『首の伸びた怪異』

首を長くして待っています

共に行きましょう

早く開けてください

もう首は伸びきってますよ

─────────────────────

 雲一つない快晴。まだ少し暑さが残る中秋。アスファルトが季節外れの熱を、持ってしまった日のことだった。様々な家が建ち並ぶこの住宅街の中でも、ひと際きれいなレンガ壁の一軒家の前に、一台の車が止まった。


「いや熱くない?もう秋なんじゃないの?」


 と不満げに言いながら、助手席のドアを開けて二宮梨花にのみやりかが降りてきた。長い黒髪を一つにまとめて、ロングTシャツにデニムパンツを着こなしている。手には自販機で買った炭酸飲料を持っているが、中身はほとんどなくなっていた。


「今の日本に秋なんてものはないよ。ほぼ二季だからね、二季」


 そして運転手側から梨花の旦那である、二宮風喜知にのみやふうきちが降りてきた。髪を短く切りそろえ、サングラスをかけて空を見上げている。腕時計をつけて、野球チームのロゴがついた黒いTシャツに、ひざ下までのシェフショーツ、服装だけを見れば中秋とは、とても思えない服装だった。

 梨花が後部座席のドアを開け、中からソファ用のクッションを取り出す。片手にペットボトルを持っているためか、持ちづらそうにしている。そのまま玄関ドアに向かった。新品のヒールがコツコツと音を立てている。


「ねぇ、早く家の中入っちゃいましょ。ほら、あなた鍵開けて」


「ああ、ごめんごめん」


 そう言うと、風喜知は梨花がいる玄関ドアに向かい、ポケットから鍵を取り出し開錠する。玄関ドアの取っ手をつかみドアを開けると、室内の冷気が流れ込んできた。


「ああ~涼しい~~」


「エアコンつけっぱなしにしといて正解だったね」


 梨花はそのまま靴を脱ぎ、手前の引き戸を開けリビングに入っていった。それに風喜知も続いていく。

 玄関ドアから中に入ると、右手には靴箱が見え、左手の少し進んだところに扉のない物置がある。下には梨花と風喜知の靴が並べて置かれていた。正面には細い廊下があり、入ってすぐの右手にリビングに続く引き戸。中程の左手には、二階に上がるための手すり付きの回り階段。突き当りにも引き戸があり、そこはトイレになっている。壁紙は白色系のものが使われており、フローリングとマッチさせるようにしていた。

 リビングに入ると、梨花がソファにクッションをセッティングしていた。十六畳ほどのリビングの右手には、テレビが壁にくっつけられており、その下には木製のラックが置かれている。ラックには観葉植物と、それらを育てるための道具があった。

 その向かいには、二人掛けの紺色のソファがある。そのソファの前には、引き出しのついた木製のローテーブル、その下に黒色の夏用ログカーペットが敷かれている。さらに右手の窓には、レースのカーテンが取り付けられ、中秋とは思えない日差しを、多少なりともカットしてくれていた。

 左手には風喜知が仕事で使っている法律関係の本が、収納されている本棚がある。その隣にマグネット式で、観音開きの物置がある。かなりの大きさのものだが、まだ中に物は入っていない。


「はぁ~新築の匂いがする~~」


「新築だからね笑」


 クッションをセッティングし終えた梨花はソファでくつろぎ、新築の匂いをかいでいた。

 二宮夫妻がこの家を完成させたのは、三日前のことだ。一年前の冬、クリスマス目前の時期に、二十四歳の二人は結婚した。その時から二人は、一軒家を建てようと思っていた。子供を作りたいという気持ちもあったし、その時住んでいたアパートも、お世辞には綺麗とは言えなかったからだ。さらにお金の面は風喜知のおかげで問題なかったため、出来るだけ理想に沿ったものを建てることができた。風喜知に強い要望がなかったので、家の設計などに関しては梨花が中心となって進められた。


「それじゃ、俺この後仕事あるから」


「今から?大変ね」


「面倒くさい案件が入ってきたんだよ」


 そう言うと風喜知は、本棚に寄せてある仕事用の黒いかばんを手に持ち、重い足取りで玄関へと向かっていった。そのあとを梨花もついていく。


「何時ぐらいに帰ってくるの?」


「う~ん・・・・・資料とか探しに行くだけだし、そんな時間はかからないと思うよ。今が四時半だから・・・・・・・・六時くらいかな」


 靴を履きながら風喜知が返答する。靴箱の上に置いてある鍵を手に取り、取っ手の上にあるつまみをひねって、玄関ドアを開錠する。玄関ドアを開けると、熱気が室内に入り込んできた。思わず梨花は顔をしかめる。


