『伝え広まった怪異 後編』

 翌朝。布団から出るのを、永久に拒否したくなるほど、外は寒くなっていた。近頃は毎日そうだ。一階から母が、俊吾を呼ぶ声がする。今日は学校だ。今からでも学校が爆発すればいいのに、と心の中で呪詛を放ちながら、俊吾は布団から這い出た。

 フローリングになるべく足を、つけないようにしながら、階段を下りていき、リビングの引き戸を開ける。食卓には既に父が朝食をとっていた。新聞を片手で開き、コーヒー飲んでいる。


「おはよ」


「おはよう」


 父が返事をした。母は洗面所におり、洗濯物をまとめている。俊吾も食卓に向かい、テーブルに置いてあるトーストを食べる。食べ終えた後は、トラに餌をあげなければならない。そう思い、トーストを食べながら行方を探すと、トラは炬燵から頭を出して寝ていた。仰向けで、口を半開きにしている。人間がやったら、悲惨なことになっているだろう。俊吾はトラに羨望の眼差しを向けながら、トーストにかぶりついた。

 餌やり,歯磨き,着替え,その他諸々をやり終え、俊吾は外に出た。外は夜中の内に、雪が降っていたようで、一面真っ白だ。道路には轍が、くっきりと残っている。向いのアパートでは、大家さんが雪かきをしており、こちらに気づくと手を振ってくれた。

 手を振り返して、俊吾も学校に向かって歩き始めた。俊吾の学校は、山の中にある。ここからさほど遠くはない。だが、山の中にあるということで、坂道が多いのが厄介だった。そのため距離はないが、ほどほどに疲れるのだ。

 住宅街を抜けると、林を切り開いた道に変化する。木に枝はほとんどついていないため、木に雪は積もっていない。道の途中には何もなく、ただ進むだけの一本道。その道を歩いていくと、学校の正門が見え、生徒も何人か見え始めてくる。

 正門には校長先生が立って、登校してくる生徒に挨拶をしている。校長先生を見るたびに、頭をあったかくしたらいいのに、と思ってしまう。俊吾も校長先生に軽く挨拶をして、下駄箱へ向かった。下駄箱は一区画しかない。この中学校には、全学年合わせて六十人ほどしかいないからだ。近いうちに隣の市の中学校と合併するのではないか、という噂すらある。

 上履きに履き替え、自分の教室を目指す。汚れのついた窓がある廊下を歩いて、教室の引き戸を開けると、何人かがこちらを見る。しかし、すぐに自分らがやっていることに戻った。グループで話したり、一人で本を読んだり、様々である。まだクラスメイトの、半分も揃っていないようだ。

 俊吾は自分の席に行き、リュックサックを下ろした。中から教科書を取り出し、机の中にまとめて入れ、最後に筆箱を入れる。筆箱を最後に入れるのは、机の中のスペースを整えるためだ。すると、前の席に座っている深津が、こちらを向いた。

 深津は中学校で知り合った友達で、度の強いメガネをかけている。性格は優しく、おまけに成績も優秀。一度だけ家に行かせもらったが、本棚にある問題集の多さに、驚かされたものだ。俊吾もときどき、勉強を教えてもらっている。


「そういえば、福袋買ったんだっけ?」


 深津が俊吾に話しかけた。深津は数少ない友達でもあり、本好き仲間でもあった。面白い本などを、お互いに共有したりしている時間は、何事にも変えられない時間だ。


「買ったよ。わざわざ遠くまでいってね」


「いいな~、俺も行きたかったな~。中身開けたの?」


「ううん、まだ」


 福袋は開けていないまま、炬燵の上に置いてある。昨日は福袋どころではない出来事があったため、開け忘れていたのだ。昨日のことを思い返すと、『頼ず牛にっとう色』という言葉が蘇ってきた。

 最初は複雑で、数分後には忘れているだろう、と思っていたのだが、気づけば自然に思い出せるようになってしまっている。忘れたほうがいい。この言葉に、よくない何かがあるのは確実だ。

 そう思っていると、教室の扉が開き関係者でもある、良二が入ってきた。良二は自分の席にリュックを置くと、わき目も降らずに、こちらに来た。良二は深津と俊吾に軽く挨拶をすると、俊吾に話しかけた。


