潘家の貴人

 やがて成王は薨じ、その子が即位した。楚の穆王ぼくおうと諡されるこの王が、熊旅の父である。

 この頃、晋は西方の強国、しんと度々戦っていた。

 秦もまた中原からは蛮夷と蔑まれている国である。しかしこの時代、秦には穆公ぼくこうという名君が現れて勢威を増していた。秦の躍進は甚だしく、一時は晋を凌駕したと言ってよいだろう。しかし穆公の死によってその飛躍は止まってしまった。

 その間にも楚は南方に君臨していた。しかし、成王の時ほどの躍進はない。これは穆王の器量の問題というよりも、成王の時に楚は伸張しすぎてしまったというほうが正しいような気がする。成王は三代、五代とかけて行うはずの勢力拡大を一代で成してしまった。ここよりさらに大きくなるには、晋という大きな壁が立ちはだかることになる。

 しかし、秦の穆公という難敵が薨じたことで、晋は文公の時の勢いを取り戻した。

 この時、晋の正卿せいけい(宰相)は趙盾ちょうとんという人であった。ある人は趙盾のことを、


夏日かじつの日』


 つまり、真夏の太陽のようだと言った。それほどに苛烈な人物であったが、執政として必要な恐ろしさを有しつつも、義理堅く思いやりの深い人でもある。

 この時、晋の君主であった霊公はまだ幼く、趙盾は正卿として霊公をよく助けていた。『左伝』に、


『正卿と為り、以て諸侯をつかさどる』


 と評されており、晋の臣下の身であれど、実質的な覇者であったと言えるほどの権勢を誇っていたのである。しかし趙盾は臣下の分を忘れず、幼君を尊重していた。しかしこのことを穆王は、


 ――北進の好機である。


 と考えた。そしてていちんの二国に出兵したのである。この二国は共に、晋の盟下にあった国である。しかしこの時、晋の動きは緩慢であり、二国は楚を畏れて晋から離れ、楚の盟下に移った。鄭、陳は南に楚、北に晋という両大国の中間に位置する国であり、小国であった。

 そのために、晋が盛んであれば晋に付き、楚が盛んとなると楚につく、という向背外交を繰り返すこととなる。この二国の去就が、その時の晋楚の威勢の物差しの一つと言ってよい。

 そして前六一三年、鄭と陳は楚の盟下から脱して晋に就いた。この年はまさに楚の穆王が薨じ、熊旅が国王として即位した年である。穆王が死に、後嗣が幼君であることを見て、楚の盟下の国は晋に流れた。

 楚の令尹れいいんである子孔しこうは、楚の武威を示すため外征を試みた。東方にあるじょりょうという二国を攻めるべく兵を興した。

 ちなみに令尹は楚における宰相のことである。

 この外征には潘崇はんすうという臣も同道していた。潘崇は穆王の、つまり教育係を務めた人物であり、穆王の信頼を得て厚遇されて太師たいし環列之尹かんれつのいんという職に就いていた。

 環列之尹とは近衛兵の長官のことであるが、太師というのが分からない。楚の人臣の最高位は令尹である。そして太師という職は就いた人は楚には潘崇の他にいない。

 考えられることは、穆王は潘崇のことを令尹にしたいと思ったが叶わなかったので、特例として太師という職を作り、潘崇に与えたのではないだろうか。しかし穆王即位の前年に、それまで令尹であった子上しじょうという人は敗戦の咎で殺されている。もちろん、後任の令尹はすぐに決まったであろうが、歴の浅い令尹に遠慮する必要はないと思われる。

 それなのに潘崇が令尹となれなかった理由は分からない。が、それは潘氏の家格が足りなかったか、潘氏が羋姓びせいでなかったかのどちらかではないか。

 楚の朝廷には閉塞的なところがあり、羋姓の者でなければ要職に就けない。今の令尹である子孔も羋姓の人であった。

 では潘崇はどうであったのか。この話をするとなると、潘氏について語らなければならない。

 潘は国であり、周の文王の子、畢公高ひつこうこうの子孫が封建されたのが祖であると『元和げんな姓纂せいさん』にある。となれば、姫姓の国である。しかし同時に、潘氏は楚の公族であり羋姓であるとも書かれているのだ。春秋時代には姫姓の潘氏と羋姓の潘氏がいたこととなる。その仔細は分からないが、楚の潘氏は姫姓の潘氏と何かしら繋がりはあったものと思われる。

