『伝え広まった怪異 前編』

かいなにこまよさみはい。

やつらはぐすべをふせない。

ものるかかにびょうどうふり。

だから、あなたのそばにもかくじつにいる。

        【検索】         

─────────────────────

 記録的でもない雪が降った日のこと。白く染まった田んぼをかき分けながら、二両編成の赤い電車が、どんどん進んでいく。人がほとんどいないこの電車に、建物で遮られることのない夕陽が、ありありと差し込み、車内をオレンジ色に染める。田舎の電車というのは、えてして人が少ないものだ。椅子に座れないことはないし、何なら寝転がることもできる。それに本数も少ない。一日に多くて三本。乗り逃すと、その日の予定は崩れてしまう。

 そんな電車に中学生の、神木俊吾かみきしゅんごは乗っていた。目的の駅は、あと二つ先。そして次の駅にはもうすぐ着く。車両には俊吾と、対面に一組のカップルがいるだけだった。年齢的には二十歳はたちぐらいに見え、女のほうが男の肩に頭を預けて、眠りについている。

 俊吾は『福』と書かれた赤い紙袋を、自分の両端の座席に乗せていた。中にはミステリー小説が、たくさん詰まっているはずだ。『○○からくり堂書店』。この書店の福袋を目指して、俊吾は町に出たのだった。

 俊吾の住む田舎町には、書店は一つしかない。その店にも何度も足を運んだ結果、めぼしい商品はなくなってしまったのだ。それに店主は高齢のおばあちゃんで、店の経営にやる気がないのか、あまり新刊を取り寄せることもない。本の福袋など、もってのほかである。

 俊吾は目的の駅につくまで、スマホを見ていた。行きの電車内や書店を探すときに使ったため、充電は残り僅かである。モバイルバッテリーを持ってくればよかったと、後悔していた。


「次は手千原てちわら手千原てちわら


 ノイズのかかった車掌の声が、聞こえたのと同時に、電車が停止した。手千原駅は簡素なベンチしかなく、改札以外に屋根がない。そのためベンチには、削られていない純粋な雪が積もっていた。その駅に一人のおばあさんがいた。コートを着て、ハットを目深にかぶり、杖をついている。

 音を立てて、俊吾の対面の扉が開き、その人が入ってきた。席はいやというほど空いているため、どく必要はない。


(え?)


 思わず心の中で、驚きの声をあげる。おばあさんは、わざわざ俊吾の隣に座ってきたのだ。俊吾はもともと端寄りに座っていた。さらに両端には、福袋も乗っているため、座席の端にスペースはほとんどない。驚くべきことに、おばあさんはその狭いスペースに座ったのだ。俊吾も福袋を端にまとめることになった。それ自体は、嫌ではないのだが・・・


「すいませんねぇ・・・足腰が悪くて・・・」


「いえ…全然」


 おばあさんは腰をしっかり落としてから、優しい口調でそう言った。対面のカップルの男も、スマホから顔を上げて、

 なぜこんなに空いている車内で、わざわざ人がいるところに座ってきたのか。理由はわからないが、こちらとしてもあまり気分がいいものではない。なので露骨に避けてると思われない程度に、少しスペースを空けた。

 おばあさんはコートのポケットから、スマホを取り出した。手帳型のケースに入れられたスマホ。俊吾もスマホに目を移し、パズルゲームをやろうと思った。だが、開いてロードをしているときに、画面がブラックアウトした。ゲーム画面の代わりに、赤くなった充電マークだけが表示される。

 最悪だ。やることがなくなってしまった。俊吾は流れるように、結露した窓ガラスに頭を預けた。後頭部に冷たい感覚が広がる。そのとき、わざとではなかったのだが、おばあさんのスマホの中が見えてしまった。

 おばあさんはSafariを開いて、何かを検索しているようだ。タイピング速度は遅い。人差し指で、ゆっくりとキーボードを叩いていく。今の検索バーには


『頼ず』


 頼ず?頼らずって感じなのかな。というか、何を調べたいんだろう。俊吾は気になった。悪いことだと分かっていたが、おばあさんにばれない程度に、スマホの中を覗き見ることにした。対面の男は、既にスマホに目を向けなおしている。おばあさんはタイピングしていく。


『頼ず牛に』


 牛?牛に頼ってはいけない、ということなのだろうか。ヴィーガン?