「なぁ、俊吾。Lineで言ってた。あの『たよず・・・』。何だっけ。『頼ず牛にっとう色』だっけ?って何?」


「え?」


 俊吾は思わず、声をだした。自分は単語を言わないように気を付ける。それだけでは、ダメなのかもしれない。もしここから、あの状態になったら・・・

 俊吾はちらりと深津の顔を見た。深津はぼんやりとこちらを眺め、。まずい。またあの状態になってしまった。深津は話し始めた。口だけが動き、ほかの部位は脱力している。


「良二、知ってるだろ?『頼ず牛にっとう色』。トレンドだよ」


 深津は良二のほうを、一瞥もせずに言う。良二のほうを見ると、例の状態になっていた。俊吾は、自分がどうすればいいのか、全くわからなかった。ただ蛇に睨まれた蛙のように、じっと体を硬直させる。良二が口を開いた。


「ああ、そうだな。ごめんごめん。知ってるよ『頼ず牛にっとう色』。俺がおかしくなってた」


 現在進行形でおかしいよ、と言いたかったが、二人の見つめる目に臆して、口に出すことが出来ない。ただ、一つだけ俊吾を、安心させる部分があった。それは、別に攻撃をしてくる、というわけではないことだ。不気味な状態になり、ただ話すだけ。深津が


「そういえば、新しい情報が出たんだよ」


「そうなの?」


 良二が返事をする。攻撃をしては来ないというだけで、この状態自体は怖かった。俊吾はなるべく話を、聞かないようするのだが、それに反して脳は、情報をキャッチしてしまう。俊吾の額に汗が流れた。


「『頼ず牛にっとう色』は、見たら死んじゃうんだって」


「あ、知ってる。知ってる。怖いよね。でも成熟するまでは、見れないから安心だね」


 成熟?俊吾は昨日聞いた、良二の話を思い出した。「最初は小さい」。おそらく『頼ず牛にっとう色』は、成長をするのだろう。成長するということは、生物なのだろうか?

 俊吾は頭を振るった。考えてはいけない、深入りしてはいけないと、第六感が言っている。二人は未だにあの状態だった。


「あ、そうだね。寄生された人は見れないからね、どこの情報だっけ?」


「うん。Instagramだよ」


 噓だ。昨日調べても、そんな情報は一ミリも出てこなかった。

 それよりも、寄生?寄生をする生物なのか。気持ち悪い。そして何なのだろう、この悪寒は。

 俊吾はだんだん、息苦しさを覚え始めていた。この不気味な空気感に、息が詰まり始めたのだろう。俊吾は自分の首をさすった。


「あ、あとこれもあるよ。」


「何?」


「『頼ず牛にっとう色』は、手がいっぱいあって、首を絞めるのが好きらしいよ」


 その瞬間、俊吾の心臓が音を立てて跳ねた。自分のこの息苦しさと、「首を絞めるのが好き」というのが、かみ合ったからだ。『頼ず牛にっとう色』という、得体の知れない怪物が、後ろから自分の首を絞めているのが、容易に想像できてしまった。全身の毛が一気に逆立ち、で吐き気がした。

 限界だ。この空気に耐えかねた俊吾は、立ち上がろうとした。しかし、うまく力が入らない。机に手を置いて、必死に体を起こそうとしても、体が上がらないのだ。机の上の手は震えるだけ。

 深津と良二の手が伸びてきた。俊吾は一瞬、元に戻ったのかと期待したが、二人の顔はそのままだった。黒目が異常に黒い。二人の手は、俊吾の手首を ガシッ と掴んだ。

 二人の手は、とんでもなく冷たかった。冬の空気にさらされただけでは、たどり着けない冷たさ。手に氷がまとわりついているようだ。その冷たさに反射して、俊吾は手を払いのけた。口から言葉にもならないような、弱弱しい叫びが漏れる。そして勢いのまま、立ち上がり後ろを振り向いた。何もいない。椅子が倒れ、その衝撃音が教室中に響き渡る。教室に静寂が訪れ、クラスメイトも何事かとこちらを見る。


