ヴィランズ
@yata_king
第1話 黒い塊
どこまでも広がる荒野は、世界が死にかけている証のようだった。
地平線まで続く土はひび割れ、草一本すら根付かない。
風が吹くたび、砂と共に乾いた鉄の匂いが舞い上がる。
その荒野の中央に、異物があった。
人が一人、ゆうに入ってしまうほどの大きさの黒い塊。
球体とも、歪んだ繭ともつかない形をしたそれは、光を吸い込み、影すら拒絶している。
夜よりも黒く、虚無よりも重い。
それは闇ではない。
影でもない。
――まるで「概念」そのものが、世界に落ちてきたかのようだった。
黒い塊の前に、二人の人物が立っている。
一人は、黒いマスクを被った男。
目元は隠されているが輪郭やその下には、疲労と怒りを押し殺した眼差しがある。
全身を覆う黒いスーツやマントは、かつてヒーローと呼ばれていた頃の名残を留めていたが、
肩口は裂け、胸元には深い傷跡が残り、もはや「正義」の象徴とは言い難い姿だった。
それでも男は立っている。
何度壊されても、なお立ち続けてきた者の姿勢で。
男の名は、ガロウ。
その隣に立つのは、黒衣を纏った若い女だった。
白衣ではない。
光を吸い込むような布地は荒野の闇に溶け合って輪郭を曖昧にしている。
裾は動きやすいように短く整えられ、内側には無数のポケットが仕込まれていた。
そこには医療器具、注射器、薬剤の瓶、そして、命を繋ぐための道具と命を終わらせるための道具が区別なく収められている。
喪服にも似た黒の医師服は、清潔さよりも冷静さと覚悟を感じさせていた。
長い髪は後ろでまとめられ、感情を表に出さない瞳だけが黒い塊を見据えていた。
女医、ルミナ。
二人の視線の先――
黒い塊の内部には、一人の少女が浮かんでいる。
年は十にも満たないだろう。
痩せ細った身体、擦り切れた服。
外界の過酷な環境で生きてきたことが、一目で分かる姿だった。
少女の唇が、微かに動く。
「……わたしは……悪い人……」
声は小さく、震えている。
まるで、何度も何度も言い聞かせられてきた言葉のようだった。
「……わたしは……悪……悪人……」
その言葉に反応するように、黒い塊が脈打つ。
鼓動のような振動が、空気を震わせた。
ガロウは、無意識に拳を握りしめていた。
「……頼む」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
黒い塊か。
それとも、少女自身か。
「今度こそ……」
少女の表情が、ふと変わった。
「……ちがう……」
掠れた声。
だが、確かに拒絶の響きがあった。
「ちがう、わたしは……!」
次の瞬間、少女は苦しみ始めた。
身体が痙攣し、悲鳴にならない叫びが喉から漏れる。
「――あ……あああっ……!」
黒い塊の内側で、闇が蠢く。
少女の足先から、ゆっくりと、しかし確実に身体が溶けていく。
皮膚が、肉が、存在そのものが、黒に飲み込まれていく。
ガロウは一歩、前に出た。
「やめろ――!」
だが、その腕をルミナが掴んだ。
「見届けなさい、ガロウ」
静かな声だった。
冷たいが、残酷ではない。
「これは選別よ。
堕天させ悪化を止めるための、最後の手段」
少女の声は、やがて完全に消えた。
黒い塊の中に、何一つ残さず溶け込み、沈黙が訪れる。
風の音だけが、荒野に戻ってくる。
「……また、失敗か」
ガロウは吐き捨てるように言った。
「これで……九人目だ」
ルミナは視線を逸らさず、淡々と答える。
「正義の力が、この世界から枯渇している以上、“悪化”は止められない」
一拍置いて、ルミナは続けた。
「……それでも、やらなければ、もっと多くが壊れる」
“悪化”――
正義の力が枯渇した者の身体が、
その人間自身が「悪」と信じた形へと変貌していく病。
暴力を恐れた者は、暴力の怪物に。
嫉妬を憎んだ者は、嫉妬そのものの化身に。
最後は、耐えきれずに死ぬ。
「……だから、止めるしかない」
ルミナの声が、低く響いた。
ガロウは、黒い塊を睨み続けた。
「……救えなかった」
ガロウは、視線を地面へ落とした。
ひび割れた土の隙間に、小さな骨片が混じっているのが見える。
かつて“悪化”した誰かの名残だ。
正義が足りない。
それだけで、人は怪物になる。
それだけで、命は価値を失う。
「……正義ってのはさ」
ガロウは、低く呟いた。
「こんな形で、人を選ぶもんだったか?」
答えは返らない。
黒い塊は沈黙を保ったまま、ただそこに在る。
ルミナは、ガロウの横顔を一瞬だけ見てから、静かに口を開いた。
「選んでいるのは、正義じゃないわ」
「選ばされているの。私たち全員が」
荒野に吹く風が、二人の間を通り抜ける。
その冷たさは、この世界そのものの温度のようだった。
ルミナは一瞬だけ目を伏せ、そして言った。
「だから、行くのよ」
「正義を独占している世界へ」
神、法、力。
この世界で最も強大な力となった正義を独占している
侵入困難な三つの正義の世界。
ガロウは、マスクの奥で目を閉じた。
「……ああ。分かってる」
黒い塊は、何も語らない。
ただ次の“選ばれる者”を待つように、静かにそこに在り続けていた。
――ここから、ヴィランズの物語は始まる。
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