 潘崇は、子孔とともに出征先で公子しょう闘克とうこくの起こした変事を聞いて頭を抱えた。


 ――まさか二度も、王家の即位に際して擾乱が起き、それに巻き込まれるとは。


 と心の中で嘆いた。

 穆王の即位の時にも波乱があったのである。

 ことの起こりは、成王がはじめ穆王を太子に指名しておきながら、後年になって穆王を廃しその弟の公子しょくを太子に立てようとしたことである。弟に仕えることが耐えられなかった穆王は、潘崇と共に成王の宮殿を囲み、ついに自死に追い込んで即位したのである。潘崇が穆王に信頼され、厚遇されたのはこの時の働きが認められたからであった。

 その時でさえ、楚にとっては大事であったが、今回の事件はそれを凌駕する。楚という国を根幹から揺るがし、やがて滅びへと誘うかもしれない。潘崇と子孔は情報を集め、必死になって兵車を走らせて公子爕と闘克を追った。

 しかしそんなことなど知らぬ熊旅は、囚われている己の身を案じていた。


 ――私の身は、これからどうなるであろうか。


 熊旅にとって今回のことは、青天の霹靂のような出来事である。

 父の後を継ぎ、楚王となったからには、盟下の諸国の上に君臨し、将兵を率いて晋と戦うのであろう。そのために何をすべきかと考えていたのに、前提が足元から崩れたのである。

 すぐに殺されはしない、とは思っていた。熊旅が死んでしまえば、潘崇と子孔は容赦なく公子爕と闘克を攻めるだろう。そうなれば二人に待つのは敗死である。それが分からぬほど愚かではあるまいと熊旅は見ている。

 しかし、いよいよ追い詰められれば何をしでかすか分からない。乱を起こしたものが、自分が死んだ後に殺されたところで何にもならない。新たに羋姓の誰かが楚王となるだけである。

 そう考えると熊旅は、子孔と潘崇さえも信じられなくなってきた。

 子孔と潘崇は共に羋姓の人である。しかし彼らは成氏と潘氏という族の人であり熊氏ではなく、楚王になる資格はない。しかしこの時の熊旅にはそんな冷静な考えさえ思いつかなかった。とにかく、身内というものが信用出来なかったのである。

 しかしそうなると、信頼できる人間とはほとんどいなくなってしまう。楚の朝廷で顕職に在る者は大半が羋姓であった。


 ――武王より始まった楚の躍進も、私の代で絶えるか。


 熊旅はもう一度、空を見た。

 先ほどまでは大空を羽ばたいて鳥の姿さえもはや見えず、代わり映えのない蒼天だけが続いている。馬車の揺れと、移り変わる白雲だけが、熊旅が郢から遠のいていることを実感させた。