 俊吾は今の考えを自分で、鼻で笑った。その間もおばあちゃんは、真剣な眼差しでスマホを見つめながら、タイピングしていく。



 色⁉にっとう色、という色があって、その派生形なのだろうか。いや、ないだろう。さすがに世界広しといえど、そんな名前の色はない・・・と思う。

 だが、俊吾の思いは裏切られた。おばあさんは空白を作ったのだ。それは『頼ず牛にっとう色』というのが、一つの単語であることを示していた。気づけば俊吾は、おばあさんが次何をタイピングするのかに、くぎ付けになっていた。おばあさんはゆっくりとタイピングしていく。


『頼ず牛にっとう色 のが』


『頼ず牛にっとう色 逃れ』


『頼ず牛にっとう色 逃れか』


『頼ず牛にっとう色 逃れ方』


 おばあさんは検索ボタンを押した。色から逃れるとは、どういう意味なのだろう。逃れ方、というのが何とも恐ろしく、俊吾の背筋をゾクリとさせた。おばあさんのスマホには、グルグルと丸い輪が回っている。

 少しして、Safariは検索結果を出した。結果は、どこかもわからない市役所の情報や、震災の記録などが出るだけで、めぼしい情報はないように見える。Safariも検索したキーワードに困惑して、微妙にかすっているような情報しか、出せなかったのだろう。おばあさんはただスクロールをしていくだけで、サイトの中身を見ることはなかった。


「次は奥摩周おくましゅう奥摩周おくましゅう


 目的の駅に着いた。おばあさん検索したかったことも見れたし、ちょうど良いタイミングだ。対面の男も、寝ている女を起こしている。俊吾は福袋を持って立ち上がり、おばあさんを尻目にドアへと向かっていった。

 奥摩周駅は、手千原と比べればしっかりしている。ちゃんと屋根はついているし、改札の近くには自動販売機だってある。ただ、屋根に積もった雪を、清掃しているところは見たことがない。半透明の薄そうな屋根で、柱も心もとないつくりをしている。もし雪が通常よりも多く降ったとしたら、倒壊しそうな気がした。だとしたら、手千原のように屋根がないほうが、いっその事マシなのかもしれないとも思ってしまう。

 カップルの後ろを歩いていき、ポケットからICカードを取り出して、改札に当てる。残高は行きの時に入れてきたため、足りないことはない。改札を抜けると、一面銀世界だった。昔から立っている平屋がぽつぽつとあり、白い雪が覆いかぶさっている。

 カップルは俊吾の行く方向とは、別の道を歩き始めた。俊吾もジャンバーを、しっかり着なおしてから歩き始める。スマホの充電は切れてしまったし、特にこの帰路の間にしたいこともなかった。ぼんやりと、ときどきある田畑を眺めながら、側溝にはまらないように気を付けるだけ。

 何も考えていなかった脳内に、ふとあのおばあさんが調べていたことがよみがえってきた。『頼ず牛にっとう色』。この言葉はそもそも、どこで区切るのだろうか。頼ず牛、までで一つなのか、牛にっとう、で一つなのか。牛にっとうという言葉は、ありそうな気もする。畜産の専門用語的な。

 調べるツールもないので(そこまで深く気になってはいないのだが・・・)、この言葉が何なのか、皆目見当もつかなかった。ただ一つ言えるのは、あのおばあさんは頭がおかしくなっていたのではないか、ということだった。

 そんなことを考えながら、俊吾は道を歩いていると、十字路に差し掛かった。すると、どこからか声が聞こえる。声の方向に目を向けると、誰かが手を振りながらこちらに走って来ていた。

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 男は奥摩周駅で降りて、彼女と歩いていた。彼女はまだ眠そうにしており、こちらの腕を支えにして歩いている。雪も降っており、滑ると危ないので、男は声をかけることにした。


