感を抱いてもおかしくなかったのだが、家族との会話に飢えていた晴人にとってそのような感覚すら今でも贅沢に思っている。
反抗期とは言わば愛情の贅沢病だと。
両親の話し合いの結果、どうにか卒業式まではここに残る事が出来たのだが、父親は先に転勤を余儀なくされた。
卒業式の準備と引っ越しの作業に追われていた晴人は、卒業式当日にようやく和馬の家にお別れを言いに行く。しかし和馬は、真剣な表情で『引っ越しなどせずに、ウチに住めばいいじゃないか』など、ありえない事を提案した。
今から考えると、和馬は真剣に提案していたのかもしれない。
正直言えば、小学生程度の人生経験では聞かされた話だけで状況を現実的に把握するなど不可能なのだ。聞いた話は、誰がそれを話したのか、何故それを話すのか、そして隠された真相はおそらくこのような内容では無いのか。そこまで考えても、ようやく物事の輪郭が見えてくる程度だ。自分の身に起こっている現象を、思考モデルとして構築する為に使われる材料。その人生経験が皆無なのだから。
至極単純に言えば、小学生である晴人には、何が起こっているのか微塵も想像できていなかった。
「それがわかっていた所で、状況が変わる事も無かったな…」
晴人から独り言が漏れると同時に、意識が窓の外へ向かう。
空は青黒く染まっており、時計を確認すると十八時を回っていた。
今まで思い返す事も無かった過去を延々と思い返すのは、恐ろしく時間を浪費する。忙しかった過去の自分には贅沢なのだが、スマホの無い今の晴人にとっては丁度良い時間潰しになる。
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