第二章:罠づくり 一、集められた手
須佐之男命は、庭に広げた布の上で、木の枝を使い地面に図を描いていた。 柵の配置、門の構造、酒壺の据え位置。八岐大蛇を誘い込み、その巨躯を封じるための罠。何度も描いては消し、思考の糸を紡ぎ直す。
「神子様」
不意に声をかけられ顔を上げると、櫛名田比売が立っていた。朝日を背負ったその姿は、朝露のように儚く、しかし一筋の光のように凛としていた。
「罠の、構想にございますか」
「ああ」
須佐之男は頷いた。
「まだ完璧ではないがな」
比売は彼の隣に静かにしゃがみ込み、地面の図を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女は遠い記憶を紐解くように語り始めた。
「父はかつて、この地を護る強き神の末裔でした」
須佐之男は手を止め、比売の横顔を盗み見た。
「その父でさえ、八岐大蛇という天災の前には抗えず、姉たちを奪われました。母は、あらゆる者に慈しみを注ぐ女神でした。里の誰もが母を慕い、母もまた皆を愛しておりました」
櫛名田比売は、両手を膝の上で固く組んだ。
「けれど、姉を一人失うたびに・・・」
彼女の声が、わずかに震えた。
「二人の心は、音を立てて折れていったのです」
須佐之男は何も言えなかった。ただ、彼女が独りで抱えてきた悲嘆の重さを、その沈黙で受け止めることしかできなかった。
「このまま、御子様に甘えてしまっていいのでしょうか」
「皆、聞いてくれ」
須佐之男の声が、広場に轟いた。
「八岐大蛇を討つための罠を作る。お前たちの力が必要だ」
どよめきが起こった。
「男衆には、柵と門の建設を頼みたい」
彼は地面の図を指差した。
「ここに堅牢な柵を巡らせ、八つの門を作る。大蛇の八つの首を、それぞれの門へ誘い込むためだ」
里の男たちが、身を乗り出して図を凝視した。
「女衆には、酒を醸してもらいたい」
今度は女たちの方を向き、声を張る。
「八塩折之酒。八度も醸し上げた、魂を揺さぶるほどに強い酒だ。これを大蛇に呑ませ、その五感を痺れさせる」
「本当に・・・」
一人の老人が、震える声で問うた。
「本当に、それで比売様を救えるのですか、お客人」
作業は、その日のうちに始まった。 男たちは山へ入り、木材を切り出した。大木を倒し、枝を払い、皮を剥ぐ。重い丸太を肩に担ぎ、険しい山道を下る。 須佐之男もまた、男たちと共に汗を流した。斧を振るい、木を薙ぎ倒す。その膂力は神のそれであったが、彼は決して独りで先行しなかった。里人たちと歩調を合わせていた。
「これで、比売様を助けられるんですよね、お客人」
若者が丸太を運びながら、須佐之男に尋ねた。
「足名椎様も、あの大蛇が来る前は立派な神様でな。里に災いが来れば、一人で立ち向かって追い払ったもんだ。」
老人が、重く口を開いた。
「だが、大蛇が来て、足名椎様はたった一人で満身創痍になるまで戦われた。だが、一人目の娘様を奪われて以来、その神力は衰え、日を追うごとに老いてゆかれた。今ではあのような白髪の翁の姿に・・・」
男たちの声が、沈痛な色を帯びた。 須佐之男は、黙って彼らの言の葉を受け止めた。そして、胸の奥で静かな焔が燃え上がるのを感じた。 この里の人々の想い。足名椎と手名椎への敬愛。櫛名田比売への切なる愛情。 全てを抱えて柵を見上げた。
夕暮れ時。 柵の骨組みが形を成し始めた頃、足名椎が作業場に姿を現した。背は曲がり、かつての力強さは影を潜めていた。
「神子様」
「はい」
須佐之男は斧を置き、足名椎と向き合った。
「順調ですか」
「ええ。里の皆が、実によく働いてくれています」
足名椎は、建設中の柵を見つめた。その瞳には、希望と不安、そして拭いきれぬ自責の念が渦巻いていた。
「娘は、本当に助かるのでしょうか」
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