「ねぇ、危ないよ。ちゃんと歩いて」


「ん?んん」


 間の抜けた、よくわからない返事が返ってきた。だが、男の腕を離し、目をこすりながらも、自分でしっかりと歩き始めた。雪を踏む音が重なる。


「電車空いてたね」


「そうだね、


 男はその一人のことを思い出し、気になった出来事を話すことにした。


「そういえば、あの子なんか言ってたんだよな。福袋もってた子。車内にあの子しかいなかったし、不意打ちだったから、なんて言ったのかは聞き取れなかったけど」


「独り言じゃない?誰も乗ってこなかったんでしょ?」


「うん、降りる客は結構いたけど、田舎に入ってから乗る客はいなかった。まぁ・・・でもなんか、独り言でもなさそうだったんだよなぁ」


「ふーん・・・」


 彼女は興味がなさそうだった。その様子を見ていたら、男もどうでもよくなってきた。二人はそのまま家を目指して進んでいく。そしてこの出来事は日が経つにつれ、忘れ去られることになった。

─────────────────────

 十字路の先から走ってきたのは良二だった。良二は数少ない同級生であり友達だった。片手にはビニール袋を持っており、何も持っていないほうの手で、こちらに手を振りながら走ってくる。


「お前滑るぞ笑」


 良二は息を切らしながら、俊吾の前へとたどり着いた。上下に学校のジャージを着ている。ビニール袋の中には、封が開けられたツナ缶が何個か入っていた。良二が進んできた方向には、猫が集まる神社がある。そこに餌をやってきたのだろう。その神社は俊吾たちの遊び場であり、秘密基地のような場所でもあった。人があまり来ず、神社の宮司さんは優しいので、遊んでいても何も言ってこない。その神社のことを、俊吾たちは親しみを持って『猫鳴き神社』と呼んでいた。


「俺は滑らんよ、滑らない走り方を知ってるからね」


「そっか。猫鳴き行ってきたの?」


「うん。暇だったから。家いても親めんどいし」


「あんま餌あげちゃダメなんじゃないの?野生だから」


「そんなしょっちゅうはあげてないよ。たまにね、たまに。ほら、帰ろーぜ」


 二人は横並びになって、田畑の中を進み始めた。畑では名も知れぬおじいちゃんが、くわを持って土を耕している。歩きながら二人は、遊ぶ約束をしたり、学校の先生の話をしたりしていた。だが、話すことがなくなってきた。そのため俊吾は話のネタとして、先ほど見かけたおばあちゃんについて話すことにした。話始めたはいいものの、良二はそこまで、関心を持ってはいないようだった。


「ふーん・・・でそのおばあちゃんは、なんて調べてたのよ」


「えーっとね、『頼ず牛にっとう色』。だったかな。意味わかんないだろ」


 自分でも以外なほど、。語呂の良さがあったからだろうか。

 良二はこちらを見て、目を見開いた。確実に空気が変わったのを、俊吾は感じ取っていた。溶け出してきた雪を踏む音が、二人の間でやけに響いて聞こえる。良二は俊吾と目を合わせようとはしない。ぼんやりと俊吾の周りを、見ているように見える。そして口を開いた。


「それ今流行ってるんだよ」


「え?まじ」


 知らなかった。これの何がどう流行っているのだろう。俊吾も普段はSNSなどをよく使っているが、こんな言葉は聞いたことがない。俊吾は詳細を聞いてみることにした。


「流行ってるって、この言葉が?」


「言葉というか、存在が」


 周囲は田畑ばかりではなく、新しめの住宅街増えてきていた。二階建ての建物も多い。雪かきを午前中にやっていたのか、雪もそれほど積もっていない。どこからかカラスの鳴き声が聞こえてきた。良二はまだぼんやりと、こちらを見ながら歩いている。なんとなくそっちを見るのが嫌だった。そのため、俊吾は顔の向きを変えず、前を向かないと危ないよ、と声をかけようとしたとき、良二が先に口を開いた。