「いっそ、動いているのはあの白雲のほうで、この馬車のほうが止まっているのであればどれほどよいことだろうか」


 空しい嘆きは誰の耳にも届くことはなかった。

 当然、そのようなことはなく、囚われの熊旅は段々と郢から離れていた。そして子孔と潘崇は変わらず、必死になって熊旅を追っている。

 とはいえ、二人は軍旅の最中に事件を聞いたのである。しかも、じょりょうは郢からかなり遠い。

 そして追跡の最中、難を避けていた家人の一人が潘崇の元に逃げてきて、一つの報告をした。

 潘崇は苦い顔をした。

 その報がもたらされたのは、まさに子孔と潘崇が向後の策を相談していた時である。子孔が事情を問いただすと、潘崇は、


「我が家に招かれていた貴人が、賊の手に落ちているようです」


 と、呻くように言った。




 公子爕と闘克は、楚の邑内のという地までやってきた。

 盧はちょうど、郢と商密の間あたりにある地である。あと半分逃げれば、命が長らえると思うと、公子爕と闘克は少し気が緩んだ。

 盧には戢梨しゅうり叔麇しゅくきんという大夫がいて二人を出迎えた。

 まだここまでは自分たちの悪事は届いていないだろうと思い、


「秦に受け渡す罪人である」


 と欺いて熊旅の監視を二人に命じた。

 叔麇はその時、馬車が二台あることに気づいた。もう一台には、潘崇の家から攫った人質がいる。ともにまだ子供であることを知ると叔麇は、


「ならば、二人を同じ馬車で監視させていただきたい。斯様に辺鄙な邑でございますので、人手が足りません」


 と申し出た。

 公子爕と闘克は悩んだ。が、ここで下手なことを言って戢梨と叔麇に怪しまれてもまずい。

 それに、確かに二台の馬車に注意を払いながらの逃避行は心労を要する。もうすでに半分は超えたのだから、一台に人質をまとめたほうが道々で気楽かもしれないと思った二人は、叔麇の申し出を許した。

 扉が開き、布で目隠しをされた童女が馬車に入れられたとき、熊旅は初めて、自分の他にも同じ憂き目にあっていた者がいたことを知った。見れば、自分とそう齢も変わらないようである。

 童女は落ち着いていた。

 見れば着ている衣服は囚われの生活で薄汚れているが、上等である。そしてこの状況でありながら涙一つ流した形跡がない。

 それでいて彼女は、二人きりになって目隠しを外すと、居住まいを正して恭しい仕草で熊旅に頭を下げた。


「お初にお目にかかります、楚王さま。大陸の盟主たる御方に拝謁するに、このような粗衣で申し訳ございません」


 短い言葉のなかに敬意がある。所作も、ここまで荒く揺れる車中の旅次で疲れているであろうに、それを覗かせぬ優美さである。囚われの身の熊旅を貶しているような気配も、少しもない。彼女は本心から熊旅にそう言っているのだと伝わった。

 それだけに熊旅は、気まずそうな、申し訳なさそうな顔をした。


「確かに私は楚王であるが、盟主などではない。卒の一人も持たぬ王に礼を尽くすことなどあるまい」


 突き放すように言ったが、なおも恭しい態度を取り続ける彼女を見て、熊旅にも憐憫の情が沸いた。


「そなたは子孔か潘崇の一族の者であろう。私はまず助からぬであろうが、その時にはそなたを返してくれるようにと、叔父上に頼んでみることにしよう」


 言葉には冷たさがあるが、これは熊旅の優しさであった。

 この状況で、なおも自分を王として接してくれる彼女に対して見せられる唯一の誠意であると言ってもよい。


「有難きお言葉ではございます。ですが、私は羋姓の者ではありません。王のご厚情を受ける資格はないのです」


 と、その童女は不思議なことを言った。

 羋姓でないのであれば、どういう訳で人質としてここにいるのだろうかと、熊旅は少し不思議に思った。

 考えうることは、子孔か潘崇の家に嫁して来た他国の大夫の息女であるかもしれない、ということである。中国の婚家は、同姓不婚が決まりである。しかし楚で顕職にある者は多くが羋姓なので、他国の貴家と縁談を交わすということは珍しくない。夫人としては若いが、この時代には媵人ようじんといって、貴家同士の婚姻の際の時には、妹や姪など同姓の女性が付きそうものである。嫁いだ人が子を為せぬ場合の保険であった。

 熊旅は童女を、潘家の妻の媵人と見た。そう問うと、しかし童女は首を横に振った。


「私は、潘氏を頼って身を寄せた陽樊ようはんの公孫でございます」


 公孫とはつまり、君主の孫ということである。

 しかし熊旅は、陽樊という国に聞き覚えがなかった。少なくとも、楚の盟下にいたことのある国ではない、ということだけははっきりとわかる。

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2026年1月2日 18:00

蒼天の比翼 ペンギンの下僕 @Syuou2

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