第8話:砕ける灯(ともり)
ラモンの屋敷の庭に、冬の弱い陽が差していた。
雲越しの光は淡く、温もりと呼ぶにはあまりに頼りない。
ノアは、朝から倉庫で宝石箱の整理をしていた。
金属製の箱を磨き、布で埃を払い、順に棚へ戻す。
単調で、神経を使う仕事だった。
「丁寧に扱えよ。
それ一つで、お前の一年分の飯代だ」
通りがかった使用人が、そう言って鼻で笑う。
「……はい」
返事をしても、視線は向けられない。
彼らにとってノアは、
便利で、壊れず、気味の悪い道具だった。
仕事を終えると、ノアは自然と庭の隅へ足を向ける。
石畳の影になる場所。
黒猫がいつも現れる場所。
(……そろそろ、来る頃なのに)
ノアは膝を折り、壁際に腰を下ろした。
黒猫コリン。
彼が来るのは、決まった時間ではない。
だが、ほとんど毎日、
仕事が一段落する頃には姿を見せてくれた。
(……今日は、遅いな)
庭の入り口を何度も見やる。
枯れ葉が風に転がる音だけが、虚しく響く。
通りかかった若い使用人が、ちらりとノアを見た。
「また猫待ちか?」
「……はい」
「物好きだな。不吉だって言われてるのに」
別の使用人が肩をすくめる。
「黒猫なんて、踏み潰されても誰も困らないさ」
笑い声が、風に乗って流れていった。
(……違う)
(……コリンは……)
ノアは唇を噛みしめる。
言い返す言葉は、喉の奥で凍りついた。
そのときだった。
庭の奥から、甲高い声が響いた。
続いて、苛立った怒鳴り声。
「うるさいな! 動くなって言ってるだろ!」
ノアは、はっと顔を上げた。
(……今の、声……)
嫌な予感が、背筋を走る。
「な、何してるんですか……!」
声のする方へ、駆け出した。
そこにいたのは、
ラモンの息子――メルヴィンだった。
肥えた体に金糸の服。
いつもノアを見下ろす、濁った目。
そして――
その足元に、黒い影があった。
小さな体。
押さえつけられ、必死にもがく。
「……コリン?」
ノアの声は、震えていた。
メルヴィンの手には、石。
猫の体を押さえ、笑いながら振り上げている。
「やめてください!!」
ノアが叫んだ瞬間――
石が、振り下ろされた。
鈍い音。
黒猫の体が、びくりと跳ねる。
「父さんも嫌がってたんだ!屋敷に入れるなってな!」
もう一度。
そして、もう一度。
ノアの足が、凍りつく。
(……見てるだけ……?)
周囲には使用人がいた。
だが、誰も止めない。
「あーあ、死ぬぞ」
「猫なんて、どうでもいいだろ」
そんな声が、遠くで交わされている。
最後に、コリンの体が、力なく崩れ落ちた。
動かない。
黄金の瞳は閉じられ、
黒い毛並みは、冷たい石畳に広がっている。
ノアの視界が、歪んだ。
「……どうして……」
メルヴィンは、満足そうに笑った。
「不気味だからに決まってるだろ?」
そして、吐き捨てるように続ける。
「それに……
お前が可愛がってたからだよ」
その言葉が、ノアの胸を、深く、鋭くえぐった。
(……どうして……)
(……どうして、僕から……)
世界が、赤く染まっていく。
胸の奥で、
今まで抑え込まれていた黒炎が、
轟音を立てて燃え上がる。
「……返して……」
ノアの喉から、掠れた声が漏れる。
「返してよ……コリン……」
その瞬間だった。
バチッ!!
稲妻のような痛みが、全身を貫いた。
「ぐ……ああああああっ!!」
地面に倒れ込み、体が痙攣する。
見えない鎖が、内側から締め上げる。
皮膚が焼ける匂い。
骨が、内側から砕けるような激痛。
(……なに……これ……!?)
――奴隷契約魔法。
強烈な憎悪を察知し、
反逆を抑え込むために発動したのだ。
「な、なんだよそれ……!?」
メルヴィンの顔が、恐怖で歪む。
ノアは地面を掻きむしりながら叫んだ。
「やめて……やめて……!!僕は……ただ……!」
痛みが、止まらない。
(殺したい……!)
(でも……できない……!!)
憎悪が強まるほど、魔法は容赦なく締めつける。
ノアは、コリンの冷たい体に手を伸ばす。
「お願いだ……返して……僕の……唯一の……」
メルヴィンは悲鳴を上げ、後ずさった。
「ち、近寄るな!化け物!!」
そのまま、逃げ出していく。
庭には、
冬の冷たい風と、
壊れた静寂だけが残った。
ノアは、崩れ落ちるようにコリンを抱きしめた。
「……どうして……」
「……どうして、僕だけ……」
胸の奥の黒炎は、
かつてないほど大きく、
激しく、真っ黒に燃え上がっていた。
この日――
青年ノアの心は、
決定的に、二度と戻らないほどに、
砕けた。
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