古事記恋歌〜須佐之男の章

たけのはら

第一章:出会いの章 — 孤独と気高さ 一、涙の記憶

須佐之男命は、ただ泣いていた。

母を失った日から、涙は枯れることを知らなかった。伊邪那美命の温もりを求めて、幼子のように泣き続けた。天地が震えるほどの慟哭は、やがて周囲を荒廃させ、神々を恐れさせた。


見かねた月読が現れ須佐之男に告げた。

「お前の嘆きは、天を乱す」

冷たく、静かな声だった。

「母上を、母上を……」

「戻ることは、ない」

拒絶。それは刃よりも鋭く、スサノオの胸を貫いた。


兄に突き放され、姉ならきっと分かってくれる。

そう思い、会いに行った。

高天原の光輝く宮殿。そこで、太陽の女神天照大神は彼を迎えた。

「私は、母上に会いたい」

慟哭する弟に天照は慈愛に満ちた声で答えた。

「母はもう、戻ることはない。けれど、そなたの嘆きは世界を壊してしまう。心癒えるまでここで過ごすがよい」


姉の優しさに、須佐之男命の心は少しずつ凪いでいった。

しかし——

高天原で過ごすうちに、須佐之男命は次第に本来の荒々しい性格を覗かせるようになった。物を盗み、人を傷つけることに何の躊躇いを覚えることもない。

そんな弟を見る度に、叱責を繰り返す天照だったが、

須佐之男にはそれが姉の愛情に思えた。

その声は、失った母を思い起こさせるものでもあった。

だからこそ彼は、天照の愛情を求めて、さらに乱暴な態度を重ねていった。


ついに天照は言った。

「須佐之男の暴挙を止められぬ私は、最高神としてあってはならぬ」

そして、天岩戸に閉じこもってしまった。

​世界が暗闇に落ちた。神々の奔走によって天照は再び姿を現したが、神々が相談し、須佐之男命は責任を取らされ地上に落とされた。

追われた。天から、光から、温もりから。

地上へ降り立ったとき、須佐之男命は何も感じなかった。虚無だけが、彼の内に広がっていた。

誰かに必要とされたい。

誰かに、受け入れられたい。

ただそれだけを、彼は求めていた。

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