「それはね、最初は小さいらしいんだ」


「小さい?」


「そう」


「ふーん・・・いやいや、待って。そもそも何のさ。『頼ず牛にっとう色』って」


「わからない」


「へ?」


 前を向いていた俊吾も、思わず良二の方も見る。良二は真顔だった。そして、こちらと目を合わせようとしない。ずっとぼんやりと、こちらを見るだけ。何かがおかしい気がする。普段は明るい彼だが、明らかにまとっている雰囲気が違う。


「えと・・・わからないっていうのは?流行ってるんでしょ?」


「そう、わからないところが流行ってるんだよ。そういう存在がいるってだけ。どこからともなく急に沸いて出たんだ。何もかもわからない。でも、いろんなところから情報が出てきてるんだよ。今はサイズだけだけど」


「その情報信用できるの?」


「うーん・・・まぁ、その気持ちはわかるんだけど。なんか納得しちゃうんだよ。ピースが綺麗にハマるっていうか。聞いた人全員が、それそれ!って感じになる」


「そうなんだ」


 詳しく聞くことは出来たが、結局よくわからないというのが、俊吾の感想だった。だが、よくわからないものが流行るというのが、昨今のSNS事情なのかもしれない。周りに流されていき、気づいたら流行っている。これからどんどん『頼ず牛にっとう色』という単語が、広まっていったら違和感はなくなるのかもしれない。流行りとはそんなものだろう。


「じゃあ、どんどん情報が出てったら、『頼ず牛にっとう色』も解明されるかもね。まだサイズだけだけど」


「うん。あ、あともう一個あるよ」


「何?」


「怖いんだってさ」


「・・・何が?」


「姿が。とりあえず怖いらしい、『頼ず牛にっとう色』は」


 良二は『頼ず牛にっとう色』を、頼ず牛、で区切った。そのため読み方はようやくわかったのだが、俊吾はこの言葉の真意が全く分からなかった。怖い?何が?結局なんなんだよ?俊吾の頭は、はてなで埋め尽くされていく。そしてそのごちゃごちゃした頭の中に、『頼ず牛にっとう色』という言葉だけが、深く刻み込まれていった。


「じゃ、また明日」


 良二はこちらに言うと、家に入っていってしまった。気づけば、良二の家の前まで来ていたのだ。俊吾は一人立ち尽くしていた。口から白いため息が出る。夕暮れの空は、だんだんと暗くなってきており、夜の体裁ていさいを取り始めていた。カラスの鳴き声も聞こえなくなってきている。俊吾の家も、ここからすぐのところだ。ポケットに手を入れて、再び歩き始めた。

─────────────────────

 家に帰ると、母のおかえりという元気な声が聞こえてきた。靴を脱いで玄関に上がり、引き戸を開けてリビングへと入っていく。キッチンには母が立っていた。父は二回で寝ているようだ。手持ちの福袋を炬燵こたつの上に置くと、炬燵の布の部分が動いた。俊吾は今日の晩御飯が何かが気になり、キッチンに立ち寄った。匂いは何もしない。まだ作り始めたばかりらしく、母はねぎを切っているだけで、周りには何もなかった。


「ねぇ、お母さん。今日の晩御飯何?」


「ラーメン。寒いからね」


「やった」


 俊吾はラーメンが好きだった。一番好きなのは、塩味。寒い日に食べるラーメンは絶品だ。

 俊吾はふと、今日起こった話をしてみようと思った。両親はトレンドなどについて、全く知らない。未だにタピオカが流行っていると思うぐらいだ。だが、だからこそ聞ける忌憚のない意見というのも、あるのではないかとも思った。このトレンドについての、客観的な意見。そのため電車での出来事から、良二との話までを俊吾は話した。


 ・・・っていう感じ」


「知ってるよ」


 俊吾は目を見開いた。思わぬところから、パンチをもらった感じだ。母はねぎを切る手を止め、包丁をまな板の上に置いた。両腕をだらんと垂らし、こちらをぼんやりと見ている。母の周りの雰囲気が揺らぎ、俊吾はデジャブを感じていた。背中に鳥肌が立っていくのを、俊吾は黙って意識することしかできない。