「ん?何してんの。俊吾」


「え?」


 振り向くと、良二が不思議そうにこちらを見ていた。深津も同様である。あの状態は終わったようだ。俊吾は周りのクラスメイトが、こちらを見ているのに気づいた。


「あ、すいません・・・」


 と小声で言った。クラスメイトも、まぁいいかと思ったのか、元に戻っていった。俊吾は椅子を元に戻し、座り直した。深津が


「なんで椅子倒してたの?」


「いや、うーんと・・・・えと・・・まず、二人共さっきやってたこと覚えてる?」


 半ば期待はしていなかった。二人は顔を見合わせて、口をへの字にしている。


「んん?・・・あれ?何してたっけ」


「やべ、俺もわかんね」


 思っていた通りの回答が来た。と思ったのと同時に、チャイムが鳴った。教室の扉が開き、高橋先生が入ってくる。左手にはバインダーを持っており、それを開いてホームルームを始めようとしていた。


「はーい。それでは皆さん座ってください。関口君。リュックはしまおうね」


「やべ」


 関口とは良二の苗字である。クラスメイトもそれぞれ、自分の席に着き始めた。健康観察が始まり、その後の授業へと進んでいく。だが、俊吾の頭の中は『頼ず牛にっとう色』のことで、いっぱいだった。また誰かがあの状態になったら、どうしようという考えが頭を駆け巡り、恐怖が手のひらに滲んだ。トリガーを見つけなければいけない。

 今日の学校で、俊吾が集中して受けられた授業は、一つもなかった。心の中で、学校が爆発すればよかったのに、と半泣きになりながら呟いた。

─────────────────────

 学校からの帰り道、途中までは良二と共に歩いていた。あの朝以外で、あの現象が起きることはなかった。良二の家まで行き、そこで別れる。俊吾は一度家に帰ってから、猫鳴き神社に行ってみようと思っていた。気を紛らわせるために、お参りをしてみるのだ。あそこなら人も少ないし、猫に会うこともできる。

 あの現象に対しての、攻撃されないからマシ、という考えは揺らぎつつあった。逃げようとしたら、拘束されてその場を離れられない可能性もある。聞いているだけで、内側からがこみあげてくるのが、非常に耐えがたかった。この現象は俊吾の中で、確実にトラウマへと変貌していっている。

 俊吾には気になることがあった。それは電車で会ったおばあさんについてだ。おばあさんも、もしかしたら『頼ず牛にっとう色』という何かに、怯えていたのではないかと思ったのだ。検索していたワードは、『頼ず牛にっとう色』 逃れ方。実際そうなのかはわからないが、俊吾が始めて『頼ず牛にっとう色』を知ったのも、このおばあさんからなのだ。そう思うと、今更ながらスマホを勝手に覗き見たことを、激しく後悔し始めた。

 そうこうしているうちに、自宅に着いた。鍵のかかっていない玄関を開け、中に入る。リュックサックを置き、自分の引き出しを開けて、中から貯金箱を取り出すと、五円玉を手に取る。母に一言声をかけてから、すぐに玄関に出た。


「暗くなる前に帰るのよ~~~」


 という母の声を背に、再び冷たい空気に身を任せる。ここから『猫鳴き神社』までは、そう遠くはない。片道五分ぐらいだ。だが、相も変わらず坂道が多いし、階段も登らなければいけないため、かなり疲れる。それもそのはず、『猫鳴き神社』は学校の裏山にあるのだ。俊吾は坂道のことは、考えないようにしながら歩いていくことにした。

『頼ず牛にっとう色』とは何なのだろうか。相手に知らせておくことプラス、何かをやると相手をおかしくさせる。呪文なのだろうか、それとも存在なのだろうか。結局よくわからない。そもそもあの状態になった人達が、言っていることは本当なのだろうか。寄生する,目がいっぱいある,首を絞めるのが好きなどだ。

 思い出すと、再び苦しくなってきた。息が詰まっている気がし、腹の底から何かがこみあげてくる。怖かった。恐ろしかった。考えないほうがいい。何よりも自分のために。

 ふと、後ろから誰かの笑い声が聞こえてきた。振り返ってもだれもいない。カラスの鳴き声と、勘違いをしたのだろうか?そう思い、空を見上げる。空は綺麗なオレンジ色に染まり、雲一つなかった。

