二、母娘の涙、そして誓い

夜。

罠づくりに汗を流した里人たちが帰り、家の中に静けさが戻った頃。 櫛名田比売は、そっと母のそばに腰を下ろした。 囲炉裏の火がパチパチと爆ぜる。その明かりが、二人の影をゆらゆらと壁に揺らしていた。


手名椎は黙々と糸を紡いでいたが、その手つきはどこか心ここにあらずといった様子であった。 「・・・母上」

櫛名田比売が、ためらいがちに声を漏らした。 言葉にした瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。手名椎は手を止め、娘を見やった。その目は慈愛に満ち、同時に深い悲しみを湛えていた。


「私のような者が、神子様のお力をお借りしてよいのでしょうか」

比売の声は震えていた。七人の姉が呑まれ、自分だけが助かろうとしている。それは、誇り高き姉たちへの裏切りではないのか。 母は驚かなかった。まるで、娘の心に溜まった澱が溢れ出すのを待っていたかのように、手名椎は優しくその手を取った。


「比売よ」

母の声は、凪いだ水面のように静かだった。

「良いかどうかなんて、もはやどうでもよいのです」

「・・・母上」

「私は・・・」 手名椎の声が、わずかに揺れた。

「私はただ、あなたの命を惜しみたい。それだけなのです」


母の指は、かつて神の末裔としての無限の力と慈愛を宿していた。しかし今は、弱り、細く、震えている。

「七人の娘を失いました。そのたびに、私は自分を責め、呪い続けてきました。なぜ私が代わりに死ねなかったのか。なぜ、娘たちを護れなかったのか・・・」

手名椎の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「けれど、あなただけは失いたくない。あなただけは、生きていてほしい」


その言葉は、母が何年も胸の奥底に秘め続けてきた切なる祈りであった。

「だから・・・どうか、生きてください」


櫛名田比売は、耐えきれずに母の胸へ飛び込んだ。 二人は互いにもたれ合い、声を殺して泣いた。 姉たちを失った夜も涙した。父の力が衰えていく背中を見ても、涙は流れた。けれど、こうして母娘で魂を寄せ合い、共に泣くのはいつ以来のことだろうか。


櫛名田比売は、母の温もりの中でふと思った。 (皆が私を・・・惜しんでくれる) 里人たちの不器用な優しさ。父の静かな涙。母の魂を削るような祈り。 そして、あの神子様の誓い。 (ならば・・・私は、生きたいと願ってもよいのだろうか)


今まで、そんな贅沢な望みを抱く余裕などなかった。ただ、過酷な運命を静かに受け入れることこそが美徳だと信じていた。 だが、今は違う。 (あの神子様に・・・縋っても、よいのだろうか) 母の胸に顔を埋めながら、心の中の小さな灯火が、ようやくひとつの「意志」として形を成した。


その時である。

入口の方から、そっと衣が揺れる気配がした。

振り返ると、そこには須佐之男命が佇んでいた。 彼は二人の涙を、何も言わずに見つめていた。 気づかれぬように立ち去ろうとしたのかもしれない。だが、その瞳は深く、静かで・・・そして、かつてないほど穏やかな光を湛えていた。


櫛名田比売が息を呑むと、須佐之男は一歩だけ踏み出し、重みのある声で告げた。

「・・・櫛名田比売」

彼は、真っ直ぐに言った。

「私に・・・甘えてください」


その声は、ただひたむきな誠実さに満ちていた。

「お主は一人で、あまりに重すぎるものを背負いすぎてきた。俺がここに来たのは、お主に縋ってほしいからだ。」


櫛名田比売は、もう涙を堪えることができなかった。

手名椎は、娘の震える背を優しく押した。

「・・・比売。このお方に、すべてを託してみませんか」

比売は、涙で滲む視界の先にある須佐之男を見つめ、震える声で答えた。

「・・・はい・・・」

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2026年1月12日 19:00
2026年1月13日 19:00
2026年1月14日 19:00

古事記恋歌〜須佐之男の章 たけのはら @dandelion0516

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