蒼天の比翼
ペンギンの下僕
車中の鳥
蒼天を悠然と飛翔する鳥を、少年は羨ましげに眺めていた。
馬車は道なき道を奔っているようであり、時折、がたりと大きく揺れて、中にいる少年の体を羽毛のように投げ飛ばす。
その馬車からは、わずかに側面についた格子状の窓からしか外を見ることが出来ず、出入りのための扉は外から
少年は、氏名を
まだ年少であるが、
春秋時代の南方の雄、
然るに今、熊旅は囚人と変わらぬ待遇で馬車に揺られている。どこに向かっているかさえ、彼は知らない。
熊旅の乗る馬車の横には二乗の戦車が並走しており、その背後にはさらに数十乗の戦車が付きしたがっている。この左右の戦車に乗っている者は、それぞれ公子
穆王が死に、楚の重臣が外征に出た。二人は楚都、
二人は常々、楚国内での自らの待遇に不満があった。そこで、外征に出ている
だが、刺客はあっさりと退けられた。
しくじった、と二人は思った。子孔が生きているのであれば、郢で籠城しても勝ち目はないと見て逃げる算段をした。
「
と、二人は決めた。言い出したのはおそらく公子爕であろう。闘克は苦い顔をしたに違いない。
商密とは郢から見て北にある地で、そこは
しかし秦の策に嵌められた鄀の人は闘克を捕らえ、秦に降伏してしまった。その時の怨みを、闘克は今も根深く抱えている。
しかし鄀は秦に近く、秦に逃げれば楚の追手も迂闊な手出しは出来ない。闘克は秦に囚われはしたが、その後、楚に返されているので、秦であれば亡命を受け入れてくれるかもしれないという期待はあった。
しかし、ただ逃げているだけでは、追いつかれてしまえばそれで終わる。
――人質が欲しい。
そう思った二人は子孔と、子孔とともに出征した
時間を無駄に費やしたと思ったが、どちらかに悪辣なひらめきが舞い降りた。
――喪中にある、穆王の太子を攫おう。
太子、いや、この時にはもう即位しているので楚王であるのだが、その差異は二人にとってはどうでもよいことである。
つまり、熊旅のことである。これほど所在がはっきりとしていて、それでいて手出しのしにくい人質はまたといない。そういうわけで、二人は宮中に乗り込んで熊旅を攫い、郢から逃げ出したのである。
――
と思うと、熊旅の心は昏くなった。
楚は、国姓を
楚という国は周王室からは蛮夷と蔑まれてきた。
そして、周の権威が衰え始めたころに、楚に
熊通は周からは遠い南方の地にありながら、畿内――周王室やその一帯の国々の擾乱を静かに観察していた。
その頃の畿内、または中原と呼ばれる地帯には秩序というものは無かったと言ってよい。晋では傍流が本家から簒奪し、衛では国人が君主を弑した。鄭の君主は周の天子の田を堂々と侵した。しかも、それらを咎める者はおらず、勝ったものが己を正当化して過ちを正義と押し通して振る舞っているのである。
――もはや、畿内に秩序はない。
熊通はそう感じたのであろう。ならばと、自らも兵を挙げて随という国を伐った。随は姫姓の国である。周王室も姫姓であり、その兄弟とも言うべき国であった。随の国君はこの出征を詰ったが、熊通は、
「我らは蛮夷である。今、中原では諸侯はすべからく秩序に叛乱している。そして我が国にも武力があるので、中原の政治に参加しようと思うのだ」
と告げた。
自分たちを野蛮だと蔑む者たちのほうが、よほど盗人猛々しく、己の欲のままに行った非道を愧じることなく天下に君臨している。ならば我らもそれに倣おうというのが熊通の考えであった。
さて、中原の無法者たちに倣うにあたって、熊通は奇妙なことを感じていた。
それは、彼らは周を蔑ろにし、その命令を聞くつもりなど毛ほどもないくせに、しかし周を滅ぼして取って変わろうという心算もないということだ。
つまり、今ここで楚が大挙して周を滅ぼして取って代わろうとすれば、流石に畿内の姫姓の諸国は団結するのではないかと危惧していた。そこで、随を攻めて従わせると、随に命じて周に人を遣らせ、楚の爵位を上げるための運動をするようにと恫喝したのである。
しかしそれは叶わなかった。
熊通は怒った。そして、
「ならば、自ら位を
と、王を自称した。
この時代、王と言えば周だけである。周の秩序を無視していた畿内の諸国も、さすがにその禁を侵すことはなかった。しかし、なまじ蛮夷と蔑まれてきた楚にはそういった感覚はない。一度はこちらからその階位に合わせてやろうと譲歩してやったのに拒むのであれば、好きにやらせてもらおう、という考えである。