 すると、目の前に階段が現れ始めた。石でできた階段で、端には苔が生えている。周りは林に囲まれており、木の種類は、学校と同じだ。その石階段の両端には、金属製の手すりがついている。

 その手すりを使いながら、俊吾は神社を目指す。途中階段の部分で、寝ている黒猫がいた。ここには日が当たるので、暖かいのかもしれない。黒猫の前を横切るのは、縁起が悪いかと思ったが、顔は明後日の方向を向いているため、横切った判定にはならないだろう。

 階段を上っていると、上から人が下りてきた。珍しいなと思いながら、軽く会釈をする。相手の男の人も会釈をしてくれた。ので、表情は読み取れなかったが、口元には薄ら笑いを浮かべている。そのまま男の人は行ってしまった。

 変な人だなと思いつつも、俊吾は階段を登りきることができた。目の前には大きい鳥居と古びた神社があり、神社の手前には賽銭箱が置かれている。鈴のついた縄は、ほつれて危ないのか、地面に寝かされていた。横には掲示板があり、たくさんの絵馬がかけられている。その前で箒を用いて、掃除をしている人がいた。

 宮司さんだ。服装は私服。年を取り、髪の毛は白髪ばかりだったが、髪の毛はしっかり生えている。俊吾は校長先生を思い出した。

 宮司さんはこちらに気が付くと、笑顔で挨拶をしてくれた。俊吾もそれに対して、挨拶をする。賽銭をしに来たということを伝えると、宮司さんは目を丸くした。


「珍しいね。てっきりまた猫を触りに来たのかと笑、どういう風の吹き回しだい?」


「猫も触りたいですけどね笑・・・理由はまぁ、なんとなくです」


「そっかそっか、どうぞどうぞ」


 宮司さんは深くは聞いてこなかった。おそらくこちらへの気遣いだろう。その優しさが、俊吾の身に染みた。第一、上手にあの出来事を説明できる気はしない。

 俊吾は早速賽銭箱の前に立ち、ポケットに入れていた、五円玉を投げ入れた。五円玉は カランコロン と音を立てながら、箱の奥深くに沈んでいく。それを確認すると、俊吾は二度頭を下げ、手を二回合わせた。そして願い事を心の中で言った。


[これ以上、あの現象が起きませんように]


 目を開けて最後に一礼する。できれば鈴も鳴らしたかったが、取外されているため、仕方がない。宮司さんのほうをちらりと見た。宮司さんは、箒を掲示板に立て掛け、しゃがんで白い猫を撫でている。猫を見たくなり、俊吾も近づいて行った。


「可愛いですね」


「うん。この子は最近来たんだけど、人懐っこいんだよね」


 宮司さんは猫を撫でながら言った。俊吾はふと、掲示板を見てみた。沢山の絵馬の下に、張り紙が貼ってあり、『絵馬をやりたい人は、宮司まで 一人200円』と書かれていた。絵馬には様々な願いが書かれており、ものによっては見えないようにするための、プライベートシールが貼られている。


「絵馬やりたい?笑」


 絵馬を見ている俊吾に気づいたのか、宮司さんはそう言った。お金は持ってきていなかったし、ちょっと猫を撫でたら、帰るつもりだったので、丁重にお断りした。宮司さんもある程度、予想していたようだった。

 絵馬のことで、俊吾は気になることがあった。それは、絵馬が処分されていないことだ。何年も前から、ここは俊吾たちのたまり場になっていたのだが、絵馬は増えることはあっても、減ることはなかった。同じ絵馬がずっとかけられているのだ。


「ねぇ、宮司さん。この絵馬って処分しないの?張り紙も見えないよ」


「あ~そうだね。処分しないとね。ただ億劫でね笑。燃やすのが面倒くさいんだよ。そんなにやりたい人もいないしね」


「あ~、そうなんすね。でも、さっき人来てたじゃないですか」


「そうだね、あの人は賽銭した後、絵馬も書いていったよ」


 それそれ、と言わんばかりに、宮司さんは掲示板のある地点を指さした。だが、数が多くて、どれかわからない。それに、他人の絵馬を教えてもいいのだろうか、と俊吾は心の中で苦笑いをした。