「『頼ず牛にっとう色』でしょ?知ってるわよ。え、あんた知らないの笑?」


 それが当たり前であるかのように母は言う。母にトレンドでマウントを、取られたのはこれが初だった。俊吾は何かが、ずれているような気がした。知らない間に世界が、少しだけ変わったような。胃のあたりに何とも言えない、わだかまりがあるのを顕著に感じていた。


「え、マジで有名なの?俺知らないんだけど」


「有名・・・まぁまぁね。最近出てきたから、これからもっと知られていくんじゃないかしら」


「じゃあ・・・何か説明できる?『頼ず牛にっとう色』について。良二はできなかったんだけど」


「できないわよ。良二君が知ってるようなことしか、お母さんも知りません。情報がないんだから。ただそういう存在がどこかにいるってだけ」


 情報がない。そもそも母と良二は、どこからこれを知ったのだろうか。良二はSNSを使うが、母は使わない。そのため母がどうやって知ったのかは、皆目見当もつかなかった。


「ねぇ、お母さん。どうやって知ったの?その話」


「・・・・・・聞いたのよ。向かいの加藤さんから。買い物のときにね」


 母は記憶を探っていたのか、からそう言った。加藤さんは向かいのアパートに、一人暮らしをしている人だ。気さくな人で、俊吾が学校から帰ってくると、おかえりなさいと声をかけてくれる。返事を上手く返せたことはないのだが(近所の人のおかえりなさいに対して、返事の最適解がわからないのだ)。詳しい年齢は知らない。ただ中年の女性で、よく買い物に出かけているのを、俊吾も見かけていた。

 母が知ったきっかけはわかったのだが、納得感は湧き上がってこなかった。それは加藤さんも母と同じように、トレンドには興味がないタイプだと、俊吾が考えているからだ。疑問は加藤さんの方に、そっくりそのまま移っただけだった。


「ふーん・・・そっか」


「あ」


 思わず漏れ出たような声、何かを思い出したような、何かを発見したかのような響きがあった。目は依然としてぼーっと、こちらを見つめている。口は先ほど、発した言葉の形に開いたまま。中途半端に固まった姿は、まるで不気味な彫像のように見える。そして俊吾は、あることに気づいた。母の瞳の、のだ。


「思い出した。目がいっぱいあるのよ。『頼ず牛にっとう色』は」


「目が?気持ち悪」


「うん。怖いからね」


 俊吾はこの状態の母を、あまり見たくはなかった。背筋に虫が這いまわっているような、気持ち悪さがあるからだ。いつもの母に見慣れているため、余計にこの不気味な母が際立って見える。俊吾は話を逸らそうとして、この話題を切り上げることにした。


「ね、ねぇ。ラーメン作らなくていいの?」


「え?ああ、作るわよ」


 母は瞬きをして、こちらを見つめた後、まな板のねぎを切り始めた。キッチンにはいつも通りの母がいる。慣れた手さばきでねぎを切っていくと、切られたねぎは塊のようになっていく。

 俊吾はリビングへと戻っていった。ポケットに入れっぱなしにしていたスマホを、ソファの近くにある充電器に繋げてラックに置いた。手持無沙汰になった俊吾は、炬燵の上に置いてあるリモコンを手に取る。それはテレビのリモコンだ。番組表をつけてみても、俊吾の琴線に触れるような番組はなかった。

 とりあえず炬燵に入ろうとして足を入れたとき、何かフサフサしたものが足に触れた。炬燵の布をめくってみると、そこには茶トラの猫がいた。神木家で飼っているオス猫、名前は『トラ』。茶トラだからトラだ。

 雪は降っていなかったが、寒い日のこと。神木の家の庭。霜が降りた庭の木の下に、弱々しく鳴く子猫がいた。周りに親猫はいなく、衰弱しているのか、足は骨の形がよく見えていた。親猫が育てきれなくなり、育児放棄したんだろうと、当時小学生だった俊吾に、父は優しく教えてくれた。このまま放置することは出来ず、晴れて家族になったのだ。これがトラだった。

