三、気高き少女

櫛名田比売は、静かに歩み出た。

長く美しい黒髪。澄んだ瞳には、凛とした覚悟が宿っていた。自らの運命を受け入れながらも、決して魂の尊厳だけは手放すまいとする気高さが、彼女にはあった。


「尊きお方」

彼女は深く頭を下げた。その所作は礼儀正しく、毅然としていた。

「このような場所にお越しくださり、恐れ入ります」

その声に、震えはなかった。

「私は、櫛名田比売と申します。父と母の、最後に残された娘です」


須佐之男命は、彼女をじっと見つめた。 姉たちを喰われ、自らもまた贄(にえ)となる運命。それでもなお、彼女は誰を責めることもなかった。父母を恨まず、村を呪わず、ただ静かにその時を待とうとしている。


「七日後、大蛇が参ります。私は、それを待つだけです」

淡々と語る彼女だったが、その指先は、わずかに震えていた。

「・・・恐くないのか」

須佐之男の問いに、彼女は少しだけ目を伏せた。

「恐ろしゅうございます」

それは、偽りのない本心だった。だが、彼女はすぐに顔を上げた。

「ですが、これは私の運命。父と母を、この地を守るためならば」

その瞳は、もう揺るがなかった。

「姉たちも、同じように往きました。私だけが、逃れることはできません」


「姉たちは・・・」

「はい。皆、泣きながらも、最後には自ら歩いて往きました」

彼女の声が、ほんの少しだけ揺れた。

「長姉の稲田姫は、私に言いました。『お前は最後まで生きなさい』と。次姉の畝田姫は、『私たちの分まで、この地の美しさを見ていて』と・・・」

言葉が途切れ、一筋の涙が頬を伝った。だが、彼女はそれを拭おうともしなかった。

「皆、私を守ろうとしてくれました。だからこそ、私は醜く足掻くことはできません。姉たちに、恥ずかしくない最期を迎えたいのです」


須佐之男の胸に、熱い火が灯った。

それは、かつて高天原で暴れ、泣き叫び、すべてを壊した自分とは対照的な姿だった。

この少女は違う。絶望の淵にあっても、尊厳という光を手放さない。


「お主は・・・」

須佐之男は、言葉を探した。

「お主は、諦めているのか。それとも・・・」

彼女は、微かに首を横に振った。

「諦めているわけでは、ございません。ただ、私にできることは、これしかないのです。父と母の悲しみを和らげ、村の人々の罪悪感を軽くすること。そして、姉たちと同じように、誇り高く往くこと」


彼女の瞳が、真っ直ぐに須佐之男を射抜いた。

「尊きお方。もし、私の最期を見届けてくださるならば。どうか、父と母に伝えてください。『娘は、最期まで誇り高く生きた』と」


その言葉に、須佐之男の中で何かが爆ぜた。 それは、かつての無軌道な荒ぶりではない。 この少女を死へと追いやる非情な世界への、そして理不尽な運命への、激しい憤りだった。この気高き魂を、決して塵にしてはならないという、鋼のような意志。


須佐之男は、泣き崩れる老夫婦を背に、再び少女を見た。

「お主を、死なせはせぬ」

櫛名田比売の目が、驚きに見開かれた。

「ですが・・・尊きお方でも、あの大蛇は・・・」

「俺は、須佐之男命だ」


その名を聞いて、三人は息を呑んだ。 天界を追われた、厄災の神。 だが、須佐之男は続けた。

「かつて、俺は無力だった。だが、今は違う」

彼の目に、かつてないほど清浄な炎が灯った。

「お前の気高さを、俺は無駄にはしない。八岐大蛇は、この俺が討つ」

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