第20話:冥界帝国ネザール
室内に沈黙が降りた。
暖炉の火は揺れているのに、空気そのものが凍りついたように張り詰めている。
セレネは背筋を正し、ゼルファスの前に控えていた。まるで主君の前に立つ侍女というより、帝国の法と秩序そのものが姿を得たかのように、姿勢も声音も寸分の乱れがない。
「――では、続きをご説明いたします。
ゼルファス様が、これから身を置かれる国についてでございます」
椅子に深く腰掛けたまま、ゼルファスは短く言った。
「聞こう」
セレネは静かに頷き、言葉を選ぶように一拍置いてから告げる。
「魔界は、混沌の寄せ集めではございません。
明確な統治機構を持つ、ひとつの国家でございます」
ゼルファスの瞳がわずかに細くなる。
「国家……」
「はい。その名は――冥界帝国ネザール」
その名が耳に触れた瞬間、ゼルファスの胸奥で黒炎がかすかに脈打った。
怒りでも憎悪でもない。もっと深いところで、何かが“呼応”した。
まるでこの名が、彼の未来をすでに定めているかのように。
「帝国、か」
「はい。皇帝陛下を頂点とし、爵位と法によって支配される国家です。
力のみならず、秩序によって成り立っております」
セレネは窓の方へ視線を向ける。そこから見える景色は、夜の闇に沈みつつも、どこか整然としていた。魔界と聞けば、地獄のような暗黒を想像するのが自然だろう。だが、現実はそれだけではない。
セレネは淡々と言葉を継ぐ。
「その中心にあるのが、皇帝直轄地――帝都ルグ=ネザールでございます」
ゼルファスは顎を引いた。
「魔界の中心か」
「左様でございます」
セレネはその都市を、まるで地図を広げるように正確に語った。
「ルグ=ネザールは、黒曜石の巨壁に囲まれた巨大都市。無数の魔法陣と結界
が重ねられ、都そのものが一つの魔導装置として機能しております」
天を突く宮殿群。果ての見えぬ大通り。
地脈を流れる膨大な魔力が常に都を満たし、歩くだけで、己の存在が試される感覚を覚える――。
セレネの描写は淡白で、なのに生々しかった。美しいものを美しいと言わず、ただ“在り方”だけを告げる。だからこそ、言葉は鋭く胸に刺さる。
ゼルファスは低く息を吐く。
「……壮観そうだ」
「壮観では足りませぬ」
即座に否定。
セレネは感情を滲ませず、ただ事実として断言する。
「近づいただけで理解いたします。
――ここが、冥界帝国ネザールの“絶対”であると」
ゼルファスは指先を組み、しばし黙した。
黒炎は胸の奥で静かに燃えている。だがそれは暴れない。
この帝国は、激情を許さぬ。激情は“弱さ”として測られ、裁かれる。
彼はそれを本能的に悟っていた。
「皇帝の姿は見えるのか?」
問いは淡々としていたが、その裏には別の意味がある。
皇帝がどれほど遠い存在か。あるいは、近づける存在か。
セレネは首を横に振る。
「いいえ。皇帝陛下は、常に御姿を現されるわけではございません」
一拍置き、声の密度を上げて続けた。
「しかし、帝都に満ちる闇そのものが、皇帝陛下の威光。
呼吸をするだけで、自らが秤にかけられていると悟らされます」
ゼルファスは、無意識に指を強く組んだ。
息をするだけで測られる。
そこに“逃げ”はない。
そして測られた結果が、命や地位や価値のすべてを決めるのだろう。
「……なるほど」
「冥界帝国ネザールは、その威光のもとに存続しております」
「帝国は広大でございます。その西方を治めているのが――
ディアブロ様の直轄地」
ゼルファスは即座に応じる。
「西の要、だな」
「はい。首都の名は、オクシ=ネザール」
ゼルファスはその名を反芻した。
帝都ルグ=ネザールが統治と裁定の都ならば、オクシ=ネザールは軍と実行の都。
セレネの声には、確かな信頼が込められる。
「反乱の鎮圧、外敵の排除、帝国に仇なす存在への制裁。
それらを一手に担われているのが、ディアブロ様です」
「帝国で、知らぬ者はいないだろうな」
