五、芽生える想い

その夜、須佐之男命は老夫婦の家に身を寄せることとなった。 八岐大蛇を討つための策を練らねばならない。しかし、彼の胸の内では、軍略とは別の熱い想いが渦巻いていた。


(櫛名田比売を、守りたい) この感情は、一体何なのだろうか。 亡き母への執着とも、姉への甘えとも違う。ただ、彼女という存在をこの世から失いたくない。彼女の笑顔を見たい。声を聞きたい。彼女に、生きていてほしい。ただ、それだけを強く、強く思うのだ。


かつて高天原で荒ぶったとき、須佐之男の目には自分しか映っていなかった。己の悲しみこそが世界のすべてであり、周囲を壊すことに躊躇いはなかった。 だが、今は違う。 誰かのために、何かをしたいと願っている。初めて触れる、清らかな感情だった。


家の外では、櫛名田比売が夜空を見上げていた。 星々が瞬いている。静かに輝く七つの星は、先に往った姉たちだろうか。

「なぜ、あの方は・・・」

彼女の胸には、名もなき温かさが広がっていた。


七日後に大蛇が来るという現実に、変わりはない。死の影は今もなお、彼女の背後に色濃く落ちている。しかし、心の色は塗り替えられていた。

「私を、助けようとしてくださる」

これまで、誰もそんな言葉をかけてはくれなかった。 里の者たちは同情の目を向けながらも、仕方のないことだと背を向けた。父母は愛してくれていたが、ただ共に泣くことしかできなかった。 けれど、あのお方は違った。出会ったばかりの自分を、命を懸けて守ると言い切った。「生きろ」と、光を投げかけてくれた。


(もしかしたら・・・生きられるのかもしれない) 姉たちには叶わなかった未来が、自分には訪れるのではないか。 彼女は初めて、大蛇が去った後の穏やかな日々を夢想した。父母の笑い声。そして・・・あのお方の、不器用で優しい眼差し。


櫛名田比売は、自らの胸に手を当てた。 心臓の鼓動が、いつもより速く、熱い。 これは、恐怖とは違う。希望とも少し違う。もっと温かくて、もっと切ないもの。彼女にはまだ、それが「恋」という名であることを知る由もなかった。


家の中で、須佐之男もまた月を見つめていた。 「守りたい」 その独白を、心の中で幾度も繰り返す。 これが愛というものだろうか。母を愛し、姉を慕った情愛とは、明らかに似て非なるもの。相手の幸せのために己を捧げたいという、胸の奥が熱くなる思い。


高天原を追われ、虚無の中を彷徨っていた自分。だが今、初めて予感していた。 ここに、居場所があるのではないか。この少女の傍らこそが、自分の帰るべき場所なのではないか。


須佐之男は、拳を強く握りしめた。 七日後、八岐大蛇が来る。それまでに、万全の準備を整えねばならない。 櫛名田比売を守り抜く。 それこそが、今の自分にできる唯一のこと。そして、自分が心の底から望んでいる、真実であった。


夜風が、静かに吹き抜けていく。 二人はそれぞれの場所で、同じ月を、同じ星を仰いでいた。 まだ名前のない小さな想いが、出雲の夜に静かに芽吹き始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る