 トラは炬燵の布をめくられたことに、不満そうな顔をしていた。寒いから閉じろ、とでも言いたげな目で、俊吾をじっと見つめてくる。その要望通りに、俊吾は布を閉じた。猫様の機嫌を損ねてはならない。トラの体温を足で感じながら、番組表を見ていくと、クイズ番組をやっていたので、それをとりあえずつけることにした。

 テレビをつけてはいるものの、内容はあまり頭に入って来ず、頭の中は『頼ず牛にっとう色』という、不可解なトレンドでいっぱいだった。知った情報は、最初は小さくて、目がいっぱいある。具体的な形を想像することができないため、俊吾の中ではいまいち、ピンと来ていなかった。

 そんな想像しているときに、引っかかる箇所があった。それは良二が言っていた、「最初は小さい」というところにあった。最初は?どんどんでかくなっていく、ということだろうか。スマホの充電ができれば、すぐにでも調べてみようと思った。

 俊吾にはもう一つ検索ツールがある。それは父のノートパソコンだった。父が個人的に買ったものだが、俊吾も使わせてもらっている。そのノートパソコンでは、許可を貰えばゲームもインストールできるし、趣味でやっているプログラミングの練習も出来る。同年代でスマホを持っている子は多いが、自由にノートパソコンを使える子は、そういないのではないかと、俊吾は考えていた。そのため父には、感謝しなければならない。

 だが、そのパソコンは普段父の部屋にある。俊吾が使うときは、それを自分の部屋に持っていくのだ。そして今、父は自室で寝ている。だから取りに行くことができない。

 ソファの近くから、電子音が聞こえてきた。スマホの充電が出来た合図。薄暗いラックの周辺が、スマホの明かりで照らされている。炬燵から出来るだけ、出ないようにしながら、スマホへと手を伸ばす。ケーブルを片手で外し、再び炬燵に潜り込む。

 先ず調べてみたのは、X(旧Twitter)だった。良二がXを使っていたからだ。検索欄にいき、素直に『頼ず牛にっとう色』で検索してみた。ロード時間は短かい。画面には検索結果がありません、と出てきている。一つの情報も出てこなかった。

 トレンドになっているもので、Xに情報が一つもないなどということがあるのだろうか。俊吾の頭に、一つの想像の卵が産まれた。それは嫌な空気を纏っている。次はYouTubeで検索をしてみることにした。検索ワードは同様である。YouTubeもロード時間は短かく、検索結果が表示された。だが、かすったキーワードで表示しているだけで、求めているような情報はなかった。

 俊吾はすぐにYouTubeを閉じて、別のアプリに行く。何故か急かされているような気分だった。先ほど生まれた、想像の卵にひびが入っている。次はInstagram。キーワードは同様に、検索してみた。何故か牛丼の画像が、いっぱい出てきてしまった。もう俊吾の持っているSNSのアプリはない。俊吾は炬燵に入ったまま、後ろのソファに頭を預けた。

 想像の卵は割れたが、中には何も入っていなかった。良二たちはどこからこの言葉を、知ったのだろうか。結局、何もかもわからなかった。俊吾はトラの姿をみたくなり、炬燵の布をめくった。中にいるトラは、寒いから閉じろ、といった目で再び眺めてくる。猫様の機嫌を損ねてはならない。俊吾は大人しく、布を閉じた。


「俊~?お風呂先に入っちゃいな」


 母の元気な声が、キッチンから聞こえてきた。先ほどの不気味な様子からは、想像もできない。俊吾は言うとおりに風呂に入ることにした。だが、その前に良二へLineを送ることにした。内容は『頼ず牛にっとう色』を、どこで知ったかだ。

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 風呂から出た俊吾は、そのまま晩御飯を食べていた。頭にはタオルを巻き、濡れた髪の毛から水が、垂れてこないようにしている。ラーメンの味は、塩味。俊吾は心の中でガッツポーズをした。塩ラーメンにはコーンが乗っており、端には薄いチャーシューが乗っている。