「じゃ、行ってくる」


「はーい、気をつけてね」


 こちらに背を向ける風喜知に手を振りながら、梨花は今日の晩御飯のことについて考えていた。玄関ドアが完全に閉められたのを見て、梨花はキッチンへと向かう。

 ダイニングはリビングと吹き抜けになっており、そのダイニングの左手にキッチンがあった。ダイニングには四人掛けの木製のテーブルがあり、アンティークな椅子が収納されている。壁際には文房具などが入っているローチェスト、その上には何台か写真立てが置かれ、そのどれも二宮夫妻が、旅行に行ったときに撮られたものだった。部屋の角にあるエアコンの下には、壁掛け時計がつけられている。カーテンや窓はリビングと同じものが使われていた。

 キッチンに来た梨花は、まず冷蔵庫を開いた。中に食料はほとんど入ってはいない。ここに引っ越してからは忙しかったため、買い物にもあまり行けてないのだ。それでも、もやしと豚肉があったため、炒め物でも作ろうかと考えていた、その時だった。


「ん?」


 それは異音だった。エアコンが稼働している音とは、また別の音。一瞬のことだったため、何の音かはわからなかったが、低い音だった。そしてその音は梨花の近くから聞こえた。


「気のせいか」


 今の梨花には気のせいにも思えるような小さな異音のことなど、眼中になかった。眼中にあるのは、快適な料理ライフのことだけ。まだ夫妻が賃貸で生活していた時のキッチンは、とても扱いづらかった。食洗器はついていないので、毎度手洗いだし、ガスとの接続が悪いのか、火がたまにつかない時だってあった。だが今のキッチンは違う。食洗器はついてるし、火もガスではなくIHだ。何より傷や汚れ一つないキッチン、というのが果てしなく梨花には嬉しかった。

 冷蔵庫の右には四段になっている棚がある。一段目には箸やスプーンなど、二段目にはごはんやみそ汁を入れる食器類、三段目には料理の元や調味料、四段目にはまだ何も入っていなかった。その三段目を開け、中を漁ってみるとトンテキの元があった。そのため今日の晩御飯は、トンテキ,もやしと豚肉の炒め物,白米,そしてみそ汁に決定した。


 ────約三十分後────


 コンロは左右で二つあり、左側にはみそ汁の入った鍋、右側にはトンテキが焼かれているフライパンがあった。コンロの横にはもやしと豚肉の炒め物が皿の上に乗せられている。

 コンロから振り返り、食器棚から良さげな皿を一枚取り出した。炒め物が入った皿を横にずらして、空いたスペースに皿を置き、出来上がったトンテキを乗せた。炊飯器にタイマーをセットしたか確認して、梨花は大きく伸びをした。ダイニングの壁掛け時計を見ると、午後五時になりそうだった。


「ちょっと早すぎたかな?まぁ、いっ」


 思わず体が固まった。あの低い音。ご機嫌な独り言を遮るように、異音が聞こえた。またしても梨花の近くで。梨花は場所を探り始めた。

 数秒後、また異音が聞こえた。そして場所を特定することができた。それはシンクだった。ここで音が鳴っている。瞬時に嫌な妄想が梨花を襲った。


「壊れた?」


 シンクも蛇口も野菜を洗う時などに使った。その時にどこかが壊れた可能性はある。元から壊れていたかもしれないが、どちらにしろ壊れているのなら、保証が効くうちに変えなければならない。だがその嫌な妄想も、再び聞こえた異音が吹き飛ばした。