「はい。ディアブロ様の名は、恐怖と同義でございます」
恐怖――。
ゼルファスは口元をわずかに歪めた。自分が求めていたのもまた、いつか他者にとって“恐怖と同義”となる立場だ。
誰も逆らわず、誰も見下さず、誰も奪えない場所。
そのためなら、黒炎が何を焼こうと構わない。
「では、帝国を実際に動かしているのは誰だ?」
その問いに、セレネは一瞬だけ間を置いた。
ほんの僅かな間。だが、その隙間に“危険”が滲む。
「――宰相でございます」
空気が引き締まる。
火の揺らぎが、ほんの一瞬止まったように錯覚するほどに。
「名は、マルディウス」
「宰相……」
「冥界帝国ネザールの“理”そのもの。
皇帝陛下の御意思を、法と制度へと落とし込む存在でございます」
ゼルファスは低く問う。
「どんな悪魔だ」
「感情では動きませぬ。忠誠も、友情も、信用なさいません」
セレネは淡々と、致命的な言葉を積み上げた。
「帝国にとって有益か否か。それのみで、すべてを裁かれます」
その裁きは、善悪ではない。
価値があるか、ないか。
役に立つか、立たぬか。
それだけだ。
ゼルファスは静かに言った。
「俺は、どう映る」
「……危険な可能性でしょう」
即答だった。
セレネは飾らない。慰めも、励ましも、与えない。
ただ“事実”だけを置く。
ゼルファスは低く笑った。
「悪くない」
セレネは一瞬だけ視線を伏せ、そして言った。
「お忘れなきよう。
冥界帝国ネザールは、生き残る場所ではございません」
「分かってる」
「力と実績を示し、上り詰め、立った者のみが居場所を得る世界でございます」
言い切った瞬間、ゼルファスの瞳の奥で黒炎が静かに燃え上がった。
しかしそれは爆ぜない。
帝国が求めるのは、衝動ではなく“成果”だ。
黒炎を燃やすなら、燃やした痕跡――結果――を示せ。
ゼルファスは、その掟を受け入れ始めていた。
「……なら、上へ行くだけだ」
セレネは頷く。その頷きは、承認ではない。
“そうするしかない”という冷徹な合意だ。
冥界帝国ネザール。
帝都ルグ=ネザール。
西の要、オクシ=ネザール。
皇帝の威光と、宰相マルディウスの裁定。
ゼルファスは、はっきりと理解していた。
ここは――力がすべてだ。
だが、彼の理解には一つ、まだ埋まらない空白があった。
魔界。冥界。闇。
その言葉が呼び起こすイメージは、常に暗黒だった。
永遠の夜。血と炎。灰の雨。
人間界とは異なる、歪んだ世界。
けれど――。
彼は窓の外を見た。
遠くの空が、わずかに淡く変わり始めている。
夜が薄れ、闇の向こうに“色”が滲む。
そして、その色は確かに――朝の色だった。
ゼルファスは眉をひそめる。
「……朝日が昇るのか」
セレネは当然のように答えた。
「はい。魔界にも朝はございます」
「だが、魔界は暗黒に包まれた世界だと思っていた」
「多くの者がそう信じております。
けれど、もともと魔界とは――“こちら側”と地続きの世界でございました」
セレネの声は静かなままだが、どこか遠い時代を語る響きがあった。
「大地も空も、風も水も、根は同じです。
違いがあるとすれば、それは“棲む者”と、“支配する理”でございます」
窓の外で、薄明が広がっていく。
遠景の山並みが輪郭を取り戻し、雲が淡い光を受ける。
朝日が差せば、夕焼けもあるだろう。夜も来るだろう。
それは人間界と変わらない。
その事実が、ゼルファスの内側に奇妙な違和感を生んだ。
闇の世界のはずなのに、世界は“普通”に回っている。
普通に回っているからこそ、ここで行われる支配も、裁きも、より冷酷に見えた。
地獄は異形の景色ではなく、整った街並みと秩序の中にあるのだ。
ゼルファスはふと口にした。
「……天界も同じなのか?」
セレネは少しだけ考えるように瞳を伏せた。
そして答える。
「おそらくは。
天界もまた、根は同じ世界の延長にあるはずです」
