二、出雲の嘆き
出雲の地は、静寂に包まれていた。
川のせせらぎ、風に揺れる草木、鳥のさえずり。しかし、その静けさは安らぎではなく、色濃い諦念に染まっていた。命の音は響いているのに、そこに生きる者たちの心は、すでに死を待つだけのように。
須佐之男命が川辺を歩いていると、低い嗚咽が聞こえてきた。
老夫婦が、泣いていた。
男は白髪の翁で、背は丸く、顔には深い皺が刻まれている。寄り添う女もまた、痩せた肩を震わせていた。二人は地に伏し、声を殺して泣いていた。まるで、声を上げることすら罪であるかのように。
須佐之男は、思わず足を止めた。 その涙が、かつての自分と重なった。
「・・・何を、嘆いている」
声をかけると、老夫婦は驚いて顔を上げた。神気を感じ取ったのか、二人は畏れに身を震わせた。だが、その瞳に希望の光はない。ただ、絶望に慣れきった、空虚な色が宿っているだけだった。
「尊きお方・・・」
翁は震える声で名乗った。名は足名椎。妻の名は手名椎。この地を治める神の末裔だという。その声には、かつての誇りの残滓と、拭い去れぬ無力さが混じり合っていた。
彼らには、かつて八人の娘がいた。
「毎年・・・毎年、八岐大蛇が現れるのです」
足名椎の声が震えた。 八つの頭、八つの尾を持つ怪。目は血のように赤く、背には苔や木々が茂り、腹は爛れて血を滴らせている。その巨体は八つの谷と峰にまたがり、這えば大地が揺れ、吐く息は毒を孕む。
「娘を捧げねば、里が滅ぼされるのです」
手名椎が顔を覆い、再び泣き崩れた。
「逃げることは、叶わぬのか」
須佐之男の問いに、足名椎は力なく首を振った。
「我らが逃げれば、次に犠牲になるのは村人。この地を預かる神の末裔として、背を向けることはできませぬ。何より、あの大蛇から逃げ切れる場所など、この世のどこにもないのです」
すでに、七人の娘が呑まれた。 一人目のときは抗ったが、村を焼かれた。二人目のときは逃げようとしたが、多くの村人の命が失われた。三人目以降は、ただ従うしかなかった。娘たちは助けを求めたが、彼らにできたのは、ただ泣くことだけだった。
そして今年は、ついに最後の娘の番だという。
「私たちは、逃げるわけにはいかぬのです」
そのとき、家の奥から 艶やかな黒髪を持つ、美しい少女が現れた。 澄んだ瞳には年には似合わぬ静かな覚悟が宿っていた。
「父上、母上」
少女の声は、凪いでいた。
「もう、お泣きにならないでください」
櫛名田比売。それが、彼女の名であった。
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