 シンクの前に来て初めて分かった。異音には抑揚があるのだ。毎度聞こえる異音にも、微妙に違いがあるように感じる。異音の発生源を探していく。

 梨花は水垢が一つもないシンクに、顔を近づけていく。異音が聞こえた。


「~~~~~~~~~~~~」


 まだどこから鳴っているのかはわからない。音の場所を探しながら、さらに顔を近付けていく。異音が聞こえた。


「~~u~~~~y~~~~~」


 異音の発生源が分かった。それは排水口だった。そこに吸い寄せられるように、梨花は耳を近づけていく。異音が聞こえた。


「~s~~~ろ~~~~い~~」


 排水口に限界まで耳を近づけた。低い音。抑揚のある音。異音がはっきり聞こえた。





「うしろにいるよ、うしろにいるよ」




 それは男の声だった。午後五時を告げる『夕焼け小焼け』のチャイムが部屋に響いたが、梨花の耳には届かなかった。─────────────────────

「それで?後ろに誰かいたの?」


「別に・・・誰も」


「じゃあ、やっぱ気のせいじゃない?それより、その音の原因のほうが気になるけど・・・・・」


「いや・・・気づいたら、音はもう聞こえなくなってたから」


「うーん・・・そっか。じゃあ、とりあえずは大丈夫だね」


 仕事場から帰宅した風喜知に、さき程起きた怪現象を梨花は、必死に説明していた。時刻は午後六時過ぎ。ダイニングのテーブルに、向かい合うように二人は座っていた。作った料理はラップをかけて、カウンターの上に置かれている。

 異音をはっきりと聞いた梨花は、反射で後ろに飛び上がり冷蔵庫に後頭部をぶつけていた。今痛みは引いているが、ぶつけた瞬間はかなりの鈍痛を感じた。

 後ろに飛び上がっても、誰にもぶつからないということは、後ろには誰もいなかったということになる。そもそも誰も立てない、といったほうが正しいのかもしれない。二宮家のキッチンは縦に人が二人入ると、中々の狭さになる。そのため後ろに人がいたら、すぐにわかるのだ。


「はぁ・・・ごめんなさい。料理あっためてくる」


「自分でやるから大丈夫だよ。先に風呂入って、休んできたら?」


「・・・・・そうさせてもらう」


 そう言うと、梨花はキッチンのほうに行き、冷蔵庫の横にある鍵付きの引き戸を開けた。そこは洗面所と風呂場につながっている引き戸だった。服を脱ぎながら梨花は、異音のことについて考えていた。

 梨花はあの異音を、気のせいだとは到底思えなかった。確実に聞こえた。男の人の声。あの声を聞いた時、今までに感じたことのない恐怖を、梨花は感じていた。今まで怪現象にあったことはない。幽霊などの霊的なものにも否定派で、幽霊を見たという人たちは、精神に異常をきたしている人たちだと思っている。

 服をキャスター付きの洗濯かごに入れ、スマホをプラスチック製の棚の上に乗せた。そのまますりガラスの引き戸を開けると、浴槽とシャワーが見えた。浴槽にはまだ水を貯めたことがないため、新品同様の輝きを放っている。

 シャワーフックからシャワーを外して、冷たい水を出し続けていると、だんだん温水へと変化していった。風呂の椅子にそのまま温水をかけて座ると、髪の毛を洗いながら、怪現象について考えることにした。そしてふと、あることに気づいた。

 異音の頻度。発生源を探しているときは、かなりの頻度で起きるようになっていた。肉を焼く音や換気扇が回る音で、キッチン周りはかなりうるさかった。もしかしたら料理をしているときにも起きていたのかもしれない。ずっと排水溝から「うしろにいるよ」と。

 そう思うと寒気がした。シャワーから温水を浴びているにもかかわらず、鳥肌が止まらなくなった。今自分の後ろに、誰かがいる気がしてならなかった。─────────────────────

 夜中、風喜知と同じベッドに入りながら、梨花はスマホで精神病について調べていた。幻聴について。色々キーワードを変えながら、検索していく。

 とあるサイトでは、若い男の人が真ん中におり、腕組をしている。、上には病院名が書かれている。下に詳細が書かれているが、要約すると精神病はすぐに病院に行こう!ということしか書かれておらず、まったく参考にならならなかった。だがこのサイトは、梨花の頭に残り続けた。それは腕を組んでいる男を、どこかで見たことがある気がするからだった。

 まあいいか、とサイトを離れた。他のサイトもありきたりなことが書かれているだけで、参考になるものはなかった。きれいに整理されているが、内容がなく最終的に宣伝をするだけのサイト,専門用語だけで羅列されており非常に読みづらいサイト,キーワードに反応しただけの、何の関係もないQ&Aのサイト,黒い背景に白い文字で何と書かれているか読めないサイト。

 梨花はページを削除して、スマホを閉じた。スマホをベッドの上に乗せて、もう寝ることにした。

─────────────────────

 翌朝、ベッドの中で梨花は目を覚ました。ベランダの手すりに、スズメが二羽休憩している。二羽は寒いのか、ピタッとくっつき、暖を取っていた。隣には風喜知がいる。昨日はあまり眠ることができず、ずっとあの異音について考えてしまっていた。