 俊吾は塩ラーメンを堪能した。あっという間に食べ終えてしまい、幸せな喪失感に襲われる。器をカウンターの上に乗せ、洗面所に行き髪の毛を乾かした。好物を食べていると、ある程度考えていることは、吹き飛ぶものである。

 もろもろを終えた俊吾は、再び炬燵に戻っていった。炬燵に置いてあるスマホを見て、良二からの返信が来ていることに気づくと、顔認証でロックを開け、Lineを開く。一番上の部分に、良二のアイコンが来ていた。Lineではメッセージを、この状態からでも見ることができる。短いメッセージだったため、全文を見れた。


『なんのこと?』


 俊吾は混乱した。良二はこのことを覚えていない?どういうことだろう。あの時のことは、俊吾が見たおかしな夢だったのか。俊吾はもう一度、良二にメッセージを送ってみることにした。


『ホントに覚えてないの?』


 すぐに返信が来た。


『うん』


『記憶になさすぎる。いつの話?』


『今日。夕方に一緒に帰ったじゃん』


 あくまで俊吾が思っただけだが、良二はうそをついていないように見えた。変なイタズラをしてくるやつでもない。良二の返信は一度止まった。頭の中で、該当する記憶を探っているのだろう。


『一緒に帰ったのは覚えてる』


『でも』


 再び良二からの返信が止まった。これがイタズラではないのなら、どういう可能性が考えられるだろうか。俊吾は必死に頭を働かせてみた。だが、ピンとくるアイデアは、一向に出てこない。そうこうしているうちに、良二からの返信が来た。


『なんかところどころ記憶がない。歩いてるときの』


『記憶がない?』


『うん』


『じゃあ、遊ぶ約束したのは?』


『覚えてる』


『定期テストの話は?』


『覚えてる』


 おそらく『頼ず牛にっとう色』についての会話だけが、良二の頭の中から抜けている。俊吾は訳が分からなかった。不可解、という言葉が、世界で一番似合う出来事、なのではないかと思った。はっ、と俊吾の頭の中に、今すべきことが流れ込んできた。


「お母さん」


「何?」


 、母に声を掛ける。ソファが壁になっているため、向こうの姿は見えない。向こうからもこちらの姿は、見えないだろう。


「お母さん、『頼ず牛にっとう色』って知ってる?」


「たよ・・・・何て?」


「『頼ず牛にっとう色』」


「知らない。何それ。呪文?」


「いや、ごめん。何でもない」


 やっぱりそうだ。『頼ず牛にっとう色』について話した人は、その話をしたことを忘れる。母の姿は見えないけれど、訝しげな表情が容易に想像できた。

 あの不気味な状態、こちらをぼんやりと見つめ、黒目が異常に黒くなる(良二がどうだったかは、覚えていないが・・・)状態。そのときに『頼ず牛にっとう色』について話し、そして忘れるのだ。

 背筋に冷たいものが走り、手汗がどんどんあふれてくる。記憶が簡単に消えることに、俊吾はかなりの恐怖を覚えていた。その恐怖は、トリガーがなにか分からない、というところからも来ている。

 一番ありそうなのは、単語を聞く、つまり『頼ず牛にっとう色』という単語を聞くということだ。しかしこれにも、いくつか穴がある。母と良二は今聞いても、あの状態にはならなかった。

 もしかしたら、単語を聞くのとプラスで、なにか条件があるのかもしれない。だが、その見当が全くつかなかった。ついには俊吾の頭から煙が出始め、脳が考えるのをやめた。

 ただ、人前で『頼ず牛にっとう色』という言葉は、使わないようにしようと決めた。明らかに日常とは違う領域。別の世界の異質な感じが、この言葉,そして現象にはあったからだ。それにわざわざ変なものに、深入りをする必要はない。

 俊吾はトラを探した。この複雑で不気味な気持ちを、トラに癒してもらいたかったからだ。炬燵の布をめくると、奥のほうにトラがいた。トラは、寒いから早く閉めろ、と言いたげな目でこちらを見つめてくる。猫様の(以下略)

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