 宮司さんは伝わっていないと感じたのか、立ちあがって他の絵馬をめくり、該当の絵馬を取り出す。立ち上がったときに、白い猫はどこかにいってしまった。


「これだね、えーっと・・・」


 宮司さんは絵馬を持ちながら、目を細めて読もうとしている。老眼なのかもしれない。俊吾は階段のほうを見た。綺麗な夕日が沈みかけ、カラスが群れになって飛んでいる。宮司さんはゆっくりと口を開いた。


「『頼ず牛にっとう色』」


「は?」


 反射的に宮司さんのほうを見た。宮司さんの手から、絵馬が音を立てて落ちる。宮司さんの。ぼーっとこちらを見つめている。

 俊吾は落ちた絵馬を見た。絵馬には、丁寧な字で『頼ず牛にっとう色』と書かれている。誰だ。誰が書いたんだ。心臓の音だけが耳に響く。逃げなければ。振り向いて石階段のほうに行こうとするが、腰が抜けてそのまま倒れこんでしまった。


「驚きの情報でね。『頼ず牛にっとう色』は名前じゃなかったんだ」


 聞かないほうがいい。えもいえぬがこみ上げ、顔中に脂汗が浮いてくる。息苦しい。元の宮司さんに早く戻ってほしかったが、戻し方がわからない。今までの経験を必死に思い出していく。


「本当の名前は『』。『』だよ。覚えた?」


『苦境らうふをもの』、『苦境らうふをもの』。聞きたくなくても、頭の中に沈み込んでいってしまう。それがたまらなく。今までこの現象が終わるときは、何かしらのアクションがあったはずだ。家の前につく,声を掛ける,大きな音を出す。俊吾は声をかけてみることにした。


「ぐ、宮司さん!あ、あの・・・」


「『頼ず牛にっとう色』は、だったんだよ。そして『苦境らうふをもの』は順調に成長している」


 終わらない。最初に起こったときは、会話はもできていた。どんどんひどくなっているのか?俊吾の頭が沸騰したように、フワフワとしていた。こちらを意に介さず、宮司さんはただ話し続ける。


「あ、あとどこにいるかがわかったんだよ」


 指先が冷たくなっていく。それは冷たい地面に触れているだけが、理由ではないのは明らかだった。宮司さんを殴るしかない。無理やり終わらせるのだ。足を震わせながら、立ち上がった。

 と、思っていたのだが、実際は足がもつれて、こけそうになっていた。そのため止まることができず、宮司さんに突進をしてしまった。宮司さんは抵抗せずに、ただこちらを見つめるだけ。ドサッ という衝撃音とともに、二人は倒れこむ。目的は宮司さんを止めるためなので、突進でも問題はないのだが。

 戻ることを期待してやった行為は、全てが無駄だった。宮司さんの目は依然黒目が濃く、ぼーっとこちらを見ている。そして口を開いた。


「『苦境らうふをもの』は、そばにいたんだ!あ~怖い怖い」


 アッハッハッハッハッハッハッハッハ


 宮司さんはそう言うと、笑い始めた。大きく口を開けて、腹の底から声を出している。カラスの鳴き声に混じって、不気味な笑い声が空に溶けていった。

 無理だ。一秒でもこの空間にいたくなかった。俊吾は宮司さんの上から降りると、手をつきながらも、石階段に向かって走っていく。その姿は怯えている動物のようだった。そしてやっと石階段にたどり着いたとき。


「あ」


 足が滑った。体が宙に放り出され、抵抗できないまま階段に打ち付けられる。勢いがつき、抵抗できないままにゴロゴロと転がっていく。頭を丸めて、最大限のダメージを抑えなければ。そう思う間にも、打ち付けられた体が鈍い音を立てる。俊吾はどこかをつかもうと、手を伸ばした。

 運よく手すりに手がつき、落下を止めることができたが、勢いのまま体がねじれ、腕の間接が音を立てる。耳鳴りもする。俊吾は顔をしかめた。しかしそれ以上に宮司さんが、追ってきているかどうかが気になった。