 時間を確認したくなり、スマホが置いてある場所に目を移す。だが、スマホがない。確実に置いたはずなのに。風喜知を起こさないようにして、ベッドの下を探したりしたが、見つからない。

 探していると、風喜知が起きてきた。


「おはよ・・・・・・何してんの?」


「スマホがなくて・・・・・・・・」


「ん~~?鳴らそっか?」


「うん、お願い」


 風喜知は枕元にあったスマホを手に取り、梨花のスマホに電話をかけた。すると、部屋から着信音は聞こえないが、どこからか小さく鳴っているのが聞こえた。


「どこで鳴ってるんだろう」


「ちょっと私探してくるから、そのままかけといて」


「ほーい」


 風喜知はそう言ってから、スマホはそのままにして、また掛け布団を被った。そんな風喜知をしり目に梨花は寝室を出た。すると目の前に廊下が出てくる。二階には扉が四つあり、一つは今出てきた寝室で、廊下の突き当りにある。二つ目は梨花の右手にトイレ、三つめはトイレの横にある梨花の部屋、最後に梨花の部屋の隣にある風喜知の部屋(書斎)だ。

 着信音はまだ遠く、スマホは二階にはなさそうだった。梨花は階段に向かって進み、階段を降りて玄関につながる廊下に出る。聞こえる着信音は、どんどん大きくなっていた。

 梨花はリビングへと繋がる扉を開け、リビングに入った。着信音の大きさからして、この部屋に梨花のスマホはありそうだ。耳を澄まして場所を探していると、ある場所にたどり着いた。木製のローテーブル。引き出しを開けると、中にはストラップのついた、梨花のスマホが入っていた。

 画面には電話マークが二つと、上に「風喜知」と表示されてあった。梨花は右側の緑色の電話マークを押した。


「あなた見つかったわ」


『そう、それは良かった。じゃあ僕は二度寝するから・・・・・・・・』


 プツッ


 風喜知はそう言うと電話を切った。梨花のスマホの画面には、ホーム画面が表示されている。

 梨花には、何故ここにスマホが入れられていたのか、わからなかった。昨日の夜の寝る直前までは、触っていたから手元にあったはず。可能性としては、自分が寝ぼけてここに入れてしまったことだ。ふと、昨日の異音のことを思い出した。誰かがこの引き出しにスマホを入れた。

 梨花は一旦考えることを辞め、スマホのロックを顔認証で開けた。すると、またしてもロック画面が出てきた。そのロック画面はLineのものだった。Lineのロックはインストールした段階ではついていないもので、梨花が後から設定の機能でつけたものだった。Lineを開いたままスマホの画面を閉じると、このようにホーム画面のロックを抜けた後に、Lineのロック画面が出てくる。

 梨花は最後にLineを開いた覚えはなかった。しかも、アプリを開いた状態のまま、スマホを閉じることはほとんどない。つまり誰かがLineを開いて、ここにスマホを入れた可能性が一番高いのだ。

 梨花は嫌な予感に包まれていた。何か良くないことが起きそうな気がする。とりあえず、誰かから連絡が来ていないか確認するために、Lineのロックを解除した。

 嫌な予感は即座に的中した。Lineでは新着のメッセージが、一番上に表示されるようになっている。それは誰かからのメッセージではなく、Keepメモと呼ばれる自分がメモをするところに、それは書いてあった。自分が書いた覚えのないメモ。その最初の部分が見える。梨花は引き寄せられるように、そのメモを開いた。そこには


『きょうの よる ここに しゅーごー』


 その上に


『まってる』


『まってる』


『まってる』


 とたくさん書いてあった。


(今日の夜ここに集合?)


 意味が分からなかった。これは一体だれが書いたのか、そもそもLineにたどり着くまでには二つロックを外さなければならない。それはひとまず置いといて、もしこの文章通りになるなら、ここに誰かがやってくるということになるのではないか?そう思うと梨花は、鳥肌が止まらなくなった。その裏で再び昨日の異音を思い出していた。

─────────────────────

 梨花はベッドに入っている風喜知を起こして、このメモを見せた。風喜知は寝起きの頭で、必死に論理的な答えを探しているようだったが、求めているような答えは見つからず苦戦していた。そして風喜知は重苦しい口を開いて言った。