「なら――光に満ちた世界ってわけでもないのか」
「満ちているかどうかは、見る者が決めることでございます」
セレネの言葉は、祈りではなく警告に近かった。
「ただ、天界もまた秩序を持ち、裁きを持ち、そして……選別を持つでしょう」
選別。
その語が、魔界の掟と重なった。
セレネは続ける。
「魔界では、力と実績がすべて。それは美徳でも理念でもございません。
――ただの現実です」
「力のない者は?」
ゼルファスが問うと、セレネは迷いなく答えた。
「見捨てられます」
言い切った声音は冷たい。だが冷酷に“振る舞っている”のではない。
それが当たり前だから、冷たくすらないのだ。
「弱き者に手を差し伸べる行為は、慈悲ではなく損失となります。
助けた瞬間、助けた者の責任となり、足枷となる。
帝国はそれを許しません。
弱者は保護されるのではなく、淘汰されます」
「……人間界より分かりやすいな」
ゼルファスの呟きに、セレネは否定しなかった。
むしろ、その“分かりやすさ”こそが、この国の強さなのだろう。
「帝国は広大でございます。西にディアブロ様。
そして東には――王がございます」
「東の王……」
「メフィスト・フェレス」
名を聞いた瞬間、ゼルファスは直感した。
この名は“狡智”を纏う。刃を隠す笑みのような響きだ。
「メフィスト・フェレス王は、交易と策謀の支配者。
軍ではなく、契約と情報で領土を縛り、相手を追い詰めます。
表向きは穏やかで、礼節を重んじるように見せましょう。
――しかし、油断した者から順に、魂まで奪われます」
セレネの言葉は簡潔だった。
それだけで、東が“戦場ではない戦場”であることが分かる。
「南は?」
「南の王は、ベルゼブブ」
名が落ちた瞬間、室内の空気が微かに重くなる。
ゼルファスは理由を言語化できない。だが本能が告げる。
この王は、理屈より“圧”で屈服させる類だと。
「ベルゼブブ王は、富と飢えを支配する王。
南は肥沃で、資源が多く、魔獣も多い。
彼はそれらを糧にし、兵糧と財で帝国を下支えしております。
敵に回す者は、戦う前に飢え、崩れ、奪い尽くされるでしょう」
東が契約と策謀なら、南は供給と搾取。
どちらも刃だ。
ただ、切り方が違うだけ。
セレネは最後に、静かに締めくくった。
「帝国は一枚岩ではございません。西は軍。東は策。南は富。
そして中央は裁定。そのすべてが、皇帝陛下の威光の下で均衡しております」
ゼルファスは椅子の背に身を預け、天井を見上げた。
朝の光が窓から差し始め、床に薄い帯を作っている。
闇の国に光が差す。
その矛盾が、彼の黒炎をさらに静かに燃やした。
魔界は、暗黒だけではない。
だからこそ、ここで行われる支配は“現実”として成立する。
異形の地獄なら拒絶できる。だが、朝日が昇る世界なら――受け入れざるを得ない。
日常の中で、淘汰が行われる。
セレネの声が、最後の釘を打つ。
「そしてゼルファス様。
この国で価値を得る唯一の方法は――結果を示すこと」
ゼルファスはゆっくりと視線を戻し、セレネを見た。
瞳の奥で黒炎が揺れる。
それは復讐の炎であり、渇望の炎であり、
そして――帝国に適応していく炎でもあった。
「……なら、上へ行くだけだ」
その言葉は誓いでも決意でもない。
“当然”だった。
息をするように、彼はそう言った。
冥界帝国ネザール。
帝都ルグ=ネザール。
西の要、オクシ=ネザール。
東王メフィスト・フェレス。
南王ベルゼブブ。
皇帝の威光と、宰相マルディウスの裁定。
ゼルファスは理解する。
ここは、居場所を与えられる場所ではない。
奪い取る場所だ。
黒炎が、静かに燃え上がった。
燃やすべきものはまだ多い。
だが――燃やした痕跡は、必ず“実績”として刻む。
この帝国で生きるとは、そういうことだった。
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