 石階段の上を見てみたが、誰もいない。それでも、早くこの場を離れたかった。ズキズキと痛む体を、無理やり動かして階段を下りていく。来るときに見た黒猫は、もういなくなっていた。

 手すりに体重を預けて、階段を下りている最中、気づけば目から涙が溢れていた。自分がなぜこんな目に合わなければいけないのか。自分が何をしたというのか。賽銭をした意味は全くなかった。この世に神様はいない。

 沈みゆく夕陽に悪態をつきながら、俊吾は階段を下り切った。そして周りに人がいないのを確認すると、雪が溶けた土に胃液を吐いた。

─────────────────────

 俊吾は家に帰った後、そのまま自室に戻った。今は誰とも顔を合わせたくなかったからだ。もし誰かと会い、再びあの状態になったらと思うと・・・。どこからあの状態になるか、分からない。そして俊吾の中では、が生まれていた。『苦境らうふをもの』について。

 母には『体調悪いから、晩御飯要らない』とLineを送った。実際に体調が悪い気がしたし、体も非常にだるかった。その後俊吾は自室にこもり、布団にくるまると、そのまま眠ってしまった。精神が疲弊していたのだろうか。俊吾は寝ている間に、悪夢を見た。

 周りは暗く、何もない。ただ、目の前に人がいる。そしてその人と見つめあう。それだけなのに怖い。それはその人の見た目にあった。

 目覚めたとき、俊吾は全身に冷や汗をかいていた。あの人の見た目は覚えていない。記憶がないのだ。ただ、どこかに既視感があったのは覚えている。壁掛け時計を見ると、三時間が経過していた。

 階段から滑った時の痛みは、多少引いていた。当たり所がよかったのだろう。Lineには父と母からメッセージが来ており、父からの内容はノートパソコンを自由に使っていいとのメッセージだった。部屋の中にいると、暇になるかもしれないので、自由に持ち出しを許可してくれたのだろう。

 母からのメッセージは、扉の前にご飯がおいてあるとのメッセージだった。俊吾はスマホを置き、扉をそっと開ける。そこには鮭味のおかゆが置かれていた。体調が悪くなった時に、母がよく作ってくれる定番料理だ。

 俊吾はそのおかゆをありがたくもらい、食べ終えた食器を扉の前に置いて、母に返信をした。そのついでに父の部屋に行き、ノートパソコンを借りて、自室の勉強机に置く。パソコンを置いて椅子に座ったときに、父の部屋から充電コードを、持ってくるのを忘れていたことに気づいた。だが、取りに行くのが面倒くさいので、そのままにして使うことにした。普段は長く使うことがないため、充電コードを持ってこないのだ。

 早速開いて、ゲームやプログラミングをやることにした。プログラミングといっても、子供でもできるようなもので、参考にしているYouTubeチャンネルでは、小学生が例となってやっている。

 俊吾は頭の中にある、悪い想像を取っ払うように、ゲームやプログラミングに没頭しようとした。だが、頭の片隅で悪い想像はどんどん膨れ上がっていく。それを抑えようとして、ゲームやプログラミングに没頭する、でも出来ない。その繰り返し。

 気づけば、俊吾は眠りについていた。今回は先ほどとは違い、しっかりとした睡眠。パソコンを開いたままの寝落ち。気絶しているようだった。


 翌朝、自室の部屋がノックされる音で、俊吾は目覚めた。壁掛け時計は七時を示し、窓からは朝の柔らかい陽光が射している。寒さはそれほどでもない。パソコンはブラックアウトし、している。


「俊?学校どうする?」


 扉の向こうから、聞こえてきたのは母の声。俊吾は返答に迷っていた。昨日ほどの体調の悪さはない。階段から落ちたダメージも、ほとんどない。腕が少し痛む程度。それでも腹の底には、何とも言えないわだかまりがあった。少し間をおいてから、俊吾は返答した。


