四、助けたいという衝動

「私が、助ける」

須佐之男命の断言に、老夫婦は目を見開いた。 足名椎が震える声で言った。

「尊きお方・・・しかし、八岐大蛇は恐ろしき化け物にございます。八つの谷、八つの峰にまたがる巨体。その息は毒を含み、近づく者を焼き尽くします。この地の神々でさえ、誰一人として立ち向かおうとはいたしませんでした」


手名椎もまた、縋るように言葉を重ねた。

「私たちは、すでに七人もの娘を失いました。これ以上、どなたかに犠牲を強いることなど・・・」 「構わぬ」

須佐之男は、櫛名田比売を凝視した。

「お前を、死なせはしない」


しかし、櫛名田比売は静かに首を横に振った。

「お気持ちは、ありがたく存じます。ですが、これは私たちの負うべき問題。尊きお方にご迷惑をおかけするわけには参りません」

「迷惑など・・・」

「私の運命は、私が引き受けます」


その言葉は、拒絶だった。 しかしそれは、自尊心からくる冷たい拒絶ではない。他者を決して危険に晒したくないという、気高き祈りのような拒絶だった。 須佐之男は、その精神に心を射抜かれた。 彼女は自分の凄惨な運命を呑み込みながら、それでもなお、他者を思いやる心を失っていない。


自分が高天原で荒ぶったとき、誰のことも顧みなかった。

だが、この少女は死を目前にしても、なお凛として立っている。


「・・・お主は、死にたいのか」

「いいえ」

櫛名田比売の瞳に、初めて揺らぎが走った。

「生きたいと、思います」

その声が、わずかに震えた。

「姉たちと、もう一度会いたい。父と母の笑顔を、もう一度見たい。この出雲の空を、風を、もっと感じていたい・・・」


一筋の涙が、頬を伝った。

「ですが・・・」

「ならば、生きろ」

須佐之男の声は、地を這うような力強さに満ちていた。

「私は、お主を助ける。それだけだ。お主の意思は関係ない。私が、お主を助けたいと願ったのだ」


老夫婦は、震える手で須佐之男に縋りついた。 裏切られることへの予感。

「どうか、どうか娘を・・・」

「もう、これ以上、失いたくないのです・・・」

足名椎の声が嗚咽に変わり、手名椎はただ地に伏して泣き入った。


「任せよ」

須佐之男は短く頷いた。 櫛名田比売は、黙って立ち尽くしていた。その瞳には、戸惑いと、そして微かな希望が灯っていた。 希望を持つことへの恐怖。それでも、心の奥底で確かに熱を帯びた、小さな光。


「・・・なぜ、そこまでなさるのですか」

彼女の問いに、須佐之男は少しだけ目を伏せた。

「俺は、ずっと独りだった」

静かな、告白だった。

「母を失い、姉に拒まれ、行き場を失った。高天原で暴れ、田を壊し、神々を傷つけた。そうして、この地に追われたのだ」


櫛名田比売は、息を呑んだ。

「誰も、俺を必要としなかった。俺も、誰も必要としなかった。ただ独り、怒りと悲しみの深淵を彷徨っていたのだ」


須佐之男の言葉には、拭えぬ痛みが滲んでいた。

「だからこそ、分かる。お主たちの悲しみが。理不尽な運命に翻弄され、それでもなお、誰かを守ろうとするその心が」

須佐之男は、真っ直ぐに彼女を見た。

「俺は、もう誰も失いたくない。お主のような者を、死なせたくない。それが、俺の我儘だ」


その言葉に、偽りはなかった。 櫛名田比売の瞳が、溢れる涙で潤んだ。

「・・・ありがとう、ございます」

それは、彼女が初めて見せた、年相応の弱さであった。

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