第19話:失われた世界の記憶
重厚な扉が音もなく閉じられた。
そこは、ゼルファスがこれまでに見たどんな空間とも違っていた。
高い天井。柔らかな灯り。壁一面を飾る魔紋と織物。
床には厚い絨毯が敷かれ、足音すら吸い込まれていく。
「……ここが、俺の部屋……?」
思わず、そう口にしてしまう。
これまで彼が眠ってきたのは、鎖につながれた物置小屋だった。
風雨をしのぐだけの板切れの空間。
そこに比べれば、ここはあまりにも――現実味がなかった。
その様子を見て、セレネはくすりと微笑む。
「驚かれるのも無理はありませんね」
ゼルファスは、居心地の悪さをごまかすように視線を逸らした。
「……正直に言えば、落ち着かない。こんな場所は……身に余る」
セレネは首を横に振り、穏やかな声で言った。
「ゼルファス様。
あなたは、これから崇高なお立場になられるお方です。
この程度で戸惑っていては、先が思いやられますよ?」
そう言って、からかうように微笑む。
ゼルファスはわずかに頬を強張らせた。
「……そう、か」
その反応を見て、セレネは小さく笑った。
「ふふ……。どうやら、私の方が楽しんでしまっていますね」
「……」
ゼルファスは返す言葉を見つけられず、黙り込んだ。
そんな彼を促すように、セレネは室内の一角へと案内する。
そこには、書卓と椅子が向かい合うように置かれていた。
「さあ、お座りください。
教育は、早い方がよろしいですから」
「教育……?」
「はい。まずは“歴史”からです」セレネは腰を下ろし、静かに語り始めた。
「この世界には、悪魔だけでなく――天使が存在します」
ゼルファスの目が、わずかに細まる。
「……天使」
「ええ。そして、あなたが生きてきた人間界。
元々、魔界・天界・人間界は――ひとつの世界でした」
ゼルファスは思わず身を乗り出す。
「ひとつ……?」
「そうです。
悪魔、天使、人間は互いを利用し合い、生きていました。
決して平等ではありませんでしたが……均衡は保たれていた」
セレネはそこで、言葉を区切った。
「――ですが、その均衡を壊したのは、天使です」
その声には、微かな棘が混じっていた。
「約六百年前。
天使の最高位、ミカエルが決断しました」
セレネの指が、無意識に机を強く押さえる。
「――“悪魔を、この世界から消し去る”と」
ゼルファスの胸の奥で、黒炎が小さく揺れた。
「……それで、戦争が?」
「ええ」
セレネは頷く。
「天使は直接手を下さず、人間を使いました。 “正義”と“救済”を餌にして」
その瞳に、怒りが宿る。
「人間は信じました。 天使の言葉を。
そして、剣を取り、悪魔に牙を剥いたのです」
「……」
「悪魔側も黙ってはいません。 人間の王や貴族と契約し、応戦しました。
世界は、血と炎に包まれました」
セレネの声が、わずかに震える。
「都市は焼かれ、空は裂け、 大地は嘆きの声で満ちた……」
ゼルファスは、思わず拳を握りしめていた。
「……それほど、凄惨だったのか」
セレネは、はっきりと頷く。
「ええ。 あれは戦争などではありません。 “虐殺”でした」
そして、彼女は視線を落とす。
「……私も、その場にいましたから」
ゼルファスは、はっとして顔を上げた。
「セレネ……?」
セレネは静かに息を吐き、再び語り始める。
「次第に、戦況は天使側の劣勢となりました。
悪魔の皇帝――ルシファー陛下の指揮は、圧倒的でした」
その名を口にする時、セレネの声には確かな敬意があった。
「追い詰められた天使たちは、最後の賭けに出たのです」
ゼルファスは、嫌な予感を覚えながら尋ねる。
「……賭け、とは?」
セレネは顔を上げ、はっきりと言った。
「――新たに生み出された、時空魔法です」
その瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
「その魔法は……
悪魔を、この世界そのものから追放するためのものでした」
セレネの声は、静かだが重かった。
「異空間へと封じ、永遠に隔離する―― それが天使の描いた“救済”です」
ゼルファスの唇が、わずかに歪む。
「……随分と、都合のいい話だ」
「ええ。 ですが、その魔法を扱えるのは、 最上位の天使ミカエルただ一人」
セレネは続ける。
「しかも、自身の生命力を極限まで削らねばならない。
……自殺に等しい術でした」
ゼルファスは、低く呟いた。
「それでも……使った」
「はい」
セレネの声に、怒りが滲む。
「劣勢に追い込まれた天使たちは、
迷わず、その魔法を悪魔に向けて放ちました」
彼女の拳が、強く震える。
「その瞬間―― 世界が、悲鳴を上げたのです」
「……!」
「時空は引き裂かれ、 空と大地がねじれ、 魔力が暴走しました」
セレネは、目を伏せる。
「それに対抗したのが…… 悪魔皇帝ルシファー陛下です」
ゼルファスは、息を呑んだ。
「陛下は、同じく自身の生命力を代償に、 その魔法を相殺しました」
「……」
「二つの“極”がぶつかり合った結果、 時空は耐えきれず――」
セレネは、静かに言い切った。
「世界は、三つに分かれました。 魔界、天界、人間界へと」
ゼルファスは、しばらく言葉を失っていた。
「……それで、終わりではない」
「ええ」
セレネは悲しげに微笑む。
「ミカエルも、ルシファー陛下も、 その戦いで大幅に生命力を失いました」
「……今の皇帝陛下は?」
「少しずつ回復はされています。 ですが……万全には程遠い」
その声には、悔しさが滲んでいた。
「そして、分かたれた三つの世界。
元はひとつだったものが、完全に戻ることはありません」
ゼルファスは、静かに呟いた。
「……すべては、天使の選択だった」
セレネは、ゆっくりと顔を上げる。
「ええ。
だから私は――天使を、決して赦しません」
その瞳には、深い怒りと、
それ以上に深い悲しみが宿っていた。
ゼルファスの胸の奥で、黒炎が強く燃え上がる。
「……その歪みの中で、生まれたのが、俺……」
セレネは、はっとして彼を見る。
「ゼルファス様……」
「いいえ。 今は、まだ聞くだけで十分です」
ゼルファスは、ゆっくりと立ち上がった。
「だが…… この世界の在り方は、決して“正しいもの”ではない」
セレネは、静かに頷いた。
「その通りです。
――そして、その歪みを正す力を、あなたは持っている」
二人の視線が、静かに交わる。
この夜、ゼルファスは知った。
世界が壊れた理由を。
そして、自分がその残骸の上に立つ存在であることを。
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