鏡像の焦燥
北條零士
第1話 黄泉の隣人
只今の時刻、夜の11時50分。疲れた。
「株式会社WAVE」オフィスには今も明かりがついている。
株式会社WAVE(以降WAVE)はあらゆる教育現場で使用する教材作成を担っているマルチな企業だ。
流川 悠(32歳)は凝り固まった肩をほぐすように大きく伸びをする。
大学3年に起業したこの会社も10年の歳月を得て大分安定してきた。
年々企業や学校、私塾からの依頼は増えており教材の評判だって上々。しかしうまくいきすぎるのも考えものだと思う。なにせ自身のキャパシティと求められているモノのバランスがあまりにも釣り合っていない。
年末の忙しさにかまけてしばらく家にすらに帰れない日が続き、なんと今日は大晦日。
やっとの思いでもぎ取った休みはクライアントから突然のリテイクにより大幅にずれ込み予定していた休暇は当然返上。
流川は開いていたノートパソコンを閉じ、会社を出る。
くたびれた体をタクシーに押し込み行先を運転手に伝える。
「虎ノ門~ までお願いします。」
「はいよ。お客さん疲れてるね~、着いたら起こしたげるから寝てなよ。」
「はい…あぃがとうございます。」
舌すらうまく回らなくなったようだ。
気のいい運転手の言葉にここは甘えておこう。心地よい車の揺れが眠りをさらに誘う。
「着いたよ。お客さん。」
運転手の声に意識が浮上する。危うく本寝をしてしまう所だった。重い瞼を無理やりこじ開け、札を多めに運転手の手に渡しタクシーを降りる。
虎ノ門に一角に位置する「TORA RESIDENCE」はその立地に叶う高所得者向け住居だ。
重厚なガラス製の自動ドアが静かに開くと、広々としたエントランスホールが広がる。足元には光沢を帯びた大理石の床が敷き詰められ、天井から降り注ぐ柔らかな間接照明がその白い石目を優しく照らし出す。
エレベータのボタンを押し壁に体を預け、深い深い息をついた。
もうだめだ。家に帰ったらせめて風呂にでも入ってから寝ようと思ったが、こりゃ玄関に入った途端倒れてしまいそうだ。
眠い。とにかく、眠い。
ポーン、と間の抜けたアナウンスが聞きなれた階層を告げる。
年越しそばも湯船につかるのもこの疲労困憊状態では何もかもが難しい。
「寝たい…」
心の底から湧き出た感情がつい口から出てしまう。
絨毯の上を革靴で歩きながら自分の家まで急ぐ。企業して事業がやっと軌道に乗り始めた頃、自分への鼓舞と頑張っている実感を感じたくて少し背伸びをしてこの部屋を借りた。
引っ越し当初は廊下に絨毯が敷き詰められていたり、豪奢なエントランスにゆったりとした時間が流れるロビーは異国に来た時のような居心地の悪さとワクワクを感じた。今では慣れっこで新鮮さも何も感じない。しいて言えば廊下は固い床の方がいい。地面に足を付けてしっかり歩いているという実感を感じられるから。
廊下の先にあるドアが半開きになっている。
おや?鍵は閉めたはず。にわかに自分の部屋のドアが開いていると勘違いしそうになったがどうやらお隣さんのドアだったらしい。こんな夜更けに珍しい。
柔らかな地面を一歩一歩踏みしめながら半開きのドアへと意識を集中する。
そして、気付く。半開きになったドアからどす黒い手液体が少しづつしみだしていることを。
近づけば近づくほど液体の色の彩度が明確になる。赤い。何だこれは。
ついにドアとの距離が5歩程度になったところで気付く。部屋の隙間から手が力なく伸びている。
部屋から伸びている手がドアストッパーの役割をはたしていたらしい。
自宅の左隣は確か青山夫妻が住んでいたはずだ。
では、あの挟まれている手は奥さんのものか?
体調不良などで倒れてしまったのかもしれない。急いでドアへと駆け寄り手の主人へと声をかける。
「ちょっと!大丈夫ですか⁉」
返事が返ってこないのならばすぐに119に通報しよう。頭の中では冷静にそんなことを思いながら声をかけ続ける。しかし眼前に広がる異様な光景に知らずと唇が震え始め呼吸が浅くなる。
「大丈夫ですか!動けないようなら少しドアを開けさせていただきますね」
とりあえず挟まれている手を解放してあげよう。
ドアノブへ手をかけ扉を開く。
どうやら部屋の照明はすべて落とされているようで何も見えない。
廊下の照明からわずかに照らし出された足元に彼女はうつ伏せで倒れていた。
ガチャ、と今度は右隣から扉が開く音が聞こえる。
右隣は確か老夫婦が住んでいたはず。
確かおばさんはかなりおしゃべり好きで─
「ちょっと、今何時だと思って…あら、流川さん今帰っ……ひっ、キャーッ!」
静かな廊下に老齢の叫び声。頭のてっぺんから抜けるような高音は廊下に響くことなく重厚な絨毯に吸われて消えた。
終わった。最悪な年越しの始まりだ。
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