第2話 黒川先生


「お邪魔します。」

 黒川は靴をそろえながら流川の自宅へと足を踏み入れた。

「はい。こちらへどうぞ。あまり人を家に入れたことはなくて…」

 仕事でもなければ一生関わることのなさそうな人間が自分の家へ立ち入ろうとしている。その様子がなんだかあまりにもアンバランスなような気がして流川は他人事のように黒川を家へ迎え入れた。


 全ては隣人の自殺事件から始まったのだと思う。


――――


 青山冴子 38歳

 夫は上場企業のオーナー社長でほとんど海外出張で不在。

 冴子自身は慶應義塾大学を卒業後、外資系企業へ就職したが結婚を機に退職。

 専業主婦になってからは、ヨガとピラティスのプライベートレッスンを週4回受け、美術館の会員制サロンやチャリティパーティーに顔を出すのが日課。

 長年続いた不妊により思いつめた末、睡眠薬を摂取し、手首を切り、自殺を試みた。しかし、途中で心変わりをして助けを呼ぼうとドアに手をかけた時点で力尽きたということだった。


 全て右隣のおばさんから聞かされた話だ。私に一方的にまくし立てているときのイキイキとした目といったら。軽い畏怖さえ覚える。


 私は第一目撃者として長時間拘束されたが、アリバイもしっかり確認でき、動機もないことから明け方に開放された。

 そりゃそうだ。ここに越してきて早5年。左隣の奥さんと話したのは越してきたばかりの引っ越し挨拶と廊下ですれ違った際の軽い会釈のみだ。

 そもそも関わりと言えば同じマンションの同じ階のお隣、ということだけ。

 しかもマンションのいたるところに防犯カメラは設置されているし、私はつい先ほどまで会社で残業していた上にタクシーに乗って帰ってきたばかりという完璧なアリバイがある。


 そうだ。私は関係ない。変なことに巻き込まれてしまった一般人だ。


 ―――――――


 あの強烈な年越しから短い休みを経て仕事に復帰する。

 本日は新規プロジェクトのメンバーと顔合わせの予定だ。

 利用者のモチベーションの推移やカリキュラム遂行中にどういった時期に躓きやすいか、人間の心理構造から見直して新たに学習アプリを作成する、といった趣旨が今プロジェクトのメインテーマだ。

 そしてより生きたデータを参考にするため、実際に心理学の教授を外部から招くことになった。

 指定してある時間15分前に指定された本社ロビーへと急ぐ。


 客室用の待合室で一人の男が椅子に腰かけていた。あの人だ。

「黒川先生!お迎えに上がりました。WAVEの流川、と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。わざわざ本社までお越しいただき恐縮です。本当はこちらからお伺いするべきなのですが…」

「いえいえ!こちらも気分転換がてらWAVE本社に立ち寄ってみたかったので今回のプロジェクトにお誘いいただき誠にありがたいです。」


 黒川は一言で言うと幽霊みたいな人間だった。目つきは冷たく知的な印象で黒髪を目元まで伸ばしていている。しかしこちらを見る眼差しからは慈悲のような優しさがある。それぞれの顔のパーツは冷たく鋭いのにすべて合わせると何故か柔和な雰囲気になる。服はシンプルなシャツに黒の細身のパンツ。全体的に細くてひょろひょろしている。顔が青白いのは生まれつきだろうか、それとも普段あまり大学外に出ないからだろうか。

 黒川は薄い唇を控えめに引き締め、黒目がちな目をじっとこちらに向けている。

 第一印象は「ザ・おとなしそうな人」だった。


「申し遅れました。私は大学で心理学を教えております。黒川 慧と申します。本日は顔合わせと伺っていたので、特に準備してきたものがなくて…」

「もちろんです!今日は軽く食事でもしながら先生の人となりやNG項目など確認ができればなと思っています。格式張らないで気楽に先生の人となりなど知れたらな、と。」

「そうですか。よかったです。わかりました。」

 黒川はほっとしたように口元を緩ませた。年相応に落ち着いた相貌をしているのに表情次第で幼くなる雰囲気にこの人とは仲良くなれそうだ、とぼんやり思う。


 ――――


 食事会は思ったよりも話が弾んだ。

 黒川の声がハスキーで少し舌たらずな感じも相まって最初の印象からはだいぶ変わった。見た目に反して随分話しやすい人だ。相槌のタイミングもそうだが、こちらが欲しいタイミングで用意されてたかのように欲しい返答を与えてくれる。


「いやぁ、黒川先生の話はやっぱり専門で研究されている方だけあってかなり勉強になりますね。特に人間が狼として群れの中で生きていく話はもっと聞きたくなりました。」

「WAVE社のCEOにそんな事を言ってもらえるなんて恐縮です。」

 青白い顔を少し綻ばせて黒川は言った。

「では、お互い食べ終わりましたしこの後─」

 コーヒーでも。と言いかけたが、眩暈からたたらを踏んでしまう。

「おっと、失敬。」

 黒川は眉をひそめながら言う。

「流川さん…?少し具合が悪そうですね。」

 いけない。流石に連日の疲労が祟ったらしい。どうも視界がぐらついてまっすぐに立てない。

「いやぁ、お恥ずかしい。最近色々あったもので流石の私も少し疲労が溜まっているようです。」

「そうですか…年始年末は色々、入用で仕方ないですよね。」

“色々”という単語に力が入ったように感じたが気のせいだろうか。

 それより、まずい。このままでは先生に余計な心配をかけてしまう。初対面の相手、しかも大事なビジネス相手に対して変な心配をかけてしまうのはできるだけ避けた。やはり今日は頃合いを見計らって早々にお開きにしよう。そう思い口を開こうとした。


 ─と、その前に黒川がおもむろに口を開いた。

「流川さん。最近“手”について何かトラブルでもありましたか?」


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鏡像の焦燥 北條零士 @Shinya_0ji

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