「休む」


 学校をずる休みしたことはない。そのため、たまにはいいだろう、と思ったのだ。


「ん。じゃあ、お母さん午前中はパートだから、午後になったら病院いこっか」


「え、あ、うん」


「それじゃ」


 そう言うと、母の足音は遠ざかっていく。俊吾は思わず笑みを浮かべてしまった。この普通のやり取りに、安心を覚えたからだ。

 俊吾はパソコンを再びつけた。充電は残り僅かになっている。父の部屋に戻すのは、面倒なのでそのままにしておくことにした。椅子から立ち上がり、伸びをすると、背骨のあたりが音を立てる。そして布団に倒れ込んだ。

 せっかく出来た休みなので、沢山寝ておこうと思ったのだが、流石に寝すぎたのか、一向に眠くならない。そのため布団に寝転がったまま、スマホをいじりながらゴロゴロすることにした。一度しっかり寝たおかげか、頭の中の悪い想像は落ち着いている。それでも昨日の出来事は、明確に思い出せる苦い思い出へと変化していた。

 スマホをいじりながら、ゴロゴロしていると気づけば三時間が経過していた。壁掛け時計の針は、十時過ぎを示している。俊吾は同じ部屋に居続けるのに、居心地の悪さを感じ始めた。一階にはこの時間誰もいない。いや一人。違う、一匹はいる。

 俊吾は自室から出て、階段を下りた。リビングの引き戸を開けて、部屋の中を見ると、トラがいた。炬燵から顔を出して、こちらを見ている。俊吾もその隣に入り、テレビのチャンネルを手に取った。トラは逃げずに、近くにいてくれるようだ。

 番組表をつけてみても、気になる番組はなかったので、適当に朝の情報番組をつけることにした。その情報番組では、クイズコーナーをやっていた。最近のテレビはどこでもクイズをやっているなと、俊吾は感じていた。

 そのクイズコーナーでは、事前に名産品を紹介した後に、それを景品にしてクイズ勝負をするのだ。ゲストが早押しボタンを持ち、問題を待っている。問題の形式はだった。視聴者も参加しやすいし、わかりやすいのが理由だろう。

 突如、俊吾の頭にある案が生まれた。アナグラム。並び替え。複雑な単語。様々な言葉が駆け巡る。一瞬の間だけだったが、恐怖を忘れることができた。だが、その反動か『苦境らうふをもの』へのと、頭の片隅で収まっていた悪い想像は、膨大に膨れ上がってきた。


「おわりだよ」


 どこか近くから、声が聞こえた。低い声。しかし、誰もいない。俊吾はトラのほうを見た。トラはこちらを見つめている。まさかな。

 俊吾は炬燵から這い出て、自室にかけだしていった。確かめなければいけない。結果は想像できなかった。

 俊吾はパソコンを開き、AIのソフトを開いた。このソフトはプログラミングするときの、補助として使っていたものだ。そのソフトに、と打ち込む。

 最初はうまく出なかった。文字を全部使わなかったり、全く違う言葉を出したりしていた。だが、数分後。結果が出た。その結果を見た瞬間、俊吾のは過去最高潮に達した。

 鳥肌が全身に立ち、震えが止まらない。歯がカチカチとなり、涙が出てくる。ただ出た結果だけを、見つめた。『苦境らうふをもの』も調べたかったが、指が動かない。それどころか、全く体が動かせない。トリガーもわかってしまった。それは単語を知ることと、俺を見ること。いや、俺というより・・・・

 そのとき、パソコンの充電が切れた。パソコンはブラックアウトし、。『苦境らうふをもの』は後ろに立ち、こちらを楽しそうに見つめている。俊吾の震えは止まらない。

 めまいがし、その恐ろしい姿に失禁してしまった。声を出すことができない。『苦境らうふをもの』はこちらに近づいてくる。俊吾は抵抗できなかった。『苦境らうふをもの』の無数の腕が伸びてくる。それに応じて、俊吾の頭の中がで満たされた。 グッ そいつは首を絞めてくる。息苦しさが増し、ついには意識を失った。

 俊吾が目覚めることは、もう二度とない。俊吾の

─────────────────────



『頼ず牛にっとう色』




『たよずうしにっとういろ』




『ずにしとういにろたよっ』




『ずっにしたうにろいよた』




『ずっとうしろにいたよ』




『ずっと後ろにいたよ』




『苦境らうふをもの』?


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 7 悪趣味

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