「寝ぼけてたんじゃない?」


「やっぱりそれしかないかなぁ・・・・・・・・」


「多分ね。俺もパスワードは知らないし」


「むーん・・・・・・・・」


「それに戸締りもちゃんとしてるし」


 二宮家のセキュリティは万全だった。玄関前には人感センサーで、撮影する防犯カメラがあるし、寝る前には雨戸を閉めて寝ている。新築の家なので、鍵が壊れているということもないはずだ。


「うわっ!!!」


「え⁉なになになに」


 突然風喜知が大きな声を上げた。視線は中に浮いている。不可解な現象に心を張り詰めていた梨花は、その大きな声のせいで反射的に体を震わせた。


「ご、ゴキブリ!ゴキブリ!」


 その発言に梨花も風喜知と、同じところを見つめる。そこには天井に張り付いているゴキブリがいた。しかもかなりでかい。風喜知はゴキブリを見つめながら、すぐにベッドを降りる。


「俺ここで見てるからさ、玄関のとこにある物置からゴキジェットとってきてくれない?」


「オッケー」


 梨花はそう言うと、急いで寝室を飛び出していった。玄関の物置を目指している最中も、頭は今日と昨日の怪現象のことで頭がいっぱいだった。自分はおかしくなってしまったのだろうか。気の持ちようだと思い込むことにして、きょう一日を何事もなかったかのように過ごすと決意した。メモは削除した。

 一方その頃、風喜知は天井に張り付くゴキブリを見張っていた。触角が不規則に動き、時々天井を移動する度に心臓がキュッとする。ずっと見ていて少し気づいたことがある。このゴキブリの体には、。もしかしたらゴキブリではない別の虫なのかもしれない。

 ────夜────


 夜中の十時。梨花がスマホを見つけてから現在まで、特に何も起こっていなかった。二人はこの時間になると一緒に酒を飲む習慣がある。ダイニングのテーブルに向かい合うように座り、真ん中の小皿に枝豆がのせられている。すると風喜知が


「そういえばLineのことは大丈夫なの?」


「あのメモのこと?確かに怖いけど・・・・・特に何も起きそうな感じしないし・・・・・多分私が寝ぼけてたんだと思う」


 実際の梨花の心の中は、何か起きるかもしれない、という考えが半分を占めていた。自分の精神が疲弊しているのかもしれない。もう一つは、新天地にきて心身に負荷がかかったことによる幻聴や、無意識下の行動。これも考えられないことではなかった。


「あ、ちょっと俺トイレ行ってくるね」


「はいはーーい」


 梨花はそう言いいながら枝豆を口元に運んだ。風喜知は椅子から立ち上がり、リビングの引き戸から出ていく。廊下を歩く足音が聞こえて、トイレの引き戸を開閉する音が聞こえた。梨花は手元にあるビールを飲み、うつぶせになった。あまり酒に強いほうではない。今日は酔っぱらって、なるべく早く寝ようと思っていた。枝豆,ビール,枝豆,ビールと交互に摂取して、数分が経った頃だった。


「おーい、梨花ー」


 風喜知が梨花を呼ぶ声が聞こえた。梨花は顔を上げて吹き抜けのリビングを見るが誰もいない。トイレからこっちを呼んでいるのだろうか?だがそれにしては、遠くに聞こえないのだ。トイレは廊下の突き当りに、ダイニングは家の中で一番トイレから離れた位置にある。梨花は椅子から立ち上がり、少し大きい声で言った。


「なにーーー?」


 返事が返ってきた。


「こっち来てーー」


 かなり近くで聞こえる。トイレから言ってるようには聞こえない。だが間違いなく風喜知の声なのだ。間髪開けずに次の声が聞こえた。


「しゅーごーだよーー」


 全身に鳥肌が立った。服の下を大量の虫が這いまわっているような嫌悪感が梨花を包み込んだ。酔いは完全に覚め、寝ようと思っても寝られない状態になってしまった。この声の主はどこにいるのか、おそらくこの声の主が今までの怪現象の主犯格なのではないかと直感的に感じた。

 梨花は迷った。この声の主を見つけるか、それとも風喜知が戻ってくるのを待つか。自分から風喜知のところへ行くという選択肢もある。梨花は迷った末、一つ目の選択肢を選んだ。

 それは梨花のオカルトを信じないというスタンスから、来るものがあった。よくある怪現象は全て、人間の手で起こすことのできるもの。今回だったら自分の精神は疲弊していて、そこからこの幻聴などが来ていると考えた。そのため無理矢理声の主を探して、何もいないことを証明したかったのだ。逃げるのではなく、強く立ち向かいたかった。風喜知の声で再び聞こえた。


