第2話 リオット
神の世界――その一角に存在する「美の国」は、石畳と白壁の街だった。
尖塔は左右対称に並び、窓の装飾には一切の欠けも歪みもない。
人々の服装は整い、汚れた布切れ一枚すら許されない。
美は秩序であり、秩序は正義だった。
通りを歩く者たちは、互いの姿形を無意識に測り合っている。
背筋は伸びているか、肌に傷はないか、歩き方は優雅か。
美しくないものは、この国では罪となる。
――そして、罪には処刑人が必要だった。
石造りの通路を、一人の男が歩いていた。
黒衣の外套をまとい、腰には細身の剣。
顔は仮面で覆われ、その表情を知る者はいない。
処刑人、リオット。
彼が歩くたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
まるで心臓を内側から締め付けられるような感覚。
息を吸うたび、微かに遅れる鼓動。
「……っ」
だがリオットは足を止めない。
この痛みは、罰だと思っていた。
美を疑う心が芽生えたことへの、神からの戒め。
今日もまた、任務がある。
鍛冶場は街の外れにあった。
火は弱く、煤も最小限に抑えられている。
それでも――そこに「不美」があった。
男は中年の鍛冶師だった。
右腕に、新しい火傷の痕がある。
皮膚は引き攣れ、指の動きも完全ではない。
「……処刑人様」
鍛冶師は震えながら頭を下げた。
「それは、美しくない」
リオットは淡々と告げる。
剣の柄に手をかけながら。
「右腕の切除を命じる」
「ま、待ってください!」
鍛冶師は叫んだ。
「この腕がなければ、私は――鍛冶ができません!
家族を養えなくなる! どうか、どうか……!」
その声は必死だった。
汗と恐怖と、生活の重みが混じっている。
リオットの胸が、強く脈打った。
――やめろ。
――聞くな。
そう自分に言い聞かせる。
美の国では、理由は意味を持たない。
結果と形だけが、正義を決める。
「……」
リオットは何も答えない。
鍛冶師の言葉は、空気に溶けて消えていく。
剣を抜いた瞬間、陽光が刃に反射した。
完璧に研がれた刃。
それ自体が、一つの芸術品だった。
「――っ!」
振り下ろされる剣。
音は、思ったよりも軽かった。
肉を断つ感触は、いつも通りだった。
血が噴き出す。
赤は、この国で最も忌み嫌われる色だ。
鍛冶師は絶叫し、地に崩れ落ちた。
右腕は、もう彼の身体の一部ではない。
その瞬間、リオットの胸に激痛が走った。
「……ぐっ……!」
思わず膝をつく。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。
――美しい。
――これは、美しい行為だ。
そう言い聞かせるたび、痛みは増す。
「……完了した」
それだけ告げて、リオットは背を向ける。
鍛冶師の嗚咽が、背後で続いていた。
だが、振り返らない。
処刑人は、結果だけを残す存在だからだ。
石畳を再び歩きながら、リオットは胸を押さえた。
「……おかしいな」
呟きは、誰にも聞かれない。
石畳の角を曲がった瞬間、視界の端で“歪み”が起きた。
一瞬だった。
建物の壁が、わずかにずれたように見えた。
完璧な左右対称が、ほんの刹那、崩れた。
「……?」
リオットは立ち止まる。
だが次の瞬間、街は何事もなかったかのように整っている。
通行人は美しく歩き、塔はまっすぐ天を指している。
――錯覚だ。
そう結論づけようとした、その時。
胸の痛みが、急に和らいだ。
完全に消えたわけではない。
だが、さっきまで心臓を締め付けていた重圧が、
まるで「嘘をつかれた」かのように弱まっていた。
「……今のは」
リオットは、自分の胸に手を当てる。
不思議だった。
何もしていない。
祈ってもいない。
美を肯定する言葉も、正義を誓う言葉も口にしていない。
それなのに、痛みだけが軽くなった。
まるで――
この世界の「正しさ」そのものが、
一瞬、彼を見失ったかのように。
リオットはゆっくりと視線を上げ、空を見た。
神の世界の空は、いつも完璧な青だ。
雲一つなく、汚れもない。
だが今だけは、
その青が、どこか作り物のように見えた。
「……俺は」
言葉にならない疑念が、喉の奥に引っかかる。
美は正義だ。
正義は絶対だ。
――本当に?
その問いが形になる前に、
再び胸が痛み始める。
正義は、彼の迷いを許さない。
リオットは歩き出した。
だがその足取りは、わずかに乱れていた。
この日を境に、
彼の胸の痛みは「規則正しく」ではなく、
「正しさに疑問を抱いた瞬間」にだけ
現れるようになることを――
まだ、彼自身は知らない。
これまで何百、何千と同じことをしてきた。
それなのに――なぜ、今日だけこんなにも痛む。
美は正義だ。
正義は疑ってはならない。
それでも、胸の奥に芽生えた違和感は、
剣では切り落とせなかった。
青空の下、
美しく整えられた街並みの中で。
リオットは初めて、自分の正義が
誰かの人生を確実に壊していると知ってしまった。
――そして、その痛みは、
やがて彼をこの世界から引き剥がすことになる。
まだ、この時のリオットは知らない。
自分がいずれ
「正義を騙す者」となることを。
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