熊通は後に死し、武王と
その子もまた王を称し、その諡は文王である。
諡とはその君主の行いを評価するものである。しかし周王室の開祖が文王であり、その子が武王であることを思えば、この諡は君主の業績を顕しているというよりも、当てつけのように周の建国の祖というべき二王を遡上しているようであった。
そしてこの、文王の子に
成王の在位中に、覇者と呼ばれる存在が誕生した。
東方の国、斉の桓公である。その開祖は、周の文王、武王の師であり周王室開国の一番の元勲たる太公望である。姫姓――周と祖を同じくする国でこそないが、周の封建国家の中では飛びぬけて由緒のある血筋の国であった。
桓公は即位するや、国力を充足させ、諸侯の争いを正し、ついには諸侯をまとめて会盟を行いその盟主となった。しかも、その姿勢はあくまで周王室の補佐であり、周に取って変わろうという気配は微塵も見せなかった。
桓公は諸侯の纏め役として奔走し、そして盟下にある国が蛮夷の侵攻に晒された時には兵を出してこれを討った。周王室を助けるために在り、盟下の国が蛮夷の危機に瀕せばこれを守る。それが覇者を覇者たらしめる振る舞いであり、故に桓公はやがて南進して楚の国境を侵した。
この頃になると楚も、その勢力を大きく伸張させている。四方千里の大きさになったと『史記』に書かれているのは成王の頃なので、いかに成王が君主として優れていたかがわかるだろう。
桓公が南進してきたのはこの頃である。しかし成王は多少の防戦は行ったが真っ向から激突することはなく、周への貢ぎ物を桓公に託して盟を交わした。もしここで成王か桓公かのどちらが妥協をせず戦う道を選んでいたら、春秋の歴史に残る大会戦となっていたことだろう。その後の中原の歴史もまったく異なる様相を呈していたに違いない。
しかしそうはならず、両者は矛を収めた。
その後も楚は南方で領土拡大に努めたが、中原と関わることはなかった。
だが前六三九年、成王はある事件を起こす。中原の東にある
この頃になると斉の桓公は死んでいたが、後継を巡って騒動が起きることを危惧した桓公は太子の後見を襄公に頼んだのである。果たして桓公の死後、斉では公子たちの内乱が起きた。太子は宋に亡命し、襄公は、桓公の遺命であると諸侯を召集して太子を立てるため斉へ進軍した。
この時に襄公は、諸侯を総攬することの快感を覚えてしまった。あるいは、根拠違いの自信を覚えてしまったと言うべきかもしれない。襄公はやがて自ら盟を主催し、諸侯の上に立つことを求めた。そこには、
――かつては、我らが諸侯の上に君臨していたのだ。
という想いがあったのであろう。自らの力で諸侯の上に立ち、商を再興して子姓の地位を確立するという気持ちから出た行動であったに違いない。しかしそれは愚挙であった。
襄公はこの会盟に楚も招き、成王は、
――宋のごとき小国ふぜいが。
と、いら立ちを覚えた。
そこで一計を案じ、従うふりをして会盟に参加し、その場で襄公を拘束して宋に侵攻したのである。
それが秋のことであり、襄公は冬まで成王の下で抑留されて、ようやく返された。
そして翌年、楚と宋が戦うことになる。発端は
宋楚の決戦は避けられず、両軍は
しかし衆寡敵せず、宋は楚に敗れ襄公自身も負傷してしまった。この時の傷が元で襄公は、翌年に
いよいよ楚の威勢は高まった。しかし、北方に新たな覇者が現れた。
成王は文公を、
「天がこの人に大業を為させようとしている。これを除こうとすれば天からの咎を受けることだろう」
と評した。
成王は天を畏れるということを知っている人であった。だから桓公とも矛を交えることはせず、流浪の最中にある文公を厚遇し、援助した。それは蛮夷を自称する楚は、蛮夷ゆえに武力を持って国勢を高揚させることは出来ても、天賦はないと考えていたからかもしれない。
人が人の力だけで為せる行いには限りがあり、それを超える偉業を為すためには天の助けが要る。楚にはそれがなく、真に大業を為す者は他にいる。そういう人物と戦ってはならぬと、自らに戒めていたのであろう。
蛮夷として武力を躊躇いなく行使する肝勇と、天を畏れる謙虚さを車騎の両輪のごとく併せ持っていたことこそが、成王の治世の根源であった。
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