「早くーここに来てーー」


 風喜知の声で聞こえているのは、自分の中で深くなじんでいる声だからだろう、と考えた。声はリビングから聞こえている気がする。梨花はリビングに入った。風喜知の声が聞こえた。


「そばにいるよ」


 ぞくっとした。そして今している声の主探しは、昨日の夕方やった、異音の発生源探しと酷似していると気づいたとき、梨花をえも言えぬ恐怖が襲った。そして声はリビングの左側から聞こえている。風喜知の声が聞こえた。


「おいで おいで おいで」


 鳥肌が立った皮膚に、服がこすれて気持ちが悪い。だが、ついに場所を特定した。それはリビングの左手にある、観音開きの物置。まだ中に物はほとんど入っていない。人が余裕で入ることができる、その物置から風喜知の声が聞こえた。


「あけて」


 梨花は流されるように取っ手に手をかけた。息がどんどん荒くなる。落ち着けと自分に言い聞かせ、何ども呼吸を整えようとする。ここを開けて何もいないことを証明する。自分に聞こえているこの幻聴を打ち破るのだ。意を決して両手で思い切り扉を開いた。


「へ?」


 思わず間の抜けた声が出た。中には男が入っていた。風喜知ではない。知らない男。男はニコニコしていた。目を吊り上げ、口を限界まで引き上げている。服装は白いシャツに黒の半ズボン。だが、明らかに人間ではない。それは男の首を見れば一目瞭然だった。その男の首は、常人の二倍以上に長かった。物置にその首は入りきっておらず、首をかしげる形になっている。


「ありがとー ありがとー ありがとー」


 もう風喜知の声ではなかった。低い声で「ありがとー」と連呼している。男の両手が梨花に向かって伸びてきた。逃げようとしても、足が震えて動いてくれない。ガシッ と梨花の両肩がつかまれた。そのままもの凄い勢いで、物置の中に梨花は引きずり込まれた。男は片腕で梨花を体に抑えつけながら、もう片方の手で扉を閉じていく。

 梨花の頭はもう正常に機能しなくなっていた。ここから逃げ出すことも、風喜知のこともうまく思い出せない。ただ、一つの考察が頭に浮かんできた。なぜここでこれが浮かんできたのかは分からない。


(異音が聞こえたとき、後ろには誰もいなかった。キッチンに人が二人、縦に立とうとすれば幅が足りず、すぐに気が付ける。だが、キッチンではないのなら。シンクの後ろには冷蔵庫があった。あのとき冷蔵庫には、こいつが押し込められていたのではないだろうか?冷蔵庫の中身は・・・・・)


 無意味な妄想が梨花の頭を駆け巡る。男と密着しているはずなのに、体温は全く感じない。それも男が人間ではないことを際立てていた。扉が閉められていくにつれ、物置の中が暗くなっていく。


 カチッ


 マグネット式の扉の一つが閉められ、もう片方も閉められようとされていた。男が低い声で言った。


「もう戻れないよ」


 カチッ


 片方の扉も閉められ、物置内は完全に真っ暗になった。リビング内に静寂が訪れた。部屋には誰もいない。そのとき、引き戸が開かれ中から風喜知が出てきた。風喜知はだれもいないリビングを見渡す。


「梨花ー?」


 リビングに風喜知の声がこだまする。風喜知はダイニングのテーブルに行き、梨花が飲んでいたビール缶を持ち上げる。まだ中身はかなり入っている。


「梨花ー?どこにいるのー?」


 風喜知はLineをしてみることにした。梨花のメッセージ欄を見つけ、『どこにいる?』と送った。そうすると近くで着信音が聞こえた。だが梨花の姿はない。もしかしたら梨花は、今スマホを持っていないんじゃないかと風喜知は考えた。梨花はスマホを基本肌身離さず持つ。何か梨花の身に起きたんじゃないかと、風喜知は不安になり、すぐに家の中を捜索し始めた。

 だがどこにもいない。二階のすべての部屋。人が入れそうな場所はすべて探したが、梨花はどこにもいなかった。唯一見つかったのは、観音開きの物置の中にあったスマホだけ。

 あの日以来、梨花は見つかっていない。彼女はどこに行ってしまったのだろうか?

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 5 人知を超えている

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